第37話
心の色が視えても良いことばかりではない。
神尾エリは両親がどんなレンズを通して自分を見ているのかを、幼い頃に知ってしまう。
父と母がまとう霧の色は、いつも仄かに黒い。
エリがどれだけ微笑んでもそれは変わらなかったし、どんな言葉をかけても絵の具のチューブから捻り出したかのように同じ色のままだった。
決して白くならないということは、心の底からプラスの感情を向けてこないことを示している。
生まれつき脚の悪いエリは特に何も期待されず、ただ愛玩動物のように扱われた。
先祖から多くの資産を引き継ぎ、何不自由なく裕福に暮らしてきた両親は残念ながらそれを愛情と信じている。
知能が高く、精神面では早熟だったエリ自身は一定の理解を示して素知らぬフリをし続けた。
出来の良い兄弟がいたことも愛玩動物扱いされる遠因ではあったが、彼らに八つ当たりしようとも思わない。
空虚で、真っ白で、真には愛してもらえず自分など何処にも存在していなかったのである。
唯一、喜びを見出だせたのは生まれつきの異能を使って話した者の心の霧を浄化してやることだった。
多くの人は言葉を欲しがっている。
だから望むものを与えてやった。
そうすると霧は白くなって心が晴れていく。
最初は単なる存在証明に過ぎなかった行為だが、いつのまにか浄化そのものに依存してしまった。
エリは若年ながら宗教の教祖か腕利きの精神科医のように敬われたが虚しさは変わらない。
「ンー ンー ンー ンンン」
誰かさんの真似をして、鼻歌を歌ってやる。
Nヶ丘高等学校の制服を着たエリはゆっくりとした足取りで深夜の新都心を抜けた。
この服は、夜月にアルバイトさせるためだけにわざわざ入手したほどのお気に入りの品だ。
卸している業者がコンペで頑張ったのかデザインは抜群に良い。
揺れるスカートの下は黒いタイツを履いているように見えるが実は違う。
こうすれば車椅子が無くても自由に出歩くことができる。
屋敷を去る前には
すぐに警備会社が駆けつけただろうから今頃、屋敷は大騒ぎになっているかもしれない。
他にも死んでいった蜂たちから回収した『針』は全て持っている。太刀で辻斬りすることも、レーダーで周囲を探ることも、捕まえた虫を逃さないように閉じ込めることも、自由自在だ。
なんと便利で、なんと下らない能力か!
こんなもので満たされてしまった彼女たちに対し、エリは同情する。
(この辺りだったかしら?)
ふと首都高への狭い入り口が目に入り、少しだけ足を止める。
もう何年も前のことだがこの辺りで山田無双の心象世界に接触した。
あれから己の異能をフルに活用する方法を見出し、『針』を手に入れ、好き放題に他人の人生を弄り回している。
それでもなお飽き足らずにエスカレートした結果、ジガのような災厄を招き入れてしまったわけだが……
(どうでもいいわ)
月の光が街頭よりも明るい。
鼻歌を続けて、また歩き出した。
車椅子よりも自分の脚を使う方が楽しいことに今更、気付いてしまう。
けれど後戻りは出来なかった。
エリは静まり返ったNヶ丘高等学校に到着すると、周囲の気配を探って誰もいないことを確認する。
校門をヒョイっと飛び越え、校庭を突っ切り、建屋の垂直の壁を蹴って屋上まで登ってみせた。
今頃、どこかのビルの屋上からボウガがこちらを見ているだろう。
氷見神社の敷地内で殺されてやっても構わなかったが、それでは夜月に要らぬ嫌疑がかかってしまう。
どうして、あの娘に配慮したのか自分でも理由は分からなかった。
『自殺してあげるから別の場所にしない? 私が死んだ後なら遺体から好きに回収していいわ』
ボウガに告げた最期の要求は受け入れられ、エリには深夜までの猶予が与えられたのである。
向こうにとってはそれだけ圧倒的な優位だったのだろう。
あるいは単にボウガの考えが甘いだけか。
屋上のフェンスを乗り越えて中庭を見下ろすと、暗い影の中に池とベンチがあった。
景色は渦を巻いて中心へ、中心へと歪んで溶けていく。
(ホント、安い命ね。いつから私は狂ってしまったのかしら?)
重力が90度、傾いた。
風が頬を切る。
けれどいつまで経っても地面は見えてこない。
永遠の落下感の中でエリは笑う。
笑っているうちに、自分が何なのか理解できなくなって、全部が消えてしまった。
・・・・・・・・・
「……」
新都心で1番高いビルから壁伝いに駆け下りた。
黒いマスクをした少女は……ボウガは着地した後で、小さな放物線を何回も描いて跳躍していく。
Nヶ丘高等学校の中庭に到着するまでには3分と要していない。
落下現場は予想通りの有様で、手足があらぬ方向に曲がって息絶えた神尾エリが倒れていた。
うつ伏せになっているせいでどんな顔をしているのかは見えない。
ボウガは池の水に術をかけ、数ミクロンの細い水流を作り出した。
糸ミミズのようにうねったそれはエリの死体の首筋を這うと、すぐに消失する。
元々はただの水だ。水遁を解いた後で蒸発してくれるから些細な痕跡すら残さないで済む。
「……」
そっとしゃがみ込み、髪を掴んで切断されたエリの頭部を持ち上げる。
この中に『女王蜂の針』が入っている筈だ。すぐに解体するつもりはない。
長居は無用なので、予め用意してあったスーパーのビニール袋に二重に包んでリュックサックに仕舞い込んだ。少しでも腐敗を防ぐために氷も詰めてある。
エリは、空虚な死に顔をしていた。
落下死したとは思えないほど綺麗なままであるが何の色も持たず、笑っても、怒ってもいない。
自然と、ボウガの目からは涙が溢れていた。
里から『針』を盗み出した大罪人を罰したという気持ちは微塵も無い。
誰もが失うだけで何も手に入れられなかった虚しい戦いを振り返って、悲しくなっただけだった。
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