第一回 雨の日と一角獣

 六月の雨がそぼ降るなか、転校してきたのが累くんだった。わたしは朝から少し頭痛がしていて気分が悪かった。だからこの中途半端な時期にとつぜんやってきた転校生に対しても、あまりよい印象を持てなかったのだろう。

 見るからに繊細ナイーヴそうな男の子。先生は『相馬そうまるい』と大きく板書した。累くんはおずおずと頭を下げ、よろしくお願いします、と一言だけ言って、いつの間にか用意されていた廊下側の新たな空席に着いた。

 午後になると雨足はより強くなり、わたしはいっこうに治まらない痛みに堪えながらどうにか授業を受け通し、そして早々に下校すべく学生鞄に教科書類をしまい込んでいるところだった。

かな~。えへへ」

 諌早いさはやちづるは柏葉はくよう学園に入学した時からの友人だ。おっとりしてちょっとドジなところがあるけれど、そこがまたみなから愛されるゆえんだ。体格は小柄で、肩の辺りまで伸ばした髪を左右に分けて縛っているのは昔からずっとだという。そのちづるがにこにこと笑みを浮かべながらすり寄ってくるのを「だめよ」と、そっけなく断った。

「一刀両断だな~。まだ何も言っていないのに~」

 ちづるは愛らしく口を尖らせた。

「また遊びに誘う気なのでしょう?」

「何でばれた!?」

「ばれるも何も、あなたそれしか言わないでしょ」

「そんなことない! たまには他のことも言うもん」

「はいはい。たまにはね」

「駅前に新しい喫茶店が開店したっていうのよ」

 もはや言い出したことを引っ込める気はないようだ。強引にわたしの興味を引こうという作戦――いやもうそれは作戦ですらない。

「きょうはパス。美味しいシフォンケーキはまた今度ね」

「あら奏知っていたの?」

「まあね」

「ところでさ~」

「こんどはなに?」

「あれよ、転校生よ、てんこうせい~」と、例の転校生の席を指さす。

「ああ」

 つまるところ、ちづるはわたしとただ会話がしたいだけなのか。

 すでに席の主は立ち去ったあとだった。名をなんといったか、もう忘れてしまっていた。わたしが思い出しあぐねているような顔をしていたのか、ちづるがそれを読んで、

「相馬、累くん」

「そういえば、そんな名前だったわね。彼がどうかした?」

 少し突っ慳貪になっていたかもしれない。

「いや、ちょっと可愛いな~って」

「ふうん。ちづるはああいう人が好みだったの」

「ち、違うよ。そういうアレじゃなくて……」

「だったらどういうアレなのよ」

「……もう。きょうの奏はなんか意地悪」

 ああいう人――とは言ってみたが、実のところわたしにはその転校生がどういう人だったのか、かけらも思い出せない。

「きょうはずっと頭が痛くてね。早く寮に帰って休みたいのよ」

「あら。そうだったの……ごめん」

 できるならやんわりと断りたかったのだけれど、どうもこの子にはそういう話し方は向かない。却ってはっきりと言ってあげたほうがよかったみたいだ。わたしはしゅんとうなだれた彼女にできるだけ優しく言った。

「ううん。わたしこそ、ごめんなさい」

 スクールバスでひとり駅方面に帰るちづるに手を振って別れた。


 ここは県の中心地から遠くはなれた小さな町、幸郡有福町。その有福駅まではさらにバスで三十分ほどかかる。柏葉学園高校はそんな山奥の閉ざされた場所にある。学園には遠くから通学してくる生徒たちもいないわけではない。しかし、いくらスクールバスがあるとはいえ、よそから通学するにはいささか不便な場所であることもあり、有福町の市街地にある学生寮に入ってそこから通う者が大半である。

 じつをいうと学園の敷地内にも幾棟か寮がある。しかし学内の寮はある特別な事情があって室数が圧倒的に少ない。学内寮にはいわば選ばれた者しか入ることができない。わたしもその学内の寮のうちの一つ、エルフィン寮に籍を置いているひとりだ。

