第十四相 甘き毒、承和色の蜜

 月白君の家で食事をしてから凡そ二時間後、浹さんを除いた私達は時間も遅くなってきたので帰宅することにした。部屋に置かせてもらっていた荷物を取り、玄関に行くと、銀士郎君と月白君が会話をしていた。

「――――なのか? 面倒だな……」

「もしそうなったらちゃんと対処してあげなよ」

「そりゃあな」

「なになにどうしたの」

「なーに男二人でいちゃついてんすか」

「いちゃついてる……?」

「浹は眼球洗浄をした方が良いかもな」

「何て言い草……特にぎんじろ先輩」

「妥当な言葉だ」

 既に靴を履いている銀士郎君と向き合う月白君に、三毛さんは駆け寄っていって抱き着いた。今日一日で分かったけれど、この2人、特に三毛さんは自分の感情にとても素直な子だった。好きなら好き、嫌いなら嫌いとはっきり言い、感情をしっかりと伝えることもできる。そんな姿が若干眩しく感じて、つい3人の様子を離れた所から眺めていた。

「雪乃、何棒立ちしてるんだ。帰るぞ」

 それに気が付いてくれたのか、銀士郎君はさりげなく私を呼んでくれた。行為としては些細以前に特別な事は何もない。それでも、彼から名を呼ばれ自分の方へ来るように言ってくれたそれだけで、私はつい顔を綻ばせてしまう。

「うん、帰ろっか」

「帰りは気を付けて、また来週会おう」

「あぁ、今日は誘ってもらったこと感謝する」

「先輩もたまにはこうやって一緒に食べる喜びを共有しましょ、会長さんもまた」

「そうだね、また是非誘ってほしいな」

「えぇ、勿論」

「じゃあな」

 月白君と三毛さんの見送りを背に、玄関を出て庭を通り門を抜ける。外は既に星が散りばめられた夜空になっており、この時期にしては珍しい涼しい風が頬を撫でてきた。

 私と銀士郎君は特に会話も無く道を歩く。ちょっとした出来心で銀士郎君の袖を掴んでみたら、視線だけをこちらに向けてきた。

「何してるんだ」

「こっち向いてくれるかなって」

「見ていなくても何も変わらないだろ」

「好きな人には何時も見ていて欲しいもん」

「…………どうしたんだ今日は、涼と浹に中てられたか」

「……かも」

 実際そうだと思う。ここ一年間とちょっとは、自分のこういった彼に向ける感情は制御しあまり表に出さない様に、彼の迷惑にならない様にしていたし、できていた。なのに、今日に限って――――否、正確にはここ二か月の間でそれが難しくなってしまった。

(理由はわかってる……んだけどね)

 自分でどうしてそうなっているのかはわかっている。今まで我妻銀士郎と言う人間に、自分以外の親しい異性の友人はほぼ皆無だった。精々が仲のいい男子2人と一緒にいる女子生徒だろう。

 しかし、自分が推薦したため、そして彼自身が望んだためではあるが、生徒会と言う女子しかいない場所に来てから一気に彼を取り巻く環境は変わった。彼は持ち前の容姿や性格でこの僅かな期間に役員達を、言い方は悪くなってしまうが篭絡していき、程度の差やベクトルの違いはあれど友好的な関係を広げていった。瑠璃や白百合双子が変化としては目立っているが、私としては結乃が最も変化した人間だと思っている。男嫌いを拗らせ超攻撃的だった彼女が、棘の多さは残っていても嫌悪の感情のみで接してはいなくなっていたのに気が付いた時は、幻覚でも見ているのかと思ったほどだった。

 そんな状況、多分一般的には両手どころか体が花に包まれている状況なのに組織内が何も問題なく回っているのは、まぁ大体が彼の無関心さによるものだと思う。それは別に他人に対して関心がないわけではなく、単純にそういう雰囲気にそもそもならない程の鈍感さの賜物と、理性的な役員一同のお陰だ。そこが一つの懸念事項ともなっているがそれはそれ。

「……ん」

「……?」

 思考の渦の中でひたすらに考え事をしていると、隣にいた銀士郎君が小さく声を出し掌を空に向けていた。何をしているのかと思い上を見ると――――。

「あ、雨……」

「降ってきたな……しかもこの感じ、強くなるぞ」

「不味いね……」

「少し走るぞ」

「うん」

 いくら気温が上がってくる時期とは言え、夜の雨に打たれれば風邪の一つも引く可能性は高くなる。試験も近いこの状況で濡れ鼠になるのは不味い――――が、現実と言うものは非情だ。どんどんと雨脚は強くなり、髪や制服がどんどん濡れ肌に張り付いて行く。

