第3話 暖かい手のひら

 机上の空論。机上で立案された作戦はどうやっても机上でしか示せない作戦でしかなく、そこには必ずどうにもならない天災や偶然などの摩擦が発生するというのはクラウゼヴィッツの有名な戦術論だ。

 過去に触れた彼の見解はどう足掻いてもその域から抜け出ないものだとして真尋は切り捨ててきた。しかし、今になってそれがありとあらゆる局面を指した言葉なのだと気付かされた。


 「あー……」


 改めて、壱ヶ谷真尋という人間がこの世界においてどれだけの異端であるかを思い知らされる。

当時の文化の欠片もない格好と洋服に付いた傷痕。そして焦げた死体から流れる灰色をした煙の臭い。

 これらの要因から怪しい以外の単語が地球上に言語として確立されているのなら真尋はそれを教えて欲しくて堪らなかった。

 真尋の脳内では該当する突破口となり得る言葉や口説き文句は存在せずただ驚愕による硬直だけが真尋の神経を固まらせている。


 妖精に目配りをし助けを求めるがニヤついた楽しげな顔を見て一瞬でも頼ろうとした己を恥じた。


 「それにさっき、貴方、襲われていましたよね…」


 追い討ち。しかも自分の他に殺されかけている人間がいたことを彼女も理解していたのか。そして彼女も生存している以上、何かしらの方法で撃退したか向こうが撤退したかのどちらかになる。

 恐らく前者はないだろう。人のことは言えないが彼女の華奢な肉体で無垢な少女を殺し慣れた人間を殺し返すのは不可能に近い。


 どうすれば彼女を偽れるか。そもそも身分をバラしていいのか。

 自分は現代人であると仮に彼女に白状したとして代償により真尋の身体が爆散しては意味がない。歴史改変モノにおいて現代人は何よりも未来を知る者として制約を受けやすい。

 これがそういう類のゲームだというのならば何かしらの危険性はあるものだと想定するのが妥当だろう。ならば、 


 「……俺は、俺は…そう!俺は旅の者で、えっと、世界中を旅しているんですよ…それでですね…この服は様々な国で調達したものでして…彼女もその、護身術的なもので…」


 惨めになってきた。ここに来て日本社会特有の社交性のなさが仇となってしまった。

 自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。妖精が必死に笑いを堪え今にも吹き出しそうになっているのが最高にムカついたがその反応が真尋の虚言の成果を如実に表していた。

 ここまで来ると道化もいいところだ。急に死にたくなってくる。目を点にして真尋をただ純粋に見る少女の眼差しがその決意をより確固にさせていった。


 「だから、そのー、えっとですね…」


 「そう、ですか。それは災難でしたね」


 なんとかなった。なってしまった。精神が緩い木綿に絡みつかれたかのように蝕まれていく。

 とても良い環境で育てられたのだろう。彼女は真尋の言葉を一言一句を信じ彼が流離なのだと誤解した。

 この時代の旅人の生存率などたかが知れている。それこそ発火の一つもできないようでは盗賊や自然の餌食となるのがオチだ。


「あ、あぁ、災難だった…」


 どうしようもないやるせなさと咄嗟の機転によって回避された事態に安堵する己とで板挟みになる。

 こんないたいけな少女を騙してまで勝ち取るべきものだったのか。罪悪感だけが増大していく。

 そんな後ろ向きな感情に引っ張られていく真尋を尻目に彼女は少し緊張しながらも真尋に対して善意の成す必殺の言葉を投げかけた。


 「その…もしよろしければ町まで案内しましょうか?旅の疲れもあるでしょうし…」


 とどめの一撃。良心の呵責に苦しむ真尋に対して放たれた純粋無垢が織りなす防御不能の絶対攻撃。容赦は通じず真尋に残された選択肢は彼女の厚意にただ従うのみ。


 「あ、あぁ…ありがとう。恩に着るよ」


 ぐさりと不可視の隙間に音が鳴る。それは真尋の内で響く振動なのか、外側で広がる波紋なのか。真尋本人すら見当がつかなかった。


※※※※※


 一切の太陽の輝きが遮断された平原でもほどよく整備された歩道に出ればそれなりに景色は良いもので、遥か先に広がる森林まで拝むことができた。


 全身を切り傷によって蝕まれている少女の背を見て改めて真尋はここが過去の歴史であることを実感する。

 あまりにも死が身近にある世界。それは現代日本ではありえない空想の代物に過ぎず、真尋もそう捉えていた。

 しかし、鬼の形相で自身に迫り殺そうとする女との対峙を経てそれが重大な認識違いだったのだと悟った。じんわりと右掌に残った放血の感覚がその証拠だ。


 (本ッ当…俺にどうしろって言うのかね…)


