第7話 午後のプライベートタイム 上
馬車に揺られながら昇りきった太陽を窓越しに見つめる。
それだけならば何の問題もない旅の一風景に過ぎないのだが、真尋の正面に座るのは血に濡れた伯爵夫人である。お陰で山道特有の激しい揺れも相まって胃液が飛び散りそうだった。
拉致された。それが現在の真尋の状況を表す最適な表現だった。
当然である。何せ真尋はエリザベートから見れば怪しさの塊でしかない。異国文明の服を纏い双眸は紅く、旅人にしてはあまりにも荷が少ないという言い訳すら成立しない現状を注視するだけで済ませてくれた住人とそれを気にも留めなかった真尋の方がおかしかったのだと遅れて気づいた。本来なら尋問やらを通してスパイや斥候を疑うのが自然というものだ。
恐怖しかない。ただでさえ真尋の目の前には狂気を体現させた怪物が座っているのだ。正気など保てる筈がない。
対してエリザベートは真尋をただにこやかに拝むだけで何も話しかけてこないのだから余計に恐怖心が煽られる。早く終わってくれ。それだけが真尋の願いだった。
「…俺はこれから何をさせられるんですか?」
ポツリと呟くように発せられた言葉はエリザベートの耳にまで行き届き真尋の感情を察したのか微笑を浮かべると優しく返答した。
「別にどうもしないわよ。貴方がどれだけ奇抜なファッションをしていようがそれを咎める気はないわ」
「……」
「…相当警戒してるわね。安心なさいな。別に取って喰おうってわけじゃないから」
「…人を取って喰ってる人がよく言えますね」
目を点として真尋が自身の所業を把握していることにエリザベートは遅れて気づく。しかし、それに動揺することはなく気付けば石城たるチェイテ城が眼前へと迫っていた。
馬車を降りてチェイテ城の開門を待つ。足の震えは止まらず、怪物だと理解はしても貴族を相手にしている緊張からか心臓が爆発しそうだったが何とか開かれた扉がそれを制止させた。
「さぁ、お入りなさいな。私の自慢の城へ」
幾人もの使用人が並んでいる。それだけでも真尋は卒倒しかけたが入り口を進んだ先の廊下の細部に至るまでの内装の華やかさが真尋に泡を吹かせかけた。
豪華といっても石城の薄暗さを誤魔化しているわけではない。むしろそれらを残した上で貴人の気品を感じさせる装飾がより薄暗さを際立たせている。
高校生の十六年程度の言語技術では理解できるのはここまでだが、分かり易く言うならこれ以上ないほどにエリザベートの人間性を体現した内装をしていた。
「さてと、私は紅茶とお菓子を用意させるから貴方は応接室で待っていてくれるかしら」
「…わ、分かりました」
応接室。そんなものは名ばかりで実際はカーペットが敷かれ、天井にはシャンデリアがあり壁には精巧なエリザベートの自画像が飾られた廊下と何も変わらない異空間だった。
「…まさかキミがそこまで怯えるとは思ってなかったよ」
そんな真尋の惨状を見てムスプルヘイムが同情する。まさかこいつに憐憫を抱かせるとは想定していなかったが追い詰められていたのは事実だ。
何せ相手は六百人もの人間を殺した殺人鬼。気分を害してしまえばどうなるかは想像に難くない。これから先の失言には注意しなければ消されるのはこちらだ。
「…うるせぇ。馬車であんなこと言っちまったんだぞ。ビビるだろ普通」
「だったら言わなきゃいいのに。キミって変なとこで肝が据わってるよね」
確かに後から問われれば何故、あんな言動をしてしまったのだろうか。幸い他の人間に聞かれなかったからよかったものの貴族に向かっての言葉としては落第点もいいところである。
「それでも…喰ったのは本当だろうが。それは誤魔化せるもんじゃない」
そうだ。それだけは変えてはいけない。たとえ貴族だろうが葛藤もなく悪意もなく人の命を奪うなどあってはならないのだ。
だというのにムスプルヘイムは顔色一つ変えずにエリザベートの来訪を待っている。それはまるで最初からエリザベートが答えるであろう言葉を一言一句把握しているかのようだった。
「多分、向こうはそう考えていないだろうね」
「あ?どういうことだ」
「…キミはさ、毎日殺される家畜に涙を流すかい?それと同じことだよ」
応接室の扉が開く。中から現れたのは使用人で一瞬、焦ったが紅茶と菓子を定位置に置くとそそくさと去ってしまった。
そこから数分後には出会った時と同じドレスを羽織ったエリザベートが真尋の前に姿を見せ、丁寧に会釈をすると真尋の正面の席に座った。
「さてと…先ずは長旅ご苦労様。旅人とは聞いていたのだけれど相当な鍛錬を積まれたんでしょうね」
「え…?それはどういう」
「とぼけなくていいわ。昨日、私の使用人を一人殺したでしょう?」
蒼白。脳内で紡がれていた文字列が一気に崩壊する。
そうだった。真尋がこの城に招かれる理由はそれ以外になかった。何が人の命を奪うなどあってはならないだ。自分こそが正に唾棄すべき存在ではないか。
弁明の余地もない。殺人者が殺人者に説教など笑い話程度の意味しか生まれないだろう。
「……そ、それは」
「勘違いはしないでほしいけれど、何も罪を償えって言っているわけじゃないのよ。むしろその逆。称賛よ」
この女が何を話しているのか理解が追い付かなかった。同じ言語なのに全く違う価値観を叩きつけられている気分になる。これはまずい感覚だ。
「…はい。事実です」
「やっぱりね。しかもあれは普通の殺し方じゃないでしょう。炎で人体を炙った…そうとしか思えない死体だったわ」
