第五回 夢見る柳

 わたしは『動かざる生命』と交感することがある。草や木たちがわたしのふところにするっと入り込んできて、さまざまなことを耳もとで囁きだす。わたしは彼らの言葉に静かに耳を傾ける。慎重に。

 かつて誰かから聞いたことがあった。植物との交感はときに危険なこともある。あまり踏み込まないように注意しなさい、と。あれは誰の言葉だったろう。

 いかに小さな存在であっても、それらはわたしたちと変わらない。草木たちにはかならず精神性があり、個性が存在する。個性には色があり、主張がある。彼らの主張は『動く生命』たちの論理には縛られない。もっと多岐で広汎で、理解しがたいものだ。体のつくりが違うのだから、当然といえば当然のことだ。わたしたちが彼らと交感したといっても、けっして心でわかり合った気になってはならない。


 そのことに関して、わたしの知らなかった話、あとで寮の男の子たちに聞いて知った話がある。


 この界隈の森のどこかに、山肌が露出してなだらかな丘のようになった場所がある。どういうわけかその一帯だけには他の雑木が生えず、枝ぶりの見事な一本の柳がひとりぽつんと立っているという。月の夜、その柳の傍に、まれにハープが忽然と姿を現すことがある。その音をけして聴いてはならない。夢の中に取り込まれて二度と帰れなくなってしまうから――という話。


 でもそのときのわたしは、その話を部分的にしか聞いていなかった。


「何の話?」

 夕食を終えて部屋に戻ろうとしたとき、通りがかりに声がした。男の子たち――角くんとロロ先輩、そして累くん――が談話スペースで何かひそひそ話しをしていたので、興味本位で声をかけた。彼らはこのごろではすっかりうちとけて、ずっと一緒に行動しているみたいだ。口の悪い先輩たちが彼らのことを『三バカ烏』などと、ひどい揶揄をいうので、可哀想にと思いながらも微笑ましく見守っていた。

「うぎゃっ!」

 素頓狂な声を上げたのはロロ先輩だった。

「……なんだ奏ちゃんかよ。おどかさないでくれよー」

「わたしのほうこそ、びっくりしたわ。なに? お化けの話でもしていたの?」

「ま、まあ、そんなところだね」

 当てずっぽうで言ったのだが、どうやら当たりだったみたいだ。わたしはふと先日の津田くんとの会話を思い出した。彼はわたしや累くんのことをどうも『霊能者』か何かだと思っているらしいのだ。言われてみるとなるほど、ふつうの人にとっては似たようなものなのかもしれないと思う。その霊能者集団が夜話しして、飛び上がるほど怖がっているのはなんだか滑稽だった。

「ここの近くの丘に現れるハープの話しさ」と角くん。

「ハープ……」わたしは宙を見上げ、しばし考えに沈む。「ハープって、あの楽器のハープのこと?」

「そうだよ」とロロ先輩。

「丘に、どうしてハープがあるの? 外でしょ?」

 それがお化けの話なのだろうか。

「どうしてかなんて知らないよ。そういう話っていうだけなんだから」

 どうも当を得ないと思った。

「音を聞いたら帰れなくなるそうだよ」

 累くんのつけ足しでやっと得心がいった。そこがこの話の重要なところなのではないだろうか。以前から思っていたことだけれど、ロロ先輩の話し方は肝心なところが省略されてしまうことが多く、理解しがたい。

「ふうん……」

 いわゆる学園の七不思議のたぐいだろうか。あの手の話は誰かが単に面白がって創作した眉唾ものであることが多い。

「僕この辺りはけっこう走り回ったと思うけど、そんな場所知らないな」と、角くんがやや不服そうに首を傾げる。

 角くんは一角獣だ。二日月の夜にはその姿を本来のものに変え、森の中を一晩中奔放に走り回っている。とはいえわたしたち一年生はまだ入学数か月目。角くんが以前はどうしていたのかは知らないが、この辺りの森は二、三回くらいしか探索していないはず。見落としている可能性はある。

「奏ちゃんは、そういう話があるのを知ってた?」

「初めて聞いたわ」

「だろうね」

「誰から聞いたの?」と、わたしは三人を見まわす。

「んー」と目を細くするロロ先輩。「この寮にいた、卒業しちゃった先輩さ。とき先輩っていう」

 すでに卒業してしまった先輩の名前を言われてもわたしには解らない。でも、もしその時先輩という人の話が真実なら、むしろこの寮ではもっと公になっていてしかるべき話題ではないかとは思った。それは一般生徒たちには秘匿されるべき、の話だからだ。

