第3話


 時間は既に夜の11時を回っていている。コンサートホールと会議室が併設された30階建てビルの敷地にあるK塚公園は昼間こそサラリーマンや学生がうろついているが、夜は酔っ払いが潰れている程度で人影は無い。



 喫煙所の横に設けられた男子トイレの個室で、夜月はを終えたところだ。

 符丁は予めメールでやり取りしており、合言葉が間違っていればドアは開けない。顔や髪に体液はかけない。お触りNG。本番無し。強要された場合は無理に連れ込まれて乱暴されたと、警察に嘘の通報をして仲良しグループのメンバーが目撃者として名乗り出る。



 入ってくるのは大抵は中年男性だが20代前半といった若者もいた。

 夜月はクイーンに仕込まれた通りにたどたどしく演技し、自分がさも見慣れていない男性器に興奮しているように装う。下半身を露出した男どもは陰茎を屹立させて、ネットリとした視線で夜月の『行為』を見下ろすのだ。男子トイレの個室というシチュエーションがより彼らの情欲を駆り立てるらしく、夜月はその点がうまく理解できずにいた。



 しかし、射精1回で1,000円が貰える。だいたいの男は2回か3回が限度で、早漏が相手ならば数分で済む。クイーンがどれだけマージンを取っているかは知らない。

 とても浅ましい行為であり、露見すれば補導どころでは済まないのは夜月は十分に承知していた。それでも逆らえなかったのは金の魅力のせいである。一定の人数をこなせばボーナスまでもらえるのだ。

 口淫と手淫以上の性行為は未だしたことがない。自分なりに線を引いているつもりではある。



 クイーンに1抜き1,000円のアルバイトを命じられたときには「キスすらしたことがない」と反発したのだが、その場で彼女に唇を奪われている。もし処女だと告げていれば股座に杭を打ち込まれていたかもしれない。



 夜月はいつも通り口蓋に指を捻じ込み、便器に向かって嘔吐する。白濁が混じった胃液を直視せずに流すと予め買っておいた500ミリリットルのミネラルウォーターで口を濯いで3度吐き出した。その後は胃の中から息をリフレッシュする清涼剤を5粒ほど飲み込む。これは浄化の儀式でもあった。



 そして精液が付着したNヶ丘高等学校の制服を丸めて紙袋へ突っ込み、眼鏡をかけ、うなじで髪を結わえる(行為中はコンタクトレンズを外している。相手の男の顔など見たくないからだ)

 元の野暮ったいカーディガンの私服に着替えて素早く立ち去ろうとしたのは、この時間であれば終電には十分に間に合うからだ。歩いて2駅の距離を帰るのは流石に遠慮したい。



 K塚公園の敷地内には噴水と足首程度の深さの水路が敷かれている。夜中でもそれらはライトアップされており、決して暗くは無い。周囲の店は飲み屋以外、全て閉まっている。駅へは遊歩道が通っているので、わざわざ園内を通り抜けようという物好きもいないだろう。

 だが、夜月の前にはガラの悪い若者が3人も立ち塞がっていた。安物を着崩してさらに安っぽくした「いかにも金を持ってなさそうな」連中である。そのくせ鍍金だらけのアクセサリーをひけらかし、無価値を通り越してマイナスの存在であることを周囲にアピールしていた。



 危険を察して踵を返したが1人が夜月の前へと回り込んでくる。肩越しに背後を振り返ると、残りの2人もジワジワとにじり寄ってきた。

 一様にイヤらしい笑みは浮かべ、鼻息が荒く、品がない。こういう手合いはもっと田舎にいるものだと、夜月はそう思っていた。

 ポケットに手を入れ、相手から見えないように操作してヘルプ用の携帯電話でコールする。万が一、客に襲われたときの保険としてクイーンから渡されていたものだ。老齢向けの品でボタンが5つしかないので押し間違えないで済む。発信だけでいい。あとは時間さえ稼げば助けが来て……



 それが甘かった。悲鳴すら上げる暇なく、夜月の脇腹にはスタンガンが押し当てられる。

 本人には見えていなかったので何が起こったのか分からない。神経を直に擦られたみたいな耐え難い痛みが走り、声も出せないまま倒れる。既に意識はなかった。

 K塚公園は地下道へ続く建屋があり、その周囲は植え込みになっている。

 3人は夜月の身体を引き摺ってそこまで持っていった。園外の歩道を歩く人がいたとしても、彼らの存在には気付けないだろう。



 ようやく我を取り戻したものの意識は混濁していた。そんな中、自分の衣服が剥ぎ取られていることを夜月は知る。

 だが、スカートの中身を目の当たりにした暴漢どもは戸惑いの色を隠せなかったようだ。鍵穴の付いた鋼鉄製の下着を見るのは初めてだったのだろう。もしくは貞操帯という存在そのものを知らないのかもしれない。