立て続けに彼女は不可視に真尋の首を絞め続ける。それも厳粛にではなくあくまでも楽しげな笑顔で。それが何よりも恐怖だった。
この女は遊んでいる。真尋と名付けられた人形で遊んでいる。操り糸に囚われているようで気持ち悪い。
「あぁ、言えない事情があるのなら言わなくていいわよ。それに死んだあの子は鈍臭い子だったからね。死んでくれて清々したわ」
淡々と彼女はそう言った。価値観が揺らぐ。悪魔と会話している気分になる。これ以上は真尋にとって毒にしかならないと本能が告げている。
「ここの町民だってそう。私にとっては私を支える為の機能でしかない」
「…貴方が殺した人たちもですか」
「驚いた。やっぱり聞き間違いじゃなかったのね。こっちとしては隠してるつもりだったのだけれど…完全には防げないか」
溜息を吐き己の失態を恥じるエリザベートの姿は最早、真尋の価値基準を軽く凌駕していた。人間の形をした怪物なんて認識は甘かった。
この女は怪物ですらない。他人の生き血を啜る吸血鬼。漸くその由来を理解できた。彼女はそもそも常人と同一の価値観を持ち合わせていないのだ。そして何より彼女はそれを自然だと考えている。それこそが真尋の震えの正体だったのだ。
「まぁ、別段、問題はないけれど」
「……貴方は彼女たちの苦悶を聞いて本当に何も感じないんですか?」
「ないわよ。逆に聞くけれど貴方は自分を生かしてくれる存在に一々感謝するの?人に、肉に、魚に、植物に、細胞に」
言葉の羅列が襲いかかる。狂人の放つ一言一句が真尋に容赦なく突き刺さっていく。
「もしかすればそんな物好きも居るかもしれないけどソレだって今までに築かれた屍の山なんて気にしないわ」
「…な、にを…」
「単純な話よ。対価で得た権利に感謝なんてする筈がないでしょう」
両手を広げ、そう断言したエリザベート。君臨者として生を謳歌する彼女の姿勢は真尋にとってこれ以上、関わってはならない悪魔の囁きでしかなかったが、カリスマ性があるのだろう。
彼女の言葉が耳から離れない。どう対抗しても脳内へと侵入してくる。そしてそれすら見透かしたのかエリザベートは話を進めた。
「彼らは働いて私から対価を得る。その対価を使って彼らは日々を生きる。この循環に感謝を捧げる理由が見当たらないわ」
「…そ、れでも」
「仮にもし日々の生活に満足して感謝している人間が居るとするならソイツはとんでもないエゴイストよ。自分の幸福が他者の不幸で成り立っているのを理解してない阿呆か、理解した気でいる馬鹿か。そのどちらかでしかないわ」
「…それでも」
「感謝は差別の類義語よ。とても広範囲にまで届く無秩序な慈愛という名の暴言の雨。感謝なんてほざいてる癖に足元の屍には触れようとしない。比較対象は人間だけ。そこに動物や野菜は含まれない。彼らは怨嗟を表現できないだけであって人間の理不尽を許容したわけじゃないわ」
「それでも貴方の行った虐殺が正当化されるわけじゃない…」
コイツは人であって人じゃない。その事実だけは忘れてはならない。たとえ相手が正論ぶった持論を語ろうがそれだけは覆らないのだ。
歯を食いしばって正面に構えた悪魔を睨む。全てを認めないと言う気はない。だが、貴族だろうが何だろうが罪人なのだ。なればこそ、他で折れようがここで折れるわけにはいかない。
「貴方だって怨嗟を聞いてきたでしょう。死にゆく少女の生き血を浴びてそれを…それを当然の権利だとでも言うんですか…!」
「…そうね。確かにいくら私が御託を並べてもそれは言い訳でしかない…貴方の言い分は当然の理屈ね」
「だったら…!」
「でも、私は貴族よ。それ以外に正当性があって?」
断言された。命のやり取り。その一切に至るまでの行為をたったの一言で塗りつぶしてみせた。
そうだ。そもそもおかしいのはこちらだった。貴族と平民の絶対的な境界線。それは簡単に覆せるものではない。もしそこに殺人すらもが成立する免罪符があるのならそれは階級に於いて他にない。
「それにただ快楽の為に彼女たちを殺したわけじゃないわ。ちゃんとした動機あっての行動だというのを理解してほしいわね」
もう十分だ。もう聞きたくない。理由は知っている。末路も把握している。救いようのない最期だったのだと告げられればどれほど楽か。
「…貴方には無縁でしょうけど、私は肌荒れを気にしててね。昔は薬草を使っていたのだけれど…数年前にとあるボンクラが不出来を働いてくれたお陰でとてもいいエキスを見つけることができたの」
結末は知れている。この女の果ては全世界へと拡散済みだ。だというのに真尋は一歩が踏み出せないでいる。
「少女の血…貴方も噂には聞いているでしょう殺人の理由。それこそが私の生きる喜びであり糧なのよ」
鳥肌が立った。自慢げに己が美の秘訣を語るエリザベートに寒気を覚える。
変えようがない。ムスプルヘイムが話していたハッピーエンドなんてものが本当なら現時点で以ってそれは破綻した。
どうにもならない。どうにもできない。こいつはそもそも救済しようがない。重大な認識違いをしていた。
この女は既に救われている。それを救うなど誰にも行いようがない。それだけが真尋がエリザベートとの会話で得た唯一の収穫だった。
午後のプライベートタイムは淡々と平等に進行する。貴婦人と平民の隔絶した思考回路は平行線を招き、夕暮れを歓迎する。
ゲーム開始二日目。不穏の花はこの時より芽吹き始めていた。
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