第25話

 ヒガ討伐の数日前のこと。


 喉に刺した『針』が溶けて無くなったのは、クイーンが来たのと同じ日の夜だった。

 空気が吹き抜ける音は途中から全く聞こえなくなる。その代わり、咽頭から背骨にかけて一時的に鈍い痛みが広がっていた。既に治っているので問題は無い。

 藤沢夜月ふじさわよつきが病院を抜け出した理由はぼんやりとしたもので、もう入院している必要が無いと自分で判断したからである。

 昼間まではベッドから身体を起こすことすら億劫だったというのに今は普通に動くことができる。

 頭もスッキリしていた。脳を巡る血流が速い。あり大抵に表現するならば意識が冴えていた。



 入院した着の身着のままであり、裸足にスリッパという格好である。化粧をしていないのでそばかすが目立ち、メガネも家で使う野暮ったいものをかけていた。

 粧し込んだ自分とは程遠い素の状態に安堵してしまう。クイーンに仕込まれたものはやはり仮初めに過ぎない。

 死にかけたおかげで、彼女と出会う前の本当の夜月に戻ったのである。


(なんだろう、落ち着く……)


 ビジネス街を抜けて新都心に向かって歩を進めていた。時間が時間なので人通りは全く無い。時折、通りかかったタクシーの運転手が胡乱な目を向けてくるが特に干渉してくるわけでもなかった。

 極めてか弱く、働き蜂の中でも最下位に位置していた夜月だったが元から『針』は持っている。

 それは静流のような飛び道具でも、楓のような太刀でも無い。

 家庭科の授業で使うような文字通りの『針』だった。糸を通す穴は無い。



『針』は持ち主によって最適化したり、あるいは進化したりする。

 けれど夜月の場合はそれが全く無かった。クイーンから渡された漆黒の『針』は単なる『針』のまま、何も無い空間から自在に出し入れできるだけの手品の品に過ぎない。

 しかし、自殺用に授かった2本目の『針』は違っていた。

 夜月の喉を貫いた後で急激に性質を変えて、体内へと融合したのである。

 今なら自分に何ができるかハッキリと自覚できた。

 望めば車よりも速く走れるだろうし、壁を蹴ればビルだって登れる。

 それこそ名だたる『針』持ちのように卓越した身体能力を発揮できた。

 しかし、普通に歩くことを望んでゆっくりと移動している。



 こうやって『匂い』や『気配』を振りまいていれば彼女がやって来るだろう。

 アレは足の生えた悪夢で、鋭い嗅覚を持つ猟犬だ。

 映画館の入った商業施設の横を通りかかると、街灯の明るさに目が眩む。国道に沿った歩道は次第に細くなっていく。このまま進めばいずれは外環自動車道に出るが、そんな場所には何の用事も無い。

 早く来てと、密かに願う。

 そんな想いに怪物は応えた。


「生きていたんですね」


 つい先程まで進路には誰もいなかった。一瞬、通りかかった大型車のヘッドライトから目を逸らした隙にそいつは立ち塞がったのである。

 特徴を復唱するのも馬鹿馬鹿しい。



 夜月が名前を読んでやるとヒガは細い目を嬉しそうに歪める。

 感情の端部は読み取れない。いや、その類の努力をするだけ無駄か。


「あなたたちが多心同体なのは、何となく理解しています」

「もしかして、私とジガを区別できるのですか?」


 無言で頷いてやる。

 実に簡単な識別で、ヘッドフォンをしているのがジガで、ヘッドフォンを外して目を瞑っているのがヒガだ。

 見分けることに何らかの技術なんて必要ない。


「そうですか。でも良かったですね、死なずに済んで」

「どうして殺さなかったんですか?」


 目蓋の裏には、黒ずんで体液を垂れ流す母の死体が浮かぶ。

 あのとき夜月は動くことができなかった。正確には動けないように何らかの術にかけられていた。


「残念なことに、殺すも殺さぬも賽の目なのですよ。割合で言えば8割以上の確率で死にます」

「私は、2割の方でしたか」

「幸運なことに……ね。条件さえ満たせば一瞬で相手を無力化できる代わりに、術中に嵌った相手が確実に死ぬかは分からない……なんとも不便な能力ですよ。夢遁というのは」

「……動けない相手なんだから、包丁でも使って刺せばいいのに」

「そうしたいのは山々なのですが『夢遁に嵌った相手には追撃をかけられない』という制約を破ると術が使えなくなりますからね。基本的に戦闘はジガの人格に任せています。もし、術を失ってでも刺さなければならない相手がいれば別ですけど」

