第七回 カメリア

 柏葉学園高校の現生徒会長をつとめる古部ふるべ織耶おりや先輩は、『カメリア寮』に所属している三年生だ。

 悠記さんはわたしが古部会長の『お気に入り』だという。

「はあ。そうなんですか?」

「そうよ。ことあるごとに奏を寮に連れてこい、と言うのよ」

「どうしてですか?」

「それは私が聞きたい。いったい彼女と何があったの?」

「さあ……」

 首をひねると、悠記さんの困惑はさらに深まった。

 わたしには思い当たることがなかった。古部会長とは、強いて言うならたがいに『校内寮』の寮生であるということが既知であるだけで、他愛ない日常的な会話をたびたび交わしているだけにすぎない。


 わたしたちが初対面のとき、その場には悠記さんもいたはずだ。

 あれは入学して間もない、放課後のこと――。


 わたしはたまたまクラスの当番で、担任の沢村先生から、帰りのSHRで配布された書類をみなが書きこんだら、回収して届けて欲しいと依頼された。

 書き終えていない人たちを急かして、記入してもらった書類をやっと集め終わって提出しにいくと、先生はたいへん焦っているようすで、これから職員会議に出席しなくてはならないから、こんどはこの印刷物を――とペーパークリップで留められた、あらたな紙束をわたしに押し付けるように渡して――生徒会室の古部に届けて欲しい、急ぎの書類だからよろしく、と言い置いて慌ただしくどこかへ去っていってしまった。

 そのときわたしは生徒会室が何処にあるのかをまだ知らなかった。ずいぶん人使いの荒い先生だなあ、と心の中で愚痴をこぼしながら、生徒会室を探してまわった。誰かに聞こうにも先生方はひとりも残っていないし、すでに時間も遅く、校舎内に残っている生徒はほとんどいなかった。それでも部活帰りの生徒たちを捕まえては聞きづてに、なんとか目的の場所に辿り着くことができた。

 生徒会室は北校舎の隅にあった。

 ドアをノックしようとしたとき、ちょうどそこに廊下の向こうから生徒会室に戻ってきた人がいた。わたしは意を決して、その人に声をかけた。

「あの、すみません!」

 わたしを認めて「あら!」と驚いたような声を出し、「生徒会に何かご用?」と、その人が言う。

 柏葉学園の制服のブレザー姿よりも和の装いが似合いそうな、切れ長の目元に鋭さが滲む美しい人――。

 その人こそ、入学式で壇上から新入生たちに向かい、生徒会長として挨拶をした――古部織耶先輩その人だった。

「ん?」

 一見クールに見える古部会長が可愛らしく小首を傾げてわたしを覗き込む。

「あの……この書類を会長にお渡しするよう、沢村先生から頼まれました」

 わたしが書類の束を古部会長に差し出すと、「あ、これこれ。これを待っていたのよ!」と、部屋の扉をガラリと開けた。

 もう昏くなりかけているというのに、生徒会室内はまだ活気づいていて、役員たちが忙しく働いていた。その中にはエルフィン寮で顔を見知っていた悠記さんもいた。このときは悠記さんも、寮の食堂でたまに顔を合わせる程度の関係でしかなかった。

