Code:XVIII 垣間の常景
時刻は午前十時、場所はイグナテス郊外。400分隊の塒となっているビルでは先日二日間の慌ただしさが嘘の様に静かな時間が流れていた。
「ん……っ、久しぶりの一日丸々休暇はいいわね。やっぱり私達オーバーワークが過ぎると思うのだけれど?」
寂れたビルの一角には、それと相反する様に程々に値のある家具が置かれていた。その一つ、黒く肌触りのいい布地のソファーに座る李雨は、携帯電子端末に表示される雑誌を眺めながらキッチンで掃除をしている蓬に言った。それに対し蓬は、シンクの掃除の仕上げを終えたのか顔を上げ、タートルネックの袖を戻しながら李雨の居る方へと向き直った。
「暮らすための金銭はいくら稼いでも足りない程度に私達は貧しているのよ。休みたいのなら私は止めないけれど、その分貴女の生活費は減るわよ」
「それは嫌だから仕事はするわ。それでも傭兵と言う身分は色々と不便もあるでしょう?」
「給金は低いし生命の危険が多い割に保障はない、確かに不便この上ないわね。別に休みの日に副業してもいいわよ?」
「嫌よ、ただでさえ疲れているのに休みにまた働くなんて。本当に困らない限りはやりたくないわ」
「そう、私はこの後用事があるから――――」
蓬がシンクを片付け終わりリビングへと戻ってくると、各自に宛がわれた個室の一つ、アリスの部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「ねぇ蓬!! ちょっといい!?」
まるで親の敵にでもであったのかと思う様な鬼気迫る声色。一体どうしたのかと様子を窺う二人の目に映ったのは、蓬のそばへ大きな歩幅で近づくアリスの姿。珍しく呆気にとられた様な表情をほんの僅かに浮かべる蓬を余所に、アリスは怒っているのか興奮しているだけなのかわからない顔つきで――――突然蓬の胸を揉みしだき始めた。
「――――は?」
「…………やっぱり」
「……アリス? いきなり蓬の胸を揉み始めてどうしたの?」
「李雨! なんで蓬はブラしてないの!?」
音が消えた様な錯覚を覚える李雨。絶句する蓬。それを気にする事も無く答えを待つアリス。三者三様のその様子は傍から見れば喜劇でもしているのかと勘違いされる光景になっていた。ここぞとばかりにどさくさに紛れて胸を揉み続けるアリス。その頭上に陰が出来始めるのを見て、李雨はハッ、と瞬きを再開した。
「え……っと、アリス? そこまでにしないと後が怖いと言うか」
「だってこんなぼーん!って感じなのに、垂れるよ!? 崩れるって聞いたもんアリス!!」
「ええっと……」
「アリス」
胸を依然として揉み続けているアリスの頭上から、普段の無色透明な物とは違う、氷点下の声色が降りかかる。そこでようやく、アリスは自分の行っている行為にその相手がどう反応しているのかを悟る。アリスとて愚鈍な感性をしている訳ではない。感情の高ぶりで安易な行為をしてしまった事を理解し、振り絞る気力で上へと目を向けた。
「――――その手に持っている物は何かしら? アリス、答えなさい」
「よ……蓬のパンツ」
「何故、それを持ち出しているのかしら?」
「お…………大人の下着欲しいから……参考にしたくて」
「……それで、私がブラの類を持っていない事に気が付き、コイツは女の癖に胸元を覆わずにいるからいけないと激昂していたと?」
「そ、そうで――――」
「挙句の果てに人の胸をまたしても揉みしだく、なるほど貴女の言い分は分かったわ。確かに下着を付けなければ形崩れなどが起きるから気を付けないといけないわね」
「あの――――あいたぁっ!?」
小刻みに体を震わすアリスの脳天に、青白い拳が突き刺さる。
「私は貴女に程々の教育を施したと思っていたけれど、どうやら計算違いだったみたいね。後で一から教育し直してあげるわ」
