第20話
走る、走る、ひた走る……
早々に息が上がって、脹脛が痙攣を始めていた。
普段の運動不足と自分の体重をこんなに呪ったことはない。しかし悔いている暇があるなら、全力で地面を蹴った方が建設的だ。幸いなことにジャージとスニーカーという動き易い格好をしている。
だが動けないよりマシ程度といったレベルの違いで、一向に相手を引き離せる気配は無い。
(変よ! こんなの絶対に変!)
155センチの身長に対して体重は70キロに近い。
しかし、相手との距離は常に一定だった。ついでに言えば周囲の景色もループしているかのように終わらない。
見慣れた国道バイパスの脇の歩道だったが、既に同じコンビニの前を3回通過している。
それはチェーン店だからという意味ではなく、全く同じ場所の同じ店舗という意味だった。
それだけでなくカーディーラーも、牛丼屋も、ループしている。
おまけに車は1台も走っておらず、道行く人もいなかった。
有り得ないことだらけで混乱する架純は限界に達し、足をもつれさせて転んでしまう。
小さな悲鳴と派手な音を立て、擦り剥いた頬の痛みで奥歯を噛み締める。慌てて顔を上げると2メートルにも満たない距離にはパーカーの少女が突っ立っていた。
いつだったか、ファストフード店から見かけたことがある。
今となってはそれが何者なのかよく知っていた。
蜂たちにとっての死神、『針』を持つ者の天敵……忌まわしい化け物である。
「ね、ねぇ……話を聞いてもらえる?」
引き攣った笑顔を作り、ジガへ声をかける。
どういうわけかパーカーの少女の顔は黒く塗り潰されていて表情が分からない。
それでも架純は構わずに続けた。逃げ切れないのであれば命乞いをする他にない。
「あんた、ジガだよね? 実はさ、あんたが殺り損ねたヤツがうちに居候しててさ」
反応なし。
例え冷ややかであってもレスポンスがあったほうがマシだった。
恐怖で埋め尽くされた頭の中ですら冷えていく。
言葉すらかわすことのできない、圧倒的な捕食者だと再認識した。
「とにかく話を……」
どうにか交渉に持ち込もうと足掻く架純を嘲り、ジガは日本刀を手にした右腕を振り下ろす。架純はそれを、咄嗟に両腕を頭の前に持ってきてガードしてしまった。
鉄の臭いが混じった風が頬を撫でる。次の瞬間には乾いた空気が生暖かくなった。
右の手首から先が無い。骨と脂の白い色と、血の赤い色が混じって桃色の飛沫が飛び散る。
自分の悲鳴で鼓膜が破れるかと思うほど、絶叫した。
グロテスクな断面をどうにか左手で押さえてみるものの、出血は止まりそうにない。
急激に意識が揺らいでいく。
「助けて! 殺さないで!」
ジガは目の前で、切断された架純の右手を踏み付けて潰してみせた。
そこには愉悦も嗜虐心も見えない。
まるで感情が動いていないことが逆に恐ろしい。
こいつは全く躊躇いもなく人を痛ぶる。
仲良しグループで「いじめる側」に加担してきた架純にすら理解できない境地だ。
優越感も相手の反応も一切必要としていない。例え泣いて詫びても、ジガの耳には届かないだろう。
「殺さないで……」
嗚咽混じりの懇願をした。切られた手首を押さえ、額を地面に擦り付ける。
それでもジガは止まらなかった。
今度は左肩を切っ先で貫かれる。
火の出るような痛みに悶え、その場で転がって仰向けになった。
空はこの世のものとは思えぬほど赤い。黄昏を背にジガは立ち尽くす。
またも刀を振り上げると、今度は脇腹を貫いてきた。
臓器からの痛痒に悲鳴すら枯れていく。
絶望に泣く架純は焦点が合わなくなっていた。
刃は二の腕を刺し、その次に大腿を刺していく。一気に殺すつもりが無いのは伝わってきた。
痛みだけが尾を引き、命が緩慢に尽きていく。
その圧倒的な絶望感に心が歪んだ。
理不尽な殺傷に対する怒りが沸々と湧き上がったのである。
「殺して……やる……」
手の中に『針』を呼ぶ。楓に『千枚通し』と名付けられてしまった、頼りない武器である。
それを失われた視界でデタラメに振り回した。既に半身が動かず、移動もままならない。敵がどこにいるのかは気配を探るしかなかった。
そんな必死の抵抗も、ほんの数分で終わる。
ジガは『針』ごと左手首を繰り落としてきた。
誰もいない歩道で架純は大の字になって倒れる。切り刻まれた身体は既に言う事を聞いてくれない。
(死ぬ……)
本当に……ロクでもない人生だった。
体型をからかわれ、その度に過剰に怒って周囲を黙らせ、そんなことを繰り返しているうちに心許せる人間などいなくなってしまう。
親にまで「痩せろ」と言われた日の夜は泣いてしまった。
クイーンの軍門に下ったのは、単に彼女が怖かったからである。
『針』という異能の力など正直、どうでもよかった。架純は何一つ変わらず、まともになれなかったのである。
結局は他人を攻撃して悦に入るだけの醜い存在に成り果てていた。
『……み! ……すみ!』
遠くで声がする。五月蝿かった。
まどろむ意識はなおも音だけを拾ってくる。視界は既に閉ざされていた。
『かすみ!』
自分の名前だ。誰だろう?
