第八回 オリエンテーリング大会(一)
翌日もまだ煮え切らない思いを引きずっていた。
原因はあの薬袋小柚子さん。どうしてわたしなんかに、あんなに闘争心を剥き出しにしたのか。彼女の態度には古部会長ですら辟易していたように思う。
それに古部会長はなぜわたしをあんなに気にとめるのだろう。
蔓延るもやもやを、どうしても払拭することができなかった。
「千代璃さん」
科学実験室から教室への帰り、呼び止められた。古部会長だった。昼休み、一緒に食事したいと彼女から言われて、わたしは承知した。わたしのほうもこんな気分のままでは日常生活に差し支えてしまう。今日はちづると一緒に学食で食事する約束をしていたが、いそいで購買でパンと牛乳を買って彼女の待つ屋上へと向かった。ちづるはわたしと一緒に昼食をとれなくなってしきりに残念がったが今回ばかりは謝罪して許してもらうしかなかった。
曇り空の屋上には、少し強い風が吹いていた。すでに幾つかのグループがいて、思い思いに食事をしている最中だった。出入り口から一番遠いところのフェンス際に彼女はいた。
「お待たせしてすみません」
わたしが頭を下げると、
「いいえ。こちらこそ貴重なお昼休みに申し訳ありません」
改まった態度に、こちらもつい身構えてしまう。
彼女はわたしに隣に座るように勧め、わたしは従った。
「食べながら、お話ししましょう」
古部会長は持参の包みを解いた。手製のお弁当だった。
意外に思うわたしの目線に気づいたのか、
「寮の厨房を借りて、朝作るんですよ。食材は限られるけど、無償なの。カメリア寮には菜園もあるし鶏なんかも飼っていて、卵料理もできるんですよ」と話す声はやや自慢気に弾んでいた。
わたしたちのエルフィン寮も、お茶会のときなど、茶葉や食材はたいがい無償で使うことができる。わたしたちの習慣を見越して朝乃さんが仕入れておいてくれるのだ。その費用はすべて学園が負担してくれている。もっともお茶にうるさい悠記さんなどは自分の気に入った銘柄のものが飲みたいがために、自腹で葉を取り寄せてそれをわたしたちにも供してくれているけれど。
「どうですか、ひとつ」
厚焼き玉子をすすめられたので頂くと、とても濃厚な香りがして美味しかった。
「お出汁がきいていて、おいしいです。とっても」
「そう。お口に合ってよかったわ」
古部会長は嬉しそうにほほ笑んだ。
「どうやら千代璃さんは私の考えていた人とは少しだけ違ったようですね」
「それは……どういう意味でしょうか?」
きっとわたしは古部会長をがっかりさせてしまったのだろう、そう思って視線を下げると、
「思っていたよりずっと手強そう、という意味ですよ」
意外な言葉が返され、わたしは顔を上げて相手の顔をまじまじと見つめた。
「手強い……という意味がよく分かりませんが……」
「実は私、千代璃さんにカメリア寮への移籍をおすすめしようと思っていたのです」
「それは……お断りします」
咄嗟に言葉が出た。古部会長はわたしの答えが予め分かっていたかのごとく、
「ほうら。そうでしょう? だからそれはあきらめました。でも私、あなたがこの学園に入学した当初から、ずっと注目していたんですよ」
「それはなんとなくわかっていました。でもどうしてですか?」
「もちろん昨日お茶室で言ったようなこともその理由ではあるけれど、個人的に、なんとなく気になるというか」
そう言って、また謎の微笑みをする。
どうもこの人の言葉は底が知れない。わたしが黙っていると、古部会長は続けて言った。
「これは私の勝手な想像ですけど、入学当時のあなたは自分が属する寮なんてどこでも大して変わらない、と思っていたのではなくて? でも思ったよりも早くあなたはエルフィン寮に馴染んだ。きっといい仲間に巡り会えたのだと、それはそれで納得しました」