「ご……ごめんなさい蓬、ゆるし――――」
「もう一発喰らっておきなさい」
「はうぁ!? あうぅ……」
さらにもう一度叩き込まれる拳骨は、アリスの頭蓋から鈍い音を響かせる。殴られた部分を抑え唸りながら蹲るアリスの手から、自身の下着を奪取した蓬は無言で自室へと帰っていた。
「アリス、無鉄砲な行動はこうして身を亡ぼすのよ。プライベートで蓬相手だからよかったけれど、作戦中とかも似た思考で行動するともっと酷い目に合うから気を付けて」
「ぅうう……アリスはただ気になっただけなのに……」
「好奇心を持つことはいいことよ、でも限度は考えなさい」
「はーい……」
涙目のまま部屋に戻るアリスの背を眺めながら、李雨はテーブルの上に置いていたコーヒーを一杯口に含む。程々に砂糖を混ぜた黒色の液体は、舌を緩やかな苦みで席捲してくる。休日の静かなひと時に、この香りと苦みが丁度良い刺激となってくれるのが李雨の小さな幸福。
「はぁ……平和ね」
ソファーへと体を沈める。焦げ茶の髪が背凭れに広がり、無音に近い空間に溶ける様に李雨が微睡んでいると、蓬が手荷物を入れた鞄を携えて再びリビングに現れた。
「あら、荷物片手に外出?」
「ちょっとした用事、夕飯には帰れなさそうだからアリスと二人で済ませておいて」
「いいけれど、日付は変わりそうなの?」
「少し越えるくらいだと思う。何かあれば連絡を入れておいて、電話だと出られなさそうだからチャットで」
「了解、気を付けて」
「えぇ……あと、これをアリスに」
「……? これは、ジェラートの引換券?」
「多分気落ちしているだろうから、それを渡して街に買い物にでも行かせてあげて。その封の中にお金も入れてあるから」
「厳しいんだか甘いんだか……」
「親代わりなら然るべき教育はする、そして行き過ぎたと思えば相応の事後対応をする。常識を身に着けて欲しいだけであって、理不尽に委縮して欲しい訳じゃないもの。ただでさえあの子は、普通を知らないんだから」
「そう……じゃあ後で渡しておくわ」
「頼んだわ、じゃあ」
テーブルの上に置かれた茶封筒、中には今時珍しい現金や紙面の媒体。蓬自身普段は内蔵しているチップから電子マネーをやり取りしているが、アリスにはまだ早いと基本的に持たせる額の限定のしやすい現金を渡している。随分過保護なのではないかと李雨は常々思っているが、かつて彼女が溢していたアリスへの思いと普段の任務の過酷さ故の対応だと思っているので何も言わない。この400分隊は蓬に取り仕切られているもの、彼女の方針が大きくズレていない限りは委ねると李雨は決めているからだ。
「アンドロイドが人間の子を育む……随分可笑しな話ね」
機械が人を育てる。それは一見可笑しな言葉ではない。家政婦用に製造されたアンドロイドは既定のプログラムに則って正しく人間の子の側にいる事ができる。が、それはあくまで補助だ。個体のみでの育成は困難を極める、それを蓬は理解した上でああして珍しく不器用にもアリスに接している。甲斐甲斐しさは美徳だが、その光景は李雨にはいつも歪に見えてしまって仕方が無かった。それを言ったとしても結局どうにもならないので下手な事は言わないようにはしているが、時折こうして転び出てくる。
現状何とか形作られているものをわざわざ壊す趣味は李雨にはない。自分にできる事は傍に立って時折助けを出しつつ眺める事だけ。
「……蓬行った?」
私室の扉から顔を覗かせるアリス。恐る恐ると言ったその姿に、つい李雨は笑う。
「ふふ、大丈夫よ。もう出かけたわ」
「そっか、アリスも出かけてくるね」
「暗くなる前には戻ってきなさい、これは蓬からよ」
「……?」
「お小遣い、無駄には使わないようにね?」
「わかった、行ってきまーす」