 古部会長はわたしが持参した紙束を受け取ると、躊躇する隙もなくいきなりわたしの手をとって、生徒会室に引き入れた。

「みんな、沢村先生から例の書類、届いたわよ」と、書類の束を高く掲げてヒラヒラ振る。

「あれ? 会長どこへ行ってたんですか?」

 傍らにいた他の生徒会役員たちが一斉に古部会長に注目した。

「あら、もしかして、千代璃さん?」

 わたしに気づいたのは悠記さんだった。

「こんにちは、珂白先輩」

「あなたがどうしてここに?」

 悠記さんの視線が、つながれたわたしと古部会長の手に注がれた。

「あ、あの……先生に頼まれて」

「ふうん。あの先生、人使い荒いわね……」

 その間、古部会長はもう一人の役員に書類を手渡して、その場で二、三指示を与えた。

「それでは……」

 一礼して生徒会室を去ろうとすると、まだ握られていた古部会長の手に力がこもって、

「あなた」

「はい」

「お礼を言っていなかったわ。どうもありがとう」

 そう言って古部会長はやっとわたしの手を放して、深々と頭を下げた。

「いえ、全然大したことでは……」

 生徒会長に丁重な態度をされ、わたしも恐縮してぺこぺこお辞儀を繰り返した。

「千代璃さんっていうの? 差し支えなければ、学年とクラスを教えていただけないかしら?」

「一年三組、千代璃奏です」と、わたしはフルネームを名乗って、もう一度ぺこりとお辞儀した。

「千代璃……奏さんね? あなたも珂白さんと同じエルフィン寮?」

「は、はい」

「なるほど……」と、会長は値踏みするようにわたしを見つめまわした。

「私も校内寮。『カメリア』の寮生なのよ」と、意味深に笑った。

「あ……」

 ということは、この古部会長も……。

 会長の表情は、なにか悟ったような、妖婉な色をおびていた。

「また生徒会室に遊びにいらしてね。いつでも歓迎するわ」

「は、はい。それでは失礼します」

 わたしはいそいそとその場を立ち去ったが、しばらくの間、残留していた古部会長の手のぬくもりを持て余した。パーソナルスペースが狭く、ことさらスキンシップを取りたがる人がたまにいる。古部会長もそういう類いの人なのだろうと思った。


 それがわたしと古部織耶会長の出会いだった。

 それからというもの、校内のあちこちで古部会長とすれ違うたび、なぜか彼女のほうから積極的に声を掛けられるようになった。古部会長との遭遇率はなぜか高く、どうしてこんなところで? という場所で遭遇することもしばしばあるにはあったが、その際交わされた会話はいずれも挨拶の域を出ないものばかりではあった。


 悠記さんは困惑顔を元に戻して、

「明日は放課後、一旦こちらに戻ってから支度してカメリアに行くことになるけど、いい?」

 と、わたしに訊く。

「どうしてカメリア寮なんですか? 生徒会室でなく」

「私にもわからないけど、向こうが寮まで来いというから」

「もしかして『寮対抗戦』のことでしょうか?」

「さあ、わからない」


 翌日、予定通り一旦帰寮すると、あらためて悠記さんとともにカメリア寮へと向かった。

 はじめてカメリア寮へ行くわたしは、そこがどんなところなのかを想像して少し緊張ぎみだった。

 カメリア寮は柏葉学園の校内寮の中でもっとも大きく、また抱える生徒の数も他寮に比べ圧倒的に多いと聞く。

 寮の名の由来は寮母さんが椿の精だからだという。カメリアとは英語で『椿』のことだ。名前もみなから『椿』さんと呼ばれている。朝乃さんと同じく学園の草創期から寮母の仕事をしているらしい。森羅万象の命運を読むという椿さんは、先日わたしがクレマチスの花壇で拾い、朝乃さんに託した小さな缶についても、持ち主が判るまでわたしが保管すべきということと、あまり他にふれ回らないほうがいい、というアドバイスをくださった。わたしはそれを守り、例の缶を自室の棚に保管し続けている。

 柏葉学園の敷地は広大だ。学園と、周囲にひろがる山林すべてが学園の所有地だという。わたしたち寮生は、その山々の中に点々と在る寮でそれぞれ暮らしている。

 カメリア寮へは、足元のしっかりした道を歩こうとすると五、六十分はかかるらしい。いったん学園までおりて、別の道をまた登るしかないからだ。

 学園の敷地内にあるいくつかの寮は、すべてがそのような配置になっている。学園を起点とする各校内寮への道はたった一本だけしかなく、それぞれの道は学園を中心に放射状にのびている。それぞれの寮の独立性を保つための配慮だそうで、そうすることにも理由があり、意図的な設計であると聞く。

 しかし寮生同士の交流もなくはない。エルフィン寮からカメリア寮へ行くための近道もあるにはある。寮同士で交流するときに不便だと考えた昔の寮生たちが自主的につけたという山道はいまも残っていて、森の中を突っ切ってゆく道である。これを利用すれば互いの寮まで約半分の三十分で辿り着ける。

 わたしと悠記さんは寮の東に向かって、その道を進んだ。

 葉を透かして届く新緑の緑がさざめく。

 今日は日射しも強そうだけれど、木々の葉に遮られて直射日光はほとんど下まで届かない。

 道はほぼ藪道だが、若干ひらけた登山コースのように足場がつけてある部分もある。途中には先日の柳の丘もあるけれど、悠記さんはこれを知ってか知らずか迂回した。ここまでの道はわたしにもさほど困難ではなかった。

