第十二回 訪問者

 寮対抗戦が終わり、ふたたび穏やかな日常が戻ってきた。このところ慌ただしい日々が続いたせいで、久しぶりに落ち着いた気分で迎える休日だった。わたしの体調もこのところよく、いつもの頭痛も滅多に起こらない。やはりこの学園での、エルフィン寮でのくらしがことのほかわたしには合っているのだろう。朝から部屋の掃除をしていると、窓の外にそれは見事な庭が広がっていることにあらためて気づかされた。そうしたらもう居ても立ってもいられなくなって、食事のあとで庭をひとり散歩しようと決めたのだった。

 わたしは普段着で庭に出た。庭の中につけられた小径に沿って植えられた色とりどりの花々が、今を盛りと咲き誇る。植物たちも燦々と当たる陽ざしに嬉しげだ。小径は、わざと蛇行してつくられている。歩いてゆけば、植物たちの織りなす風景が少しずつ変わるようにきちんと意図して植えられている。だから飽きることがない。こんなに素敵な庭なのに、ろくに鑑賞する人がいないのは心から残念だと思う。それを言うと朝乃さんは、だから良いんじゃないの、という。その意味はわたしにはよく理解できない。

 眼下には一筋の道が見える。エルフィン寮と学園をつなぐただ一つの道である。学園からエルフィン寮に向かうには、校舎の裏手から続くこの道を数十分ほどかけて徒歩で登る必要がある。舗装もされていないその道は、途中、背の高い雑木林が両端から覆い被さるように緑のトンネルを作っている。登った先に、こつぜんと雑木林がひらけて、美しい英国風の風景があらわれるのだ。はじめてここへ来た者はこの風景の見事さに驚くと共に、不思議な通路を抜けてどこかの異国へ迷い込んだかのように感じることだろう。

 その道を、その滅多にやってこない客人が登って来るのが見えた。

 やって来たのは、二人の紳士だった。

「やあ、こんにちは」

 と山高帽を持ち上げて流麗な仕草で挨拶されたのは、わたしもよく知っている方だった。

「学園長先生。いらっしゃいませ」

 わたしはお辞儀した。

「千代璃さん、どうしたんです? お一人でこんな所で」

 先生が不思議そうな顔をする。

「あまりにお庭が綺麗だったものですから、ちょっとお散歩を……」

「なるほど」

 学園長先生は納得したように、にっこりと微笑んだ。

「そうですね。話には聞いていたが、本当に見事な庭だ……」

 振り返りつつ庭を一望して、そう漏らしたのはもう一人の紳士だった。そこでわたしがその人に目をやると、紳士も帽子を取って「こんにちは」とお辞儀をした。

 品の良い紳士だなあと感じたが、この学園の教師ではないようだ。

 学園長先生はその紳士に向かって、

「ご子息と同じクラスの千代璃奏さんです」

 わたしをそう紹介した。

「はじめまして。千代璃奏と申します」

「はじめまして。私は相馬直之なおゆきと言います。こちらでお世話になっている相馬累の父親です」

「まあ、累くんのお父様……」

「ええ」

 累くんくらいの年齢の子がいるようには思えないくらい若く見える。エルフである学園長先生と並び立っても遜色ないほど立派な紳士で、お召物も物腰も一流という雰囲気が漂っている。

 そういえば以前、学園長先生と累くんのお父様は旧知の間柄だと先生自身から聞いたことがある。あれはシュワルラリカがはじめてエルフィン寮にやって来て、皆で先生のところへ挨拶に行ったときのことだった。先生は確か、累くんのお父様と一緒に東北に旅行したことがあるとおっしゃっていた。

 累くんのお父様は、きっと累くんのところに用があって来たのだろうけれど。

「あの……累くんは……今日は有福町のお友達のところに遊びに行っています」

 累くんは津田帝くんと仲が良い。朝、食事の時に有福町の津田くんのところへ遊びに行くと言って寮を出たのだった。津田くんはわたしや累くんと同じクラスの男の子だ。一見累くんとは合いそうにないタイプなのだが、最近ふたりは仲がよくなって、休日になると累くんのほうから訪ねていくような間柄になっている。

