Code:XIX 訓練前の閑
深い眠りの底で横たわる。常に死が隣り合わせの中生きる者にとって、数少ない気が僅かに緩む時間。日が昇りかけ、重々しい雲が覆う空の隙間から陽の光が射し込み、400分隊の塒であるビルの一角にあるカーテンが揺れる度に暖かな色味を強調していた。
「……ん、もう朝……」
宛がわれた部屋、李雨は簡素ながら見栄えを気にしたベッドで身じろぎをする。常に気温が低い気候故にやや厚手の掛け布団を顔間際まで引き、再び眠りに入ろうとした手を誰かの手が止める。一切の気配を感じさせず添えられた手の主を李雨は目を開けながら顔を出し確認する。
「……あら、帰っていたの?」
「思ったより遅くなってしまったわ。ごめんなさいね」
「別にいいわよ。おかえりなさい、蓬」
「ただいま、今日はウロボロスで新人の入隊後実技実践訓練よ」
「あぁ……そう言えばそんなものがあったわね」
体を起こし、ぐいと伸びをする。しなやかな体の輪郭が猫の様にゆるゆると伸縮し、眠たげな眼の端に涙を浮かべる李雨が、その顔を見つめる蓬の珍しい凝視に首を傾げる。
「何かあった?」
「いえ……しっかり休めたようでよかったと思っただけよ。ここ最近ロクな睡眠がとれていなかったでしょう?」
「気にしていてくれたのね、大丈夫。もう問題無いわ」
「そう」
結ぶ事無く垂れている焦げ茶色の髪をひと房、蓬は手に取ると優しい手つきで梳いていく。毛髪の質感を一切感じさせないような滑らかな通り具合、血液や硝煙、煤や塵で汚れるのが常な生活であっても、時代は変われど女性の命と変わらず表現されるそれを丁寧に手入れしているのだなと、らしくも無く紅隈を入れている目が細くなる。
一体どうしたのだろうかと不思議そうな顔をする李雨を他所に、蓬は体を反転させると部屋から出ていった。開けられた扉の隙間からは、久しく嗅いでいなかった焼けたパンとコーヒーの匂いが漂ってくるのがわかり、李雨は思わず微笑んだ。
「今日は肩の力を抜ける、いい一日になりそうね」
簡素ながら整頓されたリビングのテーブルに、寝惚け眼を擦りながら欠伸をするアリスとコーヒーを口に含む李雨が座る。少し向こうのキッチンからは香ばしいパンの匂いが、鴇色と紅色の一つ結いにされたロングヘアの揺れに沿って流れてきていた。ゆらゆらと髪を揺らしながらフライパンでスクランブルエッグを作っている蓬は、一切の迷いも無く機械的に、サラダが盛られた皿にとろみの残る卵を乗せていった。
「おなかすいたー!」
「今準備できるから大人しくしてなさい」
ひたひたと足音を鳴らしながらテーブル上に朝食が並んでいく。普段であれば簡易にパン一枚と飲料のみのそこには、色彩豊かな皿が並べられていた。
「わあぁ……! いつもより豪華!!」
「今日は随分良い朝食ね、帰ってくる前に買い物でもしてきたの?」
「帰りがけにマーケットに寄ったの。昨日貰った給料の中身、鹵獲した車両分や破壊工作作戦の手当ても入っていたおかげで少し懐が温かくなったわよ」
「まぁ、武器弾薬とかですぐ消えるんだけれどね」
給金と言うものは当然三人個人にそれぞれ支払われる。民間軍事会社と言う体裁こそ頑なに維持しているが、この世界の民間軍事会社は最早旧時代の一国、そして一軍隊と一切の相違がない。そんな中、人員と言うのは傾きゆく世界にはどうしても足りなくなることは往々にしてあり、不足分を別に用意しなくてはならない。それこそが、蓬達フリーランスで活動する傭兵達だった。
軍人一人に対する福利厚生や給金よりは少なく、責任も同様に最小限で済む。傭兵も傭兵で、職種として過酷かつ身分はそう高くないながら、装備と信頼さえ得られれば誰でも行える。相互の利害の下に契約は結ばれており、蓬達400分隊とウロボロスもその関係を築いている。
しかし、軍人と違って彼女らには支給品と言うものは基本的に存在しない。全て自分自身らで調達し、足りなければ現地調達。鹵獲と言う手段をとってでも生き延びることに徹するのが傭兵。たった一つのマガジンを取り落とした時、それがそのまま自身の死に繋がる。周囲の人間は仲間であってもリスクを背負ってまで助ける親の様な存在ではない。
だからこそ、彼女らは決して戦場で情に動かされない。
――――アリスがあの巨躯の男キリアにあのまま殺されることになろうとも、リスクに対するリターンが少なければ、助けられる事は無い。
――――李雨が突如襲い掛かった電撃を纏う女性ペンタリアに敗れたとして、物理的に助力が不可能であれば助けられる事は無い。
――――蓬が冷氷を操る男ジリアに行動不能にされたとして、それが例え分隊の長である彼女だとしても、容赦なく切り捨てられ、助けられる事は無い。
それが傭兵。そして蓬、李雨、アリスが交わした無言の盟約。それ故に彼女らは孤高に立ち続けられる強さを手に入れた。
「早く朝食をとって頂戴、終わり次第すぐにウロボロスの演習場に向かうわよ」
「せっかちねぇ……まぁ、先方を待たせるのも心象が悪いし新人さんにも示しがつかないわね」
「示しって?」
「当然の事が出来てないのに人を教え導き、上に立つなんておかしいってことよ。アリスもアリスにとって当然の事が出来ない人間から偉そうに指示されたら怒るでしょう?」
「なるほど!」
「食べ終わったら食器は水につけておいて、私はガンケースを取りに行くわ。各自準備が終わったら何時もの車の前に」
「はーい」
「わかったわ」
食事を開始してからそう時間の経たない内に、蓬は皿の上を空にしていた。音も無く席を立つと食器をシンクの中に置き、自室へと消えていった。それを見送った李雨は澱みの無い手つきでパンを口の中に含むと、残り少ないコーヒーで流し込み、蓬同様にシンクへと向かう。アリスはその背を眺めつつ、好みの焼き加減に焼かれた目玉焼きの乗るトーストをかり、と齧る。花の咲く様な笑顔が、誰にともなく浮かべられていた。
時刻は十時を少し過ぎた頃。ウロボロスの“裏”と呼ばれている実動部隊が主に使う軍事演習場には、何時もにない賑やかしさが飛び交っていた。整えられた列で談笑をする新人達を、今回の実践訓練の教官として待機している艾、カルミア、篝火は同様に眺めていた。
「全く……オレも暇じゃあないのに何を呑気にしているんだ……」
「今回は上からの指示だ、各課の管理責任者が全員集められているのは、本格的な戦力の短期増強を図っているのだろう。何処かと戦争でもしようとしてるように見えなくも無いがな」
「有象無象にも満たない精々が肉壁になれるかどうかの新兵に俺の貴重で有意義更には明確な利潤も望める時間を浪費されるのは甚だ苦痛で何物にも代えがたい苦行なのだが、そこの所艾は一体どう考えているのか聞いてもいいかな?」
「俺は今回お前を推した覚えはない。あくまでランヴァルトの提案であり、そこには俺の判断は挟まれていない。不満に感じているのは承知している、後日お前の薬品の治験の被検体になるからその感情は抑えていろ」
「不本意だがその申し出を受けよう全く甚だしく遺憾だが一応微かな恩はなくもないからね」
「変態クソマッドサイエンティスト……」
「鏡君は相変わらず品性の欠片も無いね少しは自分の言動を顧みたらどうだい?」
「オレの名すら満足に覚えられない人間かも怪しい奴に言われる筋合いはないよ」
