第二十六相 欲望の連鎖

「――――ッシ!!」

 パン、と。乾いた音が絶え間なく響く。肌を滑り落ち、激しく揺れ動く体や髪から飛ぶ汗は照明によって視認が容易くなっていた。脈動する血管内の血液まで感じ取れる程神経は研ぎ澄まされ、打ち込んだ打撃によって歪むサンドバッグとそれを吊るす鎖の音が、酷く心地良く鼓膜を揺らしてきた。

 ――――落ち着く。それだけが俺を包み込んでくれている。余計な柵も、自分を苛む葛藤も、逃れられない因果も、何も、何も、何も、何も、何も何も何も何も何も何も何も何も。今だけは、この時間だけは俺は何の虚飾も纏わない。あるがままに、生きるがままに、好きなように、自分を在らしめることができる。それだけが、今の俺へのたった一つの救いだ。

 腰を鋭く回し、ブローを叩き込む。鍛え上げた腕によって歪み揺れる黒色の塊は、悲鳴の様にじゃらりと音を鳴らした。

「精が出ますな」

 背後から声。枯れている様で、しかし悪戯好きな子供の様な朗らかさのそれは、次第に近づいて来る足音と共に耳に届いてきた。その声の主を知っている。今ここで俺の下に来る人はそう多くない。

「……すいません東雲さん、毎度遅い時間まで借りてしまって」

「何を仰る、貴方はそれでもお釣りが出る程度には私達に寄与してくれているのですから。寧ろ他に何か要望は無いのですかな?」

「生憎欲と言うものがあまりなくて……申し訳ないです」

「はは、謝る事なぞ。こうして汗を流す貴方の姿はメイド達の間でも噂になっておりますが」

「邪魔になっていないでしょうかね、或いは見苦しいか」

「逆です、雪乃様の傍で甲斐甲斐しくも仕え、そして何かに打ち込む若者の姿と言うのは存外に見ていて良いものだと。そう聞いています」

「もの好きな方が多いですね……俺なんて一般的な学生像からはそこそこ乖離していると自負しているんですが」

「外から見た姿というのは、余程よく知る立場でもない限り美化されるものなのです。どうか許してやってください、年若い女性と言うものは美しい青春と恋愛譚を好む物なのです」

「いえ……別に咎めたりはしませんが…………」

 別に自分をどう捉え様と然して興味はない。誰にどう思われようと、自分自身の本質に変異が生じる事は無い。完全に客観的評価を剥離させて考えている訳ではないが、それに捉われようとは思わない。

 しかし、雪乃との関係や自分の姿を見て喜ぶ人間が居るというのは、どうにも居心地が慣れない。雪乃は恐らくそれを知って楽しむのだろうし、俺は下手に触れない方が無難か。

「それにしても、凄まじい鍛錬の成果……でしょうな。その肉体も、それによってこの砂を圧縮したサンドバッグを容易くひしゃげさせるのは並大抵な力ではできますまい」

「長い時間、反復していった結果です。これを打ち尽くし破壊したとしても大きな成長ではないですから。重要なのはそこで得たαの値です」

「成程、銀士郎君らしい考え方だ」

「ま……俺には強くなればなるほどわからなくなってきてますけど」

「わからない、と言うと?」

「強くなる実感はあります、新たな技術で飛躍もします。でも、目の前に壁が無くなっているんです。立ち塞がる人間が居ないんです。誰も俺の前にも、横にも居ないんですよ。成長をする理由が一つ一つ、消えていくんです」

 それがどれだけ虚しいのか、恐らくそれを説いたとして何も解決はしない。勉強でだってそうだ。ひたすらに上を目指し進んだ結果、その先で見たのは誰も、何も居ない世界だった。背後から声はする、振り返れば人が居る。それでも、俺には後退の選択肢が取り上げられていた。自分から棄ててもいた。親父が死んだあの日から、俺は俺自身に休む事も、退く事も、止まる事も禁じた。それは妹を守るために、アレと同列にならないために。そして周りの人間が俺と言う存在の価値をゼロと認識させないために。

 だが、成長をすればするほど、アレは俺が進む道の先に居て、屑でありながら高い能力を持っている事を否応なく認識させられる。どれだけ足掻いても、どれだけ道を逸れようとも、収束する場所だけは依然として変わらない。それが俺に、余計に焦燥感を抱かせている。進めば進むだけ見たくも無い姿がハッキリとしてくる。かといって止まる事はできない、守るべき存在が居るから。俺一人が苦に苛まれるのならそれでいい。