 無理に脱がせようとしたが骨盤のせいでずり下ろすこともできず徒労に終わり、罵声を浴びせられた。語彙力の無い彼らの精一杯の詰りである。



 下の穴が塞がっているなら、発情した馬鹿どもがどうするかすぐに予想できた。噛み千切ってやろうにも身体は痺れたまま。あとは成されるがまま。スマートフォンを向けられて動画撮影までされた。

 これで今日は7人の性を受け止めたことになる。そのうち3人は客ではない。

 クイーンからの叱責が目に浮かぶ。夜月は鼻の裏まで生臭さが充満して、憂鬱な気分になって天を仰いだ。



 そのときである。

 交差点を避けるために陸橋となった遊歩道の欄干。その上に人が立っていることに気付いた。


「アーアーアー アアア アアアアア」


 トーンの高い歌声がK塚公園全体に響く。

 3人組はキョロキョロと周囲を見渡した後で頭上のシルエットに気付いた。

 その人影は高く跳躍すると放物線の頂点で背後の月と重なる。とてもではないが、人間とは思えぬ動きだった。

 そいつは植え込みを挟んで夜月たちの前に着地する。


「ア ア ア ア アアアアア」


 小フーガト短調だ。

 夜月には疑問しか沸いてこないチョイスだが、当人は気に入っているのか歌うのをやめない。

 パーカー姿のそいつは同い年くらいの女の子である。ホットパンツからは太ましい脚が伸び、裸足のまま汚れたスニーカーを履いていた。

 ヘッドフォンのせいで乱れた黒髪を揺らし、正気かどうかも分からないような足取りでさらに近付いてくる。

 見覚えがあった。家電量販店でスマートフォンを弄っていた娘である。



 3人組は顔を見合わせた後、無言で了解したかのように陰茎をズボンにしまってそいつを取り囲む。

 口淫では気が済まなかったのだろう。次の得物と見定めたのである。スタンガンをこれ見よがしにしないのは彼らなりの知恵だった。

 こうして……夜に血の花が咲く。

 パーカーの少女はリズムを取りながら、相変わらず小フーガト短調を「ア」だけで口ずさんでいる。

 その揺らめく動作に合わせて1人が飛びかかると、太い脚は天に向かって蹴り上げられた。

 カウンター攻撃を浴びせる形でスニーカーの踵が暴漢の顎を貫き、粉々に砕く。吹き出る鼻血に混じってタバコで黄ばんだ歯が飛ぶ。

 受け身すら取れずに地面へ落ちた後は痙攣していた。



 仲間が一撃で昏倒させられたのに驚いた残りの2人は硬直してしまう。

 隙だらけなのをいいことに、瞬時に肉薄した少女は男の尻に手を回す。そのまま股間の位置を固定して膝蹴りで金的を潰した。

 泡を吹きながら倒れ、それを目の当たりにした最後のひとりは背を向けて逃げ出す。

 しかし、アッサリと追い付かれて後頭部に飛び蹴りを食らった。園外まで吹っ飛ばされたそいつは通りかかったタクシーのフロントガラスに突き刺さる。哀れなことに前方を見失った車両は電柱にぶつかり、ボンネットからは白煙が上がった。


「アー アー」


 まるで意に介していない。もしかしたら殺しているかもしれないのに、歌は続く。夜月は怯えた目でパーカーの少女の方を向いていた。

 これは助けてもらったことになるのだろうか?

 そんな懸念を抱いてしまう。


「アー?」


 尻上がりに疑問符が付いたかと思うと、パーカーの少女は夜月に近寄ってきた。

 動けずに呆然としていると身体ごと肩に担がれる。

 そして抗議の声を上げるまでもなく、夜月は宙を舞った。

 信じられないことに、パーカー少女は人間ひとりを持ち上げた状態で5メートル近い高さの遊歩道の上までジャンプしたのである。



 それだけならまだ良かった。突然のことに心臓が飛び出そうになっているというのに、2度目の跳躍で30階建てのビルの壁面へと着地したのである。

 重力を完全に無視した動きに現実感が遠退いていく。

 眼下のK塚公園はみるみるうちに小さくなり、気付けば街を一望できる高さまで到達していた。



 どうやら屋上まで壁を走って登ったらしい。

 鯉みたいに口をパクパクさせていると、ゆっくり降ろされた。

 人口の明かりに照らされた空は暗いのに明るい。遠くで電波塔の赤い光が明滅している。

 パーカーの少女はニンマリと笑い、目を細めた。


「働き蜂、見つけた」


 何とも特徴的でトーンの高いアニメ声だった。

 夜月は恐怖で引き攣っていたものの、どうにか叫び声をあげるのだけは我慢している。

 相手の言っていることの意味はまるで分からない。


「あの、あなたは一体……?」


「ジガ」


「自我?」


「そう」


 オウム返しするべきではなかった。そう後悔しても遅い。

 それが名前なのかすら怪しいが、夜月は頭の中で少女のことをジガと呼ぶことにする。

 行動も身体能力も規格外なのだ。名前がヒトのものと思えなくても構わなかった。

 ジガは昼寝上がりの猫のように伸びをする。

 そして夜月に向き直ると口角を持ち上げていた。


「女王蜂はどこ?」

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