「なんと……」

 紳士は意外そうに驚いた。

「これは、当てが外れましたな!」

 学園長先生がからからと笑った。

「いや嬉しい誤算です。そうですか、彼が友人と……」


「まあ学園長先生、お珍しいこと」

 向こうから朝乃さんが現れた。朝乃さんはいつもの庭仕事の格好をしていた。お二人がやって来たことに気づいて、急ぎ足で近づいてきた。

「やあ朝乃さん、ごきげんよう」

 累くんのお父様はわたしにしたときと同じように帽子を取って挨拶した。

「わかりませんか? 相馬直之です。以前、学園内で何度かお目にかかったことがあります」

「もちろん、覚えていますとも。ご立派になられて……」

 後で聞いた話だが、累くんのお父様も柏葉学園の出身だそうだ。学園創立当初からこの学園に在籍していた朝乃さんとも何度か顔を合わせたことがあるようだ。

「息子の累が大変お世話になっています。たったいまこちらの千代璃さんから伺ったのですが、彼は出かけているそうで」

「あらかじめご連絡いただければ、累さんに伝えておきましたのに……」

「いや、ちょっとした悪戯心でしてね。急に訪ねて来て、驚かせてやろうかと」

「まあまあ」

「だからとくに用などないのです。上手くやっているかなと思っただけなので」

「さあさ、お疲れになったでしょう。中でお休み下さい」

 朝乃さんはふたりを応接室にいざなった。行く途中、学園長先生がわたしにいろいろと質問されるので、辞去するタイミングを失って、成り行きで一行について来てしまった。

 お二人が応接室の椅子に落ち着くと、

「ただいま冷たいお茶をお持ちしますわ」

 朝乃さんがそう切り出したので、

「ではわたしはこれで」

 と戸口で失礼しようとした。

「あ、待ってください」

 累くんのお父様がすかさずわたしを呼び止めた。

「厚かましくて申し訳ないのですが、せっかく来たのですから、もしお時間があればばもう少し、息子の様子など聞かせていただけませんか?」

「あ……はい……かまいませんけど」

 今日は暇だし、とくに断る理由もない。

「それでは奏さんの分も、お茶を淹れましょう」

「ありがとうございます」

 そして朝乃さんがわたしの分のお茶も淹れてくれた。わたしは思いがけず、寮の応接室で累くんのお父様と一緒にお茶を飲みながら話しをすることになってしまった。

 累くんのお父様は、いわゆるわたしたちとは違う、普通の人だそうだ。しかし累くんが特別であることはよくご承知のようだった。ここで生活していると、みな普通に思えて、どこに境目があるのかわからなくなってきているわたしだった。

「累は、こちらではどんな様子ですか?」

 そう聞かれるので、わたしの知っている限りで、色々なことを話してさしあげた。累くんのクラスでの様子や、ロロ先輩や角くんたちと、このエルフィン寮で楽しそうに過ごしている様子、クラスでは津田くんという友達を得たことなど。

「どうしてあの二人は馬が合うのかわからないけれど、それでも充実して過ごしているようです」

 ひとしきり話をしたのち、累くんのお父様は満足された様子で立ち上がった。

「お会いにならなくてよろしいのですか?」

 朝乃さんが訊くと、

「いやあ。友人とのひと時は楽しいものです。そうすぐに帰っては来ないでしょう。私も所用がありますし、そろそろ東京へ戻らなくては。こんなに息子の様子が聞けて、満足です。彼に、しっかりやりなさいと伝えておいてください。千代璃さんも本当にありがとう」

 そう言い残して、紳士たちは去っていった。

 相馬直之氏はたまたまふらりと立ち寄ったふうを装っていたけれど、わたしに言わせればこんなに山深く、何もない場所へは、わざわざ時間を作らねば来られるものではない。累くんのことが心配で様子を見に来たのだという事は明らかだった。