「はい、わたしも最初からカメリアに入寮していたら、それはそれで何のわだかまりもなかったでしょう。でも今は、わたしの場所はエルフィン寮しかないと思っています」
「そうね。あなたには周囲の配慮さえ必要ないのかも……」とまたわけのわからない言い回しをする。「いえ、今は私が何を言っているのか、あなたが理解する必要はありません。でも、いまこれだけは助言しておきます。あなたの動向はカメリアだけでなく、他寮の者たちも気にしているはずです。特にシャングリ=ラの連中にはお気をつけなさい」
「シャングリ=ラ?」
ぽかんとした表情で首を傾けると、古部会長は黙って首を縦に振った。
学園には全部で六つの寮がある。二つは有福町の町にある一般生徒のための男子寮『白雲寮』と女子寮『紅葉寮』。そのほかに、わたしたちのような者のための構内寮が全部で四つ。『エルフィン寮』、『カメリア寮』、『幽星寮』、そして『シャングリ=ラ』。
――というくらいは寮の先輩がたから聞いて知っていた。
けれど実際、シャングリ=ラがどのような寮なのか、他寮の生徒たちにもよくわからないのだという。いや、毎年行なわれる寮対抗戦にも出場はしている。そうでなくともこの山奥の学園ではいずれかの寮に属する生徒がほとんどなのだから、誰がそこに所属しているのか、くらいはある程度消去法でわかる。
ただ、どのような寮風なのか、様子がまったく伝わってこないのだそうだ。エルフィンとカメリアは互いにライバル関係でありながらも、親しい行き来がある。しかし、シャングリ=ラの寮生たちは、どこの寮とも付き合いがない。シャングリ=ラの寮生は自分たちの寮についてほとんど何も語らないというし、箝口令があり意識して語らないのだともいう。少なくとも学園側は知っているのに違いないけれど。
古部会長――つまりカメリア寮は、シャングリ=ラについてエルフィン寮の先輩たちよりももう少し踏み込んで考えているように思われた。
「それは、寮対抗戦のことでしょうか?」
知らない間にわたしの特異な力が他寮にまで広まってしまい、目の敵にされかねない――ということが言いたいのだろうか。
「そうではないわ。寮対抗戦なら、おそらく今年もうちとエルフィン寮がしのぎを削ることになるでしょうね」
「じゃあ、どういうことですか? エルフィンの先輩がたもシャングリ=ラについてはよくわからないと言います。わたしはそんな人たちの、いったい何に気をつければいいんでしょうか……」
わたしが遠慮がちにそう言うと、堅かった古部会長の態度が急に和らぐのを感じた。
「そうね。漠然と言われたところでそういうことになるわね。まあ、いまは私がそう言っていたということだけ、しっかりと覚えておいてくださいな」
「はあ……」
古部会長の言葉は謎だらけで、まったく要領を得なかった。すると古部会長は今の話をまるで誤魔化すかのように話題を変えた。
「ところで、小柚子のことについては、大目に見てやってくださいね。どうもあなたに必要以上の対抗意識を燃やしていたみたいだけれど」
「はい。別に気にはしていません。ただ少し不思議だと思うのは、どうしてわたしなんかにあんなに対抗意識を燃やすのかと」
「それはね――あの子が私のことを必要以上に崇め奉っているみたいで、私があなたのことを折に触れて話題にするものだから、ちょっとヤキモチを焼いているだけなのよ」
「そ、そうなんですか?」
薬袋さんがわたしに向けた敵意のようなものの正体がわかって少しホッとするとともに、またひとつ疑問が沸き起こる。
「古部会長は……」
言いかけると古部会長は、
「千代璃さん……。もうそろそろ少し砕けてもよいのじゃなくて? できれば織耶と呼んでいただきたいわ」
などと、少し悪戯っぽくはにかんで言う。わたしは驚いた。先輩をそんなふうに呼び捨てになどできるわけがない。困惑した表情を向けると、
