第2話 桜花舞



 次に目を覚ました時美郷は、見知らぬ山中の巨木の根本に倒れていた。冷えて軋む体を起こし、辺りを見回す。頭上に広がる巨木は重く枝を垂らしているが、その枝先に春の気配はない。茶色く干からびた風情のそれを手に取り、美郷は太い幹も検分する。

「桜だろうな……ああ、幹の皮を喰われて枯れたのか……」

 おそらく鹿の仕業だろう。食べ物が乏しい冬の間、鹿は樹皮を食害する。彼らにしてみれば厳しい季節を懸命に生き抜いているだけだが、鹿の頭数が増えすぎた昨今では、その食害が山の木を枯らして問題となっていた。

 狗賓共々飛ばされてたどり着いた場所ならば、あの桜泥棒の住処の近くだろう。立ち上がった美郷の視界に、桜の枝を抱えた背中が屋敷に消える様子が見えた。枯れた桜の傍らに建つ屋敷は平安貴族のそれを模したような造りで、開け放たれたしとみの奥に御簾みす几帳きちょうが覗いている。

 周囲は宵の口のような薄闇で、霞がかかり遠くは見えない。几帳の向こうでは仄朱く、炎の灯りが揺れていた。舞台セットさながらの建物はもちろんのこと、花冷えのきつい夜気が吹き込むままの、無防備な様子も浮き世離れして見える。

(追って忍び込んでみるか……。真正面から挨拶して入れてもらうのはセオリーじゃないよな)

 狗賓の背中が完全に消えるのを確認して、美郷は足音を忍ばせ歩き始めた。己の気配を消す呪術、隠行術おんぎょうじゅつを己に施しそっと屋敷の濡れ縁に上がる。几帳の陰で耳を澄ますと、中から話し声が聞こえてきた。

「姫様、ご覧くださりませ。備後の北に名高い、尾関山おぜきやまの桜にございます。この枝振りの立派で美しいこと!」

 年老いた女の声が、無理矢理に明るい声でそう尾関山の桜を褒め称えた。同時に何か、くぐもった唸りのような男の声も聞こえる。そちらは多分狗賓だろう。これで几帳の向こうには少なくとも、老女、狗賓、「姫様」と三人――と呼ぶのが適切かは分からないが、妖魔物の怪の類がいるということだ。

「まあ、本当に美しいこと……でも、あの桜の色と艶やかさには叶わない……ああ、本当に悲しくて胸が痛い……」

 たおやかで儚げな若い女の声が、今にも消え入りそうにすすり泣く。どうやら病に臥せったあやかしの姫君の元へ、従者が桜を届けているらしい。そっと首を伸ばして垣間見る几帳の奥には、寝具らしき衣の裾といくつも満開の桜の枝が見える。

(姫君を慰めに、ほうぼうから桜を集めているのか……『あの桜』はさっき見た、外の桜の大木かな……)

 山桜はその木によって色も形も開花時期も様々である。花弁はよく植樹されている染井吉野よりも小振りなものが多いが、色味の面白さや、小さな花が満開に咲いて、まるで薄紅の霞がかかるような風情は別の味わい深さがある。あの枯れた大木も樹齢は軽く数百年ありそうな立派な樹だった。健在であれば今頃は見事な満開の花を見せてくれたのだろう。

『まこと口惜しい……あの程度を知らぬ鹿の莫迦ばかもの共が……!』

 やはり鹿にかじられたらしい。今や物の怪も獣害に遭う時代か、と下らないことを考えて笑いをかみ殺していると、美郷の隠れる几帳のすぐ傍を小さな気配がいくつも駆け抜けた。何か小物妖怪が走り回っているらしい。

(おっと、まずいな。見つからないように……って、待て待て白太しろたさん! 今出てきちゃダメだ! ソレはおやつじゃない!!)

 不意に胸の奥がむずむずと疼いて、美郷は慌てて内側に呼びかけた。美郷は体内に蛇を飼っている。望んで飼い始めたわけではないが、同じ体を共有する同居人として、普段はそれなりに上手くやっている。

 ただ、この蛇――白い大蛇の白太しろたさんは、妖魔物の怪の類が「おやつ」として大好物なのだ。今にも美郷から飛び出して小物妖怪に襲いかかろうと、美郷の中でうずうずとしているのが分かる。

(ダメだってのに!!)

 ――おやつー!!

