第二回 日曜日のシュワルラリカ

 その日曜日は梅雨の晴れ間のすばらしく気持ちのよい日だった。部屋の窓から見える木立ちは昨日の雨でたっぷり潤い、花たちも生き生きとしている。朝乃さんの丹精込めた英国風の庭園は、これからが百花繚乱の季節。今からとても楽しみだ。

 わたしは先日、ちづるの誘いをすげなく断ってしまったことが気に掛かっていて、できればきょう、彼女に会いたいと思っていた。あの雨の日の翌日、教室でいちおう謝りはしたけれど、それからなんだかんだと忙しく、落ち着いて彼女と話しをすることができていなかった。休みの日はすることがなくて暇だとつねに嘆いているから、電話して誘ってあげたら喜ぶかもしれない。

 朝食の時間ぎりぎりに起きて階下へ降りてゆくと、すみくんが何やら、まくしたてている。

「だから、何かいるんだって! 小鳥でも落ちていたら可哀想だよ」

「でも、確かめようがないじゃないか」

 角くんと話しをしていたのは小隠こがくれロロ先輩。角くんが体格がよくて上背があるのに対して先輩は年上なのにとても小さい。知らない人が見たら先輩後輩が逆転して見えることだろう。

「どうしたんですか?」

 ふたりの間にはいって声をかける。

「あ、奏ちゃんおはよう。談話スペースの壁の中から、何か物音がするんだってさ」と、ロロ先輩。

 エルフィン寮の一階の階段下は暖炉のあるラウンジになっている。寮ができた当時からあるという年代物でふかふかのソファーセットが設置されていて、寮生たちが談話したり、自由にくつろげる空間になっている。

「壁の中から音?」

 食堂には角くんとロロ先輩の他にもうひとりいた。少し離れた席にすわって黙々と食事をとっていたのは、先日入ったばかりの相馬そうまるいくん。そういえばこのところの多忙で彼にもろくな挨拶ができていないなと思うと、相手がわたしを見てぺこりとお辞儀した。

「おはようございます」

 わたしは挨拶をして、配膳台から自分のぶんの朝食をとってくると、累くんにたしかめた。

「迷惑でなければ、食事しながら少しお話ししても?」

 苦手意識を持っているからといって、いつまでも敬遠しているのはよくない。だから勇気をふりしぼった。

「あ、もちろん」

 承諾をもらって累くんの向かいの席に着いた。

「さっきからああなの?」とは、壁からする音についてさきほどから意見をたたかわせているふたりのことだ。

「うん。行って確かめてみるのがぼく一番いいんじゃないかと思うんだけど」

「相馬くんの言うとおりね……」

 ふたりの様子を気にしながらトレーを置く。

「累で、いいですよ」と、はにかみながら言う。

「じゃあわたしはかなで。敬語も省略で、いいよね? 同じ学年なんだし」

「はい……う、うん。そうだね」

 コミニュケーションの苦手なわたしにしては上出来だった。というよりもそんな会話が自然とできたのは奇跡に近いことだった。でももうそれで精一杯だった。わたしが勇気を出せたのはきっと、累くんがふつうの男の子と違って、より細やかで大人しそうに見えたからだ。学年は同じだけれど、頼りなげで年下みたいに感じたせいかもしれない。お姉さんぶりたい気持ちが心のどこかにあったからもしれない。

 ただ、「累でいい」なんてとうとつに言われても、軽々しく男の子を呼び捨てになどできるわけもないので、累くんと呼ぶことに決めた。

「累くんは、ここに来る前はどちらに?」

 多かれ少なかれ特殊な事情があるわたしたちに詮索は無用だけれど、世間話としてこのくらいの質問は許されるだろう。というか、わたしにはどうしたって世間話程度の言葉しか出てこないだろうけど。