「じゃあ……織耶さん、でいかが? 私は奏、って呼んでもいいかしら?」
「はい……。わかりました」
「じゃあ奏、なにかしら?」
「どうして織耶さんはわたしのことをそんなに気にされるのですか? わたしには他のひとたちよりも特異な能力があるとか素質があるといったことがあるのかもしれませんけど、わたしがお聞きしたいのは、どうして織耶さんがそれを気にかけているのかということなんです」
織耶さんは少しだけ考えに沈むふうをして、
「堂々巡りね」
と言った。
「何がですか?」
「ああ、ごめんなさい。さきほどから私があなたに話しているのは、いえ、昨日の寮対抗戦出場の打診も、カメリア移籍の話も、シャングリ=ラの件も、小柚子のことについても、みな同じ観点からものを言っているからですよ。でも、どうしてと聞かれるとそれにはまだ答えられないの」
「まだ、ということはいつかは答えていただけるんでしょうか」
「ええ。いつかはきっと」
「なら、いいです」
もうこの人は何も具体的なことを言う気がない。話せば話すほどモヤモヤが増えるだけ。もう答えを期待するのはやめよう。たとえ織耶さんがわたしのことについてわたしの知らない何かを知っているのだとしても、どうせいま知りえないことならば、言葉は無駄だ。わたしはわたしの考えを貫いていくだけだ。
織耶さんの話はそれだけで終わりのようだった。わたしは織耶さんに一礼して、その場を立ち去った。
「この指は何本?」
「二本……いや、三本かな?」
広げられた指の本数を角くんが目をほそめて数えながら答える。
「五本でしょ。パーだ」
そう言ったのは
「認識とは、かくも脆いものなり、だ。奏は何本に見える?」
「一本です」
「正解」
エルフィン寮の食堂。ディナ・シーの
「うっそ。グーでしょ。先輩ズルしてないすか?」
ロロ先輩が思わず漏らすのを悠記さんが、
「あんたは黙ってなさい。無関係なんだから」
窘められて、口を尖らせる。
悠記さんがパンパンと柏手を打つように二回叩くと、ぼんやりとしていた佐橋先輩の手の形が焦点を結ぶように定まった。その手は、間違いなく一本だけ指が立てられている。
「要は対象をいかに先入観なく観るか、ということなんだよ。幻覚を作り出しているのは我々の意識にほかならない」
佐橋先輩は言う。
わたしたち――わたしと角くんと光嶋先輩は、夕食後の食堂に会して三年生の佐橋先輩と沖先輩、そして悠記さんを前にテストを受けていた。オリエンテーリング大会の裏競技にエントリーする選手を決めるためだ。
悠記さんは結局、選手決めについて寮の先輩たちに相談したのだという。織耶さんほどの人がルールを無視してまでわたしを推すからには、悠記さん自身にも何か見えていないものがあるのかもしれない、ここは自分一人で判断すべきではない――そう考えたからだという。それで、こういうことになった。
灯りを落とした薄暗い食堂の中。一本の蝋燭を灯しただけの、佐橋先輩いわく不安定な「場」を作り、まるで秘儀のようにそれは行なわれていた。
周りには他のエルフィン寮生たちもいて、固唾をのんでことの成り行きを見守っている。
カプリコーンの光嶋先輩は今年の代表選手候補筆頭で、水泳部に所属している。彼は、寮の中でも運動能力がずばぬけている。
彼を選手に、と推す空気は強かったが、それでも先輩たちから次々と出題される問題には手を焼いているようだ。
「本番では巧妙に隠された真実を見つけださなければならない。自分の目に見えているものが必ずしも真実ではないということを徹底的に意識しないとならない」
「意識するだけで分かるものなんですか?」
角くんが今ひとつ納得しきれていない表情で問い返す。