「これはちょっとヤバいかもね……」

「っ……悪い、我慢してくれ」

「え……ひゃっ!」

「掴まってろ」

 銀士郎君が何か言ったかと思うと、体が浮遊感に包まれる。驚いて一瞬目を閉じた後再び開いた時、至近距離に彼の顔があった。何故、どうしてと動揺し混乱したが、少ししてから今自分が抱きかかえられている――――俗にいうお姫様抱っこの形で抱き上げられ移動していることに気が付いた。

「お前の家まで距離がある上に外で止まる訳にもいかない、一旦俺の家に行く。いいな?」

「う、うん……」

 雨の中と言う足場の悪い状況、視界も悪く、荷物も持っていて、更には私を抱え上げているのに、銀士郎君は一切の息も切らさずに真っ直ぐ前を見ていた。雨で顔に張り付いた髪や滴る水滴まで見え、何故かそれがとても扇情的な姿に見えてしまった私は顔を逸らすことができなくなっていた。今まで共に居る時間は長かったけれど、こうして抱き上げられたりすることは初めてだった私の心臓は、悲鳴を上げそうなほど脈拍が速くなっていた。

(……格好いい、な)

 声には出さないがそう思った。自分が唯一心を許している人、その人が自分の為だけに走ってくれていることが、理由は説明できないが嬉しく感じている。私は彼の首に手を回し、束の間の幸せを噛み締めることにした。






 数分後、私と銀士郎君はずぶ濡れになりながらも彼の自宅に到着することができた。ふと自分の姿を見てみれば、白いワイシャツが透けて下着まで見えてしまっていた。

 慌ててそれを隠すため両腕で体を抱くが、当の隣にいる彼はそれを見向きもせずに部屋の中に入っていった。

(…………流石にちょっと、もう少し気にしてくれてもいいのに)

 うら若き乙女の濡れ透けている姿、彼位の歳の男子ならもう少し反応してくれてもいいのではないかと一人頬を膨らませる。恥ずかしいが、何か反応して欲しくもある。それが乙女心とでもいうべきか。見られて困る様なデザインでも無し、彼になら見られてもいいとは思っているので尚更私は彼に対して心の中で文句を言いながら靴と靴下を脱いだ。

 と、顔を上げようとした時に、頭に柔らかい布がかけられた。何かと手に取ってみれば、白いバスタオル。視線を上げれば同じようにバスタオルを使い水滴を拭っていた銀士郎君の姿があった。

「それでまずは体を拭いてくれ。終わったら風呂を使っていいから体を温めろ、冷やしたままだと風邪をひく」

「あ、そうだね……いいの?」

「俺相手に遠慮をする仲か、替えの服を適当に見繕っておくから濡れた服は洗濯機に入れておけ」

「……うん、ありがと」

 ――――自分の事をちょろい女だと思ってしまう。多分傍から見てもそうなんだろう。でも、彼のほんの垣間見える私だけへの優しさを感じただけで、こんなにも満ち足りた心になってしまうのだから言い逃れもできない。するつもりも無い。だって好きだからね。

 さて、いつまでも玄関で立ち尽くしている訳にもいかないので、私は洗面所とお風呂場のある部屋に移動した。彼の家は、普段私が住む家と比べればお世辞にも広く快適とは言えない――――と言うか、多分比較するのは違うだろう。今の考えはキャンセルだ。しかし、確かにそこにある光景は自分の普段知る場所とは天地の差はあるが、彼が普段ここで過ごしていると考えると形容し難い感情に包まれる。こういうのは少し変態みたいなのだろうか。心の内に留めているから許して欲しい。

 水で湿ったワイシャツやスカート、次いで下着やソックスを脱いでいく。側にあった洗濯機に入れていく。すりガラスの扉を開くと、タイルが敷かれた床と簡素なステンレス製の浴槽がある浴場――――と呼べばよいか。ひたひたと音が鳴るそこはどうにも肌寒く、また勝手もわからなかった私は、目に付いたシャワーヘッドと赤い取っ手を捻った。

「……はぁ」

 程よい温度のお湯が体を流れていく。冷えた体には心地よく、全身を包む水のヴェールは早足になっていた思考を緩やかにしてくれた。本来は冷たい水がその役目を果たすのだろうが、冷えて加速する余地が多かった空白を熱で簡単な処理落ちの様に減速させたと思えば理由もわかる。――――わかる?