「……余人が聞けば羨ましいと言われそうですな」

「実際言われたことはありますよ、今更です」

「これは失礼を……やはりどの立場になろうとも、悩みは尽きぬものですな」

「ですね、東雲さんはそういう経験は?」

「私は長いこと従者としてご主人様に仕えていた故に、そう何度もは――――しかし、やはり同業の者からは時折」

「あぁ……執事と言う職も一枚岩ではありませんもんね」

「我々も人間ですので、妬み嫉みは何処にでもあります。人として生きる以上仕方のないことなのでしょうな」

「ですね……ふう、今日はここまでにしますかね」

「おや……手を止めさせてしまい申し訳ありません」

「いえ、どちらにしろ今日の分は終わったので。最後にクールダウンをしたら帰ります」

「それなのですが」

 体を伸ばし、ストレッチと軽いフットワークをして終わろうとした時、東雲さんが若干の申し訳なさを滲ませた声色で俺を呼び止めた。

「どうしました?」

「この後なのですが、雪乃様が貴方を自室にまで来るようにと伝言がありまして」

「…………あれですか、泊っていけと」

「……申し訳ありません、どうか」

「いえ、アイツの傍若無人さは今に始まった事じゃないですし。東雲さんが気に病むことではありませんよ」

「ありがとうございます……しかし、どうにも最近のお嬢様は、何か焦っておられるように見えるのですが。何か心当たりはありませんか?」

「焦り……ですか」

 焦燥、焦り、それの原因は自分で言うのも憚られるが、恐らく俺の事でだろう。自慢になぞ微塵も思っていないが、あの雪乃がそうして感情を滲ませる事があるのは、知りうる限りでは俺の事でしか起こり得ない。それは推測などではなく、歴然たるこれまでの事実の積み重ねによるものだ。アイツは俺に関する事柄以外で感情を激しく動かす事が無い。東雲さんも、それを知った上で俺に言っているのだろう。直接的な言葉で言わないのは、せめてもの気遣いか。

「俺の憶測で語るのは正しくないと思うので、終わり次第アイツの部屋に向かいます。その前に――――」

「湯の準備は既に、今日は従者用ではなく客用の方をお使いください」

「ですが、今日も一応勤務をしましたし……」

「貴方の疲労を少しでも軽減したい、私からの気持ちです」

「…………わかりました、お心遣い、感謝します」

「いえいえ、では私はこれにて」

 そう言い、東雲さんはトレーニングルームを後にした。俺はなるべく早く雪乃の下へ行けるように、素早くクールダウンを済ませると、指定された客用の浴場へと歩みを進めた。取り敢えず、さっさと汗を流してしまおう。タオルで滴る汗をぬぐいながら歩く最中に一抹の不安が過ぎるのは、きっと気のせいではないのだろう。





 体から熱を放ちながら、俺は豪奢なカーペットの敷かれた廊下を歩く。既に月は天を悠々と進み、天上から窓を経て俺を弱々しく照らす。少々の照明のみが灯る廊下に、月明かりは随分と眩しく感じる。

「雪乃、俺だ。入るぞ」

 一つの部屋の前に立ち、ノックをする。その部屋こそが俺を呼んだ張本人であり、限定的な時間の間ではあるが俺の『主』である、承和雪乃の部屋だ。赤を基調にした扉の先からの返事はないが、それが入室許可の代わりの沈黙であることは理解している。俺はゆっくりと扉を開き――――。

「…………ッ」

「……遅い」

「悪い、汗を流していた」

 部屋に入るなり俺の胴体に向かって飛び込んできた雪乃を受け止める。小柄で体も軽い為受け止める事は造作も無い。しかし、俺には物理的に受け止める術は持っていても、彼女の精神の不安定さを正す術は持っていなかった。顔が俺の腹部に埋まっているためその表情を窺うことはできない。かといってこのまま立ち竦む訳にもいかない俺は、雪乃の手を取り彼女のベッドへと誘導する。腰を掛けさせ、何か飲み物をと体の方向を変えようとすると、服の裾を掴まれる。行くな、そう言っているのだろう。俺は当初の目的を諦め、腰掛ける彼女の前に跪き顔を見上げる。その表情は、微かな照明のせいで陰っていた。