元気よく手を振り玄関へと消えていくアリスにひらひらと手を振る李雨。扉が閉まり足音が遠ざかっていくのを確認した李雨は、傍に置いてあった雑誌を手に休日を緩慢に過ごす準備を始めた。
イグナテス商業地区。都市開発されビル群が空を覆い尽くさんと立ち並んでいる中、そこかしこでホログラムの広告が入れ代わり立ち代わり表示され街の中は絢爛な様相を呈していた。コミュニティの外は相も変わらず荒廃し世界は退廃していくが、守られた壁の中とでもいうべきここは、旧時代の平和を疑似的に再現したように長閑な喧噪に浸されていた。
その街中を歩いている小さな背格好の金髪少女アリスは、手近のビル壁に背を預け李雨から貰った茶封筒の中身を見つめていた。
「……いつもより多い」
その中には、今ではあまり使われる頻度こそ減ったがそれでも残っている紙幣が何枚か入れられ、それとは別に材質の異なる紙が一枚入っていた。
渡された金額が何時もより多いことに疑問符を浮かべていたアリスだったが、見慣れない紙が入っている事に気が付き取り出してみる。厚手のそれに記されていた文字は、ジェラート引換券というもの。下部に記載された店の所在を見ると、少し歩いたところにあるビル内にあるジェラート専門店の名前が書かれていた。そこは今時にしては珍しく、旧時代の名残を強く残している店でこうして電子媒体以外のアナログなもので宣伝やクーポンを発行している。品も品質が高く、代替原料で作られていないので味も良く非常に人気な店だ。列に並び買えないなんてこともあるらしい。
「何でこれ入れてあるんだろ……? 蓬、だよね」
アリスは小首を傾げた。塒での一軒で怒らせたであろう蓬が李雨を通して渡してきた封筒にそれが入れられている理由が、彼女には見当つかない状態だった。
だが、貰えるものは貰う、有用なものは使うと教えてきたのも蓬。それ故にアリスは特に深く考える事も無く、普段は中々ありつけないジェラート専門店へと足を進めた。
「おいひぃー!」
コーンの上に乗った彩色鮮やかなジェラートをひと掬い、プラスチック製のスプーンで口に含むアリスは、顔を綻ばせながら一口また一口と運んでいく。冷たさが口内から食道を介して嚥下され、ひんやりとした冷気に思わず目を瞑る。
階層が重なり中抜きされた摩天楼の様になっているビル内部、その通路にあるベンチでアリスは一人休憩をしていた。そこかしこから聞こえてくる会話の波はもみくちゃになり判別がつくことなく鼓膜をすり抜けていく。雑音にも似たその中で一人、足をゆらゆらと揺らしながら最後の一口を口に含み、包装されていた紙を丸め傍らのダストボックスへと放り込んだ。
いよいよ手持無沙汰となり、次に何処に行くかと視線をぐるりと走らせると、ある店先の光景が目に留まった。
「…………きれい」
思わず立ち上がり駆け寄ったのはランジェリーショップ。煌びやかな装飾に覆われたランジェリーが飾られ、シックな音楽に演出されたそこは少女にとって全くの未知の世界だった。普段は近場の洋服店で簡単に消耗衣類を買い揃え、見栄えなどを気にすることが無いのが実情だった。戦闘に次ぐ戦闘、激しい動きや爆発物に狙撃といったもので衣服も下着も劣化が激しく、作戦時に必ず着る服はウロボロス経由で常に複数着ストックしているが、下着に関してはお洒落と言うものにとんと無縁なまま生きてきていた。それは周囲に近い年の異性が居ない事も相まって、余計にアリスを着飾ると言う行為から遠ざからせていた。全くその気がないという訳ではないが、どれだけ飾ろうとすぐ汚れ壊れるなら考えるのは無駄と、アリスは無意識の内に考えてしまっている。それを危惧した李雨が何度かその手の雑誌を見せたが、あまり好感触ではなかった。ターゲットとする年齢層からは外れていたのが一番の要因だった。