 累くんも「東京」とだけしか返事しなかったのはまだ警戒心があったからだろうか。

 わたしはまた失敗したと思った。するとかれはわたしの困惑の表情を見て取ったのか、申し訳なさげにそのあとを続けた。

「ぼく本当は寮よりも一人暮らしがよかったのに。ここのみんなは親切だけれど、でもやっぱりまだ不安で……」

 食堂には眩しいほど光が射していた。あまり会話は弾まなかったけれど、ぽつりぽつりと語られる言葉の端々に、あたらしい寮生活に対する累くんの並ならない不安が窺い知れた。少し会話しただけで、外見ばかりでなく、かれの内面も相応に繊細なのだということがわかった。そしてあと二つ、わかったことがあった。ひとつはかれがこのエルフィン寮についてほとんど何の予備知識もなく入寮してきたということ、もうひとつは、かれが入ることになったのが『イエイツの部屋』だということだった。

「累くんが人と関わりたくないのなら、はっきりそう言ってくれたらいいのよ。そしたらわたしも、ほかの人たちも干渉しないわ。きっと」

 わたしが言うと、

「ちがうんだ」累くんは語気を強めた。「ぼくは孤独になりたいわけでも、人から干渉されたくないわけでもない。ぼくはむしろ、人とはきちんと関わりたいんだ。友だちをつくって、一緒に出かけたり、遊んだり……でも……」

「身のまわりで不思議なことばかりが起きるから?」

 わたしの言葉に、累くんはぽかんとした表情を向けた。その顔は何故自分のことが判るのだろうというような驚きに満ちていた。

「この寮にいる人たちも、過半数はだいたいそんな理由でここへ来たの。実は、わたしもそうなのよ」

 わたしはできうる限り含みのない笑顔を向けた。かれはわたしの言葉の方向性と深度を探りかねているようすだったのでつけ加えた。

「あそこのロロ先輩」

 身を乗り出して、小声で言った。

「ロロ?」

 意外そうな表情。ロロ先輩の下の名前を知らなかったようだ。自己紹介がまだだったのだろうか。

「いちおう本名らしいけど、それについてはあまり詮索はしないほうがいいと思うわ。本人、そうとう嫌がっているみたいだから」

「な、なるほど……それで、あの人が?」

「パック……という妖精なの」

「パック? 妖精?」

 キョトンとした顔。

「知らない? 知らなかったらあとで調べてみるといいわ。それからもう一人のほうが、わたしたちと同い年の角一誠いっせいくん。一角獣なの」

「い、一角獣!?」

 ガタン、と卓を鳴らして累くんが大きな驚きの声をあげたので、二人はやっと議論を中断してこちらを向いた。

「ええと。どうしたの?」

 ロロ先輩がわたしに聞く。

「ふたりとも累くんにまだ自己紹介していなかったの?」

「え……」

 目を合わせるふたり。

「したよね」

「うん」

「いえ」と累くん。「お二人とももうご挨拶は。でも……」

 ふたりとも肝心の正体は伏せていたままだったらしい。しかも、ロロ先輩に至っては下の名前も伏せていたようだ。わたしはてっきりお互いの出自についての説明も済んでいるものと思っていた。エルフィン寮で生活をともにしていく仲間たちには、いずれ自分たちのことを知っておいてもらわないと色々な意味で不便だし、却って迷惑がかかりかねない。だからするならそれも含めた自己紹介が必要なのではないかと思ったのだが。

「彼も何だかっぽかったし、もしそうなら驚かせても、ねえ……」

 ロロ先輩は角くんに同意を求めるように視線を送る。

 でも、ふつうの人がこの寮にやってくることはありえない。ふたりだって知っているはずなのに。

 すると角くんが意地悪な質問をわたしに投げかけた。

「そういう奏ちゃんはどうなのさ?」

「え? わ、わたし……?」

 そういえば、わたしこそ累くんに自分のことを話していなかったのだ。他人のことを批判できる立場ではない。けれど、わたしの場合は……。

「あの……」

 わたしは言葉につまってしまった。

「ごめん、言いかたを間違った」

 角くんが察して、すかさず謝ってくれた。でもそんなに困った顔をしていたろうか。ただわたしは、自分のことを何と説明したものかと思案していただけなのだけれど。

「まあいいや。いまさら感があるけど僕は一角獣だよ。ふだんはこんなやつだけど、二日月の光を浴びると本性が出てもとの姿に戻っちゃうんだよね。で、この先輩はいたずら妖精だよ」

