第十一回 オリエンテーリング大会(四)

 結果からいうと、表競技についてわたしたちは角くんたちのチームに完敗だった。

 津田くんは「累のチームに負けた!」と、とても悔しがった。

 累、だなんて津田くんはいつのまに彼とそんなに親しい間柄になったのだろう?


 閉会式が終了したあとで、寮対抗戦の選手が学園長室に呼び出された。

忍野先輩、桜庭先輩、そして薬袋小柚子さんとわたしが緊張の面持ちで学園長室の扉をくぐると、「みなさん、お疲れさまでした」と学園長先生の穏やかな声がした。

 入室して驚いたのは、そこに待ち構えていたのが先生だけでなく、生徒会長の古部織耶さん、副会長の珂白悠記さん、そしてあのメルヴィオレ侯爵の姿もあったことだった。先生とメルヴィオレ侯は応接椅子に座り、他の者はおふたりを囲むようにして立っていた。中には初めて見る顔の生徒もいた。後で聞いたところによるとその二名は幽星寮とシャングリ=ラの寮代表の先輩だったらしい。

 わたしたちは彼らの集団と対峙するように、部屋の中央あたりに並んで立った。

「早く帰りたい……」

 体力のない忍野先輩はかなり疲れはてた様子で、今にも倒れてしまいそうだった。

 薬袋さんは疲れたそぶりなど微塵も見せず、後ろ手に組んで屹立し微動だにしない。

 桜庭先輩は存在感がある。何を考えているか判らない気味悪さがある。わたしが桜庭先輩に意識を向けているのを悟ったか、織耶さんが意味ありげな目線を送ってきた。

「それでは皆さん、疲れているでしょうから、さっそく寮対抗戦の審査に入りましょう」学園長先生が促した。

 審査とはどんなことをするのだろう。ちらりと目を上げると、メルヴィオレ侯爵の深い色の瞳がわたしに向けられていた。目が合うと優し気に微笑んでくれる。どこかで見た笑顔――そうか、あれは柳の丘の夢でみたあの人によく似ている気がする、とわたしは気づいてしまった。

 しかし――あれはただの夢にすぎない。

 あまりに切なくて素敵だった夢を、この優し気に微笑む人に重ねていただけかもしれない。


「まず桜庭君」

 さすがの桜庭先輩も学園長先生の射るような眼光に身をこわばらせ、「はい」とだけ短く返した。

「競技中に不適切な行為があったようだと報告を受けていますが、君、心当たりはありますか」

「はい、あります! 申し訳ありません!」

 気をつけの姿勢になって大声で謝罪するが、その態度に悪びれた雰囲気は微塵も宿っていない。

「謝罪すべき相手は私ではないですよ?」

「おっしゃる通りです!」と、桜庭先輩はくるりと踵を返して二歩ほど下がり、私たちに対して「申し訳ありませんでした!」と頭を下げ、形ばかりの謝罪をした。偏見かもしれないが、ただこの場を収めるためだけにそうしたかのように見えた。

「みなさんも、よろしいですか?」

 この場で言葉を荒げても仕方がない。学園長先生の問いかけにわたしは頷いた。

「では、この話についてはこれで終わりにしましょう。ですが、君の行いは事実として君の心にずっと残りつづけるものです。このことを忘れずに、折に触れて自省してください」

「はい、わかりました!」

 桜庭先輩は元の位置に戻って向き直る。

「では、みなさんの答えを伺いましょうか」織耶さんが片隅のテーブルを示した。「まず、コントロールは全部で四つありました。その四つのコントロールについて、それぞれ何が見えたか、そこの紙に回答を書いて、提出してください」

 小さな移動式の卓の上に、用紙と鉛筆が置いてあった。わたしたちはその卓の上で順番に回答を書き入れ、織耶さんに手渡した。全員が記入し提出し終え、再び元の位置に戻って整列する。わたしたちの回答用紙はみなに手送りされ、目が通された。

「ふむ」一通り見終わった学園長先生が頷いて、「最初のコントロールの回答はみなさん、アルファベットのHと書いていますね。全員の回答が一致しています。珍しいことだ」と感心する。「実はこの問題は私が設定したのですよ、結界も施して、それなりに凝ったつもりだったんですがねえ……」

 意外ですねえ、と訝しむ学園長先生の目とわたしの目が合った。わたしは首をすくめた。最初のコントロールではわたしがついうっかりみなに答えを教えてしまったのだ。まずいことをしただろうか。失格を言い渡されてしまうのだろうか。恐る恐る次の言葉を待った。