 鬱蒼とした木々の生い茂るさらに深く、山の中にわけ入っていくと道はいきなり細くなった。道といってもめったに使われない道だ。それと注意して見なければ見失ってしまいそうに細い。ここから先はちょっとしんどいかもしれない、と悠記さんは言った。

 悠記さんはたびたびこの道を使ってカメリア寮を行き来しているらしい。足取りも慣れたものだ。少しのあやふやもなく、すいすい前を歩いてゆく。

「疲れたら言うのよ。無理をしないようにね」

 悠記さんはわたしのことを気遣って少しだけ歩調を緩めてくれた。

 森の中は心地よかった。潤いに満ちた森の芳醇な薫りが鼻腔から肺に届き、からだを巡り、全身を清浄にしてくれるかのようだ。夜の森もいいけれど、昼の森も捨てたものではない。わたしはけっして健脚とは言えないけれど、ふつうの女子生徒に比べれば、自然の中を歩くことに多少の自信はある。最初はお伴なんて、と躊躇したけれど、このところ室内に籠もりがちだったので、この体験ができただけでついてきてよかったと思った。やはりわたしは山歩きが好きなのだ、とあらためて思った。

「ちょっとしたハイキング気分でしょう?」

 悠記さんが振り返って、わたしの満足げな様子に顔を綻ばせた。

山の中を二十分ほど行くと、山道はやがて学園から登ってくる通常のルートと合流する。

「ほら、あそこが下からの道よ」と、悠記さんが前方を指さす。

「ふう……」

「お疲れ様。ここまで来ればもうあと少し。頑張って」

 広い道――それが本来学園からカメリア寮に通じる道なのだろう――に合流したところで、わたしは深く呼吸した。

 とはいえその道も、学園とエルフィン寮をつなぐ道よりずっと急な坂道だった。カメリア寮の人たちは毎日こんな急峻な坂を上り下りしているのだろうか。

 しばらく行くと、悠記さんが前方を指さす。

 顔を上げると道の先に立派な山門が見えてきた。

「あれがカメリア寮ですか?」

「ええ」

 見上げる門は、まるで山深いどこかのお寺の入口のようだ。

 やっとのことで門までたどり着いた。門は開いていた。門をくぐったところに、人がひとり立っていて、わたしたちが行くと深々と一礼し、出迎えてくれた。品の良い藤色の作務衣を着た、小柄な少女。おそらくわたしと同じ一年生の、カメリア寮生だろう。

「珂白悠記先輩と、千代璃奏さんですね」

 少し高くて細い声には、どこか落ち着いた、凜とした響きがある。

「はい。お招きありがとうございます」

 悠記さんが答える。

「ようこそいらっしゃいました。およびだてして申し訳ございません」

 悠記さんの礼に倣い、わたしも頭を下げる。

「さあ、どうぞこちらへ」

「ずっと、ここでお待ちくださっていたのですか?」

 悠記さんが訪ねる。

「いいえ、古部が、そろそろおふたりがいらっしゃるからお出迎えに行くようにと」

「正確な時間をお伝えしていなかったのに、よく分りましたね」

 悠記さんが不思議そうに漏らすと、「そういう方なんです」と心得たように返ってきた。

「なるほど、そうだったわ……」

 悠記さんも納得したような同意の言葉を呟いた。

 少女は小さく笑って、

「こちらです」

 白い玉砂利が敷き詰められ、よく手入れされた玄関までのアプローチ。その奥に和風の旅館のような様式の建物があった。わたしがあまり物珍しそうに見るものだから案内の少女が気づいて、

「ここが寮の母屋です。以前はご来賓の宿泊施設として使われていたらしいです」

 と、説明をしてくれた。

 エルフィン寮とはずいぶん雰囲気が違う。わたしたちの寮はこぢんまりとした洋館なのに対し、カメリア寮は大きな純和風の旅館といった感じだ。これだけの広さがあれば所属する生徒が多いのは頷ける。

 寮の中には入らないのかしらと思いつつ、案内されるままに作務衣の少女について行くと、母屋を通り過ぎて、違う場所に誘導された。脇のほうから左手へと延びる小径を、わたしたちは辿った。