「そうだな……。意識する――というだけではまだ足りない。より正しくいうなら『謙遜する』というほうが近いかもしれない」
「謙遜? ってへりくだるということですか?」
「真実を観るということは謙遜するということだ。つまりは偏ったものの見方、自分の間違った思い込みを排除して、慎ましくなるということだ。ふつうの人だって偏ったものの見方をしているときには『目が曇っている』なんて表現をすることがあるだろう? 我々は多かれ少なかれ、自分という枠に囚われていると、目が曇る。そのせいで真実とは異なるものを見てしまうのさ。自分の見たものだけが正しいと信じて疑わないやつは、この競技には向かないんだ。自分が傲慢になっていないかを徹底的に疑うんだ」
「傲慢になっていないかを……疑う……」
佐橋先輩の言葉は心に刺さる。わたしは思わずその言葉を口に出してなぞった。
「ここまで全問正解だったのは奏だけだ」
「はい」
「きみがこんなに素晴らしい素質を持っていたことを知らなかったのは正直、僕たちの目も曇っていたことを認めざるを得ないな」
先輩は冗談めかして苦笑しつつも、
「カメリアは強いよ。古部はこの辺りの土地神にまつわる一族だと聞く。おそらくその薬袋小柚子という子も似たような出自なのだろうね。対抗戦に体力は必要ないが、土地勘があることは多少の有利に働くかもしれないな。あとは他の寮だが……」
すると、悠記さんが、
「それについては大丈夫だと思うわ。幽星寮からは二年四組の
「忍野
ロロ先輩が冗談めかして言う。
「強いんですか?」
わたしの問いかけにロロ先輩は、
「吸血種なんだよ。日光苦手だから、昼間はほとんど活動できない」
「ええっ! き、吸血鬼!?」
わたしと角くんと累くんがほぼ同時に驚きの声を上げる。
ロロ先輩は両手を振って、
「ああ、だいじょぶだいじょぶ。人を襲ったりはしないよ」
佐橋先輩がそれを受けて、
「吸血種が食事のために人を襲ったのはもう何世紀も前のことだ。今はとっくに食糧問題は解決されている。ごく人道的なやつにね」
「なんだ、そうなんですか……」
角くんと累くんは目を見合わせて安堵した。
「それと吸血鬼というのは彼らに対する差別用語になるから、使わないように。彼らのことは吸血種と呼んであげてくれ」
「はい……わかりました」
「シャングリ=ラについてはこれも二の四の
「桜庭? 聞かないな」
ロロ先輩は二年二組に所属している。四組の忍野という生徒は知っているのに、同じクラスの桜庭という人については知らないようだった。
「あそこの寮生は目立たないからね。まあ、彼らは未知数だが、聞くところによれば彼らはこういう学校行事を毛嫌いしているそうじゃあないか。そんな連中がやる気で臨んでくるとは思えないな」
「というか沖先輩、やつらは集団生活には向かないんだよね。長期休みなんかはほとんど全員が寮の個室に引きこもってるって話ですよ」と、ロロ先輩。
「そういえば、織耶さんも実際はカメリアとうちの寮がしのぎを削ることになるだろうって」
そのわたしの言葉に悠記さんが反応した。
「織耶さん?」
「あ……会長がそう呼んでほしいって」
「彼女と会ったの?」
「はい。今日のお昼に、呼び止められて」
「はあ……やっぱり奏、彼女に気に入られているのね」
「珂白は心配なんだよ。奏ちゃんをカメリアに取られちゃうんじゃないかってさ」
「それはきっぱりとお断りしましたよ。ロロ先輩」
「あ、やっぱり誘われたんだ!」
そしてわたしは、エルフィン寮の先輩方の一致推薦のもと、柏葉学園オリエンテーリング大会の『裏競技』、寮対抗戦の代表選手を引き受けることになった。それについては実際選手になろうがなるまいがどうでもよかった。薬袋さんに対抗心を燃やされるのは嫌だったが、自分の力を客観的に示せば、たとえ結果がどちらであっても、みな納得はしてくれるだろう。勝ち負けには拘らず、自分のできることをしようと思った。
