第二十四相 塞がらないヒビ

 人間、容易く変わる事はあまりない。俺はそう考えている。どんな人間もその時点までに培い続けた『自分』がある。それを突然、今この場で変えるというのは土台無理な話だ。鋼を急いで曲げれば歪み折れる、人間は今この瞬間からエラ呼吸にはなれない。永い時間の経過によって、事物は漸く変化することができる。

 勿論すぐに変えられるものがあるのもまた事実だ。それを否定しない。食生活を見直そうと思えばできるし、掃除をしろと言われれば動くことは容易だ。

 しかし、精神的なものに関して言えば、トラウマになる程度のショックでもない限り不可能だ。それは最早まぎれもない事実でしかないし、現在進行形でその感覚を味わっている。辟易することこの上ない。恐らく俺を知らぬ第三者は俺がそう言った悩みとは無縁だと思うだろう。俺自身、俺を知らなければそう思うだろうからそれについての文句はない。

 だが、違う。違うのだ。俺は機械でも鋼鉄でも、ましてや非人間でもない。弱い人間だ。強さを求め強さを手にし、弱さを唾棄したはずの俺はそれでもなお――――いや、強さを手に入れる前以上に、弱くなった。そんな自分が、嫌いだ。嫌いで、嫌いで、嫌悪に厭悪に憎悪が重なれば、もう言うに及ばない。自分なんてその評価を下すのが精々で――――。

「顔、怖いよ」

 は、と。俺の意識が靄がかった状態から晴れた。隣を歩いていた雪乃が、生徒会室に居た時と同じ俺の眼を掬い上げる様にこちらを見ていた。普段の道化を振る舞う狡猾な眼でも、深い煩悶に歪む眼でもない。水気を帯びた、潤んだ瞳だった。

「……すまん」

「楽しくない?」

「そういう訳じゃあない」

「そっか」

 不甲斐ない、凡そ八年程度の付き合いの彼女に不必要な気遣いをさせてしまった。自分の行動の浅慮さに思わず舌打ちをしそうになる。表情一つまともに作れないとあっては程度が知れてしまう。

「楽しいね」

「楽しいのか?」

「うん、銀君と一緒に居るだけで楽しいよ」

「……そうか」

 屈託も無く恥じらいも無く。いや恥じらいこそ僅かに見せているが、それよりも嬉しそうな雰囲気を隠そうともしない。なんで俺のような人間と居てここまで楽しそうにできるのかが長年の俺の疑問だ。理由を聞けばはぐらかされるので俺には何もわからないまま、ただその様子を見る事しかできない。何度見てもなれないそれに、俺は視線を逸らし首を掻く。

「それ、昔からやってるよね」

「……どれだ?」

「首を中指で掻くの、恥ずかしかったり動揺した時の癖」

「あー……意識してなかったが、直ってなかったか」

「いいと思うよ、数少ない銀君の感情の読みやすい行動だし。私としては可愛いと思うよ?」

「やめてくれ、俺に可愛いという言葉は存外でもなく似合わないし気色悪い」

「今日は私の言う事を聞いてくれるんでしょう? 最近は生徒会の皆につきっきりで私の相手をしてくれなかったし、銀君」

「意図していないんだが」

「知ってるよ、何年一緒に居ると思ってる?」

「そうだな」

 俺と雪乃は幼馴染、と呼べる程度には付き合いが長い。小学三年生頃から今まで絶えず関わりを持っている故に、お互いの事は家族を除いて他に比肩する者が居ないと自負している。

 俺は雪乃を知っている。本来他人に決して踏み込ませる事のないコイツの本性を知っている。

 雪乃は俺を知っている。俺が理不尽に受け継いでしまった忌み嫌う生来の性質を知っている。

 俺達は互いに弱さを握り、そして弱さ故に凭れかかりあってまるで自力で立っている様に見せている。

 だが、それを互いに明言する事は無い。それは禁句だからだ。互いの暗黙の了解だからだ。もしそれをどちらかが言語化してしまえば、きっと全てが瓦解する。俺が弱さに敗北すれば、恐らく雪乃と眞銀意外との関係を持つことが無くなる。雪乃が完全に心を閉ざせば、コイツは俺と家族以外と接触する事を一切拒否するだろう。そう言う事なのだ。

「あ、おーい我妻くーん」

「……ん?」

 ある場所へ向かい歩いていると、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。それは快活でよく通る、睡眠に全てを委ねる男の面倒を献身的に見ていると思える声だった。

「貴女達は、確か……灰月さんと紫谷さんだったかな?」

「こんにちは……こんばんはの方が近いかな?会長さんと我妻君」

「ども……ふぁ……ぁ」

「挨拶しながら欠伸をするな響也」

 大きく口を開け呑気に欠伸をする姿にそう言うと、響也は微睡みへの誘いによって閉じかけている目をこちらに向けてきた。

「んぁ……何してんの?」

「ただの帰り途中だ」

「一緒に帰ろーってね」

「仲いいですよね、会長さんと我妻君。結構噂になってますよ、なんだか昔からの知り合いみたいだって」

「鋭いねー灰月さん、正解」

「あ、本当にそうなんですね?」

「そうだよー」

 女子特有の現象なのか、雪乃と伊桜は小さな会話からどんどんと広げていき雑談を始めた。男二人を置いて会話を始めた姿を、俺と響也はぼんやりと眺めながら佇む。

「終わるまで待つしかなさそうだな」

「帰って寝たいんだけど……」

「諦めろ、それよりこの間の中間試験はしっかり受けただろうな?」

「一応、伊桜が何時もに増して煩かったから」

「結果は?」

「可も無く不可も無く、別にいい点取りたい訳じゃないし」

「もう少し真面目にやればお前は点数を伸ばせるんだがな、やる気の問題だ」

「自覚はしてるよ」

 ズゴゴと手に持っていたプラスチックのカップに残っていた飲み物を吸いながら、響也はそう答えた。舌が溶けそうなほど甘いそれを飲みながら何ともない様に答える姿は、俺には到底理解できそうにも無かった。涼に輪をかけて不思議な感性を持つコイツとはそこそこの付き合いにはなるが、どうにもつかみにくい人間だと思っている。それは、少し前に居る灰月伊桜との関係についても同じくだ。

「響也」

「ん?」

「相変わらず伊桜とは何も変化がないのか?」

「………………」

「なんだその顔は」

「いや……涼から聞いてはいたけど本当にその話題を自発的に出すようになったのかって」

「あぁ……なるほど」

 以前雪乃と共に涼と浹と食事をした日、涼と所謂恋愛に関する話――――今は恋バナと言われるらしい――――をした。その時に涼も同じ事を言っていたのは記憶に新しい。まぁ自分としても、今まで意図的に避けていた話題を何故自分から振る様になったのかはわからない。心境の変化か。はたまた目の前で談笑に勤しむアイツの変化のせいか。

「まぁ、色々とあった結果その手の話題をお前か涼にするくらいなら問題ないと思った所だ、恐らく」

「自分の考えに推量を含ませる人間は多分居ないと思う」

「で、どうなんだ? 臆病者同士の間合い取りは」

「酷い言い草だな、慎重で先を見据えている大人と言って欲しいよ」

「残念ながらオブラートは用意していなくてな」

「知ってるよ」

 眉を顰める響也の互い違いの双眼は、再三言われ耳にタコができていると言わんばかりのものだった。事実、過去にそう言っていたのを覚えている。その時は涼から言われたんだったか。

「オレは今でも伊桜を自発的に求めるつもりはないよ。意図しなくても困らせるからね」

「それはアイツの意思を尊重して、と言うやつか?」

「そうだよ。伊桜はオレと共に天秤に乗った時の釣り合いを気にしているから、その懸念を無視して一方的に側に寄ることはできない。オレとしては何時来てもいいんだけどね」

「そうか」

「聞いてきた割に淡泊過ぎない?」

「何の進展も無い話を延々と聞くつもりはない」

「酷いな」

「そう言う人間なのは知っているだろう」

「まぁね、とにかくそう言う事。伊桜はオレへ好意を抱いている、オレも同じ。だけど伊桜はオレとの釣り合いが取れないと思ってるから来ない。オレは自分から行くつもりはない。変化はないよ」

「難儀な関係だな」

「あまり人のせいにしたくないけれど、一番これの原因になってるのは伊桜だと思う」

「お前も自分から行けばもう少し早く片が付くんじゃあないのか? 俺にはそこら辺の駆け引きやらがわからんが」

「銀士郎に恋愛のあれそれを言われたくはないよ。一番わかってないでしょ」

「それを言われると痛いな」

 響也が手に持っていたプラスチックのカップを手近なゴミ箱に投げ入れる。大して距離の無い投擲は、カランと軽い音だけが出ただけだった。

 俺に関して言えば、響也と伊桜の拗れに何かを進言するつもりもないし、その立場に居ない事は自覚している。二人の真意を直接聞いて初めて、この二人が拗れた因縁の元に恋愛のやりとりの様な不可思議な関係を作っているのを知ったのだ。それが無ければ俺はこの二人をただの仲のいい幼馴染としてしか見ていなかっただろう。そう見ていても問題の無い状況なのもあるが、しかし――――俺はあまりにも無知なのだろう。

「今は誰も出る幕じゃない、オレと伊桜だけの幕だから」

「そう言うのなら何も言わん、こちらはこちらで手一杯だからな」

「だろうね、色男」

「…………」

「事実だと思うけど」

「不本意だ」

「学校内どころか世間一般でも全員が美少女で通じる面々しかいない生徒会で、黒一点でありながら全員といい関係を築いている人間は、恐らく色男に分類されると思うけど」

「偶々全員が友好的な人間ばかりだったからだ」

「銀士郎の役職の補佐の人……紅さんは校内でも有名な重度の男嫌いだって聞いたけど?」

「……………………」

 不本意な名に異議を唱えたかったのに、現実はそう言われても仕方がないのではないかと言う事例ばかりだった。俺だって好きで女所帯に入った訳でもなければ、口説こうともしていないし色目も使っていない。もっと言えばそう言ったものとは真逆に立っていると自分では思っているほどだ。

「『周りから見るとそうなるかもしれないが、俺はそう言われる様なことはしていない』って思ってるね、銀士郎」

「俺はサトラレなのか?」

「何時もはわからないけど、この手の話の時だけは分かりやすいよ。小学生より恋愛関係の話の駆け引きや嘘が下手な銀士郎君」

「煽るな」

 珍しく口角の片側だけを上げる不敵な笑みを浮かべた響也のそれが俺に向く。正直一発入れても許されるのではないかとも思ったが、認めたくは無くとも事実確認の如く現実を再確認させられただけなので、反撃する権利が今の所俺にはない。できる事と言えば、睨むだけと言う情けない反抗心の表現だけだ。

「おーい、待たせてごめーん響也、我妻君」

「遅いよ、早く帰って寝たいのに」

「今日はおばさん居ないから夕飯作るって話したでしょ?」

「別に出前でいいじゃん……」

「お金がある事と散財は別! 裕福だからってなあなあは駄目」

「わかったよ、伊桜のご飯は母さんと同じくらいは好きだし」

「えっ……そ、そう? 本当?」

「そんなんで嘘つかないよ」

「そっか……そっかっ、へへ」

 憤慨の顔が一転、伊桜の表情は葛餅の様にとろけた締まりのない表情になっていた。俺は自分の性質を知っているから人の事を言えないのかもしれないが、響也も伊桜限定でだいぶ悪い男なのではないかと思った。伊桜が単純に響也に対して防御力が低いのかもしれないが。涼も然り、俺の周りに居る二人の男はそう言う所が上手い。立ち回りも含めて。

 残念ながら俺には今伊桜が何に喜び照れたのかが皆目見当がつかないが、まぁ放っておくのが一番だろう。視線を雪乃に戻した。

「話は終わったか?」

「ごめんね、話が結構面白くなっちゃって」

「何を話していたんだ」

「な・い・しょ」

 ウインクをしてくる雪乃から目を逸らした。どうせロクでもない話なのは想像に難い。

「じゃあ我妻君と会長さん、私達はこれで」

「お疲れです」

「うん、また学校でねー」

「帰りには気を付けろよ」

「親じゃないんだから我妻君」

 苦笑いをする伊桜は、響也の手を引きながら俺達とは反対の方角に歩いて行った。前提を知っているからこそそう見えるのかもしれないが、伊桜の顔は何時も見せる表情ではない様に見えるし、表情筋の動きが乏しい響也の顔も心なしか緩んでいる。こういう時に人間観察の経験が生きてくるが、しかしそれを知っていればいる程、あの二人の関係性が傲慢ながら不憫でならなく感じる。



 ――――自分が並び立てないと、土俵に上がることを放棄しながら想いを抱き続ける者。

 ――――相手の想いと意図を知っていながら、尚相手へ向ける気遣い故に待ち続ける者。



 俺には理解できない世界。その世界に入る資格すら放棄した人間に、内情を知れというのが無理な話だ。世界を壊しかねない上に、周囲に構築された別の世界すら壊す恐れのある人間なんて、誰も欲したくはない。対岸の火事であるから、人間は初めて落ち着いて観察することができるのだ。自分が火元になっては元も子もない。不要物は切り捨て、必要なものだけが残る。剪定とはそう言うものだ。

「仲が良いね、あの二人」

 再び歩き出して暫くした後、雪乃が笑みを浮かべながらそう言った。その声色はまるで親戚の子供を見守る叔父叔母の様だった。

「とっても仲が良くて――――可哀そう」

 凍てついている訳ではない。しかし、質感の無くなった雪乃の声が鼓膜を揺らす。何時もなら隠す声色が。

「…………憐憫を抱くのは傲慢さだ」

「そうだね、わかってる。でもさ、仲が良くなればなる程、互いの深みに落ちれば落ちる程、苦しむ未来に歩いて行くんだもの。私は素直に可哀そうだって思っちゃうな。銀君もそうでしょう?」

「……俺に何かを言う資格はない。それを言える立場になる権利は棄てたんだ」

「棄てた? 嘘を言わないでよ」

 隣を歩く雪乃が俺の手を引く。大通りから逸れた道、狭い路地に連れていかれる。

「銀君は棄てたんじゃないよ、棄てたつもりになってるだけ。だってその手にはまだ権利が握られてるもん」

「…………」

「私を拒絶しない。棄てたのなら拒絶するだけで終わる私との関係を、銀君は一向にしようとしない。事務的で終わらせればいい生徒会の皆との関わりも、プライベートに食い込むほど繋がってる。これを見た上でまだ棄てたって言えるの?」

 俺は二の句どころか、ただの一言の発声すらできなかった。何故なら、唾棄すべきあの女の姿が俺に重なっているように感じたから。胃から何かが込み上げてくる。喉を焦がし、鼻腔を腐らせ、汚濁した現実を魅せられそうになるのを感じても尚、俺は雪乃の視線から自分の目を逸らす事は出来なかった。

「言えないよ、銀君は言えない。それを誰よりもわかってる銀君だから、何時も苦しそうにしてる」

 頬に細く白い指が触れる。まるで歪な土台の上に立つ、不安定な細工作品に触れるように。丁寧に、静かに、慈しむ様に。

「……行こっか、ここじゃ話せることも話せないし」

「…………あぁ」

 情けない。この期に及んで逃げ道を探す自分の弱さに反吐が出る。雪乃のやさしさに甘える自分を吐き捨てたい。それすら許してもらえない身分だが。

 手を引かれ、俺と雪乃は路地の奥のその先、目的の場所へと歩みを進めていった。

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