 たびたびカメリア寮に来ているという悠記さんも、「こちらにお邪魔するのは初めてだわ」と物珍しがっている。

 道は裏手の藪へと続いていた。藪、といっても放置された叢ではなく、意図的に植物や石が配置され、人為的に構築された、凝った空間であることが一目でわかる。

 先には中門があり、足元の飛び石には打ち水がしてあり、その向こうに小さな建物が見えてきた。茅葺屋根の、質素で趣深い庵のような建物である。

「こんにちは。ようこそいらっしゃいました」

 中門のところで待っていたのが、和服に身をつつんだ生徒会長の古部織耶さんだった。制服のときとはちがってまた一段と凜とした佇まい。

「こんにちは、古部先輩」

 わたしも身が引き締まる思いで丁寧にお辞儀した。

「まあ千代璃さん。来てくれて嬉しいわ。どうぞ」

「あら、お茶室ね?」

 悠記さんが嬉しそうに言う。紅茶専門かと思っていたら日本のお茶にも興味をそそられるらしい。めったに感情的にならない彼女が子供のようにはしゃぐ姿は微笑ましい。

「ええ。折角ですから一服差し上げようと思って」


 お茶室で古部会長直々のお点前によるお茶を頂きながら、他愛のない話をしていると、悠記さんがとうとう我慢しきれないというように切り出した。

「それで、今日のお話の向きは一体……」

「生徒会室だと他の生徒も聞き耳をたてていますからね」古部会長は言い訳のように呟き目線を伏せると、「実は、二週間後の『寮対抗戦』のことなのだけど……」

 と、なんだか言いだしあぐねていたようすだ。

 わたしの予想した通り、話というのはやはりオリエンテーリング大会のことだった。一般生徒の知らぬところで行なわれるという『裏競技』――寮対抗戦のことに違いない。

「ああ……カメリアは誰を出すんです? また香月こうづきですか?」

「いいえ」と、古部会長はかすかな笑みを浮かべ、茶道口の奥のほうに声をかけた。「お入りなさい」

「はい、失礼いたします」と、入ってきたのはさきほどの作務衣の少女だった。

「今日は、この子を引き合わせたかったのですよ」

「一年一組、薬袋みない小柚子こゆずと申します。よろしくお願いします」

 やはり彼女はわたしと同じ一年生だった。一組だというが、あいにくわたしは彼女のことを知らなかった。彼女は居住まいを正して深々と一礼した。わたしも頭を下げる。数秒経っておそるおそる頭を上げると、少女は正面からわたしに視線を固定している気がして、たじろいでしまった。

「カメリアからは今年の寮対抗戦の選手として、この小柚子が出場することになりました」

 藤色の作務衣の少女が誇らしげにもう一度、こんどは軽く、頭を下げる。選手に選ばれたことが彼女にとっての喜びであることがありありと伝わってきた。会長の言葉の重みをあらためて噛みしめているようにも感じられた。

「そうですか。こちらこそ、よろしくお願いします。薬袋さん」

 悠記さんは穏やかに返したが、内心戸惑っているのがわたしにはわかった。

 わたしの勝手な想像でしかないけれど、どうも香月さんというのが去年の寮対抗戦の優勝者で、悠記さんが争って負けた人物だと思われる。悠記さんはてっきり今年も香月さんが出るのだと思い込んでいたらしく、それで意外に思ったのだろう。香月さんに何か特別な事情でも出来したか、あるいはともすると、この薬袋小柚子さんという人は、一年生でありながらその香月さんをも上回る実力者なのかもしれない、ということだ。

 その間もずっと薬袋さんはわたしに視線を合わせている。鋭い視線。こころなしか睨まれているような気もしてきた。

「聞くところによるとエルフィン寮は珂白さん、あなたが選手の選定について任されているとか」

「ええ。上級生たちは全面的に私に委ねると言ってくれています。でも実際のところ私は皆の総意を参考にしたいと思っています」

「それで、エルフィン寮は、誰を出すおつもり?」と、古部会長がさりげなく悠記さんに聞く。

 なるほど、これはカメリアとエルフィンの前哨戦――探り合いなのだとわたしは理解した。互いの寮はライバル同士。ある程度の情報を開示して互いを牽制し合う、あるいは内情を探り合う、そんな場なのだ。そこにわたしは場違いにも居合わせてしまったというわけだ。

