第14話

 温かくも冷たくもない手に首根っこを掴まれた。緩慢に空気が渦を巻き、その中心から慎重に引き上げられる。

 身体は風化した岩のようにボロボロと崩れ落ちていく。いつだったか、そんな心象を描いた絵を教科書で見たことがある。

 あれは何というタイトルだったか……思い出せずにいると、また後頭部に柔らかな感触を覚えた。



 夜月が意識を取り戻すと眼前には目を瞑った同い年くらいの少女がいる。閉じこもっていた精神の檻から引き摺り出されたのだと、そう感じた。

 どうか、これは悪夢の続きであって欲しい。そんな願いから声を上げずに視線を逸らした。

 ゴミ袋が積まれたキッチンは嫌というほど見覚えがあり、自宅の玄関で寝ていることにすぐ気付く。



「気が付きましたね」


 ゆったりとしていて、品のある口調だった。

 少女は瞼を閉じたままである。


「ジガ……?」


 疫病神の名を口に出すと、少女は照れたように笑う。前を閉じたパーカーに、太い脚を露出させたホットパンツ。

 どう見てもジガだったが、いつものヘッドフォンは外している。


(違う。ジガじゃない)


 直感的に否定した夜月は身体を起こして、その少女と同じ顔の高さで膝をついた。

 まるで雰囲気が違うではないか。あのニヤニヤした笑いもアニメ声も消失している。


「寝ぼけていますね、夜月さん。私はヒガですよ」

「あれ?」


 そうだった。どうして名前を間違えたのだろう。

 あまりに当たり前のことで恥ずかしくなってきた。

 そもそも、こんなに部屋がゴミだらけである理由が分からない。


「悪い夢でも見ていたみたい」

「でしょうね。いきなり玄関で倒れてしまったから驚きました」

「……疲れているのかな、私」

「休んでいてください。片付けが終わったら、何か作りましょうか?」

「ごめんね、いつも」


 ヒガは目を瞑ったまま首を横に振る。小さく「気にしないでください」と告げた彼女は、室内のゴミ袋をテキパキと外へ運び出した。

 ようやくダイニングテーブルが見えたところで丁寧に吹き上げて、買ってきたばかりと思しきアルコールのスプレーを吹きかけて消毒していく。

 その様子をボーッと眺めていた夜月は頭痛に襲われた。

 連綿と続く記憶があるところから途切れている。自宅がゴミだらけだったのには理由があった筈だ。それが思い出せない。


「ねぇ、ヒガ」

「どうかしましたか?」

「この家って、私とヒガ以外に誰かが住んでいた?」

「やっぱり、寝ぼけていますね。最初から私と夜月さんの2人で一緒に暮らしていたじゃないですか」

「……そうだったね。そうだよね」

「変な夜月さん」


 クスリと笑って、ヒガは掃除を再開する。

 見ているだけではダメだ。自分も手伝わなければならない。

 そう考えた夜月はゴミ袋を2階から下ろして集積所まで往復する。

 身体の気怠さはもう無かったものの、空腹でフラフラしてしまう。錆びた階段の手すりは今にも崩壊しそうだった。


(何か、おかしい)


 近所の景色も見慣れたものだ。車がすれ違えないような細い道路に、家賃の安いアパートが幾つも並んでいる。猫の額のような公園にはベンチだけで遊具が無い。

 幸いなことにスーパーマーケットは近いから買い物に困らないし、コンビニもある。

 ここに自分が住んでいたのは間違いない。

 けれど決定的に歯車がズレている。違和感の正体を掴めないまま、部屋の掃除は進んでいく。



 雑巾掛けをするヒガは鼻歌を歌いながらリズミカルに作業している。

 BGMに小フーガト短調を選ぶのはいつものことだ。

 しかし、馴染みが薄い。懐かしい感じがしない。


「ちょっと休みましょう」


 途中で菓子パンをつまみながら休憩を挟む。食べ物と飲み物を口にしても思考は鈍ったままだ。


「我ここにあらず……って感じですね」

「ごめんね。ボーッとしちゃって」

「いえいえ。疲れが溜まっているなら仕方ないですよ」


 その後、ヒガと他愛のない話をしながら掃除を再開し、室内が見違えるほど綺麗になった頃には日が暮れていた。

 夜月は自分の領土である机に向かい、椅子に座ってみる。そこから台所の方を振り返った。

 ヒガはエプロン姿で夕食の準備を始めていた。

 小気味いい包丁のリズムと、換気扇の回転音が重なっている。


(やっぱり、おかしい……)


 具体的にどこがどう変わったのか。

 それを追求しようと懸命に脳に血を巡らせる。

 そもそも自宅のフローリングを見たのは何年ぶりだろうか?

 半年くらいのスパンで記憶に向き合ってみるものの、思い出せない。

 悩んで机に伏せていると引き出しが気になった。開けてみると写真立てが入っている。

 映っているのは、母と自分だった。ランドセルを背負って門の前に立っているから小学生のときのものだろう。


(あれ……?)


 そういえば、母はどこへ行ったのだろうか。

 この家でヒガと一緒に暮らしていて気にしたことなんてなかった。


「ねぇ、ヒガ。私のお母さんって今、どうしているんだっけ?」


 ピタッとまな板のビートが止まる。

 ヒガはゆっくりとこちらを振り返った。目は見えているのに、普段から殆ど瞼を閉じている。

 そんなスリットみたいな眼が少しだけ開いた。


「いやですねぇ。夜月さんのお母さんは亡くなったじゃないですか」


 居間に入ってきたヒガは部屋の角にある仏壇の前に立って手を合わせる。

 なんということだろう。あまりに間抜けなことを口走ってしまった。

 その後悔で夜月は縮こまる。

 真新しい仏壇の上には母親の遺影が飾ってあった。


「やっぱり……今日の私って変だよね」

「大丈夫ですよ。お夕飯食べて、お風呂に入って、ぐっすり眠れば元気が出ます」

「そう。そうだよね」


「明日も学校がありますし、変に考え込まないほうがいいですよ。もう少しでご飯も炊けますから、大人しく待っててください」

「うん。ありがとう、ヒガ」

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