 津田くんのところから累くんが帰寮した。

 たまたまわたしがそこへ通りかかると、朝乃さんがやってきて、

「あら累さんお帰りなさい。さきほどお父様がここに参られましたよ」

 そう伝えると、累くんは意外そうな顔をして、

「えっ、父が?」

 と大袈裟に驚いた。

「あなたが出かけていたので帰られましたが」

「そう……ですか」

 わたしにはその反応が何だかとても気になって、ふと立ち止まる。

 累くんが呟いた。

「ここまで来て会わずに帰ったのか……」

「累くん?」

「どうかしましたか?」

 朝乃さんが尋ねると、累くんは彼らしからぬ皮肉っぽい表情になって、

「檻の様子を観察しに来たんだな」

 放ったのは不穏な一言だった。

「累くん……」

 ふう、と累くんは大きくため息をついた。

「父は僕を疎んでいるんだ」

 信じられなかった。わたしには昼間の紳士が累くんのことを疎んでいるようにはとても見えなかったが。

「わたしお父様と少しお話をさせていただいたのだけど、累くんのことをとても心配していらしたわ」

 何か言わなくてはと、尤もらしい言葉をつい口走ってしまったのがいけなかった。

「心配? 心配だろうさ。僕がまた何かしでかすんじゃないだろうかってね」

 すると朝乃さんが累くんを窘めた。

「累さん。何があったのかは知りませんが、奏さんに当たるのは良くないですよ」

 累くんはハッとして「ごめん……」と殊勝な態度に戻った。

 その様子から、累くんと彼のお父様との間には何か複雑な事情があることをわたしは理解したのだった。

 累くんはそれまでとうって変わり、萎れたように小さくなってしまった。

「以前から僕、父とはちょっとそりが合わなくて……ついカッとなって……本当にごめん」

「わたしも少し出過ぎたことを言ってしまったわ。ごめんなさい」

 それでこの話は終わると思って立ち去ろうとしたところ、累くんが続けた。

「僕には良くないものが憑いている。父は昔からそれに気づいていたんだ。母が死んだのだって、きっと僕のせいだと思ってる」

「そんな……」

「だってそれからなんだ。父が僕によそよそしくなったのは。それからずっと、腫れものに触るみたいに僕に接してきた。だから僕をこの学園に入れて、遠ざけた……自分のまわりで面倒事が起きるのは嫌なんだ、あの人は……」

「そんなことはありませんよ」

 朝乃さんが反論する。

「わたしもそんなふうにはとても思えないけれど……」

「父は自分の会社のこと以外はどうでもいいんです。部屋に、戻ります……」

 そう言い捨てて、累くんは走り去ってしまった。


 後にロロ先輩から聞いた話だが、累くんのお父様は東京の有名な企業の経営者だそうだ。お金持ちで、東京の一等地にある、広いお屋敷に住んでいるのだという。当然ながら累くんもその家で暮らしていたのだろうから、とつぜんこんな山奥にある学園の古びた寮で生活させられることになって、面白くないという気持ちはあるだろう。しかしそれよりも、その生活すべてが父親に疎まれた結果だと累くんが信じていることが問題だった。そしてここのことを『檻』だと表現した彼が、心の底では今の生活を嫌っているのではないかということが、わたしにとってはとても哀しいことに思えたのだった。


 翌日の日曜日、シュワルラリカがわたしの部屋を訪ねてきた。いつものように一緒に勉強をしていると、彼女が顔を上げて、

「奏、歓談スペースに行きましょう」

 といきなり立ち上がった。

 玄関前の歓談スペースは、寮の皆がよく利用している場所で、いつも誰かしらがボードゲームをしたり、本を読んでいたりするのだが、今日はたまたま誰もいなかった。わたしとシュワルラリカは、ここで勉強道具を広げることになった。

