第28話

「アーアーアー アアア アアアアア」


 間抜けな歌声であることは自覚していたし、道行く人とすれ違うと変な目で見られる。

 ボウガを内包する藤沢夜月ふじさわよつきはそんな視線を気にしなくなっていた。

 これまでビクビクと他人に怯えていたのが嘘のように晴れやかである。

 悟りを開いたわけではないが、世界と自分が切り離されているという感覚を肌で感じるようになった。


「ア ア ア ア アアアアア」


 食材の買い出しからの帰路。持参した買い物袋の中には肉と野菜が詰まっている。

 夕暮れ時なのでうまくタイムセールに滑り込み、僅かばかりではあるが安く揃えることができていた。

 バイパス沿いの歩道は同じような買い物袋をカゴに入れた自転車が行き交い、仕事帰りの乗用車でごった返している。

 ふと、それらが爆炎に包まれて真っ赤に溶けていくビジョンが思い浮かぶ。

 心は昂ぶらない。単に、今の夜月ならばそういうこともできるという想像の域に留まった。



 歩いていると次第に妄想は収まっていく。

 いくつか横断歩道を渡り、たまに信号で足を止め、夜月は自宅へと戻ってきた。

 オートロックを備えたマンションの5階である。

 クイーンが貸し与えてくれた新たな家だった。家財も用意してもらえたので、一人暮らしをすぐに始めている。

 以前の住処は母親のだらしなさでゴミだらけだった。その反動から、髪の毛も埃もひとつとして落ちていないほど綺麗に掃除してある。



 それなのに部屋の中には異物が紛れ込んでいた。

 自然体で突っ立ているのは構わなかったが、靴を履いたままフローリングを踏みつけている。

 そいつの右腕の表皮は漆黒に染まり、据わった目で帰宅した夜月を睥睨していた。

 やはり心は動かない。欠片ほどの動揺すら起こらなかった。

 制服姿の吾妻静流あずましずるが、勝手に夜月の家の中に上がり込んでいる。


「どうやって、中に?」

「窓が空いていたから」


 ベランダから無断侵入してきたのに悪びれた様子も無い。

 例え5階であっても『針』持ちの身体能力であれば、問題なく入って来られる。


「あんたと交渉したい」

「交渉?」


 静流には似合わぬ言葉が出てきて聞き返してしまう。

 向こうも自身に違和感を覚えたのだろう。気まずそうに目を床へ向けて続けた。


「そうよ。交渉」

「どうして? 力付くでいいのに?」

「あたしを野良犬か何かと勘違いしているでしょ」

「そうじゃないけど」


 流石に溜息が漏れたらしい。

 これまで散々、見下していじめてきた相手である。

 それなのに、どういうわけか殊勝な態度のように思えた。

 でなければ交渉などという単語は出てこないだろう。何かをさせたいのであれば命令してくる筈である。


「あんたの『針』をある事に使いたい」

「ごめんなさい、言っている意味がよく分かりません」

「この時点で具体的でないのは重々承知している」

「私の『針』は弱いです。何もできない」

「1本目は……ね。新たにクイーンから授けられたの『針』は違う。偶然か必然かは知らないけど、極めて強い力が現出している」

「……」

「もうひとつ。は、仲良しグループの誰よりも強い」

「誰にも言っていない筈ですけど」


 どう言い訳しても無駄だと直感した。

 素直に認めてやっても静流に変化はない。淡々とした様子である。

 おかげでお互いに冷静だと確信できた。


「ボウガのことをクイーンや霧生先輩に告げ口するつもりはない。あくまであたしは、藤沢夜月と交渉がしたいだけ」

「はじめて、私のこと名前で呼んでくれましたね」

「……さぁ、どうだったか」

「座りませんか? お茶くらいは出します」


 夜月が両手に持っている買い物袋を玄関に下ろすと、静流は黒く染まった右手を左肩まで引き寄せて半身になった。

 その意味を彼女の表情は如実に語っている。

 これまで平坦だった心に緊張が急激に高まっていくのを感じた。


「動くな。人格が入れ替わる時間も与えない。この距離なら、あたしは先制できる」

「交渉するんじゃなかったんですか?」

「ボウガに用は無い」


 とりあえず動きを止め、夜月は両手を挙げた。

 短い時間だが迷う。無色透明だった胸の中にどんどん熱いものが広がり、亀裂が走っていく。

 いつ発作的に人格交代が起きてもおかしくはない。

 だから正直に話しておいたほうがいいと判断を下した。


「気を付けてください。私の中のボウガが、吾妻さんに強い殺意を向けています。殺されたヒガの仇を討つつもりでしょう」

「同じ理屈でR崎高校の連中を電車ごと爆破したの?」

「そうです。あの人たちはジガを殺しました」

「あたしたちだって、肉体を共有する別の人格アンムーアド・エゴに何人も殺されている」

「やめませんか。水掛け論にしかならないでしょう」

「分かっている」


 アッサリと引き下がった。静流は仲良しグループの面子……ひいてはクイーンに対してもさしたる興味が無いと見える。

 夜月はいつまでも両手を上げたままでいたくなかった。

 買ってきた食材をさっさと冷蔵庫に入れてしまいたい。

 ご飯だってそろそろ炊ける頃合いだ。台所の炊飯器からはいい匂いがする。


「あんたの望みを言って。あたしはそれを叶える。それができたら、あたしの言った通りに『針』を使って」

「どんなお願いでもいいんですか?」

「この場であたしに死ね……とか命令するんじゃなければね」

「それじゃあ……」


 どうしたものだろうか。

 夜月は、もう何も望んでいなかった。

 生きていても死んでいても構わない。

 真っ白で、平らで、空虚で……とにかく自分を表す記号すら持っていなかった。

 相談する相手など1人しかいない。自分の内側に眠る怪物だ。

 ボウガのことは好きでも嫌いでもない。

 例えるなら隣の席に座っているクラスメイトのようなものだ。

 彼女が暴れたいというなら付き合うし、眠りたいというなら眠る。

 夜月の中に住むようになってから、無色透明だったボウガも徐々に色が付いてきた気がした。


(ボウガ、あなたはどうしたい?)


 言葉を話せないだけで意思疎通はできる。

 深淵にも似た精神の隙間でボウガは笑っていた。ジガとも、ヒガとも質の違う笑い方である。

 肉体を共有する別の人格アンムーアド・エゴの少女3人と接した夜月は、ボウガがもっとも繊細で泣き虫だと思った。


「それならば、霧生楓きりゅうかえでを殺せますか?」


 静流が息を呑む。外面からも戸惑っているのが伝わってきた。

 しかし、躊躇こそしたものの彼女は首を縦に振る。

 何がそうさせるのか夜月には分からない。余程、大事なことなのだろうか。

 あるいは夜月をハメてクイーンに差し出すつもりなのだろうか。

 どちらでもいい。生きていても、死んでいても、同じなのだ。

 風が静流に向かって吹くならそれでもいい。


「交渉成立ね。でも今更、霧生先輩を殺してどうするつもり?」

「私の中の同居人がそれを望んでいるからです。私には反対する理由がありませんし、私自身は何かを望むこともないでしょう」

「あんた、もう何がどうなってもいいって顔してる」

「そうですね」

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