「いたずら言うな」ロロ先輩は不服そうに即否定。「英国ではパックとかプックと呼ばれている存在に属するものさ」となぜか自慢げ。

「……」

 累くんは言葉を失って目をぱちくりさせている。

「わたしは……」

 こんどはわたしが自分のことを説明しようとしてまた言葉につまってしまった。

「奏ちゃんは」とロロ先輩がわたしの言葉を継いで、「どうも妖精らしいってことは、みんなも薄々判ってるんだけど、それ止まりさ。まあ自分で自分の正体も判ってないぽんこつ妖精ってことで」

「ひっ、ひどーい!」

「あはははは」

 みなでひとしきり笑ったところで累くんは、

「ぽんこつ妖精……ぼくも……そうなのかもしれません」

 ぽつりと言った。

「累くん?」

「いえ。いまの皆さんのお話しが衝撃的すぎて……。いえ、信じないとかそういうんじゃないんですけど、正直唐突で実感が持てないというか……すみません」

「知らないで入ってきたみたいだから、そうなるよねふつう」

「まあ、そう……だよね」

 ロロ先輩と角くんが残念そうに顔を見合わせる。何も知らないひとにこんな話をしたら、突飛な妄想を語っているのだと訝しく思われてしまうのは当然だ。

 でも累くんはどうして、自分のことも、何もわからずに入寮したのだろう。それは不思議だ。

 すると累くんは、「いえ、そうじゃなくて。みなさんのお話を否定するつもりじゃなくて、実感が持てないながら思い当たったというか、腑に落ちたということが言いたかったんです」

「ほう」

「へえ」

 わたしは累くんのことをすこし誤解していたかもしれない。かれは大人しくて思ったことの半分も口にできないような少年ではなく、必要なことはきちんと相手に伝えられるひとだ、とこのとき思った。

 ロロ先輩は故意にわたしをぽんこつ呼ばわりして場を和ませようとしたのだろうが、どうやら失言みたいな結果になってしまったので、決まり悪そうに頭を掻いた。

 つまりは累くんも、以前のわたしと同じように、身の回りで不思議なことばかりが起きてしまうことに悩んでいたのだという。その不安がかれを自信なさげに見せていたのだ。


 食事を済ませると、わたしたちは問題の談話スペースへと足をはこんだ。廊下の途中で、どこかから戻ってきた朝乃さんと会った。

「あら、みなさんお食事は終わったの?」

 日除け帽を被っているので、外で庭仕事をしていたのだろう。

「はい、ご馳走様でした」

「それで、四人揃ってどこへ行くのかしら?」

「壁の中から変な音がするそうなんです」とロロ先輩。

「変な音? どこの壁ですか」

「ラウンジです」角くんが答えた。

「私も行きましょう」

「はい、お願いします」わたしは言った。


 談話スペースは、先日累くんにはじめて挨拶をした場所。正面が暖炉で、問題の壁はその左手にある。壁は何の変哲もない、漆喰の白壁だ。ふたりの話を食堂で聞いたときから思っていたのだが、この談話スペースの壁の奥に小動物が入り込むような隙間があるとはとうていわたしには思えない。まずはロロ先輩が壁に耳を当ててしばらく様子を伺うけれど、