 誰に言ってるのかもわからないそんな考えを適当に投げ捨てて、体全体にシャワーのお湯をかけていく。

「雪乃」

「ひゃぅわ!?」

「……大丈夫か?」

「う、うん」

 まさか今彼に話しかけられると思わなかったため、随分情けなくみっともない声を上げてしまった。再び上がった心拍数を何とか鎮めようと、一つ深呼吸をした。

「……どうしたの?」

「あぁ、ここに替えの服を置いておくと言いに来た。これを着させるのは非常に申し訳ないが我慢して欲しい」

「う、うん……?」

「あと、そこにあるシャンプーとかは適当に使ってくれて構わない」

「いいの?」

「どうせなら体を流していけ、暫くは動けなさそうだ」

 そう言って銀士郎君はその場を去っていった。律儀と言うか、そこまで気を遣わなくてもいいのにと思う。不慮の原因で貸してもらって、ここまで厚遇してもらうのは彼の生活を考えると申し訳ない気持ちになるが、きっと遠慮をすればそれ以上に彼に失礼になる。ここは素直に甘えるとしよう。

 私は浴室用の椅子に座り、まずは髪を洗うことにした。






 おおよそ十分かからない程だろうか。体を洗い終えた私は浴室から出て、洗面所のマットの上で体を拭いていた。一日に二枚もバスタオルを使わせてしまったので、今度新しいタオルでもプレゼントしようかと考える。どうせなら、彼に色々と物を贈ってあげたい。彼のためなら何を贈るのか考えるのも、それを買うことも、買いに赴く労力も気にならない。彼が喜ぶ姿が見られるのならそれで――――。

(…………引かれるかな)

 どうにも今日後輩から言われた一言である『重い』と言う言葉がちらついた。自分ではそんなつもりはないのだが、不明瞭な不安からなのか、私は銀士郎君に対して愛の重いことをしているらしい。あの言葉を言われた時の三毛さんの顔からして、結構なものなのかもしれないと思うと、いよいよもって不味いのかなと感じた。

(そう言えば、生徒会に初めて銀士郎君が来た時、結乃に言われた言葉もびっくりしたな……)

 あの日、私が銀士郎君に対しての発言をしたときに放った言葉。自分の側に彼を置き、釘を刺して不安を無くそうとしている――――結乃はそう言った。

 それに対して、私は『否』と答える。嘘偽りなく。

 確かに彼を自分の手元に置き監視下に置きやすい状況を作り、尚且つ釘を刺すことは効果的だと思えるだろう。しかし、彼の体質と言えばよいか、異性からの異様な好意の持たれ方をされやすいことを考えれば、寧ろ常に壁を作り人との関わりを避けている通常時の方がメリットは大きいと思う。女所帯の所に彼が来るのは、それだけでリスキーなのだ。それをわかった上で彼を生徒会に招き、他の皆にああ言ったのは、彼の事情を汲んでの事でもあるが、何より彼にもっと人並みの幸せを享受して欲しかったから。

 たった一人の家族のためとはいえ、決して戻る事の無い学生生活を味気のないままに終わらせてしまうのは、私が見逃せなかった。彼が心の底から笑って、幸せになってもらうことが私の夢なのだ。だから、私が彼から拒絶されない限り私は彼の側に立ち、愛情を貰う事の無かった彼に愛をもたらす。その為ならどんな手段も使うし、必要なら他の人の力も借りる。それが私――――承和雪乃から我妻銀士郎への感情だ。勿論まずは、彼から愛してもらいたいが。

「ん……湯冷めしちゃうな」

 考え事をしていた時間はそこまで長くはなかったが、雨の降る夜は思いの外肌寒さを感じる。素早く体を拭き終わり、置かれていた着替えに手を伸ば――――。

「え」

 視線の先、簡素な棚の上に置かれていた衣服は、飾り気も何も無いグレーのスウェット。手に持って広げて見れば、自分の体が上1つですっぽり隠れてしまいそうなサイズだった。そんなサイズの衣服、彼の家で着る人間は一人しかいない。しかも卸したてと言う感じではないその様子から、十中八九『彼』の普段使いの寝間着だと思う。