「実はまだ迷っているんです」と、静かに微笑む悠記さん。「むろん候補は何名かいて、おそらくは光嶋みつしまになると思いますけど、一年生のすみがいいのでは、という意見も多くありました。ただ、現在の角ではまだ今ひとつ、物足りないところがある。いまのところは光嶋と角と、半々というところでしょうか」

「なるほど」と古部会長は一拍おいて、「実はね、珂白さん。折り入ってお願いが……」

 言いかけたとき、薬袋さんがそれを遮った。

「会長。私から申し上げます」

「いいえ。あなたは黙っておいでなさいな」と、きっぱり拒絶する。

「それでは会長のお立場が……」

 しかし古部会長はそれを身振りで制して、

「私の立場などたいした問題ではありませんよ。そもそもお二人をお招きしたのはこの私なのですから」

「でも……」

「ここには我々しかおりません。珂白さんと千代璃さんがこのことを問題にし、公にしようとするなら」と古部会長はなぜかわたしを見て、「私たちの話を聞いたあとでそうしようとするならもちろん、それはそれでかまいません。仕方のないことです……」

 見るに見かねて、悠記さんが言葉を発する。

「何です会長。さっきから奥歯にものがはさまったようなことを。はっきりとおっしゃってください。私がそういう話の通じる性格でないのはご存じのはず。お二人がお気にされていることが問題かどうかは、お話を伺わないと解りません」

「まったくその通りだわね」と会長は苦笑した。居住まいを正して、「これは単純なお願いの筋の話です。非常識ではありますけれど」と、まだ勿体ぶった言い方を続ける。なんだか相当話しづらそうだ。

 そしてやっと決心をしたように、

「千代璃さんを、寮対抗戦の代表選手として出場させることをエルフィン寮の皆さんとご検討いただきたいのです」

 と、二人そろって頭を下げた。

 なんと意外な。

「わ、わたしですか?」

「ど、どういうことです?」

 わたしはもちろん、悠記さんも目を白黒させた。

 いきなりのことで驚いたが、わたしのことはさておき、冷静に考えると会長が逡巡していた意味は理解できた。本来、寮対抗戦の選手を誰にするかは寮の者たちに委ねられるべきだ。前もってそれに口出しをするなど、ましてや生徒会長の立場で……ありえないことだった。

「千代璃さん。ぜひこの小柚子と、競ってやって欲しいのです」

「いったい、どういうことですか?」と悠記さん。

「小柚子はこう見えて、昨年の優勝者である香月をも凌ぐ実力者です」

「はい?」

 古部会長は何を言っているのだろうと思った。そんな人の相手に、わたしがなるわけがない。もしかしてこの人は、わたしをだしに使ってエルフィン寮に対する優位性を誇示したいだけではないのか。

 それとなく悠記さんが窘めるように目配せした。心の中が態度に現れてしまったことを瞬時に反省して、わたしは身を縮こまらせた。

「千代璃さん、あなたは覚えているかしら? わたしと初めて逢ったときのこと」

 古部会長はわたしが一瞬見せた無礼な声色を気にもとめず、言った。

「はい。よく覚えていますが……」

 先生に頼まれて生徒会室へ書類を届けたとき、廊下の向こうからちょうど戻ってきた古部会長と出くわしたのだった。

「あなたはあのとき私が穏形おんぎょうしていたのにもかかわらず、声をかけてきたのよ」

 穏形――何かの本で読んだことがある。相手に悟られぬよう自分の姿を消すという呪法のことだ。ということは、古部会長もやはり不思議な力を持っているのだ。

「あのとき、生徒会は会報の出版が遅れに遅れていて、修羅場状態だったのよ。煮詰まっていた私は、ちょっとサボって息抜きしようと皆に内緒で外の空気を吸いにいってきたところだったの。穏形中の私の姿は誰の気にも止まらないはずだった。それをあなた、平気で見抜くんだもの。とても驚いたわ」