しかし、昨日ねじ折られた足の治療をしていた際、衣服を脱いでいたアリスに施術をしていたカルミアから穿いていた下着を鼻で笑われた挙句、嘲笑に嘲弄を重ねた言葉をアリスは投げつけられていた。それが彼女の女性としてのプライドを呼び起こし、今朝の蓬に対する愚行へと走らせた。未だに脳天が痛み、アリスは軽く頭をさする。
ここで店の中に入るのは簡単だ、一歩前に進めば入店できる。だが、アリスには未知の領域であるこの店に入るにはどうにも勇気が足りなかった。ここに李雨が居れば助言を貰いつつ違和感無く店内を歩けたのかもしれないが、生憎李雨は塒で休息中。こんな用事に呼び出すのは流石のアリスも気が引けた。単身入るのは子供が背伸びをしている様に見られる、頼みの綱は居ない。二進も三進も行かなくなり、溜め息と共に踵を返そうとしたその時――――。
「どうかしたのかしら?」
背中から、透明な声がかかる。聞き慣れないその声に戸惑いながらも自分にかけられたものだと思い振り返ると、長い長い白髪を揺らし目を伏せた、モデルの様なスタイルの女性が立っていた。一見何も見えていないのではないかと思ったが、傍を通る他の人間が近づいて来ると器用に体を避けこちらに近付いてきたので、一切の盲目という訳ではないと理解した。
突然の見知らぬ女性からの声掛けにアリスが戸惑っているのを察したのか、女性はふ、と笑みを浮かべて視線を合わせる。
「突然声をかけてごめんなさい、何か困っている雰囲気がしたものだからつい声をかけてしまったの」
「あ、その……」
「……ここに入りたいのかしら?」
女性が指さした先には、件のランジェリーショップ。見事図星を突かれたアリスは、取り繕う必要のない状況で大人しく頷く他なかった。それを見た女性は、顎に手を当て思案するそぶりを見せる。
「あの……別に絶対行きたい訳じゃないから……」
「でも入ってみたいのよね? 買い物をしたいのかしら?」
「ぅ……うん……」
「なるほど……じゃあ私が一緒に入ってあげましょう」
「……えっ?」
「私も丁度ここに用があったの、折角だから色々見てお互いのものを選んでみましょう?」
「で、でも……」
「大丈夫。さ、行きましょう」
女性がアリスの手を握り引き連れる。アリスよりもやや細い指は先程食べていたジェラートの様に冷たくて、人間としての質感をまるで感じさせるものではなかった。
(……あったかいのに、つめたい)
ひんやりとした心地のまま連れられたのは、ショップの中ほど。ホログラムで展示されたマネキンと衣装の数々が、アリスの真紅の瞳を色とりどりに濡らす。今まで遠目に縁の無い物としてしか見られなかった代物の数々が、目の前にある事にアリスは目を輝かせ、様々なデザインを眺めながら設置されているモニターで色を変えていく。
「凄い……!」
「ふふ……ねぇ貴女、いくつなのかしら?」
「アリス? アリスは15歳だよ! お姉さんは?」
「私? そうね……」
アリスの問いに、何故か思案を挟む女性。その様子に小首を傾げる少女に、女性は妖艶な笑みと共に返答をした。
「内緒」
「えー……」
「大人の女性は秘密が多い方がモテるのよ? 貴女も色を知ればわかるわ」
「色?」
「恋、愛、想い、慕い。そう言ったものよ。何れ知る時は来るはず」
「そうかなぁ……」
「その時までに女を磨いておいて損は無いわ、同時に自分の価値も高められるもの」
「ふぅん……アリスにはまだよくわからないけど、価値が高くなるなら磨く!」
「素直な子は好きよ。さ、選んでみましょうか」
そう言うと女性は手直にあった商品カタログの表示されている電子パネルを手に取った。アリスがそれを覗くと、些か10代の少女には刺激の強い露出度の下着類が種類ごとに表示されている。そこから女性は慣れた手つきでタッチパネルを操作し、あるジャンルの一覧を表示した。