 ハープの話しは初耳だった。でもわたしの聞き間違いでなければ、さっき彼らの前を通りかかったとき、『柳の木が……』という声も聞こえた。柳というなら、わたしにも多少の心当たりがあった。

 皆にはあえて言わなかったけれど、エルフィン寮から歩いてすぐ近くのところにその場所はある。そこだけどういうわけか森の木々がなく、ほぼ円形にくりぬかれた広場になっている。あの場所を『丘』というならそう呼べないこともない。そしてその中央には一本だけ、枝振りの見事な柳が立っている。たしかに霊性というべきものは感じられる場所だ。その一角だけなんらかの力が働いているようには思えるが、わたしなんかにはそのくらいしかわからない。

 わたしはここへ来たばかりのとき、偶然にもその場所を見つけた。特別な雰囲気のするその場所をわたしはたいへん気に入ってしまった。そこをわたしの秘密めいた場所にしたくて、あえて誰にも言わず、時に関係なくしばしばそこへ行って、本を読んだりまどろんだりすることがあった。とはいえ歩いてすぐの場所なので、寮のみなは当然知っていて不思議はなさそうに思う。

 あの柳のことを思い出したら急に会いたくなってしまった。そしてその晩、わたしはこっそり寮を抜け出して、外へ出たのだった。


 都会で暮らしていた頃も、わたしはしばしば家を抜け出し、真夜中の散歩を愉しむことがあった。一緒に暮らしていた伯母さんに見つかってはよく叱られたけれど、それでも止められなかった。あの頃のわたしにはそうすることが必要だったからだ。そうでもしないと自らの精神を保っていられなかったのだ。夜の散歩に限らずとも、とにかく、自分の心を平静に保つための何かは必要だった。今では必要にかられて、ということはなくなったけれど、その癖だけは抜けきっていないのだな、と苦笑せざるを得ない。

 少しひんやりとする夜気の中を、わたしは歩いた。あの頃を思い出して心が落ち着いてゆくのを感じた。わたしは西側に広がっている森の中へと、ひとり踏み入った。

「たしか……こっちだったはず」

 こんな夜中にひとりで出歩いて、もし誰かに気づかれでもしたら、朝乃さんにもみなにも心配をかけてしまうかもしれない。いや、どうせわたしの行動など朝乃さんはすべてお見通しに違いないのだ。これまでにも何度かこうして寮を抜け出したことはあるが、何も言われたことはない。十中八九、朝乃さんは知っていて知らぬふりをしてくれている。もし怒られたら素直に謝ればいい。


 記憶を頼りにしばらく森の中を歩いてゆくと、森がとぎれ、開けたなだらかな斜面に出る。差し渡し五十メートルくらいにわたり、森がぽっかりと円形にくりぬかれている。

「ハープなんて、やっぱりないわよね……」

 わたしはひとりごちる。わたしがこの場所に霊性を感じるのは、この場所だけがいわゆる日本の山林とはまったく違う雰囲気を醸しているからだ。まるで誰かによって手入れされたように整った詩的な空間。一面に生い茂っている下草も日本の雑草とは明らかに違うし、単に斜面とか山肌というよりもどこか外国の丘陵地帯の一部を思わせるような場所でもある。

 広場には月の光が煌々と降りそそぐ夜。そして中心には、あの柳の枝が風に吹かれてさわさわと揺れていた。

 わたしは柳の木に近寄り、幹にもたれかかった。

 丘のいちめんに生えている下草たちがゆれ靡いて、全体で心地の良い交響楽を演奏しているかのようだ。わたしは柳の根元に腰をおろした。ぽっかりと開けた空に初夏の星座がよく見える。葉擦れの音を聞きながら、わたしはゆっくり目を閉じた。


 柳の木はわたしに夢を見せる。

 それは柳自身が見ている夢なのか。


「よく来たね。奏」

 夢の中で柳はわたしを歓迎する。声は女性のようでもあり、男性のようでもある。

「みんながね、たぶん、あなたの噂話をしていたわ」

「ほう……」

 柳は、それ以上のことは口にしない。ほんらい草木は気が長くて、気にすることといえば天候のことばかりだ。わたしもとりたててそれを言いたかったわけではないので、話題を変えた。

「今日は月の光がとても綺麗だわ」

「そうだ。月の光がとても美しい」

 淡く水彩のように滲む月。月光とはすなわち太陽の光である。月は自ら発光しない。ただ反射しているだけなのに、直接の陽光とはこんなにも違う性質を備えている。どこか妖婉で、危うい成分をはらんだ光。ただその危うさはわたしたちのどこかにも必ずあって、響き合う。だから月の光はこんなにも落ち着くんだ、と思った。