「どうしてわざわざ?」

「ふふふん」

 シュワルラリカは勿体ぶって答えようとしない。

 ちょうどそこへ寮の玄関口が開いた。ドアの鈴がカラカラと鳴った。昨日に続いてまたお客様がやってきた。

 今日のお客様はなんとメルヴィオレ侯爵だった。

「やあ、これは千代璃さん!」

 侯爵はわたしを見るなり相好を崩した。ここは何をおいてもまずシュワルラリカとメルヴィオレ侯爵が挨拶を交わすべきなのではないかと、キョトンとしてシュワルラリカを見れば、彼女はわたしには素知らぬ顔で侯爵に会釈した。

 侯爵はわたしたちのところへスルスルとやって来て、空いている場所にストンと腰を下ろした。

「あの……」

 スーツをきっちりと着込んでいながら、汗ひとつかいていない。

 侯爵はニコニコしながらわたしを見て、

「お邪魔でしたか?」

 などという。わたしはけんめいに首を横に振った。

 そこへ朝乃さんが廊下をバタバタと小走りにやってきて、

「いったいどうしたことでしょう、二日も続けてお客様だなんて。わざわざこんなところにお座りにならなくても……どうぞ応接室へ」

「いやいや、ここで結構」

 と、ご機嫌な様子で歓談スペースの椅子に腰を落ち着けてしまった。

「気持ちのいい場所ですね。なんだか学生時代を思い出します」

 意外なことに、侯爵にも学生時代というものがあったようである。

「シュワルラリカ、侯爵さまが来るって解っていたのね?」

「ふふ……」

「オリエンテーリング大会、お疲れさまでした。お見事でしたよ」

 侯爵がわたしに向かっていう。

「あ、ありがとうございます」

 やはりメルヴィオレ侯爵は優しい。この包まれるような柔らかさは、学園長先生の懐の広さとも少し違う感じがする。このように慈愛に満ちあふれた人は他にいない。エルフとしては由緒ある身分の高貴な方なのだろうけれど、少しも気取っていないし、わたしのような者にも分け隔てがない。

 仕方なく朝乃さんがこちらに飲み物を運んできて、四人でしばし歓談をした。

「それで今日は、どういったご用件でいらしたのでしょう?」

 メルヴィオレ侯爵が一向に訪問の目的を話さないので、とうとう朝乃さんが痺れを切らしたのだ。

「ああ実は……」

 侯爵が口を開こうとした時だった。

「おや?」

 彼が何かに気づいて目を向ける。

「どうかしまして?」と朝乃さん。

「階上が、騒がしいですね」

 耳を澄まして聞くが、わたしには何も聞こえない。エルフは感覚器官が人よりも段違いに優れている。この場にいる四人のうちわたし以外はすべてエルフだ。しかしながら、朝乃さんもシュワルラリカも黙って耳をすますだけ。何も聞こえてはいないようだ。

「失礼」

 メルヴィオレ侯爵は立ち上がって二階へと歩みを進めた。

 皆で後ろからついていく。

 侯爵はワーズワースの部屋、すなわちわたしの部屋の外で立ち止まった。

「この部屋は?」

「わたしの部屋です」

「何か特別なものがありますか?」

「心当たりはありませんが、よろしければどうぞ……」

 ドアノブに手をかけると、

「はは、まさか! レディの部屋に立ち入るなど、とんでもない!」

 メルヴィオレ侯爵は廊下側の壁を撫でるようにして、

「ふむ、こちらの壁の右端あたりから何か……」

 と首を傾げる。

「なにか……良くないものでしょうか?」

 おそるおそる聞いてみる。

「いえ、そういう類いのものではないようです。珍しい、大変貴重なものです。誰かにとってとても大切な……」

「この向こう辺りには本棚があります」

「しっ……音が……しますね」

 わたしは廊下側の壁に耳をつけて耳を欹てようとするが、それより先にシュワルラリカが、

「何もしませんが?」

 とぶっきらぼうに返す。

「そうですか?」

 そこで侯爵が壁に向かって手をかざすと、たしかに音がする。

 鼓笛隊のような音だった。

「もしかして……」

 わたしは部屋に入って、それを持ってきた。

 先日クレマチスの花壇で拾った缶詰を。


 歓談スペースに戻って、わたしはこれを拾ったときのことを侯爵に話した。クレマチスの精に話しかけられて、花壇の片隅に誰かが落としていったのを託された経緯を。そしてこのことを朝乃さんに相談し、彼女を通じて寮母会で見てもらったところ、カメリア寮の椿さんにわたしが保管しておくべきだと言われたことなど。