「どうしたんだ」

「……………………」

「はぁ……今日の事なら謝っただろ? お前の要求も可能な限り叶えたはずだ」

 生徒会活動が終わった後、俺は雪乃に連れられ簡単な買い物をし、そして彼女の自宅に来るに至った。俺のバイト先でもある承和家の、『承和雪乃専属執事』として従事している俺は、非番である今日に彼女からの要求もあって臨時で彼女の世話をしていた。指圧按摩や爪・髪の手入れ、彼女のもう一つの顔としての仕事の補佐をし、本来課されていた要求は既にクリアしたのだが――――どうやらまだ、終わりという訳ではないようだ。

「雪乃、どうしたんだ今日は」

「…………」

「黙っていてもわからない、今日に限らず最近のお前はどこかおかしい」

「……おかしいって、ひどいなぁ」

「事実だ、認めろ」

 最近、とは言えそれを露骨に出すほどコイツは馬鹿ではない。普段の道化の様な振る舞いはわざとであり、あれは人間関係を円滑に構築する上でのコイツなりの処世術だ。コイツの本来の姿を知らない限り、違和感には気が付けなかっただろう。

 変化は新学期に入ってからだった。承和雪乃と言う人間は俺と言う人間を揶揄うことが多々あった。それは今現在も変わりなく、俺と雪乃の関係性ができた時、そして複雑になった時から変わっていない。コイツは俺を揶揄い、俺はそれに呆れながら返す。それが常だった。

 だが、生徒会に加入すると決まった時からだろうか。アイツは今までにない強引さのある関わり方をし始めた。意図的な男女を否応なしに意識させる接触が増え、生徒会の顔合わせの時も、今までならば他の異性と俺が関わる事を然程気にしないスタンスであったのに、態々俺に角が立つ言い方をしてでもあの面々との間に男女の意識を植え付けた。幸いあの面々はその意図が大した効果を発揮することなく終わったので、俺としては助かった。

 とにかく、なにかおかしいのだ。今の雪乃は。焦っているのか、それとも何か画策しているのかはわからないが、クレバーなコイツにしてはチープな行動が目立つ。無論、それに薄々勘付いているのは俺くらいだが。

「何を考えているんだ」

「……言ったら怒るもん」

「言って怒るとわかっているものをやるな。俺にばかり気を向けてないでもっとほかに気を向ける事はあるだろう」

「ない」

「無い訳――――」

「ないよ、銀君以外、なにも、ない」

「…………」

「ねぇ、銀君」

 跪く俺の髪を緩やかに掻き上げる。二人で話をしたい時の合図である言葉。『髪は留めた?』と『視界は良好だ』は、雪乃が俺に対し贈ってくれた赤いヘアピンに由来している。そのヘアピンの付けていない今の俺の前髪は目を覆い隠すように垂れていたが、雪乃の指でそれが露わになる。

「…………綺麗、その眼が欲しいな」

 雪乃の指が俺の瞼を撫で、そして眼球に触れるか触れないかまで爪を向ける。俺はそれに、瞬きすらせずに見つめる。

「銀君、銀君はどうして私の願うように幸せになってくれないの? 私の目指すものは銀君の幸せじゃないの?」

「……お前には感謝している。今の俺が辛うじてでも妹の面倒を見て、手前の事を手前でこなし、そして誰かの役に立てている。それはお前のお陰だ、雪乃。感謝している」

「ねぇ、今の銀君の状態って、普通じゃないのは分かってる?」

「あぁ」

「それは幸せな状態じゃないよ、銀君。だって銀君自身の事は一切加味されてないもん」

「俺の事は加味しているだろ、自分の面倒を見られている事も、役立つ存在に慣れているのも」

「誰かのための自分だよ、それは」

「それが俺の、今の俺が享受できる最大のものだ」

「いやだ」

「嫌だと言われてもな……」

「私は、銀君が人として当然の、当たり前に受けられるものすら無い今が嫌なの。だから私が幸せにしてあげるの」

「お前の人生はどうなる」

「私の人としての当然は過ぎるくらい受けてる、だって家が家だからね。だから私は私の幸せのために生きたい。銀君を幸せにすることが私の幸せだから」

 目の周りを撫ぜる雪乃の指が、頬に、そして首に下がっていく。首に行く指が、手が、まるで俺を繋ぎとめようとしているが如く急所を包んでいく。

「……好き、大好き。愛してる。世界の誰よりも、銀君の事が好きなの。どんな代償を支払ってでも、銀君が欲しいの。でも銀君は私だけじゃ、私の全てだけじゃ足りないんでしょ?」