「?」

 まどろみの中、何かの気配を感じて薄目を開けると、いつしかそこに黒い影が佇んでいる。

 それが、ポロンと音を奏でた。

「あっ」

 それは、ハープの音色だった。

 みんなが話していたのはこれのことかな、と思う。

 奏者はいない。煌々とした月影のステージに立つハープが、ひとりでに音を紡いでいる。まるで降りそそぐその光が奏者自身であるかのように。

 丘に立つハープ。

 ――音を聞いたら帰れなくなるそうだよ。

 累くんの声がリフレインする。けれど不思議と恐怖は感じなかった。この音色は純粋で、いかなる思惑も含んでいないように思われる。いかなる魔も悪も、微塵も感じられない。わたしはそのやさしい音色にいつしか聞き入っていた。

 ハープの奏でる音はバロックのような、いにしえの調べだった。あるいはもっと古い、民族的な音楽のような土の香りも混じっている。その旋律によって呼び起こされる無数のイメージが音のひとつぶひとつぶを介して耳から溢れこんで、からだをめぐり、心をかきまわす。

 聞いたことのない音楽。

 ――ああ、なんて心地よい音楽なのかしら。

 わたしはいつしか再びまどろみの底へと誘われていった。


 笑い声がする。

 それはわたしの幼い頃のものだ。

 傍らにいたのは大人。

 大きな男の人だった。

 わたしはまだ歩くことさえおぼつかず、数歩あるいてはその腕の中へ倒れ込んだ。

 優しい腕が抱きとめる。

 大きな手がわたしの頭を撫でる。

 ――ディナリ。

 その人はわたしのことをそう呼んだ。

 その声が優しくて、心を裂かれるほど懐かしくて、わたしは涙を流す。

 ――おとうさま。

 わたしはその人をそう呼んで、顔を寄せる。すると驚いたことに、その人もわたしと同じように泣いていたのだった。そしてわたしを抱きしめた腕にぎゅっと力がこもって、

 ――ああ、ああ。

 と、嗚咽した。

 ――おとうさま、どうして、泣いているの?

 わたしはいま自分が哀しかったことも忘れて、無邪気にそのわけを尋ねる。

 ――ああ、それはね……。


 そこで突然夢が途切れた。目覚めると丘の上のハープは、まるで月の光に溶けたかのように、どこかへ消えてしまっていた。柳の木も硬直し、森の木々たちと同じように、あとは月影のもとで、ただ風に佇む存在に戻っていた。

 わたしは下草の上に腰をおろしたまま呆気にとられていた。今までにこんなみじかくて、唐突な終わりはなかったように思う。一体何が起きたのだろう? いきなり現実世界に引き戻されたような気がして、少しだけ不安を感じた。

 その理由はすぐに判明した。

「……おーい……」

「奏ちゃーん……」

 遠くで複数の人の声がしている。やはりわたしが寮にいないことが知れて、きっとみんなで探しに来たのに違いない。まずいことになった。わたしはあわてて頬の涙をぬぐうと、立ち上がって声のするほうへ踏み出した。すると、木立の一角がぼうっと燐光を発し、そこからエルフの少女が現れた。

「奏」

 シュワルラリカだった。

「シュワルラリカ……」

 その後から藪をかき分けて、男の子がふたり、顔を覗かせた。彼らは森の端からわたしのいる場所まで走り寄ってきた。

「角くん……累くんも……わたしを探しに来てくれたの?」

「そうだよ」

「ここは……」累くんが不思議そうに辺りを見回して、「あっ」と柳の木を指さし、「か、奏ちゃん……ここってまさか……」

 わたしはただ黙って苦笑いすることしかできなかった。


「たまにふらっといなくなるのは知っていたんだよ」

 寮へ戻る道すがら、角くんが言う。

「心配かけてごめんなさい。朝乃さんは?」

「『放っておいたらそのうち戻ってくるわよ』っていうんだけど」

 やっぱり彼女はたびたびわたしが寮を抜け出していたことをお見通しだったのだ。戻ったら謝って、それから何をしていたのかをあらためてきちんと報告しないとならないだろう。

「いつもなら心配しないけど、さっきあの話をしていたからね。累と探しに行こうとしたらシュワルラリカも一緒に行くっていうんで」

「そうだったの。本当に、ごめんなさい」

「いいのよ。奏はあそこで何をしていたの?」

 シュワルラリカはただ純粋な興味でわたしに尋ねたようだったが、

「それは……」

 わたしは言葉につまった。

「もういいよ。何もなかったんだから。でも今度から黙って寮を抜け出しちゃ駄目だよ」

 角くんはまるで保護者みたいなことを言う。角くんだって二日月の夜は一晩中森の中をほっつき回っているくせに。わたしは心の中でちょっと反発した。わたしたちはふつうの人間とは違う。夜だから危ないとか昼だから大丈夫というのは、あまり意味のないことなのだ。