翌日の放課後、クラスでオリエンテーリング大会に参加するためのチーム分けがされた。運動部に所属している者は部活枠で参加するので、わたしたちのように部活動に所属していない者と、文化系クラブの者たち、クラス全体の三割ほどの生徒が放課後に残ってクラス委員の
班分けはくじ引きで行なわれた。わたしはその朝霧さんと同じ班になった。メンバーの中には
当然といえば当然、意外と言えば意外なのだが、津田くんは部活動に所属していない。放課後は有福町の叔父さんの喫茶店『銀猫』でアルバイトをしているからだ。よくよく話を聞いてみると、津田くんは元々ここ有福町で育ったらしいが、数年前、両親が土地を売って県外に移り住んだとのこと。のちに柏葉学園に通うことになってご両親のもとをはなれ、再び有福町に戻ってきた。叔父さんの家は店舗兼自宅で手狭なため、いまは白雲寮に入っているのだという。
自分以外のチームメイトが女子だけなのを知ると、津田くんはあからさまに難しい顔をしたが、諦めたように「まあ、俺に任せておけよ」と渋々言った。
角くんと累くんは一緒の班になり、目下わたしのライバルといえば彼らのチームになると思われる。そしてそのライバルチームのメンバーにはちづるも入っていた。
そのちづるが、
「えーん。あたし奏と一緒がいー」
などと子供のように駄々をこねた。
「決まったことなんだから、仕方ないでしょう」
みな辟易して、口々にちづるを窘めた。
ところでシュワルラリカはどうしたのかしら、と見やると彼女は教室の隅で静かに頬杖をついていた。目が合うとこちらを見て意味ありげに微笑むので、近寄って、
「シュワルラリカは誰と一緒のチームになったの?」
聞くと、
「わたしは出ないのよ」
さらりと言う。
何か妙だ、とわたしは気づく。
「あれ? 何かがおかしい……」
「うふふ」
シュワルラリカは愉快そうな笑みをたたえている。
そういえば、寮の中で対抗戦の選手としても彼女を推す声は皆無だったのはなぜか。彼女だって裏競技の代表選手として活躍できる実力を持っているはずだ。シュワルラリカを寮代表選手に推す人がいても少しもおかしくはないではないか。それがひとことも寮生たちの口に上らないのはどう考えても不自然……。
いや、わたしだって今の今まで彼女のことを何一つ意識していなかった。
虚偽を映す鏡が弾けて、向こうにある真実が透けて見えた気がした。
――ということは。
「奏にはいつか解ってしまうと思っていたけれど、思ったより早かったわ」
「どういうこと?」
「わたしは来賓の接待役を仰せつかったのよ」
「来賓の接待役ですって?」
「そう。学園長先生のご依頼でね。今年はとても偉い人が来るらしいから」
「偉い人?」
「メルヴィオレ侯爵。彼はこの学園の特別顧問のひとりでもあるのよ」
だからシュワルラリカは自分が大会に出ることがないよう、何らかの術を施したのだ。寮においてもクラスにおいても。わたしはそれにやっと気づくことができたというわけだ。まんまと彼女に真実を誤認させられてしまったとわたしは頬を膨らませた。
「シュワルラリカ、あなた……」
わたしが口を尖らせかけたところへ、朝霧さんが遠くから呼ぶ。
「千代璃さーん。ちょっと来てくれない?」
「ほら、呼ばれてるわよ。いってらっしゃいな」
そのメルヴィオレ侯爵というひとについてもっと話を聞きたかったけれど、シュワルラリカがひらひら手を振るので、諦めて皆のところへ戻った。
「なに? 朝霧さん」
「チームリーダーを決めるんだとよ」
横から津田くんが仏頂面で割り込んでくる。
「私はこいつにやらせりゃいいんじゃないかと思うんだけど」