 構内の停留所でちづるのバスを見送ったあと、わたしは踵を返して校舎の裏手にまわった。

 学園の周囲は駅までの車道をのぞき、すべて雑木林。北東の山に向かって歩くと、さらに山の上へと続く緑のトンネルがあらわれる。高い木どうしがふくざつに枝を絡めあって形づくられたトンネルの中を登ってゆく。少々の雨ならばトンネルに入ってさえしまえば木の葉が傘がわりとなり濡れることはないが、きょうの雨はそんな生優しいものではなかった。葉をつたう雨つぶが集まり、もっと大きな水滴となって容赦なく頭上からバラバラと降りそそぐ。わたしは傘をさしたまま舗装のない山道を歩く。足元がぬかるんでお気に入りの黄色い長靴が泥で汚れてしまうのはちょっと残念だ。

 滑らぬようゆっくりと歩いて登る。小径はやがて雑木林のトンネルを抜ける。そこで視界はひらけ、こんどはうって変わりまるで英国のような美しい風景が現れる。寮母さんの趣味で何十年もかけて作られたイングリッシュガーデンだそうだ。手入れの行き届いた気持ちのよい庭。いまはちょうど盛りの釣鐘草カンパニュラが、緩やかにカーブを描く道の両わきに美しく咲き誇っている。そのむこうに古い建物が佇む姿はまるで絵画のようだ。

 エルフィン寮の横庭は芝生になっている。ふだんはここに椅子やテーブルをしつらえて寮の皆でお茶や食事さえすることもあるけれど、今はただ青々とした芝が雨に打たれるばかり。

 寮母さんがいつも綺麗にしてくれている建物を泥の靴で汚さないために、いったん裏手にまわり、外流しで汚れを落としてからふたたび玄関に向かう。

「あ、奏ちゃんお帰り」

「あら、すみくん」

 玄関で傘の水滴を落としていると、横庭から寮生の角くんが挨拶をしてきた。角くんはわたしと同じ一年生で、同じ三組に籍をおいている。角くんは合羽を着て、いつの間にか横庭の芝の上にテントを設営し終わっていた。

「きょうは二日月だからね。晴れればだけどさ」

「きょうは……大丈夫じゃないの?」

 わたしは空を見上げて言った。この雨がそうそう止むとはわたしには思えない。

「ところが天気予報ではもうすぐ晴れるっていうんだよね。このまえたかをくくって失敗したからさ」

「大変ね」

「もう慣れたよ」

 玄関の傘立てに傘を入れてホールへと進む。小さいながらも洋館の体をなすエルフィン寮はホールの右わきに二階へと続く階段があり、左わきには暖炉のあるラウンジがあって、ここで寮の皆と団らんしたりもできる。

 きょうはそこに大ぶりのスーツケースがひとつ、置かれていた。泥を拭いたような跡が少しだけ残っているのを見ると、いましがた運び込まれたものだと推測できる。

「おかえりなさい。奏さん」

「ただいま戻りました」

 奥の方から顔をだしたのが、寮母の朝乃さん、わたしの憧れの人でもある。柏葉学園高校ができた当初からエルフィン寮の寮生たちを世話し、見守る仕事をしてくれているのだそうだ。とはいえ、朝乃さんの年齢は見た目まだ二十代くらいにしか見えない。柏葉学園は今年で創立百三十周年だから、彼女がふつうの人ならば、とうの昔に代替わりしているはずなのだけれど――。