 過去を変えるゲームだと妖精は言った。より具体的には後世の歴史家が大幅な加筆修正を行う必要性があると決断させるほどの改変を促すゲームだと。

 それにどんな大義があるのかは分からない。もしかすれば資産家の賭け事に利用されている可能性も十分にありえる。だとすれば監視用の何かが自身を写して見世物にしているに違いない。


 疑心の渦が真尋を呑みこもうとする。不明瞭と不透明が同時に襲い掛かってくる感覚は不快以外の何物でもなく余計に混乱へと誘われそうになっていた。


 「大丈夫、ですか…?お顔が優れないようですけど…」


 「あ、あぁ…大丈夫だよ。少し旅の疲れが出たのかな…」


 虚言もここまで来ると滑稽でしかない。雑なサーカスしかできないピエロに大爆笑を覚える子供とでも例えればいいのか。

 とにかく真尋と彼女との間にはそれぐらいの壁が存在していた。今からでも己の素性を明かした上で協力を仰ごうと思えば可能かもしれない。

 しかしそれで規約違反を犯したとルールに認識されれば真尋の命はないだろう。故に心は痛むが真尋は耐えるしかなかった。


 「随分と綺麗な所なんだな。太陽は霞んでいるのに向こうの方まで一望できる」


 ふと、正面から目線を横に逸らして自然の生み出す風景に心を預ける。思わず止まりそうになった足を察したのか少女も傷だらけで痛むであろう右腕を抑えて真尋と同じ景色を見やった。


 「ここは自然豊かな土地ですから。旅人さんにはそう写るのでしょうね」


 言われて真尋は自身が傷だらけの少女に無理をさせてしまっているの気付いた。傷自体は浅いが血が止まっているわけではない。それは全身に刻まれた傷が何よりの証明だった。


 「あ、悪い…そんな身体で足を止めさせちまって」


 「…いえ、問題ないですよ。私はただのしがない農奴ですから」


 そんな心配をよそに少女はただ微笑して真尋の謝罪を受け流す。その笑顔は慈愛を唱えるシスターに似ていて最後の言葉さえなければただの可憐な少女のそれだった。


 「この傷も我らが城主の恋慕の証です。それがいかに罪深いことであれ、それを咎めることは誰にもできません」


 傍らに担いだ作物や雑草はもれなく紅によって元の色を見失っている。それすらも彼女にとっては平然と受け入れて然るべきものなのだろう。

 悪寒が走る。こんな残酷を平然と受け入れている少女もそうだが何故、そんな仕打ちにあっても微笑みを失わずに済んでいるのか。

 最早、狂気の類だ。押し殺しているわけでもなく、理不尽に潰されかけているわけでもない。純粋に受け入れ、運命なのだと納得している少女の姿が何よりも悍ましかった。


 「強いんだな…君は」


 これが強さなのかは真尋にも分からない。恐らくは違うだろう。それでも現代人の大半が彼女と対面して今と同じ対話をしたら様々な言語を用いて彼女の強さを形容する筈だ。


 「私は強くはありませんよ。むしろその対極に位置している人間です」


 簡単かつ単純な強弱によって全てが定まる世界。そこに生を受けた彼女はただあるがままを肯定する。そこに精神の気高さが割って入る余地はない。

 酷く歪で、されど当たり前なかつての常識は真尋を驚愕させるには十分だった。


 「そろそろ行きましょうか。あまり遅いと私の主人が怒りますから」


 「あ、あぁ…」


 真尋の頭上を吹き抜ける風は少し湿っていて、雲に隠れながら沈んでいく太陽はその役目を終える。虚ろな影に消えゆく太陽の姿はどこか悲しげに見えた。


 「もう夜か、早いな」


 灰の海を忽然と照らしていた陽の光は消失していき、その役目を引き継ぐべく陰の光を携えた月光が姿を現す。

 どうやら自分は夕刻にこの世界へと迷い込んでしまったらしい。普段ならば家の窓からただ当たり前の摂理として拝む光景も今日の真尋の眼にはどこか神秘的なモノとして写っていた。こんな状況に陥ってしまった弊害かもしれない。何かしらの脳機能が麻痺している可能性も十分にあり得る。