「……べびーどーる?」
「そう、ベビードール。下着や部屋着としても使える装飾の多い物ね。胸元がそこまで露出していない物もあるから、初めて買う人間でもそこまで違和感なく着こなせると思うわ」
「わぁ……ちょっとエッチなドレスみたい……」
「これとかはいいかもかもしれないわね」
画面がスライドされ表示されたのは、スカーレットのベビードール。胸元が比較的厚手に装飾され、腹部が薄いレースに覆われた物。試しにと目の前のマネキンに表示させると、アリスは食い入るようにそれを眺め始めた。
「貴女のその金髪は明るめだから、その瞳の色の様に彩度の高い暖色が映えると思ったの。逆に寒色でも合いそうだけれど、折角初めて買うなら少しでも色味が明るい方がいいわ」
「そうなんだ……試着できるかな?」
「全体像のスキャンが出来ればそのマネキンの映っている場所で出来るわ」
「わかった!」
低い円柱の台の上にアリスが乗り立つ。それと同時にパネル背面にあるカメラがアリスの姿をスキャンすると、表示されていたベビードールのホログラムが変化し、その体に合う様に映し替えられた。そのまま試着像を撮影し、アリスが女性の横に戻る。
「どう?」
「似合っているわ、私はこれが良いと思うけれど、貴女は?」
「んー……折角だし、今日少し多めにお金貰ったから…………買う!」
「なら会計にこのデータと貴女の情報を送っておくわ、どうやら現金払いみたいだし、後でレジに行きましょう」
「うん。お姉さんは?」
「そうね……何が良いと思うかしら?」
そう言われたアリスは店内を見渡す。様々なランジェリーが飾られている景色をぐるりと見渡しながら歩いていると、ある物が目に入った。
「これ……」
「ガーターランジェリーね、私にああいう露出が高いものを選ぶなんておませね」
「ちが……なんかいいかなって思っただけで……」
「いいのよ、私もこういうものが欲しかったから」
「……誰かに見せるため?」
「さぁ……どうだと思う?」
閉じられた瞳のままの表情で女性が笑うのを、アリスはじっと見つめる。その視線に暫く視線を合わせていた女性は、やがて困ったように眉尻が下がり口を開いた。
「…………そうね、見せたい人は居るわ」
「どんな人?」
「うぅん……不愛想で何時も仏頂面で変に生真面目、プライベートなんて有って無いようなものだしこっちの気遣いを意に介そうともしてくれない人ね」
「そんな人が好きなの?」
「好きよ。それでもこちらに向けてくれる意識が常に優しくて慈悲に満ちていて、でもそれが一般的な優しさとは全く違うことを理解していながら自分を曲げない。そう言う孤高さが私は惹かれたのかもしれないわ」
「……お姉さん、その人の事本当に好きなんだね。とっても幸せそう」
「……恥ずかしいわね、こういうのは」
頬に手を当てて若干照れるそぶりを見せる女性。その表情はアリスが今まで出会った人間には見た事の無い、深い感情を発露させるものだった。全くの初見のそれに、知らないながらも好意を深く抱いていると推測したアリスは羨ましいと感じていた。
アリスは愛を知らない。正確には、親からの愛情と恋愛としての愛情を。分隊の二名からやリリネットなど、親愛に近い物こそ注がれてはいるが、根本的で原初的なそれらの愛をアリスは知らないまま過ごしてきた。それはひとえに、彼女が生きてきた人生がそうさせたに他ならず、また彼女自身も知らない故に求めようとはしなかった。
だが、今目の前で愛を抱く女性の姿に、自分の枯れた感情の一部がチクリと刺されたようにアリスは感じた。
「……いいな、そう言う風な事を思えるの」
「そうね、愛は簡単に手に入るものじゃあないわ。人間誰もが与えられるわけでも、齎せられるわけでもない。でも、一度知ってしまえばあとは深みにはまるだけ。良いか悪いかは本人次第よ」