 誘惑に負けて、白蛇が美郷の首元から飛び出した。隠行に集中力を割いていた美郷は、咄嗟に捕まえることができない。

 飛び出した瞬間に白蛇は巨大化し、たちまち子供一人丸飲みできるような大蛇になってしまう。住人たちの悲鳴が辺りに交錯し、屋敷の中は大混乱に陥った。

『ききき、貴様どこからつけてきた!? 姫様を喰らうことは許さぬぞ!!』

「ああ、姫様、姫様こちらへ! 喰らうならば先にこの老婆を喰らってたもれ」

「いいえ私は良いのです、あの桜が枯れてしまったこの世に未練はない……」

 己のペットが巻き起こしてしまった愁嘆場に半ば唖然としつつ、決まり悪く頭を掻いた美郷はひとまず白蛇の尻尾を掴んだ。

「白太さん! めっ!!」

 ぐいっ、と引っ張り、美郷は問答無用で白蛇を連れ戻す。普通のアオダイショウサイズに戻った白蛇を無理矢理首に巻き付けて、美郷は几帳の陰から出た。

「私の蛇がご無礼を致しましたこと、大変申し訳ございません、姫君」

 潔くひざまずいて頭を下げる。まだソワソワしている白蛇をぐっと掴んで諫めた。――おやつぅ……。と名残惜しげな思念が肌に触れた場所から伝わってくる。

『貴様、尾関山の! 付いて来ていたか!!』

 言って狗賓が棍棒を振りかざす。白蛇が反応して鎌首をもたげた。

「何卒ご容赦ください。姫君が桜を愛でていらしたように、わたくしども人間も毎年桜の手入れをして満開の花を心待ちにしております。これ以上の花盗みはお止め頂きますよう、お願いしに参りました」

 言いながら、振り下ろされた棍棒を、懐から出した鉄扇で受け止める。鉄扇は美郷が護身具として持ち歩いているものだ。武器として使えるほど武芸が得手ではないが、こうして相手の得物を止めたり流したりするために携帯している。

 棍棒を美郷に止められた狗賓が、ちっ、と舌打ちした。

「およしなさい。白蛇の君の仰る通り、花を盗んだ咎はわたくしどもにあります。こちらこそ、従者のご無礼をおゆるしくださいませ……」

 几帳の奥に施えられた御帳台みちょうだいの中で、狐らしき老女の介添えで病床から身を起こし、白い小袖姿の女がたおやかに頭を垂れた。豊かな漆黒の垂髪すいはつが、病み衰えた青白い頬を彩って退廃的な色気を醸し出している。女の臥せる御帳台の中は白から深い紅色まで、あらゆる色味、そして小さな一重から豪奢な八重までありとあらゆる形の花を満開に咲かせた桜の枝が、所狭しと敷き詰められて、半ばまで上げられたとばりの外へあふれ出していた。

「しかし、何とも凛々しく麗しい若君でいらっしゃるのでしょう。貴方のような御方が、人の桜の守りをしておいでなのですか?」

 はんなりと微笑む姫君に、美郷は言葉を詰まらせた。恐る恐る尋ねてみる。

「……、一応、私も人間として勤めをしながら暮らしておりまして……姫君の目には、私は何に見えておいでですか」

「まあ。美しい真白い鱗と紅玉の眼をお持ちの、美々しいお姿ですわ。白蛇の君」

 ころころと鈴を転がすように笑う姫君は、少し先程までよりも顔色良く見える。妖の眼には、美郷は既に人には見えていないらしい。突きつけられた現実に多少ショックを受けながらも、美郷は僭越ながら、と姫君に問いかけた。

「桜の姫君、貴女は病に臥しておいでのようですが、一体どのような病にかかっておられるのですか? これ以上桜を差し上げることはできかねますが、よろしければ共に平癒の方法を探したく存じます」

 狗賓がやたらに強かった理由も納得が行った。この姫君は、どこかしらの山を守る女神だろう。山の力を授かり側仕えをしている狗賓はその恩恵と、姫君への忠義心で力を増したのだ。美郷らにとって、こうした土地を守護する精霊の類は敵ではない。むしろ居なくなられれば土地が荒れて災害が起きやすくなってしまう。

「姫様が患っておられるのは気鬱の病にござります。かの桜は姫様がお生まれになってすぐに、この山にやってきた若武者から送られて、大切に大切に共に生きてこられた樹でございました」

「そう、あの桜は我が君から頂いたわたくしの半身。そしてわたくしの晴れ衣装。我が君はもう常世へ渡ってしまわれたけれど、この桜と共に我が君の城を守らんと過ごしてまいりました……ああ、でも、もう桜は枯れてしまったのです」

 哀しみを思い出し、ほろほろと涙を流して泣き崩れた姫君の枕元には、御帳台を護る魔除け鏡の代わりに、打掛が衣桁いこうに掛けて飾られている。しかし、その打掛に刺繍された柄は、ただ枯れた大木が一本のみのうら寂しいものだ。

「この打掛が、姫君の半身の桜でいらっしゃったのですか」

「左様にござります。ですがうつけの鹿どもに裾を食い荒らされて、すっかり枯れてしまいました」

 姫様のなんとおいたわしいことか、と狐の尾を生やした、やたらと鼻っ面の長い銀髪の老女も泣き崩れる。

『姫様はこの地の火伏ひぶせにして、水を護る姫君である。もしもこのまま姫様の御身に障りが続けば、領民どもの暮らし向きにも関わろう。貴様、何かできると言うのであれば申してみよ!』

 棍棒でびしりと美郷を指して狗賓が吼える。さて、と美郷は考え込んだ。

(桜を護る姫君か……現世うつしよに帰れれば、伝承は残ってるはずだし場所を特定して祭祀もできるけど。まずおれが帰してもらえなきゃどうにもならない)