朝霧さんは津田くんを指す。あの津田くんに向かって、朝霧さんらしからぬぞんざいな口調でこいつ呼ばわり。ちょっとびっくりしてしまった。
「俺? やだよお前やれよ」
津田くんも朝霧さんに対して負けていない。今ひとつ民主的な話し合いではないけどなあという感想を抱きつつ、わたしは自分の意見を申し述べた。
「わたしも津田くんがいいと思っていたわ。チームのことをぐいぐい引っ張ってくれそうだし」
田中さんも異存はないようで、小さく頷いている。
「じゃ、決まりね」と、朝霧さん。
「えー。面倒いなあもう……」
津田くんはあくまで不本意ながら、渋々わたしたちの意見に従ってチームリーダーを引き受けてくれることになった。
あとで聞いたら、朝霧さんと津田くんはもともと地元の小学校のときから同級生だそうで、互いのことはよく知っている間柄らしい。
そして、ほとんど何の準備もしないまま当日を迎えてしまった。寮の先輩たちは落ち着いてやれば大丈夫だとエールを送ってくれたが、それで気持ちが落ち着くはずもない。わたしの心臓はずっと高鳴りっぱなしだった。
当日の朝は良く晴れて、抜けるような青空が広がった。
全生徒がグラウンドに集合して、開会式がとりおこなわれた。
わたしはよほど張り詰めた顔をしていたのだろう。朝霧さんが傍らから「リラックスよ、千代璃さん」と声を掛けてきた。
「朝霧さん。今日はよろしくお願いします」
「そんな固い言い方しなくても」と朝霧さんは苦笑いして、「お互い頑張りましょうね」とほほ笑んだ。
「ええ」
手芸部の田中さんは運動はあまり得意ではないようで、
「私、チームの足を引っ張ってしまうかも。ごめんなさい」
と、始まる前から謝られてしまった。
チームの中ではただ一人平常運転なのが津田くんだった。部活動には参加していないものの、運動神経に関してはクラスの男子たちから定評がある。ただ、先生の話などまるで聞かず、気儘に足や腕をあちこちストレッチしている。
スタートは時間差だ。わたしたちの直後にスタートする予定の班は、リーダーを角くんに、累くん、バスケ部の南さんと実力がありそうな人たちばかりが揃っている。その中に混じって、ちづるだけが不安そうに小さくなっている。南さんはクラスの中でも運動神経がずば抜けて優れている。こういう競技も得意そうだ。今回、部活枠では出ずにクラス枠での出場となった。
「うちの部の連中、張り切り過ぎちゃって正直ついていけないんだよねー」などと、あえてやる気なさそうに言うのを朝霧さんが、「あれは大嘘ね」と看破する。
開会式がはじまった。学園長先生の話が終わって、来賓の挨拶になると、生徒たちの間からどよめきが湧き起こった。壇上に立ったひとりの男の人のただならぬ雰囲気が、生徒たち全員の目を奪ったからだった。
生徒たち――特に女子の中からため息が聞こえる。
「外……人……!」
「なにあのいけてる人!」
「綺麗な人……」
「美麗だわ、秀麗だわ!」
「やば、超カッコイイんですけど」
「学園の特別顧問なのですって」
「この学園に来るのは初めてかしら。いままで見たこともなかったけど……」
「イギリスの爵位を持っているらしいわよ」
「きた本物の貴族!」
「結婚……してるのかな」
等々。
確かにどよめきの通り、綺麗な人である。学園長先生も外国人なのだから顧問に外国人がいても不思議はない。男性だから綺麗と評するのもどうかと思うが、たとえばエルフのシュワルラリカと並べたとしたら、まるで妖精の国の貴族と姫君みたいな雰囲気さえ漂うに違いない。いや実際そうなのだ。
見た目は三十歳前後くらい。かっちりとしたスーツを着こなし、一級の人が持つ気品を感じさせるが、それでいて少しも気取っていない。
「キアラン・ルシェ・メルヴィオレです」
穏やかな、もとても魅力的な声。
女子たちの中からふたたび嬌声があがる。