「まあよろしい。次」

 どうやらそれを問題にされる様子はなく、わたしはほっとして、胸を撫でおろした。

「第二コントロールですが、出題者は副会長の珂白さんでしたね」

「はい」悠記さんがうなづく。

「二番目は……忍野君がE、他はみなO……ですか」

 忍野先輩が早々に負けを悟ったかのように、駄目だったか、と若干オーバーアクションぎみに顔面を手のひらで覆った。

 審査はそのような調子で次々と進んでゆく。

「三番目……。忍野くん、君はLと答えたのだね?」

「はい……」と自信なさそうな返答だ。

「なぜかね?」とエルヴィオレ侯爵が口を開いた。穏やかだけれど良く通る声。

「正直僕にはわかりませんでした。絵のようなものしか見えなかった。でもあれは、そう、モナリザの絵だったように思います。なので、LisaのLです」

「なるほど」とエルヴィオレ候は他の選手を見渡して「他の皆さんは?」と聞く。

桜庭先輩が、「僕もLですよ。しかし忍野と違って明瞭に文字が見えましたけどね」と答える。

 メルヴィオレ侯爵は納得したかのように何度か大きく頷き、次に薬袋さんに視線を向ける。

「私には……Mという文字に読めました」と待ち構えていたように発言した。自信にあふれた態度だった。

「ほう」と感心したように候は「忍野君のように、絵画には見えなかった?」

「はい。最初は私も絵のように見えましたが……」

「途中で違うと思った?」

「はい」

「なるほどなるほど。そうですか。では最後に、千代璃さんは?」

 メルヴィオレ侯爵はわたしを見つめた。いきなり心臓が飛び上がった。

「わたしは……Pです!」しどろもどろにそう言うと、

「えっ!?」と薬袋さんがこちらを見た。

 メルヴィオレ侯爵もぴくりと片眉を吊り上げた。

「M……だよね?」信じられないという表情の薬袋さん。

 わたしは心臓の鼓動を押しとどめるように胸に手を当てて、

「いいえ。最初はわたしも薬袋さんと同じMに見えましたが、あれは違います。Pでした。自分を徹底的に疑ってかかれという寮の先輩のアドバイスを思い出したら、文字が変化したんです」

「LとMとPですか。三つに分かれましたね」と学園長先生。「実は、この問題を出題されたのはここにいらっしゃるメルヴィオレ侯爵です」

「……」

 わたしたちが言葉を失っていると、メルヴィオレ侯爵は相好を崩して、

「熟練のエルフでもちょっと判らないような細工をしたんですがね。これは私の術もとうとう焼きが回ったかもしれません」と愉快そうに笑った。

 ということは、この中に正解者がいるのだ。

「この競技で使われていたのは、さまざまなレベルの幻術です。簡単に言うと幻術は見る者に術者が秘術者に誤った感覚を強制するものです。それが真剣勝負であれば、当然ながら魔力の優っている者が勝つ、ということになります。今回はもちろんそこまでの真剣勝負ではありませんが、けっして手抜きはしていませんよ。みなさんが私の魔力的強制をどのように超えるか、というところがひとつの見どころでした。個人的にはね」と、片目を瞑る。他の女子生徒たちが見たら思わず見とれてしまいそうな、なんともけれん味のあるしぐさだった。

「四番目については、忍野君はP、あとの三人はEですね」

 学園長先生が言うと、またもやってしまったと顔面を覆う忍野先輩。

「これは私からの出題でした」と織耶さんが自慢げに言うのを聞いて、学園長先生が口をへの字に曲げた。学園長先生は、どうも自分の出題だけが全員正解だったのがお気にめさなかったようである。わたしはなんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。