 わたしは呆然とした。

 たしかに言われてみると、会長は不自然な驚きの声をあげていた。

「なるほど」と、悠記さんは難しい表情で、「だから奏は対抗戦でも『見抜く』力をじゅうぶん発揮できるだろう、というわけですか」

「ええ。その通りよ。穏形とは真実を隠す術。これを見破る力は対抗戦において最も必要とされる能力です」

「しかし……わたしはその『寮対抗戦』についてほとんど何も知りません……」

「あら。珂白さんあなた、千代璃さんに説明していないの?」

 悠記さんはほんのわずか、わたしのほうへ視線をむけてから、重々しく口を開く。

「説明はしていますよ。そういう催しがあるということは。けれど出場選手としての知識は必要と思わなかったので伝えていません。それはそうです。上級生も私も、奏には選手としての力がないと判断していますから」

「そうでしょうか?」

 古部会長の目は真剣だ。どこか凄みをも帯びていた。

「……」

 悠記さんは困り果てて腕を組み、目を閉じた。

「カメリアとして――いえ、私としては、千代璃さんを強く推薦したいのです」

「しかし、正直そのお言葉通りに受け取っていいものやら……」

「私に何か別の魂胆があってこんなことを言っていると? まあ確かに、そう思われても仕方ありませんけど……」

「我々エルフィンの上級生たちが奏を適任でないと考える以上、会長の提案に従うということは、カメリアの政治的圧力に対してエルフィンが忖度をした、ということになりましょう」

「ば、ばかな! 断じてそのような!」

 気色ばんだのは小柚子さんだった。対照的に、古部会長の態度は冷静だった。

「たしかに、そうお考えになってもおかしくないことを私たちは言っています。ですからこれは、単純なお願いの筋と申し上げたでしょう」

 悠記さんは大きくひとつ息を吐くと、

「まあ、お話しは承りました。ですが選択するのはあくまでも――」

「ええ、もちろん、エルフィンの選手はエルフィンの方たちで公正に選ぶべきです。私は単に選択肢をひとつご提案しただけ。たとえ私たちの願い通りにならなくても、私たちがとやかく言える権利はありません。ただ、私たちが千代璃さんを推薦するのはよこしまな考えからではありません。エルフィンの方たちが千代璃さんの素晴らしい才能に気づいていないのなら教えてさしあげたいと思ったこと、そしてカメリアとしてはそういう力のある選手と存分に競いたい一心からだ、と誓って申し上げておきます」

「わかりました」

 悠記さんは大きく息を吐き、諦めたように頷いた。

 ややおいて古部会長は静かに口をひらいた。

「このオリエンテーリング大会はかつてカメリア寮の生徒の提案から始まったものだと聞いています。ですから私たちの思い入れも強いのですよ」

 会長はわたしに視線を向けて、訥々と自分の考えを語りはじめた。

「私たちは普通の人に混じって生活をしていながら、それでもやはり普通の人とは根本的に違っています。人間にはない特殊な『力』を持っている私たちは、その力を秘匿し続け、人の中で人の真似をし続けて、ひっそりと一生暮らしてゆくべきなのでしょうか? 私たちカメリアの寮生たちは、そうは考えていません。自分に備わった力を単に自らの性質というにとどめるだけでなく、能動的に使いこなそうとします。それが自分たちであることの証明や誇り――アイデンティティに繋がっていくのではないかと信じているからです。千代璃さん、あなたはとても素晴らしい才能を持っている。その才能はけっして恥じたり、封印したりすべきではなく、自分の能力として認め、積極的に使いこなしてこその才能です。人間に迎合するなと言っているのではありません。学園長先生もおっしゃるように、わたしたちの『力』は人に開示するにはあまりに異質です。今の社会が私たちの存在を認めにくい状況であるということは充分心得て然るべきです。ですがこれを敢えて無いものにすべきではない。力は使うべき時に役立ててこそ意味がある。その時のために我々の能力は普段から磨き、切磋琢磨すべきなのです。――そう、思いませんか?」

「よく……わかりません」

 それはわたしの本音だった。聞けば確かに会長の言うことは正しいことのように思う。だからといってその能力を磨く義務があるみたいな言いようは、わたしをはじめ、エルフィン寮の皆には馴染まない。角くんが言うように、『ちょうどよい』生き方をしていくことこそがわたしたちにとって大切なことだ。むろんそれは切磋琢磨をしないということではないが、ことさら異能力に拘泥しそれを伸ばすために修行のようなことをすべきだというのは、極端だという気がしてならない。だからわたしは、曖昧に頷くしかなかった。