「……そうは言っていない、だが答えは出せないと何度も」

「知ってる、でも欲しいの。銀君が私を嫌いになって、顔も存在も認識したくないっていうなら私はすぐに目の前から消える。死ぬ。それがけじめだから」

「雪乃」

「でも銀君は私を嫌わない、好きでいてくれる、友愛かもしれないし、異性愛かもしれない、それはわからない。でも、そう言ってくれてなお足りないから、私は次に動かなきゃならないの」

「次……?」

「言わないよ、きっと怒るから。でも、その為に今動いているの。だから、多分私は不自然になっちゃってる」

「…………」

「ごめんね……ごめんなさい……銀君」

 嗚呼、何時もそうだ。コイツは一人でひたすら抱えて、考え込んで、そして俺にしか吐かない。その捌け口の俺に言えない状況は、きっと負の感情の渦に呑まれているのだろう。底の無い沼の様で、しかしそこから抜け出すための出口のない、そんな状況。でもなければこんな、視線を向けていられない顔をする理由はないはずだ。

 きっと、コイツが苦しんでいるのは俺のせいだ。俺が前にも後ろにも動けないばかりに、コイツにまで苦しみを与えてしまっている。今ここで気休めの答えを言ったとして、それは根本的な解決にはならない。そもそも、コイツがそれを良しとしない。かといって俺がこいつの前から姿を消せば、それこそ本末転倒だ。雁字搦めだ。無様な人間二人が、藻掻き苦しんでいる訳だ。しかも俺のせいで。

 だから俺は俺が嫌いなんだ。無自覚に毒牙を深く刺し込んでしまったばかりに、忌々しいあの女の残したもののせいで、俺はコイツをたった一つの解でしか救えない存在にしてしまった。

 ――――いや、もしかしたらもう、俺の考える解ではどうにもならないのかもしれない。そうしたらもう、俺はコイツの言う考えを黙って待つしかない。怒る事すら、俺にはできない。権利も無い。

「雪乃」

「…………ん」

「俺はお前を怒らない。もう俺にはお前を救う解がわからなくなった役立たずだ。だから、お前が何か考えがあるというのなら、俺はそれを黙って受け入れる。それが、お前に対する贖罪だ」

「…………本当に?」

「あぁ」

 その時、雪乃の顔は良く見えなかった。俯いたまま、俺の言葉を確かめるように、細く弱い声で、俺に問う。

「…………そっか」

「……今日はもう寝ろ、今のお前に必要なのは安息だ。それが必要になった原因の俺が言うのは随分なものだがな」

「……来て」

「…………雪乃」

「何もしないから、側にいて、一緒に居て、其処に居るって、感じさせて」

「………………すぐ寝ろよ」

「うん」

 こうして雪乃が弱った時、必ず同衾を求めてくる。それが俺達の年頃としても、異性の間柄としても、間違っているのは分かっている。だが、以前一度それを無理に断り家に帰った時、コイツは夜通し泣き続け寝込んでしまった事がある。流石にそれを見過ごす程俺は厳しさを持ち合わせていなかった。こうして共にベッドに居る程度には。

 雪乃に向かって背を向け寝そべる。背後から手が伸び俺の腹を包むように抱き、凹凸のある体を密着させてくる。慣れたとはいえ、やはり心臓には悪い。

「……ごめんなさい」

「謝るな」

「ううん、謝らないと。銀君にも、みんなにも。私は狡いから」

「……?」

「きっと段々わかってくるよ。銀君は、素敵で酷い人だから」

「随分な矛盾だな」

「人間なんて合理的で理路整然となんてしてないよ、矛盾だらけ」

「そうかもな」

「……おやすみなさい。林間学校、楽しみだね」

「……あぁ、おやすみ」

 そう言い、俺は目をゆっくりと閉ざした。仄かな人肌と柔らかなベッドに包まれながら、俺の意識は暗闇の中に消えていった。













「瑠璃も」


「結乃も」


「月夜も」


「月乃も」


「七望も」


「いろはも」


「銀君も」


「……私も」


「『みんな』で幸せになろうね」

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