「さて、それではみなさんから、回答を述べていただきましょう。ということは、それぞれのピースをつなげると?」

 先生は気を取り直して、最初の順番に戻ってまず忍野先輩の発言を目でうながす。

「HELPです! 助けてー。半ばやけくそです!」

 何名かの審査員の方から失笑が漏れる。

「ははは。面白いなキミは」とメルヴィオレ侯爵も笑う。

「桜庭君」

「HOLEかな。人生どこに落とし穴があるか分からないってことですね。たぶん間違ってるでしょうけど」

「まあまあ、そんなに焦らないでください」学園長先生が窘める。

「薬袋さんは?」悠記さんが尋ねた。

「HOME……ですね。私にとって最も大切なもののひとつです……」

 わたしがPと答えたことで、薬袋さんの声はやや懐疑的な含みが感じられた。

「そして千代璃さんが……」

「HOPE、『希望』です」

 しばらくの間、噛みしめるような時間が流れた。

 そののち、学園長先生が閉ざしていた口を開いた。

「正解は『HOPE』でした。千代璃さん、おめでとう。あなたが今年度の寮対抗戦の優勝者です」

 誰からともなく拍手が湧きおこり、厳かだった場の雰囲気が晴れやかなものに変化した。みなが――あれほど対抗意識を燃やしていた薬袋さんですら――おめでとう、とわたしに賞賛の言葉をくれたのが嬉しかった。

「すばらしい」と、口元に当てた掌の中で囁かれたメルヴィオレ侯爵の言葉が同時に伝わってきた。


 エルフィン寮に戻ると、もう皆はすでに結果を知っていて、寮全体がお祭りのように盛り上がっていた。

「奏ちゃん、おめでとう!」

 角くんはじめ、男子のみんな、先輩方、朝乃さんまでもが揃って寮の玄関でわたしを迎えてくれた。

「やったわね、奏!」

 シュワルラリカがわたしに駆け寄って手を取り、ぶんぶん振り回して喜びを表す。

「あ、ありがとう……」

 わたしの人生の中で、これほどまでにたくさんの人から手放しでこんなにあたたかい祝福を受けたことはなかった。あまりの幸福に感極まって涙があふれ止まらなかった。


 そのあと、食堂で祝勝会が催された。朝乃さんの手作りによる、見たこともないような豪華な食べ物がたくさん並べられていた。挨拶を迫られたわたしが前へ出て、しどろもどろになって結果の報告と寮の皆への感謝を言葉にすると、みなが一斉にアルコールの入っていないシャンパンを開けた。たくさんの人が入れ替わり立ち代わりグラスを合わせにくるので、グラスに口をつけるどころではなかった。


「おめでとう、奏」

 最後にやってきたのが今回のことでいろいろアドバイスをいただいた、佐橋先輩だった。

「佐橋先輩……」

「どうだった、寮対抗戦は?」

「正直、初めてのことばかりでいろいろ戸惑ってしまいました」

「本当はもっとたくさんのことを教えてあげたかったんだけどね」

「そうですよ。選手の中で何も知らなかったのはわたしだけでした」

 不満を述べると、佐橋先輩は眉をハの字にして困ったような表情を浮かべた。

「ははは。ごめん。実はわざと奏にいろいろ教えなかったんだよ」

「えっ、どうして?」

「言ったろ、先入観が一番邪魔なのさ」

 それにしたって隠す必要のないことまで教えてもらえなかったように思われてならない。納得できるような、できないような答えにわたしは「はあ……」と頷くしかなかった。

「奏が何も知らないということが重要なことだったんだよ。今回はそれが最大の作戦だったのさ」

「作戦?」

「うん。先入観があると目が曇る。言ったとおりだったろ?」

「まあ……それは本当にそうでしたけど」

 佐橋先輩の言葉のおかげで、メルヴィオレ侯が入念に設定した最後のコントロールの真の文字を見抜くことができたのだ。でも寮対抗戦の基本的なルールくらいは教えてくれたってよかったのではないかと思う。

「対抗戦で活躍するのは実は選手だけじゃない。寮生全体が裏でいろいろ情報戦をやっていたんだ。寮対抗戦なのだから、寮の全員で挑むのが当たり前だろう?」

「えっ、そうだったんですか?」

「ああ。まあそれすらも君には内緒にしていたんだがね。現に君は、あの薬袋さんからこの裏競技のルールを聞き出して、協力してもらうことができたろう?」

「あれはわたしが何も知らないのを見るに見かねて……」

「だからそれが最初からの狙いだったのさ。君が競技のことを少しでも知っているようなそぶりを見せたとしたら、彼女だって君にいちいち教える気にはならなかっただろう。奏の性格と言動が薬袋さんに歩み寄る心を持たせたというわけだ。君の性格も、薬袋さんの性格も、予め折り込み済みのことだったんだよ。この競技には選手以外に裏がある。それが裏競技たるゆえんなのさ」

