第18話

 ヒガとの生活はうまくいっている。

 朝6時にはお互いに目を覚まし、当番制で朝食を用意していた。といってもヒガはコーンフレーク派だと言い張って簡単に済ませてしまう。どんなに凝っていてもボウルに盛ったサラダが付いてくる程度である。バナナとヨーグルトを欠かさないのは彼女なりの拘りだそうで、完全な手抜きでないから深くは追及しなかった。



 そういった意味では夜月よつきに不利な分担だったが自然と文句は出てこない。

 ヒガの優雅で落ち着いた声を聞いているだけで、心の底から安心できる。

 これまではずっと得体の知れない不安感に苛まれ、家族に悩まされ、友達に悩まされ続けてきた。それが嘘のように霧散している。

 それだけで夜月は満足だった。

 新しい学校での生活もうまくいって、時期外れの転校生だというのにクラスにも馴染んでいる。


(家族……? 友達……?)


 不思議だ。

 ずっと遠い過去のことのように思える。

 自分を苦しめた者の顔すら浮かんでこない。

 それくらい幸福な日々が続いていた。

 母子家庭に生まれ、怠惰で奔放な親に構ってもらえず、学校ではいじめられる。

 そんなある日、ヒガに出会った。それから全てが明るくなり、灰色だった人生がガラリと変わる。


(今日はヒガと何を話そうかな?)


 授業中なのにそればかり考えてしまう。

 全部、全部、明るくて、素晴らしくて……


「起きろ、屑女」


 痛烈な痛みが右の手の甲に走った。

 夜月は悲鳴を上げ、背中を仰け反らせる。

 煌びやかな世界はヒビ割れて崩れ、ヤニだらけでボロボロの天井が目に入った。

 涙が流れているし、身体の自由が効かない。

 鼻が曲がりそうな異臭が漂い、下肢は不気味な柔らかさに包まれていた。


「永遠に眠らずに済んだでしょ?」


 眼球だけ動かすと見知った人物が枕元に立っている。

 怯えた夜月は意識が飛びそうになった。

 ウルフカットで目つきの悪い女子高生……吾妻静流あづましずるである。

 同じ仲良しグループのメンバーだったが、まともに会話すらしたことがなかった。

 静流はいつも他の連中の顔色を伺って、いじめの矛先を夜月に向くように仕向けている。

 その立ち回りは世事にも狡猾とはいえず、失笑を買うことも多い。結果として静流自身も『針』持ちの中では見下されていた。

 彼女はいわば、夜月の天敵である。そんな人物が目を覚ましてすぐ側にいたのだから驚かないわけがない。


「状況が分からないって顔しているから説明してあげる」


 声が枯れている。

 夜月はその代わりに強く念じた。

 あの少女の名前を。自分を助けてくれる彼女のことを。

 だが無慈悲にも届かないようだ。静流は汚物でも眺めるような視線で続ける。


「ヒガって言って通じる? アンタはあいつに精神を犯されて、何日も夢を見せられていた。この汚い家に放置されてね」


 一体、何を言っているのだ。

 あのヒガがそんなことをするわけがない。

 誰よりも夜月のことを想って味方してくれる。そんな彼女への侮辱が許せず、静流を睨む。

 視線に力が込もっていないのは生来の気弱さからではない。


「何も食べてないし、何も飲んでいない。脱水症状で死ぬ寸前。身体も動かない」


 指摘されてようやく、致命的なほど衰弱していることに気付いた。

 正常からは程遠い思考回路はひどく混乱し、つい先ほどまでの記憶を反芻する。

 良き友であるヒガの姿が焼き付いて離れない。その一方で、上書きされた下地からネットリとしたドス黒い記憶が浮かび上がってきた。


「ジガは基本的に剣術と体術しか使えない。でもヒガは他人の精神に干渉して常識や記憶を改竄できる。そしてボウガは火と水と闇を操る超常の術を持つ」


 静流はゆっくりと包帯を巻かれた右腕をかざす。白い綿の隙間……掌からは漆黒の『針』が伸びてきた。

 その正体はよく知っている。クイーンから授けられた誓いの武器だ。


(クイーン? そうだ、クイーンだ。どうして私、忘れていたんだろ……)


 重油のように粘り、ドロドロと過去が染み出してくる。

 シガが作り出した欺瞞を夜月の追体験が侵食していった。

 それは本来の状態に戻ることを示唆していたものの、夢から覚めた彼女を待っていたのは辛い現実でしかない。


肉体を共有する別の人格アンムーアド・エゴ


 1度は焼き切れた精神は違う形となって何とか人間としての心を保っていた。

 それが急速に崩れていく苦しみで夜月の息が止まる。いくら呼吸をしようとしても酸素が入ってこない。


「あたしは、アンタを助けにきたわけじゃない。それを踏まえた上で答えろ。シガがどこに向かったか、心当たりは?」


 スルスルと包帯が解けると、真っ黒に塗り潰された右腕が露わになる。

 そこから伸びた針は夜月の喉元に迫っていた。

 質問に答えないと殺される。その恐怖から首を振った。

 涙を溜めた目で必死に「知らない」と返す。


「……期待なんかしていなかった」


 背を向けた静流はゴミ袋の山を掻き分けて玄関へ進んでいく。

 もともと怖い人物だったが、それに磨きがかかっていた。

 変貌と表現しても過言ではないだろう。理由を問うつもりなんて毛頭無かった夜月は、歯を鳴らして震える。

 音で相手に知らせたかったのだ。置いていかないで、と。


「警察は呼んでおく。ボロアパートの2階から異臭がする……ってね」


 肩越しにこちらを振り返った彼女は目に哀れみを浮かべていた。

 それは夜月がいじめられているときに向けるものと同じである。

 一拍置いて……迷って……静流は告げた。


「台所に死体が転がっている。腐って崩れているから判別できないけど多分、アンタの家族でしょ」

「あっ……あっ……」


 空気が口蓋から抜ける音がした。辛うじて絞り出したのは言葉でも悲鳴でもない。

 この後、藤沢夜月は病院に搬送されて一命を取り留めた。

 だが詳しい捜査はされることなく、母子家庭で発生した不幸な事件として全てが片付けられてしまう。



 自堕落な母親は心臓麻痺で倒れ、娘は体調に異常をきたして起きられないまま肉親が腐っていくのを眺めていた。その間は食事をとることもできず、糞尿を垂れ流して泣いているだけだったという。

 7月半ば。国道バイパスから外れた安アパートで発生した悲劇は、小さく地方版の新聞で報じられただけだった。

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