「よく堪えたわね」帰りの道すがら、悠記さんが感心したように言った。「奏なら強硬に固辞するかと思ったけれど、そういう言葉は出なかった」

「えへへ……」

 わたしは照れて気のない笑いを返した。

 わたしが内心無理だと思いつつも強硬に固辞しなかった理由――それは薬袋小柚子さんのあの挑戦的な視線のせいだった。彼女の目がわたしへの対抗意識を燃やしているように感じたからだった。昨年の優勝者をも凌ぐ力量を持った選手がどうしてわたしごとき者にあのような敵意を剥き出したのかはさっぱり解らない。しかし、わたしもここで引きたくないと思った。この人には負けたくない、と肩肘を張ってしまったのだ。

「どう思う?」

 とは、古部会長が裏競技の代表選手としてわたしを推したことを言っているのだろう。

「越権……だと思います」

「そうね。ただ、誰にせよ選手はいずれ決めないとならない。成り行き上ああは言ったけれど、私は奏が選手としてあながち不適だとも思わない。いや、さすがは古部織耶――奏の力を見抜くなんて、目の付け所が違うと言わざるを得ないわね」

「悠記さん、それはどういう……」わたしは困惑した。

「うふふ。私の耳にも入っているわよ。先日の奏の『夜遊び』の件」

「よ、夜遊び!?」

 例の『柳の丘』のことだろうとすぐに気づいた。

 人の口に戸は立てられない。ましてやあの場にいたのはシュワルラリカの他に、角くんと累くんだ。二人と仲のよいロロ先輩あたりから漏れたのだろうか。とはいえあのことは朝乃さんにも当然ばれてしまったわけだし、とくべつ口止めをしたわけではないから、誰からと言わず寮の皆に知れ渡っていてもおかしくはないけれど。

 シュワルラリカをして『かなり重い』と言わしめた柳の丘の結界を、わたしは全く感じることなく容易に破ってあの丘に入り込んでしまった。わたしにすれば『ただそれだけのこと』をどうして皆が何かにつけて話題にするのかがいまだによくわからない。しかし『結界破りの奏』というレッテルは確実に寮の中でひろまりつつある――いや、そればかりでなく、学園内で浸透しているのかもしれない――そう感じて身が縮む思いがする。

 どぎまぎするわたしをよそに、悠記さんは、

「寮対抗戦について奏には詳しいことは話していなかったけれど、せっかくだから説明しておくわ」

 と、わたしのために教えてくれた。


 柏葉学園高校のオリエンテーリング大会は団体戦だ。寮対抗戦の代表選手は一般生徒のチームにひそかに混じって参加する。『ひそかに』というからには、一般生徒には悟られないよう行動しなければならない、ということだ。また、裏競技を戦うためにわざとはぐれて単独行動をとったり、チームの和を乱したりしてはならない。フィールドには通常のコントロール(チェックポイントのことだ)とは異なるコントロールが設置されている。一般の生徒にはもちろん見つからぬよう、強力な封印が施されている。寮対抗戦の選手は、チームでコースを廻りながら、どこかに隠されているコントロールを探し出し、その状態を把握し、ゴール後にそれがどうなっていたかを回答する。


「簡単でしょ。要は通常のオリエンテーリングと大差ないのよ」

 昨年度の準優勝者がいう『簡単』は、わたしには到底そうとは思われない。一般生徒と行動を共にしながら気づかれないように――という時点でもうどうしようもなく困難なことに違いないと確信する。一般生徒に悟られないようにするには『表の』オリエンテーリングにもチームメイトとして貢献しなければならないということだ。言うなれば二つのオリエンテーリング競技に同時参加するようなものだ。いったいどうすればそんな芸当ができるのか。

 そもそもわたしは、オリエンテーリングそのもののルールを知らない。そんな初心者がどうしてチームの足手まといにならずに競技をこなせるものだろうか。

 素直にそれを言うと、悠記さんは、

「大丈夫よ。要は地図とコンパスを頼りに、最も効率の良い方法で順番にコントロールを回るだけ。オリエンテーリングといってもいろいろあるのよ。本来は個人競技で、タイムを競うとてもハードなスポーツだけれど、うちの学校のはチームでハイキングをするようなものだし、裏競技はタイムを競うものではないから大丈夫。コースだってそんなに難しくはないし、それにこの大会、基本は全員参加なのよ?」

