1
助けて。助けて。助けて。
頭の中に響く声。
ゆらゆらと揺れる火を見つめながら、その声に向けて手を伸ばす。
「ーーーー!!」
叫びは声にならない。羽交い締めされた体は、動くことはない。
遠くで鳴り響くサイレン。怒声と困惑が入り交じる野次馬。高速道路の一角で起きた事故は、多数の車と人を巻き込み、火災すらも起こす大事故に発展した。
空ではヘリコプターのプロペラ音が聞こえ、目の前で起こっている火災で肌をチリチリと焼く。
その場から引き離そうとする腕。もがいて抜け出そうとするも、体に力は入らない。
助けて。助けて。助けて。
声が頭の中で響く。
大切だった人の声。共に成長し、笑い合い、怒り、泣いた。忘れることの出来ない声が必死に助けを求めている。
引き離そうとする全てに抵抗し、必死で手を伸ばす。伸ばし続ける。
「ーーーー」
分かっている。この先の結末など、いつも見ているのだ。
それでも、それでも、手を伸ばすことを止められなかった。
今度こそ。今度こそはと手を伸ばす。
ふにゅ。
柔らかい何かを掴み、必死に握りしめ……
パンッ。
頬を思いっきり叩かれた。
☆
「なっなんだ!?」
目を白黒させながら体を起こす。
窓からは朝の日差しが飛び込み、チュンチュンと鳥の鳴き声が聞こえる。反対側に視線を向ければ、涼しげな夏用のセーラー服に身を包んだ少女が顔を真っ赤にしながらこちらを睨んでいる。
左腕は隠すように年相応よりも少し大きめの胸元に当てられ、右手を振りかぶっていた。
「へっ?」
パンッ。
おそらく二発目であろうビンタが俺の頬に直撃、痛みが頭に届くよりも先に混乱が占拠しているせいか、ジンジンとするだけで他には何も感じない。
大きめな瞳がジッと見つめている。
肩より少し長い程度の軽くウェーブした髪がドアから入ってくる風で生き物ように揺れていた。
いつも見る姿。
混乱を収めるように、その名前を呼んだ。
「
「おはようございます。兄さん」
ジト目で睨まれ、自分が何をしたのかを考える。
………………柔らかかったな。
手のひらを見つめると、そんな感想が浮かんだ。
そして、胸を隠している双葉。これはもう確定だ。
「すまん!!」
ベッドの上で土下座。
寝ぼけていたなんて言い訳をしても意味はない。やってしまったことをとやかく言ったところでやってしまったことは変わらない。
「兄さん。いえ、ここは
「呼ばなくていいから!!」
なにやら真面目な顔で思案し始める双葉に即座にツッコミを入れる。
「白兎さん」
「いや、だからーー」
「聞いてください」
「はい……」
有無を言わせぬ重圧に負け、土下座から上体を起こし、正座で話を聞く体制に。
「私の胸。どうでしたか?」
「それを聞くのか!?」
「どう、なんですか?」
「そりゃ、寝ぼけてたし……速攻でビンタきたからどうって言われるほど揉んでない……いやいやいやいや」
違う違う。そうじゃない。そうじゃあないだろう!