 すると累くんが、

「まさか、ハープの音、聞いてないよね?」

 彼はわたしが例のハープの音につられて寮を抜け出したのではないかと疑っているようなそぶりだ。

「あ……うん、もちろんよ。聞いていたとしたら、わたしは今ごろここにはいないはずよね?」

「ああ、そうか、そうだよね」と、累くんは笑った。

 とても正直には言えなかった。あれは間違いなく件のハープだったと思う。そしてあの柳の丘はその舞台となった場所。噂の場所は本当にあったのだ。でもハープの音を聴いたからといってわたしがどこかへ連れ去られるようなことはなかった。ただ涙が出るほど懐かしい気分になっただけだ。噂話はあくまで噂であって、戻れなくなるという怪談めいた話はきっと虚構なのだろう。ただ、このタイミングでハープの存在を言ったら、間違いなく彼らは騒ぎ立てるだろう。そうなればわたしも二度とあの柳のもとに通うことができなくなってしまうかもしれないと思って、正直に話すことをやめた。

 あの場所はわたしにとって大切な場所だ。それを妙な怪談噺で上塗りされたくはない。

「こりゃロロ先輩が時先輩って人に担がれたかな……でも全然知らなかったな、寮のすぐ近くにあんな場所があったなんて」と、角くん。

「別に隠していたわけじゃないのよ」

 わたしは言い訳がましく言った。

「わかってるよ」

 角くんは二日月の夜、一角獣になってこの辺りの森をあちこち走り回っている。だから寮のすぐ近くの柳の丘を知らなかったことがたいへん意外だったようだ。というよりも、若干自信を傷つけられ、しょぼくれているようにも見えた。

 するとそれを見越したようにシュワルラリカが、「たぶんあんただから発見できなかったんでしょ」と、やや冷たい口調で言う。

「それって、どういう意味さ? シュワルラリカ」

「結界がめぐらされていたのよ」

「えっ……」

「そうだったの?」

 わたしも意外に思って、シュワルラリカに問いかける。

「奏にはまったく効かなかったみたいね。もちろんわたしにもだけど」

 淡々と言いながらも彼女は少し自慢げだ。それで、森の端からあの場所にシュワルラリカが現れたとき、ぼうっとした燐光に包まれていたのだ。

「僕らにも結界があるんだねえ」

 角くんはきっと学園長先生のことを頭に思い浮かべているのだろう。先生は人間に対してばかりでなく、わたしたちに対しても、この学園内にいろいろと仕掛けを施しているのではないだろうか、と疑っている顔だ。先の怪談話があっただけに、『ならばあそこはやはり危ない場所だったのでは』と角くんは考えているらしい。

「奏」歩きながらシュワルラリカがわたしの耳もとで、わたしにだけ聞こえるように囁く。「あそこで何をしていたのかは聞かない。けどこれだけは言っておくわ。ああいう植物と親しくするのは危険よ。それに、あの場所はかなり変わっている。とても不安定な場所だわ」

「う、うん……」

 彼女の口調は冷たく、厳しかった。


 寮に戻ると訳知り顔の朝乃さんが待ち構えていて、「行くなとはいいませんけれど、どうせなら昼間にしなさいね。そうしないと皆さんがまた心配しちゃうから」とひとことだけ言われ、それ以上の追求をされることはなかった。

 ということは、朝乃さんもやはりあの柳の丘の存在を知っていたのだろう。シュワルラリカはああ言ったが、朝乃さんがあのように言うのならば、あの丘はただの丘で、けっして危ない場所なんかではないのでは? 大した理由もなく、なんらかの結界が偶然とり残されているような場所だっただけかも知れない。


 その晩、ベッドの中でわたしは、さきほどのまどろみで見た夢について思いをめぐらせた。あれはただの夢だったのだろうか。わたしを『ディナリ』と呼んだあの人を、わたしは『おとうさま』と呼んだ。ところが実際のわたしの父は、あの夢の『おとうさま』とは全くの別人、似ても似つかない人だった。


 わたしの父は、小さな町工場の経営者だった。わたしはここの隣の県のD市で生まれ、十三歳まで両親のもとで何不自由なく育った。わたしの両親は、わたしの見る限りごくふつうの一般的な人だった。わたしのように特殊なできごとが常から身の回りで起こるようなこともなく、日々の生活に追われながらも、ひとり娘のわたしに愛情を注いでくれた。だからわたしはこのわたしの生まれついての妙な性癖を両親にさえひた隠しにして生きていた。

