第10話

 PAPAホテルの廊下にて。



 刀を手にしたあいつの背中が遠ざかっていく。

 もうこちらには興味が無いと言わんばかりだ。

 右腕を斬り落とされた吾妻静流は血溜まりの中でもがき、意味のない言葉を叫んでいる。

 それは怨嗟であり、慟哭であり、溢れんばかりの感情すべての色をしていた。



 パーカーの少女・ジガは1番奥の部屋へ入る寸前に静流を一瞥してくる。

 こちらを捉えた瞳はただただ冷たく、まるでゴミでも眺めているようだった。

 トドメすら刺さずに中へ戻っていく様子から舐め切られているとしか思えない。

 しかも、切り落とした静流の右腕と通学用のバッグを持ち去ったではないか。

 こんな状況でも浅ましく泥棒を働く神経に苛立ちが爆発する。


(くそっ、くそっ、くそっ……!)


 興奮して心臓が急激に動く。するとそれに合わせて命が垂れ流れていった。止血しなければ死ぬ。

 真っ赤に染まった制服と頬で静流は虚空を睨むが、ピントが合わない。

 そういえばポケットの中にハンカチがあった筈だ。

 しかし、残った左手で探ろうとしても指に力が入らない。

 意識がどんどん希釈されていくようだ。


(死ぬ。イヤだ、死にたくない!)


 芯に残ったのは恐怖に対する拒絶だけ。

 その強い思いを抱いた静流は、ふと床に刺さった『針』を見る。

 ジガの注意を逸らすために放った一撃がまだ残っていたのだ。

 静流はクイーンから力を授かって以来、密かに技を磨き続けている。



 仲良しグループに属する兵隊蜂の中でも自己鍛錬をしている者はせいぜい4、5人程度だった。

 1番、腕が立つのは霧生楓きりゅうかえでである。もともと剣道部に入っている上に彼女の『針』は太刀に変化していた。剣筋を見切ることは難しく、これに敵う者は誰もいない。

 しかし、距離さえ維持できれば勝てると静流は確信している。射程外から音速の一手で楓すら葬れるだろう。



 その密かな矜持が静流の支えであった。普段の立ち回りの下手くそさからグループ内では夜月に次ぐいじめられっ子だったが、その気になれば誰でも刺し殺せるという裏付けによって折れずに生きている。


「あたしの……あたしの『針』ならば」


 クイーンが兵隊蜂に授けた『針』は使用者によって変化する。これはただの道具じゃない、成長するパートナーなのだ。


「あたしの傷を塞げ……」


 強い想いが漆黒の武器へと伝わる。

 それまで垂直に刺さっていた『針』はドロリと溶け出し、床を這って静流の右腕に集まっていく。

 溶けた『針』が骨と脂と筋繊維が剥き出しになった切断面に絡みついた瞬間、背中から後頭部にかけて電気が走る。

 途切れていた神経が繋がり、弱々しいが右腕の感触が戻った。


「……っ!?」


 ここまでは殆ど無意識だった。

 倒れたままの姿勢で恐る恐る両手を顔の前へ持ってくる。

 左は肌色で、右は黒かった。そのまま右の方の手首から肘まで視線を移動させるが、やはり漆黒である。『針』は失われた右腕に変化していた。

 しかも、出血が止まっている。


(助かった?)


 信じられないが、どうやらそうらしい。

 意識もハッキリとしてきた。

 静流は壁に手をついて起き上がる。どうやら失った血までは取り戻せていないらしく、力が入らない。


(今すぐにでも殺してやりたいけど)


 ここでまたジガに挑んでも返り討ちに遭うだろう。

 幸いなことに冷静な判断が下せた静流は、気配を押し殺してホテルを脱出する。

 運が良いのか、あるいは見逃してもらえたのか、ジガは追ってこなかった。



 とにかく回復することが先決である。

 荷物は奪われてしまったし、クイーンの命令も達成していない。

 静流はしばらくの間、身を隠す決意を固める。

 あるかどうかもわからぬ名誉を挽回するため、準備が必要だ。


(絶対に……殺してやる)


 脳裏にパーカーの少女のニヤケ面を焼き付け、静流はホテルからK塚公園を抜けて大栄橋方面へと姿を消した。

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