「あら?」

 朝乃さんの後ろに誰かがいることに気づいて思わず声を発してしまった。

「紹介するわね。彼は、今日から入寮することになった――」

 今朝方教室で会った繊細そうな男の子。

「相馬――累くん」

 彼を見て、わたしは言った。

「奏さん、知っていたの」

 朝乃さんは驚いて目を丸くした。

「ええ、だって相馬くんは同じクラスに転校してきたんですもの」

「まあ、そうだったの。そういえばクラスをまだ聞いていませんでしたね」と、朝乃さんは累くんをちらりと見た。

「そ、相馬累です……」

 少年はさきほど教室で挨拶したときと同じようなトーンでわたしに自己紹介を繰り返し、丁寧にお辞儀をした。名前はもうわかっているのだから、あえて言わなくてもいいのに。

千代璃ちよりかなです。よろしくお願いします」

 彼のほうはわたしをまだ知らないだろうから、名乗ってあげた。

 少しだけ驚いたのは、彼がこのエルフィン寮に住まうような種類のひとに見えなかったからだ。学園内の寮に入ることができるということは、彼も特別な事情を持ったひと、ということにほかならない。

「いま彼に寮の中を案内してあげていたのですよ」

「そうだったの」

 柏葉学園高校の校風は生徒の自主性を尊重するが、規則はけして緩くはない。ふつうなら学校の寮で女子が男子と一緒に生活するなどあり得ないことだろう。現に有福町にある一般生徒の寮は、ちゃんと男子寮と女子寮にわかれているという。そういう配慮をする必要がないというのも、わたしたちの抱える『ある事情』に原因している。

「ところで奏さん。なんだか顔色がすぐれないみたいだけど、どうかしたの」

 さすが朝乃さん。寮生たちの状態によく目を配ってくれる。

 もっともわたしもそれは隠すつもりもなく、相当に気分もすぐれなかったので、

「今日は朝からずっと頭が痛くて……」

 と正直に答える。

「それはいけませんね。あとで頭痛によく効くお茶を持って行ってあげますから、少しお部屋で休んでいなさいな」

「はい、そうします」

 そのつもりでせっかくのシフォンケーキの誘いをことわって来たのだ。わたしは累くんに会釈すると、朝乃さんにお気遣いに対するお礼をのべて、ホールから上へ続く階段を上がった。


 わたしの部屋はエルフィン寮の二階、南側の表庭に面した場所にある。エルフィン寮の部屋にはそれぞれに有名な詩人の名がつけられている。わたしの部屋は『ワーズワースの部屋』と呼ばれている。入寮当日、朝乃さんに案内され足を踏み入れたわたしは、この部屋のあまりの広さに驚いてしまった。こんなに贅沢な空間はわたしには必要ないと咄嗟に固辞したのだが、適当な部屋が今はここしか準備できていないからと朝乃さんに押し切られ、結局この部屋に入ることになった。いまだわたしは他の寮生の部屋に入ったことはないけれど、寮生たちの話しを総合的にきくと、自分の部屋はこの寮では一番広くていい部屋なのではないかとひそかに思うようになった。

 実際この部屋で暮らしてみると、陽の当たりかたといい、白木をふんだんに使った調度といい、広さだけではない暖かみがあって、すぐに気に入ってしまって、もう今ではこんな快適な場所は離れられないと思うようになっている。慣れというのは本当に恐ろしい。

 ワーズワースの部屋は、庭に面したガラスのコーナー窓になっていて、朝乃さんの丹精込めた庭がもっともよい位置から堪能できる。お休みの日には、窓際に椅子を置いて飽くことなくただ庭をぼうっと眺めてばかりいる。

 しとどに濡れた庭の植物たちはいい加減この雨にはうんざりしているようにも見えるし、今は激しい雨つぶにもよろこんでうたれ、天の恵みを思う存分享受しているようにも見えた。

 わたしは服を部屋着、というよりほとんど寝間着として愛用しているよれよれのTシャツと中学生のときにはいていたジャージに替えて、ベッドに身を横たえた。ふだん眠るような時刻ではないので、少しも眠くはならず、目は冴えていた。窓を叩く雨の音を聞いていると少しだけ気分が落ち着いた。

 そのまましばらくぼうっとしていると、ドアの向こうに人の気配がした。そういえばさきほど朝乃さんがあとで何か持ってきてくれると言っていた気がする。控えめなノックの音がしたので「どうぞ」と告げると彼女が遠慮がちにドアを開けた。