「なるほど」

 わたしの話しを聞いてメルヴィオレ侯爵は何かに思い当たったような顔をする。


「これが、僕に関係あるって?」

 累くんの目の前に置かれた缶詰をあらためて見つめた。わたしたちはふたたび歓談スペースに戻って、そしてわたしが累くんに声をかけた。累くんは部屋にいて、わたしの呼び出しに応じてくれた。

「メルヴィオレ侯爵がそうおっしゃるのです」と朝乃さん。

 侯爵は黙って頷いた。

「これ、前にも見せてもらったよね」

 わたしは頷く。

「心当たりが全くないのですが」

「開けてみたら?」

「いいのかな」

 と累くんはわたしを見る。

 メルヴィオレ侯爵も黙って頷いた。

 朝乃さんが調理場から持ってきた缶切りを渡す。

 それを受け取って、缶に刃を入れる前に、もう一度累くんが不安そうにメルヴィオレ侯爵を見た。

「これは君にしか開けることができません」

 侯爵が大丈夫だとばかりに片手を開いて促すと、累くんは決意して缶切りを持つ手に力を込めた。

 さくり、と刃が缶に入って、中から漏れてきたのは物体ではなく、光のつぶだった。累くんが缶を開け終わり、蓋を起こした。すると中から一斉に溢れた光のつぶが流れとなり、歓談スペースのテーブルの上に直径三十センチメートルほどの球状を形作った。

「中に何か見えますか?」

 侯爵の問いかけに累くんが頷く。

「何か、昔のビデオを見ているみたいだ。誰かが映っています……」

 侯爵はそこでいったん右手を出して制し、確認する。

「ひょっとすると、これから映し出されるのは君の過去に起きたことがらである可能性が高い。もし我々に見せたくなければ、一人で見てもいいですよ?」

「かまいません。こんなものを一人で見ることのほうが怖いです」

 侯爵は微笑んで「では続きを」と促した。

 映像はわたしたちにも見てとれた。一人の男の人が、まだ幼い子供の手を引いている。

「父さんだ……とても若いけど」

「この子は累くんね?」

 累くんはわたしを見て「たぶん幼稚園のころかな」という。

「この部屋……」

 男の子が手を引かれて室内のドアをくぐる。その部屋がどこなのかはわたしにも判った。

「ここは学園長室だわ」

 学園長室には、つい先日も寮対抗戦のあとで入ったばかりだ。間違いない。

「こんなに小さな頃にも学園に来ていたなんて……まったく記憶にないな」


 映し出された像の中で「先生」と累くんのお父様――相馬直之氏がオブライエン学園長を呼ぶ。そういえば昨日エルフィン寮の応接室で知ったのだが、累くんのお父様はこの学園の卒業生で、一般生徒として有福町の星雲寮に在籍していたのだそうだ。当時から学園長をしていた先生とは師弟関係ということになる。累くんもそのことを知っているのかどうか、その表情からはわからなかった。映像の直之氏はとても若いが、学園長先生の容姿は今と全く変わらない。


「秘儀の結果、怖れていたことが、判明しました……」

 先生の言葉に、わたしはドキリとした。

 累くんも、食い入るように見つめている。

「ご子息の素性は、やはりよろしくないもの、と言わざるをえません……」

「そうですか……」

 相馬直之氏は深刻な表情でその言葉を受け止めた。

 先生は直之氏の肩に手を置き、凛とした声で言った。

「相馬君、まだ悲観することはありません。こういうことには得てして対処法もあるものです。もっと詳しく、彼の命運を知る必要がある。『東北』の託宣を受けましょう。私も同行します」