「何時かわかるかな? アリスにも」
「きっとわかると思うわ、きっと貴女にも守りたい人はいるでしょう?」
「……うん」
「なら大丈夫……さて、あまり長話しては迷惑になるわ。私は貴女が見繕ってくれたこれにしましょう」
女性がパネルに表示したのは、チャコールグレイにカメリアのラインが刺繍されたガーターランジェリー。それを電子決済で支払い、品の送り先を手早く打ち込み終えるとパネルを元に戻す。
「さぁ、貴女の物も会計しに行きましょう。折角買ったのだから、ここで品を受け取って家で着られるようにしましょう?」
「うん!」
ランジェリーショップで買い物を済ませてから数時間。その後もアリスは名も知らぬ白髪の女性とビル内部を巡り、今まで全く気にも留めてこなかった様々な店でウインドウショッピングを楽しんでいた。日が傾き始めた時刻、アリスは懐から出した携帯端末に表示された時間を確認し、女性へと声をかける。
「そろそろ帰らなくちゃ」
「あら、もうそんな時間なのね。ごめんなさいね、急に買い物に付き合ってもらっちゃって」
「ううん!アリスもいっぱい知らない物を教えてもらって楽しかった!」
「それならよかったわ、ならここでお開きにしましょう」
「うん……ねぇお姉さん」
おずおずと言った具合に言葉を発するアリスに女性が小首を傾げる。視線を右に左にと泳がせながら、小さくアリスが問う。
「お姉さんの……名前は教えてもらえないの?」
「名前……そうねぇ……」
問われた内容を復唱しながら女性は考え込む。その様子にアリスは内心わたわたと慌て始めていた。元々アリスが長い時間接してきていた大人と言えば蓬と李雨、その二人は特に自身の過去と言うものや個人情報を簡単には話さない人間であり、詮索も嫌う節が多い存在。それ故にアリスは、こうしていきなり名を聞いたりすればもしかして気分を害すのではないか、折角仲良くしてくれたのに嫌われるのではないかと思考が巡り落ち着かなくなってしまう。
しかし、それとは裏腹に女性はにこりと微笑んだ。
「もし貴女と私が再び相見える時があったら、その時に改めて私を教えてあげるわ。それまで、今日の日は思い出の一つにしておきましょう」
「…………教えたくないの?」
「いいえ、でも今は私の事を知る時ではない。然るべき時に、きっと貴女は私と出会うわ」
「何でそう言えるの?」
「私の勘は鋭いの。安心していいわ、次は必ず私を知ることができるから」
「……わかった」
「いい子ね、それじゃあまた会いましょう。赤でしとどな少女」
ひらりと手を振り、軽やかな足取りで去っていく女性。アリスはその背をしばらく見つめ、去り際に放たれた言葉を反芻する。
「赤? しとど?」
首をひねる。特に本能的に忌避する単語ではないのは分かっているが、聞き慣れない言葉が少し引っかかった。が、悪いものではないなら気にしなくてもいいかと納得すると、踵を返しアリスも歩き始めた。自分が帰るべき塒へと。
ヒールが床を叩く音が響く。武装した者が行きかう廊下を踊る様に揺れる白髪は、その者の気分をそのままに表していた。鼻歌交じりのその姿にすれ違う人々が視線を向けてくるのも厭わず、女性はある部屋の扉の前に立つと施錠された鍵を開く認証パネルに手をかざした。
開錠される音が響く。職員用宿舎の一室、役職の位階として最上位の者に与えられた部屋の内装は、とてもそうとは思えない簡素で寒々しいものだった。
ヒールを脱ぎ、ひたりひたりと音を立てながら部屋の奥へと歩いて行く。室温の低い中は僅かな照明のみが灯され、女性はリビングから寝室へと向かった。
「…………」
設置されているベッドへと近づく。大人二人が悠々と寝られるサイズのそれには横たわる影。それに女性が手を伸ばすと――――。