「少し、いいかしら」

「ええ、もちろん」

 ベッドから出ようとするわたしを身振りで制止して、彼女は古い木製のワゴンを部屋に運び入れた。さきほどの言葉通り、わざわざお茶をもってきてくれたのだ。ちょっとだけ申し訳ない心持ちで朝乃さんがお茶を淹れるのを眺めていた。

 細いうなじ、後れ毛。すらりと繊細な面立ちの朝乃さんは、女性のわたしからみてもとても魅力的な女性だ。今は緩く髪を結い上げているけれど、ふだんは流れるようなストレートの銀髪だ。色素の薄いエメラルドの瞳がある意味近寄りがたいほどの異質感を漂わせる。

 朝乃さんは、正真正銘あちらの世界の住人――エルフなのだ。

「起き上がれる?」

 お茶を淹れ終わった朝乃さんが半身を起こすのを介助してくれた。頭痛ていどでちょっと大袈裟だという気はしたが、具合の悪いときに優しくされるのは悪いものではない。だからこの際、思い切り甘えることにした。

「ありがとうございます」

 お礼を言ってお茶を受け取り、カップに口をつけた。甘いお菓子のような香りが鼻腔をくすぐる。

「カモミールよ」

 朝乃さんはそう言ったが、それだけではない、何かほかのものがブレンドされている。一口のむごとに頭の重さがすうっとひいてゆく。

「これ……」

「はい。エルフの秘薬を少しだけ垂らしてあります」

「……おいしいわ」

 そう言うと、「お口に合って何よりです」と朝乃さんは嬉しそうに微笑んだ。

「ところで」わたしは窓の外に目をやって、話題を変えた。「今日は二日月の晩なのね」

「ええ。角くんに会ったのですね」

「いつも大変だわ彼。なんとかならないものかしら」

「優しいのですね」

 言われたことが歯がゆくて、思わず、

「そんなのじゃ……」

 否定しかかるけれど、やはり思い直して口をつぐむ。否定を重ねるほどそれが本心のように相手に伝わってしまうのはよくあることだ。

 朝乃さんはことこれに関しては何か決定的な勘違いをしている。わたしが角くんを気にするのは本当にそんなのではない。だいいち、角くんとわたしでは棲む世界が違いすぎる。自分の正体が何者もかもわからないような妖精擬きの未熟な少女と、れっきとした一角獣族の角くんとでは……。


 朝乃さんが部屋を出て行ったあと、わたしは少しだけ眠った。エルフの薬が効いたのか、思いのほかぐっすり眠ることができたので、起きたときはもう夜で、雨はとっくに上がり、窓外の澄んだ夜空に、星が幾つか瞬いていた。

 階下の食堂に降りていくと朝乃さんが、

「そろそろ起こしに行こうと思っていたところですよ。何か食べますか?」

 わたしは少しだけ空腹を覚えていたが、すでに皆の食事は終わったようすだったので、わたしだけのために手間をかけさせてはなんだか申し訳ない気持ちがして黙っていると、

「体調の悪いときくらい、甘えていいんですよ」と見透かされたようなことを言われてしまった。

「じゃあ、何か軽いものでも、もしあれば……」

 遠慮がちに言うと朝乃さんは苦笑しながら「はい」と厨房に立った。

 きっと朝乃さんは心の中でわたしのことを遠慮ばかりしてしょうがない子だと思ったのに違いない。だって、それは仕方ないじゃないの、と頬をふくらませる。じぶんのせいで誰かに迷惑なり面倒をかけてしまうのだから恐縮するのは当たり前で、それを態度に出したからと言ってそんな顔をしなくたって。

 ふと見る窓の外には、まだ少しだけ薄明るさが残っていたが、陽はとっくに沈んでいる。いまのところ雲がかかって月は見えないけれど、角くんが言っていたとおり雨はすっかり止んでいた。再び彼のことが気にかかり、わたしは立ち上がって食堂の窓から少しだけ見える横庭のようすをうかがった。