 映像の場面が転換した。

 二人の男性が寒風吹きすさぶ荒れ地のような場所を歩いていた。ごつごつとした大きな岩がたくさんある河原のような山のような道なき場所を、コートの襟をしっかりと握りながら、時に風に負けてよろめきながらも歩を進める。

「頑張ってください。目的地まではもう少しですよ」

 先生は相馬直之氏を励ました。


 次の場面は、薄暗い部屋の中だった。

 祭壇の前に畏まる二人の紳士の後ろ姿が映し出される。さらにその前方、二人と祭壇の間には、小柄な白装束の人が座して祈りを捧げている。

 やがて白装束の人物が祈りを終えて紳士に向き直る。

 意外にもその姿はまだ年端もいかぬ、おさげ髪の少女だった。

 少女はゆっくりと告げた。

「託宣が下りました」

「おお……」と相馬直之氏が呻くような声を漏らす。

「彼を人界におくといずれ魔王となりましょう」

 少女は見た目にそぐわない厳しい声で直裁的に言った。

「やはり……そうでしたか……」

 直之氏は言葉を失って頭を垂れた。

「彼は人界に巣くうよくないもの『魔識』を貯め込む体質を持っておられる。お父様、あなたの手許に置くのは十五歳までが限りと心得てください」

「十五歳……」

「それを限りに、あなたは彼を手放さなくてはなりません」

 直之氏に言葉は無かった。こみ上げる感情を懸命に押し殺そうとして、全身をきつく強ばらせ、矯めた。

 少女も、傍らに座るオブライエン学園長も一言も発さず、静寂が部屋を包んだ。

 ややあってから、それを破るように白装束の少女が口を開く。

「それにしても、『累』とはよくも名付けたもの……」

 直之氏は重々しく口を開いた。

「それは……亡き妻があの子を見て咄嗟に閃いたのだそうです。私はあまり良くない名だと反対したのですが、その名でないと駄目だと、妻は私の反対を押し切りました」

「いえ、むしろ良かったと申しております。累という字がけっして名として使われないわけではありません。名とは、ものの本質を表すと同時に、そのものの代わりとなって厄を受けることもあるのです。お察しするに、お母さまもそのことを理解した上で名付けられたように思われます」

「たしかに、妻には不思議に思わされることがしばしばありました……」

 すると白装束の少女は凜とした声で、

「よろしいか」

 その言葉に、直之氏も居ずまいを正した。

「彼をご自分の手許に置くのは十五まで」

「その後はいったい……どうすれば……」

 直之氏の表情が何かを悟ったかのように、みるみる蒼白になってゆく。

「まさか……」

 すると白装束の少女は首をゆっくりと横に振ると、俄に微笑んだ。

「早とちりしてはいけません。適切な対処をすれば大丈夫です」

「と、おっしゃいますと……」

 直之氏が固唾をのんで少女の次の答えを待つ。

「十五歳と十六歳の境において、彼をそれまでと全く違う環境に置くのです。そして最も大事なのは、どういった環境に置くかということ」

「それは……?」

 少女は意外な言葉を口にした。

「妖精王……」

「妖精……王?」

「妖精王か、もしくはその血筋に繋がる者の傍近くで暮らすことで、彼の命運は変わる。その人の傍らにいれば一切の心配はない。ただ問題が二つ……いや、三つほど……」

「問題……とは……」

「ひとつは、妖精王が彼を傍に置くことを受諾するかということ。ふたつめは、彼がそれに従順に応じるかということ、そしてみっつめは……彼が妖精王の許に身を預けることになれば、おそらく生涯あなたとまみえることは叶わないことです」

