【流】感情でつながる絶望。

 彼女が妊娠して堕胎したと知った。


 その時に僕の頭に浮かんだのは「人生の主役は自分だ」という言葉だった。

 嘘じゃねーか。


 僕の人生は彼女が子供ができても相談されず、堕胎したことを手術三日後に告げられるものだった。

 なんだよ、それ。


 きっかけは些細なものだった。

 僕が住んでいるマンションの近くにある居酒屋へ行った際、彼女がいつものハイボールを頼まなかった。


「今日は、ハイボールじゃないんだね」


「子供を堕ろして三日はお酒を飲まないように、って病院で言われたの。大丈夫だとは思うんだけど、ちょっと頭痛もするから、念の為に」


 彼女は何でもないことのように言った。

 逆に僕は月が落ちてきたくらいの衝撃を受けた。


「待って、紗枝? 子供を堕ろした? なんで? ってか、誰の?」


「もちろん流のだよ」


「紗枝、妊娠してたの?」


「そうみたい。気づいたのは十日くらい前かな?」


「子供を堕ろしたのは?」


「三日前だよ。あ、お金の方は気にしなくて良いよ。カード使えたし」


「いや、そういう問題じゃなくて」


 言って、僕は紗枝の普段と変わらない佇まいが恐かった。

 子供を堕ろすという、一人の命に対する選択をして、何事もなかったかのように振る舞う紗枝。

 僕の彼女。


「どうしたの? 流?」


「……お金はちゃんと払うから」

 声が震えた。


「でも、今月ピンチでしょ? ゆっくりで良いよ」


 確かに僕は先月、職場の人間と飲みに行き過ぎて生活費がなくなり、紗枝からお金を借りた。

 今日はその借りたお金を返すのと、お詫びとして食事を奢るつもりだった。


 しかし、そんなお詫びと言っていられる現状ではなかった。


「紗枝。どうして、そんなに冷静なの?」


「どーいうこと?」


「子供を堕ろしたんだよ? 僕と紗枝の子を。それは一つの命だった」


「でも、なら産む方が良かったの? 子供を産んだら、流は私と結婚してくれた?」


 してくれた?

 待ってくれ。

 結婚って、パートナーにしてもらうものだったっけ?


 いや、違う。

 違うけれど、紗枝にとって結婚は男にしてもらう感覚でいる。

 だから、僕の経済状況や感情を先回りして、堕胎という方法を取った。


 そこに紗枝の感情や人生に対する当事者性が感じられない。

 どうして?

 紗枝が更に続ける。


「私は誰かの母親になるなんて、全然想像できないよ。ちょっと笑っちゃうくらい、それは変なことだよ。私がお母さんなんて」


「どうして」


「どうして?」


 僕の問いに対し、紗枝が本当に分からないという顔をした。

 紗枝にとって、彼女自身が母親になることは変なのだ。

 それで完結していて、どこにも繋がっていない。


 なんだそれ?


「流は、自分が誰かと結婚して、父親になるって想像したことあるの?」


 僕は即答できなかった。

 結婚。

 父親。


 そういったものに自分がなる。

 確かに、それは変だ。

 とくに結婚や父親が恋愛の線上にあることが不思議で仕方がない。

 恋愛は常に感情的なもので、肉体的な欲望も含んでくっついたり離れたりを繰り返すだけの行為だ。


 そこから結婚や父親という社会的な領域に繋がることが信じられない。


「ねぇ、私は間違ったことをしたの?」


 紗枝は堕胎について言っている。

 僕と紗枝は似ている。


 結婚とか親になるってことを度外視して、ただ互いの欲望や感情を満たし合っている。それは生活の面でもそうだ。

 僕はお金がない時、紗枝に借りたりしているし、紗枝がストーカー被害にあっているかも知れないと言った時は、毎日彼女の職場まで迎えに行った。


 僕らは互いを助け合っている。

 けれど、その生活の先に結婚とか親になるってことが、二人とも信じられていない。


 互いの生活を守る為ならば、子供を堕ろすことも正しいのかも知れない。

 少なくとも子供ができてしまったら、今までの僕らのぬるく甘やかされた日々は終わってしまう。


 それでも。

 紗枝の選択は間違っていたと、僕は言いたかった。


 だが、それは言ってはいけない。


 言うのであれば、


「僕も一緒に間違わせてほしかった」


「一緒に?」


「子供ができるって紗枝の身体で起きたことだけど、きっかけは僕な訳だし二人のことじゃん? 紗枝の選択が間違っていたとか、そういうことじゃなくて答えは一緒でも、その答えまでの過程に僕を参加させてほしかった」


 紗枝は僕の言葉に頷いた。

 居酒屋の料理はすっかり冷めていて、普段よりも全然美味しくなかった。

 お酒の味も分からないまま、僕はビールを立て続けに三回のおかわりをした。


 紗枝は一杯目のウーロン茶をゆっくりと飲み続けていた。

 居酒屋の閉店時間が近づいた頃、紗枝は小さな声で話はじめた。


「多分だけど、私は妊娠によって変わることが恐かったんだと思う。だから、妊娠とか子供を堕ろすって決断を何でもないように扱おうとした。


 私が妊娠したって流に言って、産んでほしいと答えられたら、どうしようって思ってた。

 私の中の流は、子供を産んでなんて言わない。

 けれど、言われないことも恐かった。


 なら、私は流と結婚して、子供を育てたいのかって考えても分からなかった。

 分かることは産んでほしいって言われたら、どうしようって気持ちだけだった。


 流が、私に子供を産んでほしいって言うってことは、今の流から変わっちゃうってことで……、


 その変わっちゃうってことが、私のせいなのか、子供のせいなのか、あるいはもっと違う何かのせいなのか分からないけれど、そうやって変わってしまった流を好きでいられるのかも分からなかった。


 流に産んでほしいって言われて、子供を産もうってもし私が思うんだとしたら、それも恐かった。

 私が決めたことじゃなくて、流が決めたことで私は子供を産むって決めたとして、そうやって変わった自分を私は好きでいられるのかな?


 結婚とか、親になるって決めた流を私は好きでいられるのかな?


 私は流を嫌いになりたくない。

 私は私を嫌いになりたくない。


 もしもだよ、子供が出来たからって結婚して、出産した後の私を流が嫌いになったら、どうしよう?


 親になって、子供に接する流を私が好きでいられなかったら、どうしよう?

 生まれてきた子供を好きになれなかったら、どうしよう?


 やり直せる?

 子供を産まないって選択肢まで、戻れるの?


 戻れないよ。

 これはゲームじゃないもの。

 私が流を嫌いになって、流も私を嫌いになって、生まれてきた子供も私たちを嫌いなったら、それは絶望でしかない。


 私はそれに耐えられない」


 これは確かに絶望だ。

 生まれてこなかった子供のことを思った。

 彼の生死に僕はまったく関与できなかった。


 僕と紗枝は感情だけで繋がっている。

 好きだから一緒にいる。


 互いが、あるいは片方だけでも相手を嫌いになった時、一緒にいる理由が僕らにはない。

 感情でだけ繋がっている僕らは、だからこそ、感情で人を殺してしまう。


 命を無に帰してしまう。

 僕らは感情以外で繋がれる方法を考えるべきなのかも知れないけれど、その方法がまったく見当もつかない。


 間違いない。

 これは確かに絶望だ。

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