双葉は今怒っているのだ。それなのにそんなことを言っては油を注ぐだけだ。出来る限り怒りを鎮火させるようなことを言わなければ……
「柔らかった!!」
きっとこれが正解であると感じ、力説してみる。
「っっっっ!?」
顔を真っ赤にしながら部屋の外に飛び出ししまった。
「えっ、なん……で?」
どうしていいのか分からなくて呆然としてしまう。
ただ一つ分かることは……
「失敗、した……」
ベッドの上で項垂れる。これじゃなかった。しまった。どうしよう……
元々は幼馴染。とある出来事のせいで天涯孤独となった双葉を両親が引き取ったことで出来上がった義理の兄妹。
こうして、一つ屋根の下で一緒に暮らしているのが奇跡のようなものなのだ。
この出来事のせいで気まずくなったら義理とは言え兄妹としての生活に亀裂が入りかねない。
謝って許して貰えるか分からないが、ここは精一杯謝罪するしかないだろう。
「はぁ」
「あの、兄さん」
「はい!?」
半開きのドアから、双葉が半分だけ顔を出している。先ほどまでの白兎呼びではなく兄さんに戻っている。
「さっ先ほどのは、事故ってことで。納得……しますから、早くご飯。食べてくださいね」
「おっおう」
「先、行きます」
パタパタと廊下を走る音が聞こえる。
どうやら、許されたようだ。何があったのか不明だが、許されたならそれでいいか。
「着替えよう」
ベッドから降りて学校に行く準備を始める。
頑張ろう。
☆
朝食を食べ終え、いつもと同じ時間に家を出る。両親は単身赴任で地方に飛んでいるため、双葉とは二人暮らし。
当初は父だけで行く予定だったのだが、生活能力の無さを理由に着いていってしまった。
双葉との二人暮らしは問題があると散々抗議したにも関わらず、にこやかな笑顔でスルーされ、双葉も満更でもない反応を示したために三対一で敗北した。
一応気をつけて生活はしているが……まさか、寝ぼけてあんなことをするなんて。
「はぁ」
「ため息を吐くと幸せが逃げますよ?」
「誰のせいだと?」
「兄さんですね」
ぐぅの音も出ない。
確かに原因は俺だ。そして、ため息の理由をちゃんと分かっているなら放っておいて欲しい。
「いつも以上にうなされていたので心配で覗き込んでみれば、あんなことを……」
「うなされ……てるのか?」
「はい。いつも、ですよ」
いつも、か。
原因はきっとあの夢なのだろう。
最愛の幼なじみとその両親を失った事故。
双葉を天涯孤独へと押しやったそれは、なんで俺一人助かったのか謎に思うほどの大事故で、今も俺の胸を締め付ける。
助けてと叫んでいたその手を、俺は掴むことは出来なかった。
それなのに、のうのうと生きていることに罪悪感を抱いていた。
「悪い。心配をかけて」
「大丈夫です。私が、兄さんを支えます。ですから、ゆっくり。ゆっくりと克服しましょう」
「ああ」
双葉の存在は救いであった。
俺以上に辛い時期だったはずなのに、そばに居てくれた。支えてくれていた。
泣き言一つ漏らすことなく。俺の傷を癒そうとしてくれ、家族にまでなった。少しだけ、性格が変わったようにも感じたが……家族を一気に失ったのだ。そんなことがあっても不思議ではない。
「ありがとう」
「はい」
にこやかな笑顔。感謝しても、したりない笑顔を眺めながら通学路を行く。
いつも通りのバスに乗り込んだ。
「おっはよう」
「おはよう」
「おはようございます。
「おう!」
時間が早いために空いているバスでは、俺たちを待ち構えていた友人。
細身だ。しかし、身長は俺よりも十センチ以上高い。平均よりも高い俺よりもあるので、クラスで並ぶと頭一つ出る。
顔も、テレビで見るアイドル並みなので、何も知らない人からの告白は多い。
ただ……中身を知られると大抵が離れていくのだ。
「暑いだろ」
「いいじゃねぇか。ほらほら、これ見てくれよ」
Yシャツのボタンを外し、中を見せてくる。
「それ、大丈夫か?」
「どうしたのですか?」
「へへーうわっと!」
バスが出発したせいでバランスを崩した浩介が慌てて吊革に捕まる。
一息ついてから、残っていたボタンを外して中を見せびらかせてくる。
「昨日取ったんだぜ! なんと、三百円。自分の才能が怖いぜ」
「ははっ」
「これは、また……」
中に着ていたのは、キャラ物のTシャツ。今やっているアニメらしく。放送日の次の日には、見たのか? としつこいくらいに質問してくるので、よく知っていた。
しかし、まあ……
「凄い。ですね」
「ああ。俺にはその気持ちが分からん」
自慢しているのは分かるが、女の子がスカートをたなびかせながら決めポーズ取っているTシャツを堂々と着られる根性が分からなかった。
隣で歩かれたら他人のフリをする。絶対だ。
「なにおう。このシャツの良さが分からないと言うのか? こんな素晴らしい服。取ったときの感動。兎ちゃんには分からないのか!!」
「分からないし、兎ちゃん呼ぶな」
頭痛がしてきた。
浩介から人が離れていく所以は、このオタク気質のせいだ。