 体が熱を持つのを感じた。思考が停止し、手に持ったスウェットをただ凝視して固まってしまう。彼の、普段から使う服。洗ってあるとはいえ、これに包まれると言うことは彼に抱きしめられていることも同義ではないか?そう考え、それ以上想いを馳せてしまえば二度とこの服を着ることができなくなると私は直感的に感じ、慌てて袖を通した。やはりと言うか、体のサイズが一目瞭然で違うのもあり袖も丈も余ってしまう。下も腰回りが明らかに大きいので、紐で結んでもずり落ちそうになってしまう。なにより、下はまだしも上の下着が濡れていて着られる様子でなかったので、その、胸元がとてもスースーすると言えばよいか。今からこの格好で彼の前に出るのが少しだけ恥ずかしくなってきてしまった。

 纏まらない頭のまま、袖で顔を覆おうとした瞬間、彼の芳香が鼻腔を擽ってくる。

「…………はぁ」

 やはり自分は愛の重い変態なのかもしれない。その香りを感じた瞬間、脳がトリップしているかのようにふわふわとしてきた。これ以上は駄目だとわかっているのに、止められない。

 しかし、結局は彼本人ではない。これは彼が纏うものであって、彼ではない。今その彼は、ここを出た部屋にいる。

 足は自然と動き、軋む扉を開く。薄暗いキッチンを抜け、明かりの漏れる部屋に行くと、制服からラフな部屋着に着替え、壁に背を預けながら本を読んでいる彼の姿があった。

「おう、あがったか。服は今から洗――――」

 顔を上げずにそう言う彼に――――『銀君』に、私は覆いかぶさるように背後の窓枠に手をかけ目の前に立つ。不意にかかる影に驚いたのか、銀君が驚いたように顔を上げる。その顔がとても可愛く見えて、多分私にしかまだ見せてないだろうと思うと優越感にも浸れて、口角が上がる。

「……なんだ」

「…………あは、やっと真っ直ぐこっち見てくれた。いつも私をしっかり見てくれないから」

「……別にいいだろ、それくらい」

「ダメ」

「どうしたんだ今日は、やっぱりアイツらに中てられたか?」

「かもね、うん。ちょっと今日はやばいかも」

「なにを――――」

 彼が何か言い終わる前に私は彼にしなだれかかった。本を持つ手を退けて、太腿の上あたりに乗る。大きく厚い胸板に手を当てると、じんわりとした温かさが少し冷えた自分の体に伝ってくる。更に姿勢を彼に預け、肩の上に腕を回し首にまで行かすと、体が完全に密着する様になっていた。

「…………おい」

「なぁに?」

 半眼になりこちらを訝しげな眼で見てくる銀君を見て、やはりあまり効果がないかと思い彼の心臓の音に集中すると、肌越しに感じる彼の心音は、少しだけ速くなっていた。知識は無くとも、本能的、身体的にはちゃんと反応してくれていることに安堵する。

「ね……女の子がこういうことするのって、普通ないんだよ?」

「ならするな」

「何でしてるのかを考えてよ」

「…………意識的に除外しているんだ」

「……ふぅん」

「何する気だ」

「銀君」

「…………」

「保健体育はやってるよね?」

「授業としてな、それがどうした」

「人間の生殖って内容もやったよね?」

「あぁ、それがどうした」

「私、銀君とそういうことしたいなって」

「お前……今自分が何言ってるのかわかってるのか……?」

「わかってるよ、でもさ……」

 彼の心拍がまたほんの少しだけ速くなる。うん、そういう初歩的な事はわかるんだね。三大欲求の内の性が皆無な訳ではないのは今までの付き合いの中でわかっていたが、こうして実感として感じることができたのは大きい。彼は一般的な高校生の恋愛的知識が乏しいだけで、教えていけば普通になると言う証左でもある。女子がどういう行動を使ってアプローチをするのかとか、男子がどうやって女子の気を引き好感度を上げるのかとか、どういう行動が恋人と見られるのかとか。そういうことを知らないだけ。

「銀君は、私とそういうこと……したくない?」

「……したいかしたくないかの問題じゃない、俺はお前のその感情には応えられないと言っただろう」

「『今は』って言ってたよね」

「…………」

「少なくとも断られた訳ではないって考えてるけど、どう?」

「……やめてくれ、あの女と俺がどこまで行っても繋がっているのはわかってるんだ。下劣で卑怯で、正義だなんだと皮を被っていても結局は俺はそういう人間なんだ」

「知ってるよ、でも私は好き」

「…………どうかしてる」

「自分でもそう思う、それでも尚そう思わせる銀君は凄いと思うよ」

「皮肉か?」

「本音だよ」

 項垂れ、普段では想像もつかない様な力の無い顔の銀君に、私は何故か興奮していた。彼が絶対に人前では晒そうとしない本心。汚濁していると必死に隠し目を逸らしている根源的な彼の人間性。それを私にだけ見せてくれている。