 美郷がその身ひとつでできることなど数えるほどだ。その中で、これしかあるまいと思い切り、美郷はひとつ申し出た。

「恐れながら、その打掛と桜を一枝お貸し頂けますか。枯れた桜を甦らせる術は持っておりませんが、今宵一夜の夢としてであれば、再び満開の桜をご覧に入れましょう」

 大丈夫、できるはずだと己に言い聞かせる。こういった類のことは、陶酔してなりきってしまった者勝ちだ。

「まあ、嬉しい。どのようにしてお見せ頂けるのでしょう?」

 疑うことを知らぬような、姫君の純真な目が輝く。それににこりと笑みを返して、美郷は深々と座礼をした。

仕舞しまいを、『西行桜』を舞わせて頂きたく存じます」

 桜を愛した歌聖、西行の元へ現れた桜の精が都に咲き誇る満開の桜を謡い舞う、能の一場面を切り取った舞だ。これだけ精霊の気配と力に満ちた場でならば、呪術者である美郷が舞えばそれなりに見映えのする幻夢を呼べるはずだ。

「まあ、まあ。ばあや、打掛を白蛇の君へ。どうぞ、桜はどれでもお選びくださいませ」

 わくわくと目を輝かせた姫君に頷き、狐の老女から打掛を受け取った美郷は几帳を動かして舞うための場所を作った。背後には丁度、枯れてしまった桜の大木が見える。美郷は染井吉野よりも少し色の濃い、淡く紫味のある、霞のような小花をたわわに付けた桜を選んで、狗賓に一枝切り取ってもらった。見回した桜の枝の中でも、一等霊力の高い枝だったからだ。

 ジャンパーの上から打掛を羽織り、手近な染井吉野の一枝から、ほんのふた房ほどの小枝を折り取る。その小枝をまとめた黒髪の根本に花簪として挿し、選んだ霊桜の枝を扇代わりに携えて構えを取った。

「見渡さば。柳桜をこきまぜて。都は春の錦。さんらんたり。千本の桜を植え置きその色を。所の名に見する。千本の花ざかり。雲路や雪に残るらん――」

 扇代わりの桜の枝を揺らし、ひらめかせ、小さく花びらを零しながらゆるり、ゆるりと舞ってゆく。期待通り、あたりを埋め尽くす桜の枝が呼応して、外から吹き込んだそよ風に、様々な色味、かたちの花びらが舞い遊び始めた。

「ああ、なんと美しい素敵な光景でしょう」

 姫君の歓声が、舞に没入した美郷の耳に遠く届く。桜の枝をゆっくりと流しながら細かく震わせれば、更に花びらが舞い上がって打掛の中に吸い込まれた。一瞬で、庭の枯れた桜の大木が満開の花をつける。

「ああ、ばあや。桜が! 我が君の桜がもう一度咲いていてよ!」

 満開の枝を振り、本来の仕舞にはない動作で打掛の裾を捌きながら、桜吹雪に黒髪を揺らして美郷は舞う。

「春の夜の。花の影より。明けそめ。鐘をも待たぬ別れこそあれ。別れこそあれ別れこそあれ。待てしばし待てしばし。夜はまだ深きぞ。しらむ花の影なりけり。よそはまだ小倉の。山陰に残る夜桜の。花の枕の。夢は覚めにけり。夢は覚めにけり。嵐も雪も散り敷くや――」

 ――夜が明けて、桜の精が別れを告げると、西行の夢も覚める。辺りには一面敷き詰めたように落花が散り、人影もない。

 舞い終えて、美郷は両膝をつきそっと桜の枝を己の前に置く。屋敷の床は一面、西行桜の終幕同様に花びらに覆われていた。

「見事な舞でございました。ああ、なんと心の晴れやかで、洗われたような心地でしょう。感謝いたします、白蛇の君。今宵一夜の儚き夢なれど、想い焦がれた桜の様をもう一度見ることができました」

「光栄でございます。ただ一夜の桜ではございましたが、また来年も、こうして姫君のお心を慰めに、人里で催しの相談をしたいと存じます。どうか私に帰り道と、姫君の名をお教えいただけませんでしょうか」

 頭を垂れて美郷は乞う。鷹揚に頷いて姫君が白く細い指で美郷の背後を差した。

「わたくしの名は御龍姫みたつひめ。この山に城を築いた我が君に呼ばれて湧き出て目覚め、以来この地を護っております。現世への出口はあの桜の根本に。浮き出た根と根の間の大きな洞にございます。ですが、此度は素晴らしい舞の御礼に、わたくしがお送りいたしましょう」

 そう言って御龍姫がすい、と指を天へ向けると、たちまち美郷を中心につむじ風が巻き起こった。つむじ風は辺りの花弁を舞い上げ、色とりどりの花嵐を起こす。美郷の視界は白から深紅まで、あらゆる色味の花弁に埋め尽くされた。

 そして美郷の意識は、薄紅の闇の中に途切れた。

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