もう瞼を開くのも億劫だというのに、しつこい。
仕方なく目を開いてみる。そこには目つきの悪い、ウルフカットの少女がいた。
「架純!」
平手で頬を張られ、意識は急激に現実へと引き戻される。
神経に電気が走って指先に力が戻った。
「あっ……?」
四肢は無事である。いつもと変わらぬ感覚がそれを訴えてくる。
次に周囲に目を遣った。普段の自分の部屋と、
「吾妻さん?」
「……戻って来れたなら良かった」
「どういうこと?」
こちらを覗き込んだまま安堵の表情を見せる居候に、不思議な顔をしてしまう。
状況が呑み込めなかった。さっきまでは外にいて、しかもジガから逃げていたのである。
「アンタはヒガの術中に嵌っていた」
「ヒガ?」
「簡単に説明するなら、ジガの別人格。精神攻撃の類を使う」
それから静流は、架純が陥った状況について順に説明してくれた。
静流の留守中にこの家にヒガがやって来たこと。ジガ(とヒガ、それにボウガ)は、とある情報網を使って既に仲良しグループ全員の所在を知っていること。各個撃破の方針をとっていること……
「襲撃してきたのがヒガだったのが不幸中の幸いか。もし相手がジガか、ボウガだったら即死させられていた」
「……」
先ほどの悪夢が蘇り、恐怖が心臓を鷲掴みにしてくる。
あの切り刻まれる感触が全て夢だったというのか?
こうして無傷でいることがその証左とはいえ、架純は生きた心地がしなかった。
「ねぇ、吾妻さん。ジガはクイーンを狙っている……って、そう言ってたわよね? どうして関係ない私を襲ってきたの?」
「アンタ、この後に及んで無関係ってツラできる? あたしたちは『針』を持っている。それが雑用だろうが戦闘用だろうが、クイーンのためにね」
「で、でも……私は仲良しグループからハブかれてる!」
「その理屈が通るような相手じゃない。霧生先輩がクイーンの周囲を固め過ぎたせいで、ジガはガードの緩い連中の各個撃破に切り替えた。少しでも確実に戦力を削ぐつもり」
顔が真っ青になるのが自分でもわかる。
あんな化け物と対等に渡り合える人間など、『針』持ちの中でも殆どいない。
唯一いるとしたら
どのみち、タイマンになったら死を覚悟するしかない。
「保証はできないけど、ヒガはアンタを殺したと思い込んでいる。このまま、この街から逃げ出せば死にはしない」
「そんな……なんで……こんなことに……」
「死ぬよりマシでしょ。さっさと逃げて」
「吾妻さんはどうするつもりなの!」
怒鳴っても仕方なかった。あまりにも理不尽な暴力に晒され、架純は泣くしかない。
その怒りの矛先を向けられた静流は不敵に笑う。
精一杯の強がりだということは透けて見える。
「斬り落とされた腕の恨みがある。ジガを……殺す」
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