「ねぇ」

「なんだ……言っておくが何もするつもりは――――」

「銀君は、今の生徒会の子たちの事をどう思ってる?」

「……いい奴らだと思う。俺のような人間を受け入れてくれている時点でそれは確実だ」

「そっか」

「それがどうした」

「きっと銀君、これから苦労するよ」

「――――は?」

「私はこれ以上何も言わないけど、きっと銀君は高校生の間に踏破するべき問題と飲み込むべき事実がある。私はその時になったら銀君を全力で助けるから」

「雪乃」

「私は銀君に幸せになってほしい。それに私が傍に居られるのならもっと嬉しい。だから銀君、逃げないでね」

「……逃げるのは性に合わない、何を言ってるのかわからないが、その問題とやらが来た時は、まぁ、頑張るとする」

「うん、それでいいよ。取り敢えず銀君はこれから私といろいろ勉強していこうね」

「何を勉強するんだ、と言うかいつもしている」

「恋愛について」

「………………………ことわ」

「知らないと避けることもできないよね? 無知のまま気が付いたら大惨事とか」

「…………善処する」

「絶対しないねその反応」

 溜息を吐く。昂っていた心はほんの少しだけ、今の会話で落ち着いた。でも相変わらず密着した状態なので、私の方がドキドキしている。

「そういえばさ」

「…………今度はなんだ」

「今日泊ってもいい?」

「は?」

「こんな雨だし、明日は休みだし。迎えに来てもらうのも悪いからさ」

「こんな夜に男の家に上がって泊まるとか不用心だろ」

「なぁに? 何かやましいことでもする気?私はいいけど」

「…………」

「もー、怒らないで。家の皆に迷惑かかっちゃうのは本当だし、服もすぐには乾かないでしょ? だから、ね」

「はぁ……連絡はしっかりしておけよ。許可が出なかったら帰らせるからな」

「やったー、ちょっと電話してくるね」

「おう」

 よし、普段なら絶対許してくれない泊りの許可が出た。私の両親は銀君に全幅の信頼を置いているので問題ないだろう。自然と笑みが零れる顔をそのままに、私は玄関付近でスマホを取り出した。






「……なんなんだ今日は」

 俺は凭れかかっていた壁に体重を全て預け、大きく息を吐く。

 今日の雪乃はどこかおかしい、ここ最近は大人しかったから余計に今日の行動が際立つと言えばよいか。熱に浮かされた様な欲望の塊にも見えた瞳で射抜かれた時、不覚にも畏怖と魅了の両方の感情が隣り合っていた。

 そもそも、俺は別に――――あれだ、人間の欲求が一切ない訳ではない。ただそれを感じ取るアンテナが他よりも極端に少ないだけで、先程の様にあまりにも直接的で露骨な異性としての感情を言語化され、行動にも移されれば心拍数は上がる。俺を知る人間はそれすらない機械人間かと思っているのかもしれないが、俺はちゃんと人間だ。そういうことを言ってる時点で普通ではないのだろうが、それはこの際無視する。

「それにしても……」

 雪乃は言っていた。『踏破すべき問題と飲み込むべき事実』と。それが何かは詳しくはわからないが、しかし雪乃の発言の全部を考えれば、恐らくはそう言うことなのだろう。

 俺が避け続けていたその問題に、もしかしたらそれは既に始まっているのかもしれないが、俺にはわからない。しかし、雪乃の言う様に俺はそれに向き合うべきであり、そも雪乃との関係にも答えを導き出さなければならないのかもしれない。

 まぁ、肝心の解法が俺にはわからないし、実際の問題は何処まで大きいのかもわからないが。

「気が重いな……」

「なにが?」

 小さく呟いた言葉に、電話を終えたと思しき雪乃が反応してきた。

「前途の難の多さに頭を抱えていた」

「ふふっ……私がついてるよ」

「お前もその難の一つだがな」

「ひどーい」

 頬を膨らます雪乃の顔を見て、つい笑ってしまう。この週末は眞銀が居ない。たまには少し気を抜いて過ごすのもありかもしれない。

 傍に置いていた本にしおりを挟み、沸かしていたお湯で緑茶を淹れながら俺と雪乃は談笑を続けた。

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