 さきほどの雨の中で角くんが設営したテントが、ぽつりとあった。あの中で角くんがひとりその時を待っているのだと思うと胸の奥がちりちりと痛んだ。

 ――優しいのですね。

 朝乃さんの声が鼓膜の奥で震えるようにリフレインする。

 ああ、もう。

 何がどうしたって、わたしはわたしなのだ。隠したり、取り繕ったりしたってわだかまりが残るだけ。だから……。

 わたしはテラスに面した大窓を開けて外に出る。皆で共用しているサンダルをつっかけて、濡れた芝の上をそのまま角くんのテントの方へと歩いていった。

 角くんのテントは、まだ雨に濡れたまま。中でもぞもぞと人の気配がした。

「角……くん?」

 遠慮がちに声を掛けると、

「奏ちゃん? どうかしたの?」

 返事があった。しかし顔は出さない。

「あ、あのね」

 そうは言ったが続く言葉が見つからず、わたしの頭の中は真っ白になってしまった。心だけがドキドキする。

「月」

 角くんが言った。

「月?」

「月は、出てる?」

 わたしはとっさに空をあおぐ。

「ううん。まだみたい。雲に隠れてるのかな」

「ふうん。そう」

 そう言ってまたもテントの中でもぞもぞと動く気配。そして中から角くんが顔だけひょっこりと出した。

「やあ」

「こ、こんばんわ……」

「何か僕に用?」

「いえ、そういうわけじゃ……。ひとりで退屈かなと思って」

「そっか。ありがと」

「ううん」

「こうしてその時を待つのが退屈かどうかって訊かれたら、そうでもないって答えるね。さっきも言ったけどもう慣れたし、なんだかわくわくするんだよね」

「……そうなんだ」

 そんな角くんにとって、ならばわたしは邪魔なのかもしれない。わたしの心を見透かしたように角くんが言う。

「けどさ、奏ちゃんとこうして話しができるなら、ひとりで待ってるほうが全然退屈だね。ていうかむしろお願いします」

 顔だけの角くんがぺこりと頭を下げる。

「やだ、角くんたらもう……」

「あはは」

 雨上がりの濃い青草の匂い。心地よい微風。もう少ししたら朝乃さんがわたしを呼びにくるだろう。それまでここで角くんと話していようと決めた。

「ねえ、角くん」

「なんだい?」

「あの、もしよかったらだけど、わたしと部屋を交換しない?」

「えっ。どうしてさ」

「わたしの部屋のあの広さがあれば、その……」

 二日月の光を浴びて体格の大きくなった角くんがその間、快適に暮らせるのではないかと考えたのだ。ワーズワースの部屋の無駄に広いスペースは角くんのような人のためにこそ使われるべきであって……。

「えーっ。いいよいいよ」

「だって、不便じゃないの?」

「不便? 不便だよ」

「なら……」

「奏ちゃん」

 角くんの目が真剣な光を帯びた。

 だから思わず居住まいを正してしまった。

「は、はい」

「奏ちゃんの気遣いはとっても嬉しいし、ありがたいことだよ。でも不便だろうがなんだろうが、ぼくらにはそのくらいがちょうどいいんだ。いや、その不便さがぼくらのような存在にはちょうど似合っているというべきか。そうだろう?」

 角くんはどこか儚げに、しかしきっぱりとした態度で微笑む。そんな彼の態度の根底には、わたしよりもよく考えぬいた、大人の割り切りがあるように感じられた。

 この社会におけるわたしたちの存在は大変に脆くなってしまった。普遍的な客観主義でものを見ようとする現代の人たちにとって、わたしたちの存在はもはや虚でしかなく、お伽話の中にだけしかないものだ。

 今やものごとはこれ以上ないというほど科学的で緻密に定義されている。しかもその定義は多岐にわたり、指数関数的に増え続けている。この高度文明化社会に、わたしたちのような存在が入り込む隙間はすでにこれっぽっちもないのだ。

 角くんの言う『ちょうどいい』とは、『不便』という概念が世界の非存在としてのわれわれとちょうど釣り合って、親和性の高い概念だということなのだろう。不便、非論理的、不確かさ、畏れ、不安、曖昧さ、不思議……。そういう概念を肯定してわたしたちは生きていくのが似合っている。