「あれがシュワルラリカの言っていたメルヴィオレ侯爵……」
わたしは誰にも聞こえないように、ひそかにつぶやいた。
とても偉い人なのよ、と昨晩彼女が言っていたことを思い出す。『オーラ』とはこういうものだと、まざまざ見せつけられた気がした。シュワルラリカによれば現在の妖精王はクロムウェルという人らしいが、メルヴィオレ侯爵はその跡を継ぐ次期妖精王とも噂される人物らしい。
メルヴィオレ侯爵は一言二言短い挨拶をしてすぐに壇上からおりた。
侯爵に見とれていた女の子たちは、とたんにハッと魔術から目覚めたように現実の顔に戻る。
「な、何だったんだ、今のは?」
津田くんがきょとんとした表情で周囲の女子生徒たちを見回す。みな一瞬で侯爵の発する雰囲気に飲み込まれてしまったようだ。メルヴィオレ侯爵はそれほど印象的な人物だった。いま、一瞬違う世界に紛れ込んだような錯覚さえ覚えた人も多かったろう。
美しい外国人顧問の登場によって開会式の場が異空間になりかけたけれど、わたしたちがいま気にしなければならないのは、オリエンテーリング大会のほうだ。わたしは気持ちを新たにしてコースの入り口である林のほうを見た。
外は少し汗ばむほどの陽気だったが、わたしたちは藪を歩くために長袖、学校指定のジャージを着て、チームをあらわす色ハチマキをつけて、スタート順を待つ。
「さて、いよいよだな」
津田くんがはやる心を抑えきれないようにその場で足踏みを繰り返す。わたしもつられて落ち着かない心もちで屈伸運動なんかをしてみたりする。
第一組目から順にスタートが始まった。気もそぞろで順番を待っていると、物陰からシュワルラリカが手招きをしている。まだしばらく順番は来そうになかったので、わたしはチームの皆にことわってシュワルラリカのもとへ走った。
「どうかしたのシュワルラリカ? あと少しでスタートなんだけど」
「ごめんなさい奏。ちょっと来てちょうだい。どうしてもとおっしゃるから」
「?」
何のことなのかわからないままついていくと、校舎の陰でスーツ姿の男の人が待っていた。
メルヴィオレ侯爵だった。
彼はわたしの姿を認めると、
「千代璃さん」
と、とても優し気に微笑んだ。
「え、えっと、こ、こんにちわ……」
「お会いできて光栄です。奏さん」
と彼のほうから近寄ってきて、膝を折って丁寧にお辞儀されてしまった。その流麗な仕草に見入ってしまう。それはこちらの台詞です、と心の中で繰り返すが、言葉がつまってしまって出てこない。どういうことなの、とシュワルラリカに困り果てた視線を向けると、ふう、とため息をついて、
「奏の話をしていたのよ。奏が寮対抗戦の選手になっていることと、こちらでできた大切なお友達です、って話をしていたら、どうしても激励したいとおっしゃるから……」
と、彼女も少々困惑ぎみだ。
「は、はぁ……」
「スタート間際にお邪魔して、申し訳ありません」
メルヴィオレ侯爵はわたしに慈愛のこもった目線を落とすと、
「だがやはり、お会いできてよかった……」
などと感慨深げにいうので、ますますやり場のないわたしは、ただ首を垂れるばかりだった。
「あ、あの……」
「競技、頑張ってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
わたしは挨拶もそこそこに、走ってチームのもとへ戻った。戻りながら想像した。シュワルラリカは『あちらの世界』ではよほどの姫ぎみなのだ。時期妖精王とも目される人が、『彼女のただの友だち』であるわたしに対しても、こうして心を砕くほどの。
頑張ってくださいね――というメルヴィオレ侯爵のやさしい声が耳の奥で繰り返し響いて止まなかった。
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