 そう言って佐橋先輩はふたたび笑う。驚いたのは、薬袋さんとわたしの会話の内容まで先輩が知っていたことだった。

「けれど奏、今回の君は素晴らしかった。メルヴィオレ侯のは、誰も見破ることができなかった。あの古部織耶までもがだ」

「織耶さんも?」

「うん。彼女がもし実行委員でなく選手として出場できていたら、正直エルフィン寮には太刀打ちできる者なんていないと思っていた。彼女自身も、本当は自分が選手として出場したかっただろう。しかし規定で生徒会役員は実行委員と決まっている。昨年も今年も出場できなかったんだ。彼女が一年生で出場したときは、それは見事にぶっちぎりで優勝だったよ。君はあの女狐を超えたんだ。大いに自信を持つといい」

「女狐って、いくら何でも失礼では……」

「あはは。彼女はこの辺りの山に棲む白狐の一族だ。女狐以外の何者でもないよ」

「えっ、そうなんですか?」

 意外な事実をさらりと言われ、びっくりした。

 寮対抗戦について、織耶さんには特に強い思い入れがあることはわかっていた。以前、生徒会室の前で出会ったとことにより、わたしの能力を見抜いて、本当は自分がわたしと競い合いたかったのかもしれない。そんな思いがあったからこそ、あんなに情熱的に寮対抗戦のことについて関わってきたのだろう。

 そして佐橋先輩は少し声を落とした。

「シャングリ=ラについては間違いなく何か仕掛けてくるのではないかと思っていた。だから桜庭という男の行動には細心の注意を払っていたよ。ただ、最初のアレは完全に僕らの負けだった。守ってやれなくてすまなかった」

「そんな……」

「けど、幸い大したことはなかったようだし、災い転じて何とやらだ。却って他の三人は結束して、一対三で競技が進むことになった。薬袋さんにしたって予め三人で組んで互いに自分たちを守れなんて言ったって、絶対に聞き届けなかっただろう。そしたらこういう結果にはならなかった」

「そう……かもしれません」

 先輩は――いや、エルフィン寮の皆は、意地っ張りなわたしの性格まで見抜いてこういう作戦を立てたのだ。

「あっ」その一言でわたしは気づいてしまった。「ひょっとして先輩方は、ほかにもいろいろ、裏でわたしたちを守ってくださったんですか?」

 その問いに佐橋先輩はただほほ笑んだだけだったが、それは肯定と取ってもよいだろう。桜庭先輩は最初のコントロールでわたしたちを眠らせたとき、彼はこの先もこういうスタンスで行く、と大上段に宣言したのだった。しかしその後、あからさまな妨害はなかったように思う。それは寮の先輩方が陰でシャングリ=ラの陰謀からわたしたちを守ってくれていたからだったのだ。

「桜庭先輩はどうしてあんなことをしたんでしょうか?」

「さあ……それはわからない。あのあと、カメリアや先生方と共同で薬の成分をすぐに分析したが、エルフがしばしば使う睡眠導入薬で、特に害はないものだとわかった。そして学園長の判断でそのまま競技は続行ということになったんだよ」

「そうだったんですか」

「その後何か変わったこと、体調の異常などはあるかい?」

「いえ……特には……」

「他に何か? 文句なら何べんでも聞くよ?」

「川でのことは? 三番目のコントロールのとき、忍野先輩が溺れそうになったこと――あれもシャングリ=ラの妨害だったんですか?」

「いや……あれは単なるアクシデントだと思う。本来は誰かが川を渡ろうとする寸前でウンディーネたちが止める手筈だったらしいんだが……彼女らは気まぐれだからな。ほんの悪戯心だろう」

 たしかにあの場では、植物たちの声は川に入るなと止めていたが、川面から生えたあの手たちはむしろ誘っているようにわたしには見えた。あれらの腕の主が、水霊と呼ばれるウンディーネたちのものだったのだろうか。

「あれが……悪戯ですか?」

「そうさ。最後には忍野たちをちゃんと川岸に運んでくれていたようだよ?」

「はあ……」

 わたしが口を尖らすと、佐橋先輩も悪戯っぽく口を尖らせてみせた。

「他には?」

「いえ……ありません」

 最後のあれ……桜庭先輩ではない、謎の人。暗闇でわたしをつかまえたあの男は誰だったのだろう。シャングリ=ラの誰かだということは間違いがない。けれど佐橋先輩でさえ何も知らないようだ。なぜかそれをここで問うてみる気がわたしには起きなかった。

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