「奏ちゃん?」

「は、はいっ」

「何か、難しいこと考えてるね」

「えっ、そ、そんなことない!」

 またも角くんには見透かされている。少し癪だから素直には頷いてあげない。

「それにさ、いくら部屋が広くたってそこから出られなかったら困るよ……その、色々とね」

 そこで初めて気がついた。わたしったら、何てデリカシーのないことを言ってしまったのだろう。

 わたしは自分の考えの至らなさを恥じた。まったく、わたしはいつもそうなのだ。皆に諭され、導いてもらってばかり。そのたびに自己嫌悪になりながら、それでもまだ自分の殻を抜け出せないでもがいてばかり。

「ごめんなさい、角くん」

 情けなくて、とつぜん涙が出てきた。

「泣かないで。奏ちゃんが謝ることなんて何もないんだよ」

「で、でも……」

 わたしは本当にばかだ。間が抜けていて、考え足らずで、不完全だ……。

 こんなにも徹底的に不完全なわたしが、角くんやこの寮の皆からこんなにも厚遇されていていいのだろうか。わたしはつぎつぎに溢れてくる涙を手で拭いながら、角くんにたいして何だかしきりに謝罪の言葉を繰り返してばかりいたような気がする――。

 そこへ、雲間からようやく顔をあらわした月が矢のような光を地上にふりまき始めた。

「あ……」

 短い声をあげた角くん。

「奏さーん。何処へ行っちゃったの? サンドイッチ、できましたよー」

 朝乃さんがテラス前の庭に立って呼ぶのがほぼ同時だった。

「ご、ごめんなさい! いま行きます」

 返事をするために一瞬だけ振り向いて再び顔を戻すと――。

 妖婉な月影をうけた角くんの体に異変があった。

 はじまる――。わたしは思った。

 月に照らされたかれの顔の表情が変わり、皮膚の表面で月光がはね戻され散らばるように、ぼうっとした燐光を発しはじめる。

 角くんの体はみるみるうちに膨張し、テントの内側から盛り上がる。

 そして、額の中央からゆっくりと伸びる角――。

 テントに収まりきらなくなった巨体が、それを壊して中からあらわれる。

 あらわれたのは立派な馬のような四肢――一角獣ユニコーンと化した角くんだった。

 ユニコーンはぶるぶると体を奮って自らの背中に乗ったテントを振り落としてから、

 おおおぅぅぅ――。

 一声、いなないた。その声はまぎれもなく寮の隅々まで届いたことだろう。

「綺麗……」

 あまりの美しさに、わたしは息をのんだ。

 力強くもりあがった筋肉、しなやかな肢体のうごき。

 わたしに顔をよせる一角獣。

 意外なほど柔らかなたてがみが頬を撫でる。

 おそるおそる、わたしはたてがみに触れた。

 一角獣は気持ちよさそうにわたしに顔をすり寄せたあと、気持ちをあらためたかのようにすらりと屹立した。

「あら……」

 その視線の先に、テラスからあらわれた朝乃さんがいた。

「変わるところから、見たかったのに……残念」

 朝乃さんが言うと、一角獣が見世物じゃないぞと言わんばかりにぶるぶると身を震わせた。そして大きく一息、吸い込むと、その足でつよく地面を蹴り、ものすごいスピードで庭を森のほうへと駆け抜けていった。

「あら、行っちゃった……」

 朝乃さんがぽかんとした表情で言う。そして、

「さあ、わたしたちも行きましょう。ああなったら角くんは戻ってはこないから……」

 わたしの肩に手を置いて促す。

「は、はい」

「きっと一晩中、ああして森の中を駆けめぐっているのだわ」

 朝乃さんはさいごに一度だけ森のほうに目を向けてそう言った。

 わたしは寮に戻り、元気一杯に森の中を疾駆する一角獣のことを想像しながら、エルフの寮母さんの手製サンドイッチをひとりで食べた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る