「ああ……」

 直之氏はその場に蹲り、落胆の色を隠せなかった。生きながら、我が子と一生会えない、その過酷な選択を迫られることの辛さは想像するに余りある。

「いや……」

 先ほどから黙っていたオブライエン学園長が居ても立ってもいられないようすで、直之氏の両肩を掴んだ。

「先生?」

「ある。すべてが問題なく、うまくいくやり方が」

 直之氏の顔に希望の色が射した。

「先生、それは?」

「相馬君、まさにこれは神の思し召しです。やはり来て良かった! そういうことならば、何も問題はありません! すべて私に任せておきなさい!」

「せ、先生……?」

 直之氏は高揚するオブライエン学園長に戸惑いを隠せない。

 白装束の少女はそしてオブライエン学園長にまなざしを向けた。

「心当たりが、あるのですね?」

「ありますとも」

 学園長の顔が安堵に満ちて晴れやかに輝いた。

「いいでしょう。ただし、くれぐれも時期を違えぬように。もしも逸した場合は最悪の事態を招くと心得なさい」


 再び映像が移り変わり、書斎と思われる部屋で苦悩する直之氏が映し出された。

 直之氏の容姿が現在の年格好に近いことから、時を経た最近の映像であることがわかる。

「人界に置いては魔王となる……」

 デスクに座ったまま、彼は頭を抱えて呟く。

 直之氏には託宣の巫女がかつて告げたその言葉が重く心にのしかかっているようだった。

 そこへ、電話が鳴った。

「はい……相馬ですが……ああ……オブライエン先生」

 覚悟を促す、学園長からの電話らしかった。

 二言三言、やりとりの後で直之氏は声を詰まらせた。

「しかし……どうかお願いです。もう少し、もう少しだけ待ってください。託宣の巫女は十五と十六の境に、と言いました。彼の誕生日、六月まで、なんとか……」

 受話器の向こうで学園長先生が何かを言ったらしい。その一言に反応して、再び繰り返すように、懇願するように、震える声で直之氏は語った。

「お願いです先生。できるだけ、ギリギリまで、なるべく私の手許に……もう少しまってください」


 そこで映像が終わった。

 累くんを見ると、彼は人前であることを気にもせずにポロポロと涙を流していた。

「僕は……父のことを誤解していたのかもしれない」

 映像の中で、累くんのお父様はつねに彼のことを心配していた。彼と離れることを少しでも引き延ばそうとしたのは、純粋な親の子に対する愛情ゆえだとわたしには思えた。父親が苦悩している姿を目のあたりにして、その心のうちがきっと累くんにも伝わったのだろう。

「累くんはお父様に心から愛されていたのね」

「父さん……」

 その場にいた全員、メルヴィオレ侯爵、朝乃さん、シュワルラリカ、そしてわたしはしばらく何も喋らずにじっとしていると、累くんが涙を拭って缶を取り上げた。

「この缶は、奏ちゃんがクレマチスの花壇で拾ったと言っていたよね?」

「うん……そうだけど。クレマチスの精は『あの子』が落とした、と言っていたわ。それは累くんのことだと思うけど」

「元々僕が持っていたということかな? 父がこれを僕に持たせたのかな?」

 わたしにはそれよりも累くんが悩むべき重大なことが他にあるのではないかと思ったのだが、意外にもその重大事について彼はあまり気にもとめていないふうだった。

「僕の父はふつうの人間なんですよね?」

 累くんはそれをメルヴィオレ侯爵に向かって尋ねたのだが、その答えを知っているのはきのう本人と会話をしたわたしと朝乃さんだった。だからわたしが代わりに答えた。

「わたしきのう、直接ご本人から聞いたわ。累くんのお父様は、普通の人間だ、って」

 累くんは相変わらず視点をメルヴィオレ侯爵に据えたまま、問いかけた。

「ただの人間にこんなものが作れるのでしょうか」

 累くんは例の缶を示した。累くんはお父様が自分と同じ人ならざる者なのではないかと考えたようだった。どうやらその証拠を探りたいという思いが先に立っているらしかった。

 メルヴィオレ侯爵もそれをわかった上で、答えた。

「これは物質ではありません。言うなれば『直之氏の思い』でしょう。伝えたい気持ちが高じると、こういうこともあるかもしれません。もっとも直之氏自身には、これらのことをあなたに伝えたいという明確な思いはないでしょうね。お父さんの無意識下にあった、君の知るべき真実が形をもって具現化したものでしょう。君はここに来たときからこれをいつも持っていた。しかし花壇のところで落としてしまったんですね。それを奏さんが拾ってくれたのです」