「何も聞こえないぞ」

「そのようねえ」と、朝乃さん。

 わたしたちも総じて聴力はよいけれど、エルフの朝乃さんはとくに並外れている。壁に耳を当てるまでもなく、その奥に何かがいるなら、すぐに判るはずだ。

「おかしいな……僕確かに聞いたんだけどな」

 角くんはさも不本意そうに頬を膨らませる。

 わたしも耳を澄まして聞いてみるが、それらしい音は聞こえない。しかし、累くんは音でなく別の異変に気づいたようだ。漆喰の壁を指さして、

「あれ、なんだか人のかたちに見えませんか……」

 言われて見ると、壁が何かの染みで汚れている。その形はまるで人の立ち姿のようにも見えた。すると不思議なことに、その染みの形がもやもやと変わっていく。

「なんか、うごいてない?」と、ロロ先輩が壁に鼻を近づける。

「やっぱり、何か変だ」

 角くんはなぜだか嬉しそうだ。あからさまな期待感を隠そうともしない。


 わたしたちはしばらくの間、黙ってその成り行きを見守った。

 それは不思議な光景だった。

 壁の染みはこうして見ている間にも、みるみるうちに影を濃くし、皺になってゆがみはじめる。そのとき突然、壁の向こうでゴソゴソと何かが蠢いているような音がした。

「これこれ、これだよ。僕が聞いたのは!」

 角くんは壁を指さしてロロ先輩を見る。

「ホントだ」

 自分の言ったことが証明された角くんはちょっと嬉しげだった。さきほど食堂で言っていたとおり、まるで小鳥の雛か何かが奥でうごめいているような気配がする。誰かに袖を引かれて、見ると累くんがわたしの後ろで顔を青くしていた。無意識にわたしのことを引っ張ってしまったのだろう。

「大丈夫よ」

 累くんの行為によってわたしは却って緊張が解け、角くんではないがこれから何が起きるのかをいろいろ想像してちょっとわくわくした。

 歪んだ壁はやがて凹凸おうとつとなった。まるで石に彫られたレリーフのようにはっきりとした形を浮き上がらせる。もう間違いなく、それは人の全身のかたちをあらわしていた。

「あら……まあ……」

 めったなことでは動じない朝乃さんもため息混じりで成り行きを見守っている。

 いまではその形がたいへん美しい少女のものとわかるまでに変化を遂げていた。端正な目鼻立ち、わたしよりも小さくて華奢な体格。ただひとつだけ、人とは明らかに違っている箇所があった。それは背にあたる部分に大きな翅のような模様が浮かびあがっている点だ。

「エルフ……かな?」

 ロロ先輩も興味深げに漏らす。口調には淡々としたものがあった。

「ええ……そうですね」

 エルフの朝乃さんがいうのだから間違いないだろう。エルフの本来の姿に翅があることは、わたしも知っている。

 それまで漆喰の色だったレリーフが、こんどは急激に色をさす。写実的な絵画のように、真実味のある色にそまる。肌の色は肌色に、髪の色は朝乃さんと同じ銀色に。蛹から蝶が羽化するみたいに、状態がどんどん移り変わっていく。それに伴って、質感にも変化があらわれる。もはやレリーフとすらもいえなくなった少女像は、漆喰の壁と同じ性質をなしてはいない。顔、手足、着ている薄衣の質――そしてしなやかな翅は、どれも本物がもつ確かな存在感を示していた。

 どこか子供らしさが残る少女像のきれいな足が、壁から突き出て談話スペースの床を踏む。

「あ、出てきたね」

 ロロ先輩が言うと、わたしの袖を引く手に力がこもった。わたしは後ろに隠れるようにして立ちすくんでいる累くんに、「驚かないで。へいきだから」と耳打ちする。すると累くんの力は少しだけ弱まった。


 最後にするっと壁から抜けてラウンジにおり立った少女は、薄い翅をはたはたと数回、動かすと、それまで閉じていた瞼をすうっと開いた。

 朝乃さんと同じ、透きとおったエメラルド色の瞳。その少女はまぎれもなくエルフだった。

「おお……」

 ロロ先輩と角くんがまるで申し合わせたみたいに、感嘆の息をもらした。

 かたちのよい唇が開く。興味津々のわたしたちに、「大儀である」とおうように告げた。


 薄衣をまとった少女は童話やファンタジー物語の挿絵に描かれるエルフそのものだ。その美しさたるや、見ているだけで幸福感が湧いてくる。朝乃さんも綺麗だが、この少女には幼い、未完成の美があると思った。

 たったいま少女が抜けてきた壁に目を向けると、そこはすっかり元通りの白い漆喰に戻っていた。


「キダートンからまいった」壁から現れた少女は目を細め、抑揚のない声で言った。

「するとレヴィンさまの?」朝乃さんが問いかける。

 『キダートン』も『レヴィンさま』もはじめて聞く名詞だった。それらはきっと地名や人の名前を表しているのだろう、ということくらいしかわたしには想像できなかった。しかし朝乃さんはこの少女の言うことが理解できているようだ。