 それでも普段とは違った感性で見上げる暗灰色の月はある種の妖艶さを醸し出していて、真尋はそれに軽い身震いを覚えていた。


 「どうしたのさ、月なんか拝んで。もしかしてキミって月を見て一句詠んじゃったりするようなメルヘンさんだったりするのかな?」


 「んなわけねぇだろ。はっ倒すぞ」


 「おぉ、怖い怖い」


 真尋の威圧に両手を上げて退散していく妖精の姿は何処までも滑稽で真尋は更に苛立ちと不信感を強めていった。


 「もう少しで着きますよ。私たちの住む町に」


 少女の丁寧な道案内の終焉と同時に細々と明かりのついた町並みが真尋の両目に入り込んだ。静寂と静謐が同室したその空間はあまりにも陰鬱でそこが城下町であるという事実に真尋は数秒遅れて気づかされた。


 「随分と静かなんだな」


 「もう夜ですし、今夜は特に暗雲になるでしょうから、好き好んで出ようとする人はいませんよ」


 連日、引き起こされる凄惨な殺人事件。それが町民同士の些細なトラブルならまだしも城主の論理ではどうにもならない精神異常による虐殺とあっては対処の仕様もない。

 絶対的な力を持つ狼に対して羊にできることがあるとすれば静かに蹲り、ただ恐怖を己の中で芽吹かせることだけだろう。この町の住人は正にそれを現在進行形で実践していた。

 少女の言葉を信じるにはあまりにもおかしい明確な乖離は少女のぎこちない笑顔も相まって余計に真尋の目には鮮明に見えた。


 「にしても静かすぎるだろ…」


 門が開かれた町の入り口を適当に見渡しただけで否応なく他者に抱かせる不信感。

 町の対応としては落第点も甚だしい怯みきった空気はしかし、時間外からの旅人である真尋にとってはむしろ歴史の惨状を知るには好都合で、だからこそ町全体に広がった鈍重な気配に一歩、踏み入るまで気付けなかった。


 「っ!?」


 その感覚を何と例えればいいのか。耐え難い苦痛に似ていて、それでも何処か不安定な浮遊感に襲われたかのような感覚。とにかく人間という生物が生涯の中で味わう内部的不快感を一気に喰らった気分になる。


 「お…ぶ…」


 吐きかけた残留物混じりの胃液を呑み込み、鳥肌の立った肌を抑えて抵抗する。幸い目の前の景色は何一つ変わっていない。これがもし幻惑の類ならば真尋はもう既に物言わぬ人形になっていただろう。

 だが、そうでない以上はまだ対抗の余地がある。口を塞ぎ、神経を集中させ、内に暴れる不快の元凶と対峙する。唯一の勝ち筋は『慣れ』という名の不恰好な耐久だけ。それもいつまで持つかは分からない。数秒後には力尽きる可能性だってある。それを何とか唇を噛んで封じる。


 「あ、あの、大丈夫ですか…?」


 大丈夫なわけがない。これが大丈夫なのなら壱ヶ谷真尋の身体スペックはとうに常人を逸脱している筈だ。

 しかし、真尋とて環境や生まれの違いはあれ彼女と同じただの人間である。呼吸は乱れ、両足は震え、両手は今にも地に沈みそうだ。

 ぐわんぐわんと揺れる脳が邪魔で仕方がない。もう限界だ。意識が真尋に囁いてくる。ふざけるなと押し流そうとしても、一度抱いてしまった流れはそう簡単に塞き止められるものではない。