嫌味と苦言の応酬。表情を一寸も変えることなく、視線が交わる事も無く、屋外設置されたテントの下で椅子に座り会話を交わしていた。そこに親愛なぞ微塵も感じる事は無く、ただただ事務的な質。近くで作業せざるを得ないウロボロス職員は、必死に顔を強張らせながら頬に冷や汗を垂らしていた。
この三人、ウロボロス内で知らぬ者が居ない各方面のエキスパートながら、それに比例する様に性格に難がある。顔がなまじ酷く良い為に何も知らない新人はその顔に騙され、実際の人物像に距離を置かれる。職員達にとってそれは最早見慣れた光景だった。
「あのお三方……確かに凄いんですけれど……」
「カルミア様……お顔は女性の様にお綺麗なんだけれど、お人柄の方が……」
「篝火様は気難しい所がありますよね、いつもお一人で行動されていますから……私は最初無遠慮に接触してしまいました……」
「それを考えると、艾様はまだ柔らかく――――いえ、柔らかくはありませんね。でも応対やお仕事はしっかりして頂けるから私はとても良いと思いますね」
「私はそれでもカルミア様でしょうか……あのニヒルな笑顔と人を食ったようなお言葉が……ね?」
「ね? と言われても……。私は篝火様ですかね……何処か放っておけないと言いますか、そこまで深く関わる関係ではないですが……」
「そう言った話はここでは控えましょう、行きますよ。今日は慣れない仕事も多いのですから」
三人から少し離れた場所で荷物を運んでいた女性職員三人が小声の会話を交わす。ちらりちらりと三人の姿を視界の端に捉えながら交わされた会話は、所謂恋バナに相当するもの。その内容は一見すれば至っておかしなものではない、が。彼らの本当の姿から見た場合、彼女らの評価はあまりにも表層だけしか見ていないものだった。
(平和な話だな)
艾は一人そう内心で呟く。彼の人を越えた感覚器官は離れた小声の女性の会話を余すことなく聴き捉えていた。
艾がアンドロイドであることを正確に認識している職員は限られている。下級の職員の殆どはそれを知らない為彼を人として扱っていおり、艾は艾でそれを毎度是正する事も無く、カルミアや篝火もそんな気を回す性格ではない。そもそも情報としてはブラックボックスに近い情報でもあるため、結果として艾は『何時休んでいるのかもわからず常に激務を一切顔色を変える事も無くこなしその結果に綻びが存在しない』という、人間離れした評価を方々から下されていた。
だが、それは彼らウロボロスの活動に一切の関係はない。紅隈の入れられた感情の薄い瞳を伏せた艾は、そのまま音も無く椅子から立ち上がった。
「……仕事の時間だ。配置は既に確認したな?」
「一応オレ達の場所を確認する。オレは技術班だ」
「俺は医療薬学班、薬品系と医療系の両方か」
「俺は特殊強襲部隊、漏れは無いな。では行くぞ」
カルミアと篝火も立ち上がる。気怠い様子で煙草を吹かすカルミアは演習場内に造られた建物の一つである医療課訓練施設へと、篝火は懐から取り出したモノクルを手で弄びながら技術科訓練施設へ足を運ぶ。
「くれぐれも問題を起こすなよ? 総合監査役の俺の仕事を増やしてくれるな、カルミア、篝火」
「善処しよう、俺の気分と新人の出来によるけれどね」
「オレは新人がへまをしなければ何もしないよ」
「そうか、ではな」
そう言葉を交わすと、艾は二人が建物へ正しく向かったのを確認し、屋外演習場へと向かった。無表情のまま手元には使い慣らされたナイフを片手に、くるりくるりと弄ばれる。まるで彼の凪いだ感情を、意図的に揺らそうとしているようだった。
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