「えっ、そうなんですか?」

「ええ。特に健康上とかの理由がない場合は参加しなければならない。参加形態としては部活枠とクラス枠があって、部活でチームを組んで参加してもいいのだけど、そうでない場合はいずれクラス内で編成されるチームの一員として出場することになるのよ。毎年、運動部の連中はそれはもう張り切るわね。でもそんな連中に勝つ必要はない。寮対抗の選手にだけ勝てばいいのよ」

「でも、もし裏競技の選手が運動部の人だったら……」

「言ったでしょう。裏競技はタイムを競うものではないって。実際必要なのは純粋に『見抜く力』それだけだわ。裏競技のコントロールは『表』のコースを正しくたどれば必ず見つかるから。もちろんその点において表の競技に求められる基本的な能力は必要ではあるけれどね。言っておくけど、オリエンテーリングって、必ずしも足の早い人が勝つものでもないのよ。地図を正確に読む力であるとか、地図から実際の地形を想像できる力であるとかが本当に重要なの。体もだけど、頭だって使う知的なスポーツなのよ。いくら足が速くたって地図の読み方を間違えば、コントロールを見つけられずに右往左往することになってしまうからね」

「他の寮の選手は……」そこでわたしははじめて、カメリア以外の寮に考えを及ばせた。「どうなんでしょうか」

 間の抜けたことに、今までわたしはわたしのエルフィン寮の他にこの学園にどんな寮があるのかを気にもとめずにいた。きょうカメリア寮を訪問して、この学園には他にも構内寮があり、それぞれの寮には特徴があって、みなその中で暮らしているということに初めて思い至ったのだった。エルフィン寮での生活がとても満たされていたがゆえに、寮の外にまで目を向ける余裕がなかったのだ。

「どう、とは?」

「カメリアにいずれ劣らない選手たちが出るのでしょう?」

「他の寮の連中? あいつらは放っておいていい。いずれ劣らぬへっぽこ揃いだから」

「へっぽこ……」

 悠記さんがそう言ってヒラヒラと手を振るので、わたしは苦笑した。

 先を行く悠記さんはわたしを振り返って、

「そういえば、あの夜に奏が入り込んだという結界なのだけれど」

「はい」

「私もちょっと気になるわね」

「どうしてですか?」

「この辺りにそういう結界があるらしいという噂は私も聞いていたけど、実はそのことじたいを今までまったく意識してなかったのよ。もしかすると、話そのものを誰かが意図的にコントロールした可能性があるように思えてね。私なら、もしその話を聞いたらすぐにその場所に行ってみようと思うに違いないのだけれど……」

「噂話じたいに穏形の術のようなものがかけられていたということですか?」

「そうかもね」

「でも……」

 それがロロ先輩の口から語られたというのは……。

 申し訳ないけれど、ロロ先輩がそういう感覚に聡いという気はしない。

「それも奏の影響かもね」と、わたしの思考を読み取ったように悠記さんが言う。

「わたしの?」

「あはは。そうかもしれない。そうじゃないかもしれない」

「例のハープの話をロロ先輩にしたのは、卒業生の『とき先輩』という人だそうです」

「時先輩が?」

 悠記さんはそれきり黙り込んでしまった。

「時先輩という人をご存じなんですか?」

「あのシーオーク……」

「はい?」

「い、いや、何でもない……」

 話自体が誰かにコントロールされていた……ということならば、その時先輩という人が最も怪しいことになる。

「あの……」

「物静かで、大人びた人だった。やけに話しに説得力があるというか……」

「もしその人があの結界の作り手だとするなら、いったい、何のために……」

「早とちりは良くない、奏。時先輩はとても優秀だったけれど、重い結界を作れる人ではなかった」

「行って……みますか?」

 思い切ってわたしは聞いた。

「これから?」悠記さんは真剣な目をしてから否定した。「行かない行かない。今日はよしておきましょう。早く寮に帰って朝乃さんのご飯を食べたいから。森の中を歩いてもう腹ぺこだもの。奏だって疲れたでしょ」と、取り繕うように笑った。

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