 小さな工場を切り盛りしていた父、それを支えていた母。そんな両親が揃って病気で亡くなって、わたしはとつぜん独りになってしまった。それが二年前の春のことだった。

 父の工場は閉鎖され、その後わたしは父方の親戚の伯母に引き取られて、その家で暮らすことになった。哀しみと絶望と孤独と不安の中で、中学校だけはどうにかぎりぎりで卒業することができたが、当然ながら上の学校へ進学するなどという頭はまったくなかった。それでも伯母はわたしに高校進学を勧めたが、わたしは進学なんてせずに伯母の家を出て働こうと決心していた。

 伯母さんという人はご主人との折り合いが悪く、ふたりの間にはつねに喧嘩が絶えなかった。義理の伯父はわたしを疎ましく思っていることをあからさまにし、伯母を責める材料に使った。ある時点でもうこれ以上伯母の家にはいるべきでない、とわたしは判断した。わたしの存在がふたりの喧嘩の種になっていることが我慢ならなかった。

 幸いにしてわたしには相当な額の両親の遺産があるらしかった。ほとんどはふたりの生命保険金だったが、その遺産を管理してくれている後見人という人に頼めば、わたしがきちんと独立して働けるようになるまでくらいのものは、きっとどうにかしてくれるだろうと考えたのだった。

 昨年の十二月のことだった。忘れもしない、その年はじめて都市部にも大雪が降り積もった日。わたしは伯母と義伯父に内緒で後見人のかたと面談するため、雪の中、その人の事務所を訪ねた。その席で後見人のかたから紹介されたのが、中藤さんという女性だった。その中藤さんがわたしに勧めてくれたのが、柏葉学園での寮生活だったのだ。中藤さんの話を聞いて、目の前に光が差したようだった。寮に入る――その選択肢があったのだと気づいた。そんな考えはそれまでわたしの頭の中には全くなかった。寮に入れば、伯母の家を出ることもできるし、勉強を続けることもできる。

 しかも、どういうわけか柏葉学園はわたしの通う中学校に推薦を出すようとりはからってくれ、しかも無条件で入学金も授業料も、寮に入る費用も三年間、全額負担してくれるという。

 その話を聞くと、わたしの心はにわかに曇った。

 その時のわたしはとうに猜疑心の塊になっていた。というよりも、これ以上ない人間不信に陥っていたのだ。そんなおいしい話が世間にあるわけがない。この話には必ずどこかに落とし穴がある。両親を同時に亡くした極限状態の中での精神的負担が大きかったとはいえ、中学校の成績が惨憺たるものだったのはわたしだってよくわきまえている。わたしの成績はいわゆる奨学生の資格が得られるようなレベルではないのだ。だからこの話には何かある、直感的にそう思った。

 ただ、寮生活というのだけはよいアイデアだ。こんなわたしでもどこか受け入れてくれる寮つきの学校があるはずだと思った。なんなら一年くらい浪人したっていい。どこかで一人暮らしをしながら一年掛けて受験勉強するのも悪くない。

 そこまで瞬時に考えて、わたしは中藤さんの話をきっぱりとお断りした。

 ――はずだった。

 それが翌週には、どういうわけかわたしはその中藤さんと連れだって柏葉学園を訪問する運びになっていたのだった。面談には学園長先生がじかに応じてくれるという。そしてわたしは学園長先生と会って話しをして、翌日にはもうこの話に応じる心を固めていたのだった。

 学園長先生はわたしの境遇、抱えていた家庭的な問題、そして過去の成績や素行にいたるまですべてを熟知したうえで、この好条件を提示してくれたのだった。なによりも驚いたのは、それまで誰にも固く秘密にしてきたわたしの性質についても学園長先生はご存知だということだった。不審な顔をするわたしに学園長先生は言った。

 この学園は、あなたたちのような子を受け入れるために作られた場所なのですよ――と。

 わたしはその場で泣き出してしまった。この学園にいる限り、わたしはもう何も偽る必要がないのだと心から安堵したからだった。あのとき泣きじゃくるわたしの頭を優しく撫でてくれた学園長先生の手のぬくもりはずっと忘れない。


 柳の丘で見た夢に出てきた『おとうさま』はどこかあのときの学園長先生にも似ていたような気がする。あれはわたしの過去のほんとうの記憶なのだろうか。それとも単に柳がわたしに見せた幻の記憶だったのだろうか。

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