第21話

 記憶を遡るだけの時間は十分にあった。ここでは何もかもがゆっくりとしていて、驚くほど1日が長い。

 もし、思い出すのが辛くなったら唯一の逃避行は頭の上にある。

 白い天井を見上げ、そこを這うカーテンレールを目で追う。

 最初はベッドと並行してまっすぐ、次に足元で2回カーブし、最後は点滴へと目がいく。

 凝視していると一滴、一滴が落ちて身体に入ってくる。その度に得体の知れない脈動に襲われる気がした。

 気が済んだら、またカーテンレールへと戻って視線を動かす。



 藤沢夜月ふじさわよつきはそれをひたすら繰り返している。

 時折、頭の隅にゴミだらけの自宅が浮かび、鼻孔を強烈な腐臭が襲う。

 それらは幻覚だと自分に言い聞かせて眠くなるまで耐える。

 耐えたところで夜中に目が覚め、また恐怖と絶望に染まった映像がフラッシュバックしてくる。

 死にたくて堪らなかった。

 自分にはもう何も残っていない。生きている意味なんてなかった。

 いや、もともと無かったのである。夜月は虚無そのものだ。


(しにたい)


 弱った身体と、冴えない思考で、もがくのをやめて静かに沈もうとしている。

 けれど医者は死なせてくれない。

 底意地の悪さに腹が立つ。

 こうして負の感情で心を塗り固め続け、今が何月何日なのかも分からないまま過ごしている。



 ふと、夜月は金属が軋むような音を拾った。

 眼球だけでそちらを見るとベッドを覆うカーテンの向こう側に人影がある。

 どうせならジガに来てほしかった。

 あいつならば、半分死んでいる者を地獄に送るなど朝飯前だろうに。


「お邪魔するわ」


 涼しげな声とともに薄布の向こう側から現れたのは、車椅子の少女だった。

 色の抜けた白い髪と病的に白い肌をして、夏だというのにカーディガンを羽織っている。

 ありきたりな表現だったが、お人形のように整って美しい容貌をしていた。

 夜月は心臓を鷲掴みにされたみたいに顔を歪める。



 さらに視線を持ち上げると、車椅子を押していたのは黒髪をポニーテールに結わえた背の高い少女だった。

 2人とも見覚えがある。

 しかし、声は出せないでいた。

 つい数秒前まで「死にたい」と怨嗟を漏らしていたのが嘘のようである。


「生きていてくれて嬉しいわ、夜月」


 車椅子の少女は平坦で起伏のない感情を込めて告げる。

 声音と同じように眉ひとつ動いていない。

 その一方で、車椅子を押している少女は露骨に不機嫌そうな顔をしていた。


「挨拶くらいしなさい、藤沢さん」


 氷のように冷めきった態度で接してきたのは……霧生楓である。

 普段であれば自分に声をかけてもこないような高嶺の花だ。

 その楓に付き添われている白髪の少女こそ……


「こんにちは……クイーン……」


 震えて名を呼ぶ。すると首を傾げられてしまった。

 無色透明だった顔に、か細い笑みが浮かぶ。


「他人行儀ね。ちゃんと名前で呼んでちょうだい」

「それは……」


 できないです。そう答えようとしたが、背後の楓の射抜くような視線に屈する。

 自分の主人が呼び捨てにされる屈辱と、自分自身がまるで無視されていることに強い怒りを覚えているようだった。


「エリちゃん……」

「そう。それでいいの」


 以後に続く沈黙で心臓が破裂しそうになる。

 クイーンことエリちゃんは、目配せして合図すると楓に見舞いの品を運ばせた。

 籠に盛られた色とりどりのフルーツである。

 食事はできるのかと夜月に問いかけてきたので首を振ると、少しだけ残念そうな様子を見せた。



 それからは……エリが一方的に話しかけてくる。

 夜月は力の入らない首で精一杯頷き、ひとつも否定をしない。

 エリはとても満足そうだった。


「今回の事件はとても残念よ。私、このことをお父様にお伝えしたの。そうしたら涙を流していらしたわ。可哀想な夜月……」


 そっと、エリの手が夜月の頬に触れてくる。

 どんなものよりもずっと冷たく、刃物でも押し当てられているかのように鋭い。

 危険を察知した皮膚の毛が逆立っていくのが分かる。


「それでね、決めたの。夜月のことは私の家で引き取るわ。流石に養女にはできないと言われてしまったけど、使用人としてならずっと一緒にいられる。これからは何も心配しなくていいのよ」

「はい……」


 何もかもが無茶苦茶だった。

 エリは子供の頃からずっとそうである……と、クイーンに関する風の噂を思い出した。

 財力ある名家に生まれ、末っ子という立場で甘やかされて何不自由なく育ってきたが故に慈悲と傲慢を混ぜ上げた悍ましい精神を持っている。

 いくら逃れようとしてもエリの純粋な悪意を振り切ることができない。

 そんな彼女が手にした『針』という異能を分け与える女王蜂のチカラ……エリはみんなが仲良くなれるようにと願った。

 致命的なほどに他人への想像力を欠いたそれは、歪な形でリアライズしてジガという災厄を呼び込んだのである。


「そんな不安な顔をしなくてもいいのよ。お父様やお兄様のをだなんて言わないわ」

「はい……」


 エリは生まれながらの王者でもあった。

 人の潜在能力を引き出すことは、彼女にとって直感的な作業でしかない。

 それに見初められた夜月は運が悪かった。


「でもね、夜月。人間って自由であるべきだと思うの。例えば、あなたがここで終わりたいと願ったら、それは叶えられる」


 これまでの憐れみは失せ、エリの目に嬉々とした色が垣間見えた。

 車椅子の彼女が虚空を撫でると空間が割れ、そこから1本の『針』が現れる。


「クイーン、それは……!」

「黙っていなさい、楓」


 嬢王蜂は漆黒の『針』をタクトのように摘み、優雅に振ってみせる。

 場の空気が淀んでいくのを感じながらも夜月は何も言い出せなかった。


「経験則なんだけど『針』は強い絶望に晒されると進化するの。これは枕元に置いておくわね。必要があれば使って」

「はい……」


 必要があればとは、自死するためだろうか。浅慮な夜月ではエリの考えは計り知ることができない。

 つまるところ、自分が生きようが死のうがクイーンにとってはどちらでもよいのである。

 呼吸をしていれば苛めて楽しめるし、息をしていなければ死体を嘲ることができる。

 藤沢夜月とは、その程度の存在なのだ。


「物騒なことが続いているから、楓たちが五月蝿いの。それが終わったらまた来るわ」


 エリは小さく微笑み、対照的に楓は睨み、2人は去っていく。

 気配が消えたところで夜月は満足に動かない手を伸ばして置き去りにされた『針』を手に取った。

 まじまじと眺めて思うのは、綺麗だということ。光を吸い込むような黒さに、魂が引き寄せられる。


(しにたい)


 その先端を喉元に当てがい、大した決意も無しに突き立てる。

 痛みにはもう慣れてしまった。

 首から空気が漏れる音がする。これでもう終われるだろう。

 夜月は絶望ではなく、安堵した。

 そしてまたカーテンレールを眺める。何周も、何周も、繰り返し見ていても、自分の命はなかなか終わらなかった。

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