外見だけを求めている人は、重度のオタクである浩介の中身を見ては愕然として離れていく。
早くて一時間で振られた記録を持っている。それでも、自分を曲げることのない心の強さは、尊敬に値する。
しかし、まあ……アニメや漫画が好きで、色々と手を出していることは知っていたが、ここまで深く沼にはまっていたとは……
巻き込まれないように注意しなければ。
「盛り上がっているところですが、次は降りるバス停ですよ」
「おっそっかそっか。止めとかないとな」
慌ててボタンを閉めていくが、慌てているせいかなかなかボタンを止められない。しかも、間違って止めたりして大変なことになっていた。
「ああもう。ほら、気をつけ」
「兎ちゃーん」
背筋をピンッと伸ばし、手を横に置いたのを見てから、ボタンをつけていき、バスが停まると同時に吊革に捕まった。
「うわっと!」
ただ、浩介は予測してなかったようで派手に尻餅をついていた。
周りからくすくすと笑い声が聞こえるが、浩介はまるで気にすることはなく。「どうも、どうも~」と手を振りながら定期をかざしてバスを降りる。その後について降りると、仁王立ちする女の子が居た。
「おはようございます。
「おはよー」
「
茶化すような浩介に、裏拳で返事をする有村由里。俺たちのクラスメイトだ。
小学校からの友人で、集まることが多いせいか仲良し四人組と揶揄される。
喧嘩もすることはあるが、大抵集まってしまう。
「浩介。ネクタイはどうしたのよ」
つり目がちの瞳のせいか、少し怒っているように見える有村。俺と同じくらいの身長で女子の中では高い方であるため、威圧的に見られることが多い。
話してみるといい奴なのだが、そこに辿り着くまでが長いようで、高校に入ってからは友人作りに手間取っているように感じた。
姉御肌で、面倒見がいいのだが……言い方がキツイのが問題か。
今のだって怒っているわけではない。浩介のためを思っているのだ。
「そんなの、首が苦しいからしてないっての。ポケットには入れてるけどな」
「でも、兎は着けてる。あなたもちゃんとしなさい」
「兎って呼ぶなって何回言わせたいんだ?」
「あはは」
朝の恒例になっている言い合いをしながら学校を目指す。
「あれは……ああ。今日か」
「やっべ!」
慌ててネクタイを取り出して首に巻いていく浩介。しかし、鏡も無く。慌てているせいでぐちゃぐちゃだ。
「仕方ないわね。ちょっと貸しなさい」
見かねた有村が慣れた手つきでネクタイを結んでいく。
このシーンだけ見たならば、恋人のネクタイを結んでいるように見えることだろう。
当人たちの気持ちを考えたら、別なんだろうけど。
「はい出来た。ちゃんと明日は結んできなさいよ?」
「さあー」
「ふん」
「ぐぇ」
一気に首を絞められて苦しそうにしてはいるが、陰険な雰囲気にはならない。
信頼しあっているのがよく分かる。
「兄さん」
「ああ」
多数の生徒で密集する校門。その先では、風紀委員が服装検査をしている。机も持ち出していることから、持ち物検査もしているように見えた。
喧騒の中に悲鳴が聞こえるので、引っかかる人はそこそこいるのだろう。
「次、時間はないぞ!!」
指揮を取っているのは、三年生の
取り締まりは厳しいが、ちゃんとしている場合は優しいいい先輩で、猫を愛するために猫先輩と呼ばれると喜ばれる。理知的な眼鏡をかけ、キチッとした服装とオールバックの髪型。
スーツを着たらそのまま会社に出社しそうなほど完璧だ。
「猫先輩。おはようございます」
「おはよう。光義兄妹は服装に乱れなし。その調子で、持ち物検査も通り抜けてほしいものだ」
「ありがとうございます」
一瞥しただけでgoサイン。全ての生徒の名前と顔が一致するそうで、名簿を持たなくても点呼を取れると豪語し、実際にやる人だ。
優秀。なのだろう。
「有村も通っていい。しかし、三笠。お前のそのTシャツはなんだ。神聖なる学舎に着てくるのに相応しくないのではないか?」
「いえ、このTシャツはオレの愛を形にしたもの。つまり、神聖な物。これ以上に、神聖な学舎に相応しい物はないでしょう!!」
「駄目だ。取り上げはしないから脱ぎなさい。それとも、脱がして欲しいのか?」
キランと、眼鏡が光った気がした。
「えっいや、それは……」
「返事がないなら、脱がすとしよう。スルッと」
「うおっ!」
ネクタイを抜かれ、一瞬のうちにボタンが外される。
「服に隠れているが、いい肉体だ。細身に見えるがよく鍛えている」
「あっ」
服を脱がしながら体に触れるたび、浩介が甘い声を出す。
「ほら、脱げたぞ。持っていけ」
「すいません。でした」
何故か呼吸を荒くしながら中に入ってくる。周りで拍手が起こっているのは聞かなかったことにしよう。
「んじゃ浩介も合流したし、教室行くか」
始業まではもう少しある。
色々と退屈しない学校だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます