Code:XX 世界決壊の水

 日が昇り空の頂点に近付く頃。医療課訓練施設では、白衣やゴム手袋を身に着け、顎の下にマスクをかけながら談笑をする若い男女が集まっていた。設置された椅子に座って交わされるその会話内容は、ウロボロスの裏に対する漠然とした印象を交し合う、お互いの自己紹介をするといったもので、傍を通るウロボロスの職員達はその新人達を微笑ましげに見ていた。束の間の平穏、死と無慈悲が跳梁跋扈する世界で、まだそれを目の当たりにしていない人々と言うのは、ほんの僅かな自分らの行動への肯定感を覚えさせ、同時にそんな守るべき存在が自分らと同じ世界に進むことになってしまった事への罪悪感を募らせる。

 そんな明るい希望と暗い罪悪感が織り交ざる空間が、ある男の存在の侵入によって一変する。

「ハァア…………」

 照明の加減で青色がかる銀髪、それによって右目が隠された相貌に、建物内に集まる全ての人間は揃えて口を噤む程注目を注いだ。群青を思わせる瞳は眠たげに数回瞬きを繰り返し、酷く胡乱げな雰囲気を隠すこともなく、備えられていたパイプ椅子に座った。

「皆様集まりましたので、これより医療事務局の新人実技訓練を始めます。先日配布された資料を既に確認している事を前提に進行させていただきます。進行は私、ミリュスが担当いたします」

 そのパイプ椅子に座った男から人一人分空いた場所に立つ、シニヨンに結った黒髪と紅色混じる薄桃色の吊り目が印象的な女性が、口紅が艶やかに照明を反射している口から不意にそう言った。凛とした、透き通る流水にも似た声色によって、薬品棚や器具が犇めく室内は張った糸の如き緊張に包まれる。先程男が入ってきた時の不審な緊張とは違う、正しく不慣れな緊張感だった。

 紙の捲る音。集まった人間の視線を一身に受ける女性はそれでも動じた様子も無く、恐らく進行行程などが記されている紙面を見つめる。そうして横でいかにも心底退屈そうに背凭れに体を預ける男を一瞥すると、面倒臭そうに息を吐きながら新人職員達に向き直る。

「こちらに座っている緊張も誠意も一切全くミリ単位も抱いていない方は、貴方達がこれより属するこの医療事務局の薬品課主任、そして医療課の筆頭ドクターの一人であるカルミアです。カルミア、貴方が退屈だろうと面倒臭いと嘆こうと私には一切の興味がありませんが、せめて新人職員への挨拶くらいはして下さい。艾殿から毎回苦言を呈されるのは私としても不本意極まりないので」

「一つの局の長でもある上司の俺へその口答えは下の者に示しがつかないんじゃあないか? ミノタウロス君。俺としてはこんな集まり艾の指示と対価が無ければ出るかどうかの思案すらしなかったんだから此処に居るだけで感謝して欲しい所だ。そもそも医療のいの字もわかっていない無能集団を前に俺の貴重な時間をこれ以上消費させるのはあまりにも非道だとは思わないかな? それともその稚拙かつ愚かさを形にした脳にはそう言った思慮すら湧かない欠陥品かい? それなら申し訳ないことをしたね、この俺の脳を以てしてその愚かしさが想像できなかったことを詫びよう」

「私の名はミュリスです、一体何度間違えればその聡明を自称する脳に記憶されますか? 長ったらしい文言を吐く暇があるならさっさと自己紹介をしてくださいな。暇な訳でもないですし上がこうも体たらくを晒していると恥ずかしいのですが」

「やり辛いなぁ君は本当に、李雨の方がまだ可愛げがある」

「私に可愛げなぞ求めないでください、反吐が出ます。さぁさっさとその脂の乗った舌で自己紹介を」

「はぁ全く……カルミア、医療事務局薬品課主任で医療課筆頭ドクター、君達の様な未熟を絵に描いた様な赤子達に時間を割く気は無いからくれぐれも俺に関わらないようにしてくれたまえ。愚かにも教えを請いたいのなら他をあたるといい」

「こう言ってますが、彼にも指導義務は例外無くあります。遠慮無く質疑などを行って下さい。もし返答が成されなければ、私かこのウロボロスの職員達を統括する権限を有している軍事参謀局主任の艾殿まで報告してください」

 呆然と二人のやり取りを眺める新人達は、嵐の様な言葉のやり取りの内容のほんの一部しか理解することができなかった。本来ならば話題の中心となる筈の新人は一切蚊帳の外、それも局単位の主とそれに次ぐ役職の者、それがまるで水面下での足蹴の争いの如き口撃をしていれば、慣れない環境で心身共に強張っている者達には酷な状況であることは想像に難くはない。ここに彼らを幾分か制することができる存在が居れば、また少し違う結果になっていたのかもしれないが。

 沈黙を続け、ただ時間が過ぎ経るべき行程が過ぎるのを待つ新人職員達。その中から、恐る恐ると言った具合に一つの手が上がった。

「はい、何でしょうか」

 ミュリスが手を上げた職員の一人を指す。その先には気の弱さが直に表出している表情の少女が一人。齢は18の頃だろうその職員は、ゆっくりと腰を上げカルミアとミュリスを交互に見ながら口を開いた。

「そ、その、私達はこれから何を行うのでしょうか……? 実践訓練とは聞いているのですが、医療課はともかく……薬品課が行うことが想像に難しくて……申し訳ありません……」