「いかにも。娘のシュワルラリカじゃ」

「あなたが幼少のみぎり、一度お目にかかったことがございます」

「うむ」

「しかし、なぜあなたが自らおひとりでこんなところへ?」

「見聞にまいった。父のすすめで。学校とやらに通いたい」

 男の子たちはみな呆気にとられていた。

「まあ……それは急な……」

 と言いながら朝乃さんは少しも慌てたようすを見せない。朝乃さんだからなのか、それともエルフがそういうものなのだろうか。

「たしかにいささか急いたかもしれぬ。面倒をかけるがよろしく頼む」

「はい」

 本当にかすかな声で「ずいぶん高飛車なお嬢様だね」とロロ先輩がこっそり角くんに囁くと、

「無礼者」

 案の定、聞こえてしまったらしい。

「……」

 怒鳴られてロロ先輩は言葉もない。かわりにおどけたようにぺろっと舌を出した。わたしにだって聞こえてしまったのだ。エルフの耳に届かないわけがない。先輩はエルフの耳のよさを忘れてしまっていたのか。それともわざとなのか。ロロ先輩の場合それもありうると思うと苦笑を禁じ得ない。

 じろり、と睨まれて、

「つい口が滑ったというやつです」と悪びれもしない。

「下郎め」


「シュワルラリカさん」わたしは言った。

「そなたは……」

 射抜くような眼差しで少女がわたしを見る。

「千代璃奏です」

「うむ。して何か? 許すぞ」

「あなたは、こちらの世界を見聞にいらしたのですよね」

「うむ。そのとおりじゃ」

「でしたら、こちらの世界のを知って頂く必要があるかと」

「おおそれよ。わらわが知りたいのはそういう事じゃ。言うてみよ」

 ぱっと顔が輝く。そういうところは少女そのもののあどけなさを感じる。その表情を見て、ひょっとして、わたしたちと多少育ちが違うだけで、そんなに悪い子ではないのかもしれないと直感的に思った。

「もしお気に障ったら何なりとお咎めを受けます。たしかにいまのはロロ先輩の無礼でしたが、こちらでは歳の近い者どうしであまり身分の上下をつけません。目上や年上にはとうぜん敬意を払って接しますが、どちらかといえば広く親しく人と接し、みずからの成長の糧とすることをよしとします。ですから相手の言葉が多少不躾であったり、馴々しいことを理由にとうとつに声を荒げたりはしませんし、感情を顕にしたり、それで人を貶めることは自分の品位を貶めることにもなります」

 言ってしまってからはっと青くなった。

 わたしこそ、初対面のひとにたいして何を賢しげに説教しているのだろう。彼女の言葉が許せなくてつい思ったことが口をついて出てしまったが、感情を顕にしているのはわたしのほうだ。

 失敗した、と目の奥が痛くなる。どきどきと心臓が踊る。

 最悪だ。

 顔をふせて、横目でちらりと朝乃さんを見ると、朝乃さんはなぜか愉快そうにくすくす笑っていた。

「あ、あの……」

 早く何か言い訳を……とこんどは上目で少女を見る。

「なるほど、よくわかる。そなたの言うことも一理ある。それがこちらの道理なら、あらためるに吝かでない」

「えっ」

 なお一段と厳しい言葉が飛んでくるのかと身構えていたら、返ってきたのは意外な言葉だった。

「そなたのきっぱりとした申しようは好きじゃ。今後そなたに指南役を命ずる」

「ええっ!?」

「よしなに頼むぞ」と少女はニッコリ笑った。


「朝乃さん、キダートンって?」

 たったいま自分の言動のことが俎上にのせられているというのに、ロロ先輩は平然としている。

「あちらの土地の名ですよ。とても美しい場所です。エルフの領主様が治めています。シュワルラリカさんはご領主様のひとり娘なのです」

「へえ……」

「ではシュワルラリカさん、お部屋にご案内しましょう」

「うむ。この建物で一番良い部屋はどこじゃ」

「あっ」わたしは短い声をあげる。一番良い部屋、それはたぶんわたしの部屋だ。

案内あないせよ」と先に立って歩き出す。

「えっと……シュワルラリカさん」

「なんじゃ、千代璃奏とやら」

「それはたぶんわたしの部屋です」

「奏さん」朝乃さんがやや強い口調で窘める。

「いえ、あのお部屋はわたしには立派すぎるんです。わたしは他のお部屋に移動しますから、シュワルラリカさんがお使いください」

「いや」シュワルラリカはわたしの申し出をすぐに制止して、「後に来たものが他者のものを取ったとあってはエルフ族の名折れ……」と朝乃さんを振り返って微笑みつつ、「空き部屋で次によい部屋はどこか」