「そんなに大切なものを……」

 累くんはどうして落としてしまったのだろう。わたしが口を挟むと、メルヴィオレ侯爵は微笑んだ。

「持っていた、落とした、拾った、というのは物理的な意味合いではありません。これは物質ではないのだからね。落としたことにも、奏さんに拾われたことにも意味があるのですよ」

「意味?」

「いま私に言えるのはここまでです」と、侯爵は片目を瞑った。

 すると累くんが重ねて侯爵に問いかけた。

「血縁なのに親が人間で子が妖精の類いだなんてことがあるんでしょうか?」

 そうか。累くんは直之氏と自分が本当の血縁ではない可能性を疑っていたのだ。

「混血、ということはありえます」

「ではお母さまが?」

 気になってわたしが尋ねると、

「そうですね。さきほどの映像を見る限りではその可能性は高いと思いますよ。まあ、ご家庭の事情にあまり立ち入ることでも……」

「たしかに、そうでした」

 興味本位で咄嗟に質問してしまったことを、わたしは恥じた。

「累君。少なくともきみが幼いころ、この学園にいちどやって来たことは間違いないね。直之氏が君を連れてやって来たのは秘儀のためだったらしいが、もともと心当たりがあったからこそ、君を学園長の許へ連れて来たのだろう。直之氏は自分をただの人間だと言っているようだが、ふつうこの学園で学ぶ一般の生徒たちはこの学園がもつもう一つの面については知らずに卒業していく」

 累くんもその意見については侯爵と同じことを考えたようだった。

「父は最初から、人ではない者の存在も知っていたし、認めていた。おそらくは僕の母がそういう者だったことを知っていたからなのでしょう。もしかすると、母もこの学園に関係があったのかも……」


「ところで、妖精王の名がでてきましたが」

 わたしは視線を侯爵からシュワルラリカに移した。

「シュワルラリカに以前聞いたことがあったわね?」

 彼女はわたしの意図を察して、先回りするように答えた。

「ええ。クロムウェル陛下が今の妖精王よ」

 わたしは彼女から次期妖精王はメルヴィオレ侯爵と言われていることも聞いていた。

 ようするに、累くんが学園に来たのはおそらくそういうことなのだ。

「侯爵の傍にいれば累くんは大丈夫なのですね?」

 すると侯爵はキョトンとして、

「私が? 私は妖精王にはならない」

「ええっ? そ、そうなんですか? どうして?」

 見ればシュワルラリカも意外そうな顔をしている。

「どうしてと聞かれても困ってしまうがね。強いていうなら次の妖精王はもう決定されているからだよ」

「は?」

 わたしはてっきり、東北の巫女が告げたのは、累くんが次期妖精王候補のメルヴィオレ侯爵のもとで過ごすことにより魔王とならずにすむからここへ来たのだと理解したのだったが、それでは話しが少し違う。

 次の妖精王が決定されている?

 メルヴィオレ侯爵の他にいるということだろうか。

 わたしが再びシュワルラリカを見ると、彼女は自分が? とんでもない、という風に片手をぶんぶん振って否定した。

「次の妖精王、それは……」

「今はまだ秘中の秘だよ」

 メルヴィオレ侯爵は、口元で指を一本立てた。


 それでわたしは、ハッと気づいた。

 この学園の中に、それがいるのだ。

 累くんをこの学園に招いたのはオブライエン学園長である。

 だとしたら、学園長先生もその人が誰なのかを知っているということであろう。

 まさか――累くんと仲のよい津田くん?

 いや、ありえない、と否定した。

 彼はわたしたちを霊能者だと勘違いしている普通の人にすぎない。

 きっと侯爵や学園長先生は何もかも知っているのだろうけれど、たぶん今は、わたしがそれを知るべき時ではないのだ。

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柏葉学園エルフィン寮 相楽二裕 @saga2

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