「何の用だ」
ベッドの上の影から声が発される。低く抑揚のないその声に、しかし女性は慣れた様に返答する。
「買い物から帰ってきたから会いに来たの、寂しかった?」
「いつも通り仕事をしていた。今は見ての通り、7日と18時間稼働させた演算機構の一時的な休息時間だ」
「働き過ぎよ、たまには気分転換に街に出かけたらいいのに」
「用事がない」
「私が付き合うわ。街に出ると今日の私みたいにいいことがあるわ」
「何かあったのか」
むくりと起き上がる影。そこに居たのは、女性と同じ純白の髪をやや乱しながら息をつく男性が。その姿に女性は楽し気に微笑む。
「とても可愛らしい少女に出会ったの。金の髪に赤い瞳、健気で無邪気で無垢、それでいて硝煙と血の臭いに浸された子。成り行きだったけれど、共に買い物をしてきたわ。良いものを見繕ってもらったのよ」
「ほう、お前が珍しいな。そしてその少女を俺は知っているな」
「そうね、でも今は買ったものを見て欲しいの」
そう言って取り出した紙袋。ショップから送られてきたそれの中から取り出したのは、チャコールグレイとカメリアが映えるガーターランジェリ。それをこれ見よがしに見せてくる姿に、男は溜め息を吐いた。
「……買うものに文句は言わない、だが俺にわざわざ見せるなそれを」
「着た姿を見て欲しいから今夜はこれで寝るわ」
「当然の様にここで寝ようとするな、夜もやる事がある」
「どうせ期日が随分先の物でしょう? 明日は新人たちを相手にするから業務も無いでしょう? たまにはゆっくり過ごさない?」
「…………はぁ」
「ふふ、それじゃあ早速――――」
「……喧しいぞ艾、一体何の騒ぎ――――」
男――――艾の体を覆っていた掛け布団の中から、鈴の転がる様な声が聞こえてきた。それに女性は言葉を止め、伏せられていた目は温度の無いままに開かれる。勢いよく掛け布団を捲ると――――。
「ん……? ほう、ほうほう、なるほど。艾、お主よもやよもや」
「なんだ茅、具体性の無い事を言うな。ノナリアも突然捲るな、驚く」
「ねぇ艾、この子はだあれ?」
「俺の旧知の者だ」
「情報が足りないわ」
「お初お目にかかる、茅と言うしがない婆よ。主は……まぁ聞かんでもわかる」
「茅、勝手にベッドに潜り込むな、そしてどけ。これから仕事に戻る」
「どうせ隣の書斎でやるのだろう、儂も時間を潰させてもらおう」
「勝手にしろ。ノナリア、これからやる業務を手伝ってくれ」
「……後で詳しく聞かせて頂戴」
「気が向いたらな」
そっけなくそう言った艾は、黒いインナーのままキッチンの方へ移動していった。ノナリアと茅は互いに数秒間顔を見合わせた後、無言で艾の後を追う形で寝室を後にした。
同時刻、400分隊塒にて。
「見て見てー李雨、可愛いでしょ?」
「……随分、派手な物を買ったのね」
「綺麗なお姉さんと一緒に選んだの、蓬にも自慢してやるー!」
「……まだまだお子様ねぇ」
街を後にしたアリスは真っ直ぐに塒へと戻り、部屋に入るや否や李雨に購入したベビードールを見せていた。15の少女が着るには些か派手なそれに、李雨は苦笑を浮かべながら少女が喜んでいる様を眺めていた。
「それはさておき、夕飯にしましょう。今日は蓬は居ないし、折角の休日だからピザを買ってきたわ。食べる準備をしましょう」
「ピザ! やったー!」
「アリスは食器を用意して、私は買ってきたものを温めてくるわ」
「はーい」
月が昇り始める。辺りに光の無いビルの一角、唯一の光源となっているそこで、楽し気な会話が絶え間なく続けられていく。
僅かな合間に生まれた休息、平穏でかすかな日はゆるりと幕を下ろしていった。
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