「それなら……」と朝乃さんが手を叩く。

 そしてシュワルラリカはわたしの部屋の隣、『エリオットの部屋』に入室することになった。朝乃さんに案内されてその場から立ち去った。


 ラウンジから戻る途中で累くんが、

「奏……ちゃん、すごいね」

 わたしを名前で呼ぶのがまだ不慣れそうに、おずおずと言う。

「な、なにが?」

 わたしはまだ心臓の鼓動がおさまらずにいた。

「びしっと言ってたでしょう。あのシュワルラリカっていう子に」

「ごめんなさい。つい感情的になってしまって」

 あとからあとから後悔が滲み出てきた。冷静に考えたら先に無礼なことを言ったのはロロ先輩。それなのに、相手の言葉が単にきつかったからというだけで反射的に反応してしまった。本当の無礼者はわたしだった。

「ぼくに謝ることなんかないじゃない」

 いや。きっとわたしの間違いには、あの場のみなが気づいていた。みなが――ロロ先輩やシュワルラリカでさえも――承知で、わたしのスタンドプレーを容認してくれたのだ。だから朝乃さんも笑っていたのだろう。みなを不快にさせたのだから、累くんにだって謝るべきだ。

「気にしちゃだめだよ」隣を歩いていた角くんが言った。「奏ちゃんはそういうの、気に病みすぎてしまうところがあるからね」

「ぼくは、あそこで奏ちゃんがああ言ってくれて、ちょっとすっきりした」累くんはさりげなく、そう言ってくれた。

「そうそう。それにあの子だって奏ちゃんのきっぱりとした言い方は好きだ、って言っていたじゃないか」

 そんなフォローをされるたびに、わたしはもっといたたまれなくなって落ち込んだ。


 すぐあとで、食堂に寮生たちが集った。日曜日だったので外出している寮生も少なからずいたが、その場にいる者だけでシュワルラリカの紹介が行われた。

「シュワルラリカと申す。こちらの世界を見聞にきた。よろしく頼む」

 なんとシュワルラリカは、皆の前でぺこり、と頭を下げたのだった。

「おお……意外な」とロロ先輩。

「この世界では他の者と親しく馴染むのがよいと聞く。みなも親しげにしてたもれ、許してつかわす」

「たもれ……」角くんが唖然とする。

「なんだかお公家さんみたいだね」と累くん。

「こちらに来たばかりなのでこの世界のことは何も知らぬ。甘やかされて育っておるゆえ、何かと無礼もあろうかと思う。しかしながら、こちらの世界に馴染むつもりが馴染めないとあらば、甚だ不名誉なことじゃ。善処いたすゆえ、みなも妾に言いたいことがあったなら遠慮なく言うがよい」

 ぱちぱちぱちと歓迎の意を表す拍手が起こる。

「よろしく」という声が飛び交うのを、隅の方で朝乃さんがにこにこと頷きながら聞いている。

「でも一所懸命だ」

 手を叩きながら、角くんは言う。早くも彼女の本質を見抜いたようだった。わたしはさきほどの反省をまだ引きずっていて、何も言えずにただ黙りこくっていた。

「まずはあの言葉づかいをどうにかしないとだよね」角くんが言う。

「あのまま学園に行ったら、浮いちゃうかも」と累くん。

「そういえば、奏ちゃん」角くんがわたしを見る。

「はい……」

「あの子から指南役に任命されていたね」

「あぁ……」わたしはまた先ほどのことを思い出して、項垂れてしまう。

「部屋も隣になったというし、言葉づかいもちゃんと教えてあげなくちゃだね」

「はぁ……善処します」

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