 「ク、ソが…」


 倒れる。もう倒れてしまう。駄目だと考える意思はとても脆く、終結を望む本能はより一層、その主張を増幅させる。どうにもならないから諦めろと全身が吠えている。

 こうなればもう真尋の精神なぞ役に立たない。後はただ揺らぐ身体に身を任せ地に伏す。それで終わりだ。だからこそ真尋が頼れるのはもう外部にしかなかった。


 心臓の鼓動が一際大きくなり跳ね上がる。それに押し出される形で空気と唾が外界へと放出される。

 次に訪れたのは圧倒的な解放感。執行な狩人から逃れた獲物が急いで狩場から逃げおおせた時のような生存の確保から来る脱力とそれを起因とする呼吸。

 最早、立つ気力もままならず四つん這いになった真尋の肉体は活力を欲し更に空気を吸い込んでいく。


 救われた。その差しのべられた手の正体は一目瞭然で、見上げた瞬間に馬鹿にされそうな予感がしたから敢えて俯いたままの姿勢を維持する。


 「さてと、いつまで呑気に這いつくばっているつもりかな?壱ヶ谷真尋君?」


 やっぱりか。本当にこいつは期待を裏切らない。伊達に真尋のアドバイザーを名乗るだけはある。

 出来ればもう少し良識が欲しい所だが胡散臭さを惜しげもなく醸し出すマスコットもどきには期待するだけ損というものだろう。


 「キミ、今とんでもなく失礼なこと考えてたでしょ」


 「…悪いかよ。助けてくれたことには感謝するがそれとこれとは話は別だ」


 「まったく、アタシがいなかったら今頃、お陀仏だったってのに、日本人の礼節の良さが聞いて呆れるわね」


 はっ、とその言葉を聞いて我に返る。日本人としてのプライド故ではない。というかそんなものは今の状況に於いてはどうでもいい。


 問題はそこではなく真尋が倒れかけてから再起するまでの一部始終を見ていた彼女の方だ。

 キョトンとした顔つきでこちらを覗く彼女の双眸には真尋しか写っていない。それならば問題はない。

 だが、もし彼女が真尋の隣でひらひらと鬱陶しく舞う妖精を捉えていた場合、どうなってしまうのだろうか。異形の者。それ以外の何者でもない妖精といういわば常識的観念の埒外に住む異物は真尋の心情も知らずに羽虫の如く飛び回っている。

 まるで最初から彼女の視線を意にも介していないように―――


 「…一つ、質問だ。お前の存在はこの世界にはどういった形で認識されている」


 妖精のいけ好かない笑みを拝むのは何度目だろうか。数える気力すら起きない微笑の応酬は真尋のやる気を削ぎ落とさせ、立ち上がろうとする足を重くさせる。


 「キミは本当に察しが良くて助かるよ。そう、彼女…というかゲームにおける過去の世界の人間にはアタシの存在は見えていない。それとキミとアタシのやり取りも聞こえていない。ま、あくまでもアタシはアドバイザーだからね。アフターケアも万全ってワケさ。だからキミが何もない虚空に話しかける精神異常者だって疑われることはないから安心してね」


 アフターケアの意味を根本から間違えているのには目を瞑る。しかし、目視どころか過去の人間に対する五感干渉の一切をシャットさせて自身を隠蔽させるとはまた考えたものだ。

 しかも、その恩恵は構成者ヘルハールにも影響しているという。これでは確かに彼女の視点からすれば真尋は完全にただ上の空で何処かを向いている変人にしかならないだろう。


 (…いや、なってるじゃねぇか)


 これを主催した奴は恐らくそれで満足してしまったのだろうが早速、小さくはあるが不備が発生してしまった。幸い違和感程度の差異しか対象に与えない為、ゲームの運営には支障はないだろうと考えたのだろう。

 とんだ迷惑である。怪奇とまではいかないものの彼女の視線は間違いなく真尋を純粋に心配し、そして未だに返答を与えない真尋に対して向けられている。

 誰もいない空間なら未だしも人の蔓延る場所では妖精も真尋も等しく異物でしかない。今後は妖精との会話方法も考慮するべきだろう。


 「あ、あのー…」


 「あ、あぁ心配ないよ。ただ少し立ち眩みがしただけだ」


 「そ、そうですか…それなら、はい、よかったです」


 自分よりも遥かに傷を負っている少女に心配を抱かせたことに今更ながら後悔を覚える。再び歩き始めた少女の背はハッキリと血に濡れていて、浅くとも軽視は禁物だというのは素人目にも理解できた。


 「もうすぐ私たちの主人が住む家へ辿り着きますよ」


 にこやかに笑う彼女の瞳は驚くほどに澄んでいて真尋はそれが孕む時代の狂気を改めて実感する。

 血の伯爵夫人が闊歩する血潮に濡れた町。人々は当に理不尽と残酷に慣れきっていて、現代日本が定義するまともな人間とやらは一人もいない。


たった二時間と少しの滞在時間で既存の価値観が全て上塗りされていくような気分になる。明かりだけが点いた暗い闇が更にそれを加速させる。


 「そういえばさ、キミはどう感じた?さっきの気持ち悪い嘔吐感を」


 彼女の主人が住まうとされている場所まで歩く途中、突然と妖精にそう尋ねられた。それも煽るような声ではなく純粋な問いかけとして。


 あの時の感覚。叶うのならばもう二度と思い出したくもないのだが真尋の身体はまだ鮮明に感情もろとも記憶している。

 嫌悪感の権化。そう説明すれば済むだけではあるが、敢えて詩的な表現も含めるとするのならばあの感覚は一つにしか例えられない。


 「…そうだな、何といえばいいか…何つーか、掌に包まれているみたいな感覚だった。それも力強くって感じじゃなく、どっちかつうと暖かくて…とにかく、優しく握りしめられてる気分だった」