「それはクイーンのことですか?」

「えぇ、そうですね」


 悪びれた様子なんて欠片も無かった。

 全部が当然のように告げてくる。

 打ちのめされ、砕かれた心からは憎しみすら湧いてこない。夜月は単に知りたいと思っていた。

 答え合わせすることで得られるのは納得だけだ。今はそれが欲しい。


「どこからが、あなたの術中だったのか教えて下さい」

「あなたの家に転がり込んだ日の翌朝からですね。身体を休めていたジガに、酔って帰宅したあなたの母親が絡んでしまったのです。弁明はさせてもらいますが、私たちは、女王蜂以外の人間はなるべく殺したくない。しかしジガは引き剥がそうとして力加減を誤った」

「それなら働き蜂の私も一緒に殺してくれればよかったのに……」


 その方がずっと楽だった。その言葉を呑んで夜月はヒガを睨む。

 肩を竦めた彼女は語気を強めて強調した。


「なるべく殺したくないんです。この考えと、私たちの行動に大きな矛盾や乖離があるのは自覚しています。あくまでターゲットは女王蜂ですが、そこへ至るための道を抉じ開けるために例外措置が多くなってしまいました」

「なるべく殺したくないから、殺せるかどうか分からない方法で、生きていても死んでいても構わない私を封じたんですね。母が死んだと知ったら騒ぐから……」

「面倒な性格ですよね、私」

「無闇に大勢を苦しめて、タチが悪いです」

「あら、断言されてしまいましたね」


 やはり感情が動かない。夜月は逡巡する。

 自分が何をしたいのかということ。

 わざわざジガを誘き寄せたのは気持ちを確かめるためだ。

 迂闊な行動だという自覚はあったし、今度こそ殺されるかもしれない。

 それでも構わないと思った。けれど何も浮かんでこない。

 相手は卑怯で、悪辣で、真性の屑である。

 それを叩きのめしてやりたいという正義の気概すら夜月の中には無かった。


「私のこと、恨んでいるんでしょう?」

「よく分かりません。そういう感情が内側から滲み出てこないんです」

「では聞き方を変えましょう。女王蜂への忠誠心はまだありますか?」

「クイーンは……エリちゃんは……」


 見舞いに来てくれた車椅子の少女の顔を思い出す。

 相変わらずの暴君っぷりで、天涯孤独となった夜月を使用人として迎えるとか、自死のために『針』を渡すとか、どういう考えをしているのか理解が出来なかった。


「それも分かりません」

「やれやれ。どこまでも自分を持たないのですね。面白いといえば、面白い個性ですけど」


 呆れられてしまった。実際、その通りだと思う。

 弱くて流され易い。いつまで経ってもそれは変わらなかった。


「あなたが無色透明なのはよく分かりました。そこでひとつ、提案があるのですがいかがでしょうか?」

「提案?」


 細い目の少女は嗤っていた。

 碌でもない甘言が、唇から滑り出してくる。


「私とジガ以外に、。それをあなたに預けたい」

「言いなりになる理由も、信用できる理由も、手を貸す理由も、ありません」

「私の夢遁は既に発動条件を満たしています。あなたをまた幻覚の中に取り込むことも出来るのに、それをやらないのには理由があります」

「もう余力が無い……とか?」

「そうです。正直に告白してしまえば、女王蜂を討つのに誤算がありました。盾となっているポニーテールの太刀使いが強過ぎます。排除するには大きな犠牲が必要でしょう。残された時間も少ない……」



「私は敵を助けたくはありません」

「聞いて下さい。彼女の名前はボウガ。喋ることができません。扱う術は爆遁と、他に幾つかありますが……いずれも大振りです」

「だから」

「精神を移植するのに、精神を操っていてはできません。ボウガはあなたと同じ無色透明です。あなたが意志を持てば、ボウガはその色に染まるでしょう」

「……」

「もう1度、幻影に溺れて生死の境を彷徨いたくはないですよね?」


 ここのまま死ぬか、ボウガとやらの人格を受け入れて生きるか……夜月はもうどちらでも良かった。


(融合した『針』で戦えばヒガを討てるかもしれない)


 そんな浅はかな考えすら抱きながらも、結局は面倒になってしまう。

 夜月は両手のひらを差し出し、興味なさそうに冷めた目を向ける。


「私を犯して下さい」

「……感謝します。肉体を共有する別の人格アンムーアド・エゴとして」


 周囲の歩道が闇に沈む。街灯も消えていた。

 息を呑むと、目の前には人の形をした黒い靄が浮かんでいる。

 既にヒガの姿は消えていた。


「あなたが、ボウガ?」


 靄の頭の部分が下がった……ような気がする。

 不思議なくらい落ち着いていた。

 ジガやヒガと違って、ボウガは威圧感が無い。

 それこそ風の凪いだ平原に立っているような気分だ。

 かけていたメガネを捨てると世界が微睡む。

 何も持っていない少女は、最後の怪物を受け入れた。

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