第9話
大栄橋から無数に並走する線路を見下ろし、念入りに張り巡らされた金網のせいで飛び込む事も出来ず、諦めて渡ってひたすら直進し、不快な排ガスを撒き散らす改造車を尻目に歩き、国道を挟んだ反対側に出れば賃料の安いアパートが乱立している。
藤沢夜月の家もそんな中の1軒だった。大型のスーパーマーケットが近くにあるので買い物には困らないが賑やかな繁華街から遠く、夜は割と静かである。
ジガに解放されて眼鏡と下着を含む私服は返してもらえたが他の荷物は取り上げられてしまい、ICカードが無くてバスにも乗れないので徒歩で1時間もかけて歩いて帰宅した。
錆びた外階段の安アパートは見てくれが悪く、小学校の頃に呼んだクラスメイトから「汚い家」と謗られて以降は他人を招いたことはない。
セキュリティもガバガバで郵便ポストの中には合鍵が入っている。
それを取り出した夜月は201号室の前でゆっくりと息を吸い、玄関のドアに耳を当てた。
中からは何も聞こえない。どうやら母親は不在のようだ。
(よかった……)
安堵で胸を撫で下ろし、鍵を指してドアノブを捻り、中へ入る。
間取りは1DK。まず目に入ったのはカップ麺の器やポテトチップスの袋、丸めたティッシュが詰め込まれたゴミ袋だった。それが無数に積まれている。
他にはゲームセンターで取れる益体のないぬいぐるみや、何年も前の漫画雑誌の山だった。
靴を脱いで台所を通り抜ければ、母の万年床がある。染みだらけのシーツの上にはグシャグシャに脱ぎ捨てられたパジャマが投げ捨てられていた。
母は所謂「捨てられない女」で、ゴミでも何でも溜め込む。それを勝手に捨てると烈火の如く怒るため夜月は遅々と部屋の掃除をして、この状態を保っていた。
何日振りかの我が家でも大して心安らぐことはない。
窓際の学習机が夜月の持つ唯一の領土だったが、家を空けている間に母の食べ散らかした弁当の容器に侵されていた。
これならまだジガに監禁されていたときの方がマシだったかもしれない。
手を縛られていたとはいえ清潔なホテルで寝泊まりしていたのだから。
夜月は気怠いまま机の周りを掃除して、いつもと同じ程度に汚い状態まで戻す。
そして椅子に座って天井を見上げた。煙草のヤニで真黄色になっている。
「死にたい」
不意に思ったことを口にすると、現実が重くのしかかってくる。
クイーンの言い付けを守れないどころか、仲良しグループのメンバーの手を煩わせてしまった。
連絡を絶っているので状況がまるで分からない。
おそらく、登校したところで……これまでの失態を責められて酷い目に遭わされるだろう。
それが具体的にどんなことなのか夜月は想像できなかった。
無気力のまま、何時間も過ぎてしまう。家には誰も帰ってこない。
すっかり暗くなった頃、忘れたように蛍光灯を点けた。
するとどうだろう。玄関のドアを叩く音が聞こえる。
(こんな時間に誰……?)
母親ならばノックなどせずに入ってくる。
もしかしたら荷物でも届いたのだろうか?
大した確認もせずに玄関を開けてしまい、数秒後には猛烈に後悔した。
そこにはジガがいた。
「こんばんは」
相変わらずのニヤニヤ笑いであるが、夜月はその姿に息を呑んだ。
パーカーは赤黒く染まっている。臭いから血であると分かった。
ジガは平然としているように見えたが、視線を落とすと膝が震えている。
ヘッドフォンこそ失くしていないもののいつも以上に黒髪が乱れていて、肌からは血の気が引いていた。
つい半日前まで自分のことを監禁していた人間だとは思えない。
恐怖や敵愾心といったものは沸いてこなかった。
「どうして、ここが……」
「学生証」
そういえば財布の中には学生証が入ったままだった。ジガから返してもらっていなかったので、住所がバレているのは別段不思議なことではない。
「泊めてもらえる?」
「えっ?」
唐突に、何を言い出すのだろう。
ここで拒否しても力押しされればそれで終わりだ。
夜月には頷く以外の選択肢が無い。ジガは明らかにそれを見越している。
「お邪魔します」
甲高いアニメ声がゴミ屋敷の中に埋もれていく。
ジガはキッチンに積まれた透明袋を一瞥し、端に避けて座るスペースを無理に作った。
こうなってしまっては追い出すこともできない。
夜月は慌てて玄関を閉めて、ジガの前で両膝をつく。
かなり弱っている様子が伝わってくる。
「大丈夫?」
「少なくとも2日間くらいはダメ」
なんとも具体的な返答だ。かといって2日も家に置いておくわけにはいかない。
この娘は何らかの理由でクイーンを探している。それが良からぬものであることは、夜月も薄々気付いていた。
どう扱うべきなのか迷いが生じているところへ、ジガは話しかけてくる。
「お水、もらえる?」
「あ、うん」
特に逆らうべき要求でもなく、夜月は何か飲み物がないかと冷蔵庫の中を漁る。
しかし、缶ビールとつまみばかりで未成年がクチにできそうなものは無かった。
仕方なくコップに水道水を注いで申し訳なさそうに差し出すと、ジガは一気に飲み干してしまう。
「ありがと」
少し零してしまったジガは手の甲で口元を拭って黙り込んだ。
どう接しようか決められないでオロオロしていると寝息が聞こえてくる。
座ったままの姿勢で器用に休息をとっているようだ。
(何なの、まったく……!)
流石の夜月も理不尽さに怒りが込み上げてくる。
ここ数日、ジガに振り回されっぱなしだ。それも好意的な意図は一切無い。
むしろ関われば関わるほど事態はマイナスに傾いていく。
この疫病神をどうしてくれようかと考えているうちに、激情が勝って手近にあったゴミ袋を投げつけてしまう。
しかし、ジガの身体に当たる寸前にそれは真っ二つに割れて床に落ちた。
中に入っていたカップ麺の容器が見事に寸断されてるのを目の当たりにしてなお夜月は理解が追いついていない。
念のため、もう1回だけ同じことをしてみた。やはりゴミ袋は真っ二つになる。
ジガに何かを当てようとしても届かない。
どう見ても座ったまま寝ているだけなのに……!
(やっぱり、関わっちゃダメ!)
とんでもないものが家に転がり込んできてしまった。
退いてもらうのも無理である。
頭を抱えた夜月はふと、自堕落な母の顔を思い浮かべる。
もしこのまま何も知らずに親が帰ってきたらジガに殺されてしまうのではないか?
(お母さんがいなくなる?)
なんとも甘美な響きである。
その誘惑に負けそうになった夜月だが、頭を振って考えを消し飛ばす。
いくらロクでも無いからとはいえ唯一の肉親だ。死んでいいわけがない。
仕方なく、夜月は母が帰ってくるのを玄関で座って待っていた。
何時間も、何時間も。何度も意識が飛びかけて必死に堪える。
そうしているうちに夜は明けてしまい、とうとう一睡もできないまま次の日になってしまった。
ジガは未だに動かない。
恨めしそうに見つめる夜月は無駄と分かりつつ、ゴミ袋を投げつけた。
やはり真っ二つに切り裂かれてしまう。
(どうしよう……)
超弩級の災厄を抱え込み、夜月はまた「死にたい」と漏らした。
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