 「ふーん、そっか。キミはアレをそんな風に感じたんだ」


 何処か意味深にそう呟く妖精の姿は儚げで一瞬でも見入ってしまった自分をぶん殴りたくなったが目の前の光景が真尋の短慮を制止させた。


 「ここは…」


 「はい。ここが私の主人が住むこの町唯一の教会です」


 巨大な扉に聖母の絵が描かれたステンドグラス。屋根の頂上には教会の証たる十字架が刻まれている。

 この時代のしかもこんな小規模の町に教会がよく建てられたなと軽く感心する。中世における教会、ひいては宗教の影響力は絶対だ。

 誰も彼もが立場を忘れ、神に懺悔と祈りを捧げる戦乱の世にあった混沌から弾きだされた唯一の中立地点。それが彼女の農奴としての働き場だった。


 「もう、皆は夕食を食べ終えた頃ですかね。夕飯のいい匂いも漂っていますし」


 言われてみればシチューに似たミルク風味の匂いがする。と同時に腹の虫が鳴りそうだったのでそれを何とか両手で押さえた。


 「取り敢えず、先に私が事情を説明しておきますから旅人さんはここで待っていてください」


 そう言って彼女は教会の門を開き壮絶な外界から帰還する。何やら小さい子供の悲鳴やら何やらが聞こえてくるがここは孤児院も兼ねているのだろうか。そんな他愛もないことを考えていると妖精に右頬を引っ張られた。


 「痛って!?何だよ!」


 「すぐ近くに構成者ヘルハールがいる。教会のすぐ横の脇道に佇んでる…のかなこれは。どうする?見に行ってみる?」


 「なんだと…」


 構成者ヘルハール。この世界におけるプレイヤーの総称。その立場上、未来人でなければ成立しない役職は必然として個ではなく群であるという当然の帰結に何故、今の今まで気付けなかったのか。

 妖精は一回も巻き込まれたのは真尋だけとは一言も口にしていない。故に真尋の住む世界からの来訪者がもう一人いた所で何らおかしくはないのである。


 「それは確かなんだよな」


 「そりゃそうさ。アドバイザーが嘘をついてどうするんだよ」


 真尋と同じ構成者ヘルハール。されど味方でも敵でもない不可視の影。下手に歩み寄れば命を落とす危険だって十分にあり得る。

 それでも興味がないわけではない。死を承知で突貫する余地はあるだろう。何せこの世界で唯一の同類である。たとえ敵であっても真尋の知り得ない情報を持ち合わせているのであれば賭ける価値はあるだろう。


 「…分かった。行ってみよう」


 「いいの?もしかしたら出会い頭に襲われるかもしれないけど?」


 「その時はその時だ。今はとにかく情報源が欲しい」 


 月夜の入り込めない横道へと侵入する。叫び声と笑い声が入り混じる教会の横道は陰鬱に汚染された町のモノとは思えないほど、陽気さに満ちていて、だからこそ地面に横たわる何かに気付くのが遅れてしまった。


 「うおわぁ!?」


 思わず踏んづけてしまいそうになった右足をどかす。それはよくよく凝視すれば人間の頭で、なんの調整もされていない地面に額から大の字で寝そべっていた。

 いや、正確には行き倒れていた。構成者ヘルハールの背中を必死に引っ張って救助しようとする緑色をした妖精がそれを確信づける何よりの証拠だった。


 剣道などでよく見かける白い道着を羽織った、恐らく丸く細い体型から察するに真尋と同年齢であろう少女。

 背中には竹刀専用のバッグが背負ってある。しかし、そんな格式のある格好も大の字で力尽きた体勢が威厳も何もかもを打ち消している。


 「あー…これはやる気がそがれるねー」


 今回ばかりは妖精の言葉に賛同する。少女の腹の音が景気よく夜空へと木霊していくのを聞いて真尋は先まで抱いていた、ありとあらゆる勝手な期待を行き倒れている少女から手放した。








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