「いえ、良い質問です。進行が遅れていましたが、丁度その話をしようとしていました。思考を止めないのは良いことです」

 そう言われた少女は、ほ、と胸を撫で下ろしたかのように胸に手を置き安堵の表情を浮かべ、着席した。それを確認したミュリスは床に設置していたホロスクリーン映写機を起動させ、職員達の前にそれを現させた。手元に握るレーザーポインタペンをくるりと一回転、手の内で弄ぶと、不機嫌な表情のまま煙草を吹かし始めたカルミアを無視して進行を再開した。スクリーンには飾り気は無いが視覚認識のしやすいレイアウトで構成された薬品課に関する概要が並んでいる。

「我々医療事務局薬品課は、主な業務が薬品を精製しコミュニティ内への製品化流通。ウロボロスがコミュニティを運営する以上、その庇護下に居る人間の環境を向上させるのは当然の使命です。世界がどれほど荒廃しようとも、我々の使命に変化はありません――――が、綺麗清純な理念だけでは死に逝くだけです。故に、我々に課されるもう一つの役割は戦闘行為に対しての補助、そして戦闘員の戦力の底上げを可能とする物質を作り出す事です」

 そう言い、射していたレーザーポインタを一旦消す、とミュリスは懐から掌大のガラス製円筒容器を取り出した。その中身はあまりにも不自然なほどの蛍光色を放つ液体が、ちゃぷんと音を立てながら揺らめいていた。その液体が自然界に凡そ存在しない発色である事に加え、液体の色としても馴染みが無さすぎる故にそれを見る職員達はその液体に視線を集中させる。

「UA-275――――世間一般での馴染みある通称は決壊水けっかいすいでしょうか。万象と形容して良いほど広い事象にその存在を浸透させ変質させる、人類が欲した叡智の果てに見出された産物であり、その人類を死滅の路へと歩ませた液体、それを精製し浸透優位度を下げクリスタルガラスに密閉したものがこれです。市場にこそ販売品として出回ってはいませんが、エネルギーを消費する多くの物品に用いられているのがこの決壊水です」

 ミュリスは手に持った容器を最前列に座る職員に渡した。恐々とした手つきで手に取ると、周囲の者も興味深げに横や背後から覗き込む。若干水よりも粘性が高く見えるそれを上下に揺らしながら観察するが、残念ながら新人であり理解度も未熟な彼らにはやはり、緑色の蛍光色に着色された液体にしか見えなかった。

「何故それをここで見せたのか。その問いに対する答えは、我々が薬品含む物質を精製する際に必ずそれを用いるからです」

 スクリーンの表示が変わる。そこにはまさに今職員達の手の中に握られている決壊水のそれと同じ物の画像と、それが使われる用途が図解され表示されていた。

「決壊水が市場でどのような用いられ方をしているかは、職員養成所にてある程度学習しているでしょう。一応おさらいするならば、車両の代替燃料や電力生産に治癒促進剤、もう少し規模を小さく見れば着火燃料や農業用肥料への混合など幅広く加工されています。我々も医療関連品や燃料等の研究を行うことも勿論あります。そして……」

 ミュリスの手元に握られたリモコンによって再度スクリーン表示が変わる。

「戦いや交渉を見据えた活動も肝要となります。ICOなどの敵対組織との戦いや他のコミュニティとの交渉材料、そして曝露者との戦闘に決壊水の存在は絶対と言っていいほど必要となります。兵士の筋力増強薬や人体への影響を既存の薬液よりも軽減させた治癒剤、曝露者からの接触による二次曝露への抗体精製など、我々にはウロボロスの体勢を維持するために行う必要がある研究や実験が山ほどあります。だからこそ、貴方達には出来得る限り早く現場への慣らしを済まし、然るべき研究部門へと所属して頂く必要があります。それ故の、此度の実践訓練となります」

「お前達愚者の集まりがどれほど集まろうと烏合でしかないのは当然の現実であり俺の足元にも及ばない牛歩で行動するのは致し方のない事実だが、それでも居ないよりはウロボロスにとっては都合がいいらしい。精々研究の後退を引き起こす様な愚かしい災禍の行動はとってくれないでくれ。ウロボロスの上層部が嘆く様は苛立ちだけが募ってストレスになる。無論、責任の取り方として俺の人体実験の被検体になってくれるのなら歓迎してもいいんだけれどね」

「こうした頭の螺子の外れた非人間が多いですが、まぁお気になさらず」

「上司への対応じゃあないね、後で報告しておこう」

「私の言葉の方が信頼性は高いので、艾殿やランヴァルト氏の小言が嫌なら口を噤んで下さい」

「はぁ……退屈な上に玩具すらないこんな場所で無能共を見ていなきゃいけないのか……後で艾に文句を言おう」

 椅子に座る職員達は、言葉にこそしないが表情にはカルミアからの言葉に不満を抱いているのが手に取る様に察することができる感情が浮いていた。ミュリスは内心で新人職員達に憐れみと、今回の実践訓練にカルミアを据えた上層部への不満を抱きつつ、スクリーンを閉じる。

「では説明は以上となります。質疑は移動の後に伺いますので、皆様はマスクの装着と消毒室への通過をして頂いた後、奥にある研究等へと移動して頂きます。遅れや衣服の不備が無いように」

 そう言ってミュリスは一礼すると、傍にあった扉の奥に消えていった。職員達は一堂に顔を見合わせた後、誰が合図するでもなく立ち上がると各々衣服を整え、消毒室の方へと歩き出した。

「…………面倒極まりない、臨時給料を後で打診しようか」

 フィルターギリギリまで灰となった煙草を携帯灰皿で消し、吸い殻を中に押し込む。最後に吐き出した紫煙を忌々し気に眺め、苦言を誰にともなく言う。軋む音がするパイプ椅子に腰を再度沈め直し、カルミアは天井を仰ぎ目を閉じた。職員が居なくなった広い室内に、苦々しい煙だけが揺らぎ続ける。

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