拘泥世界内感情
雲崎四花
拘泥世界内感情
ジョバンニは、ああ、と深く息しました。「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの
(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』)
◇
部室が好きだ。誰もいないから。
真面目な進学校だからといって、真面目に部活動に励むとは限らない。この高校の文芸部は元々ただ本を読むだけが伝統で、何か学術的なことをするわけでもないし、部員が執筆するようなこともない。
ここ数か月、俺以外の生徒は部室に来ていない。ただでさえ人数が少ないのに、部員は揃って幽霊と化し、それを揶揄していた部長さえ失踪し、この部室には俺だけが残った。
「水名くん」
ガラリ、という音。ドアが開くと同時に俺の耳へと届いた声は、国語教諭の黒岩のものだった。彼女は何の断りもなしに、教室に入り込んでくる。顧問としての威厳を保つためだろう。しかしそんなことをしても、俺には何の効果もない。
彼女もそれは承知しているはずで、つまり威厳を気にする理由が他にあるのだ。半開きになったドアの、磨りガラスの向こう。そこには女子生徒と思われる人影があった。雰囲気からしてウチの部員ではないだろう。顔には期待しなかった。
「新入部員です。あなたと同じ」
「俺、春からいるんですけど」
最初にここに足を運んでから、もう半年は経っている。黒岩に他意があることはその口調から滲み出ていたが、その内容までは読み取れなかった。
「入部届出してないでしょう、まだ」
そんなものが要るほどに、この部は活動をしていない。この顧問は自らの管理能力のなさを棚に上げて、言うことは言っているつもりなのだろう。俺は将来の夢など持ち合わせていないが、仮にサラリーマンとして働くなら、こういう人間は同じオフィスにいて欲しくない。
「いや、まぁ、入ってないってことでもいいんじゃないですかね。俺は空き教室使ってるだけ、みたいな」
「正式な部員が入ったら、ここは空き教室じゃなくなるでしょ。ねぇ、夏野さん」
黒岩が名を呼ぶと、女子生徒がドアから顔を覗かせた。
「はぁ……。ていうか、ホントに人いないんですねー」
呆れた。……顔はまぁ、悪くはないが、話の通じるタイプじゃない。地毛で通せるギリギリのラインで染められた髪。前髪の奥に見える眉は異様に整っていて、頬はやけに血色がよかった。こういうタイプは苦手だ。馬鹿だから。
「ということで、あなたはこれを書いて。あと、夏野さんに部の紹介してあげてね」
黒岩はそう言って、後ろ手に持っていたA4用紙を押しつけてくる。それを受け取ると、彼女は足早に教室を出ていった。他に言うことはないのだろうか。
廊下から、「ごめんね、私この後会議だから」という声が聞こえてくる。おそらく新入部員に向けられた台詞なのだろうが、当の夏野サンはどこか上の空だった。
「まぁ……は、入れば?」
たった数文字なのに痞えたのは、その台詞が本意ではなかったからだろう。カーテンの隙間から漏れ出る斜光が、廊下側の壁を照らしていて眩しい。
「あ、お邪魔します」
意外と大人しいなと思いながら、俺は顧問に渡された入部届を二つ折りにする。ここで破り捨ててもよかったが、夏野サンにチクられる可能性を考慮すれば、そうしない方が賢明だった。スクールバッグの中にあるファイルへと入部届を忍び込ませ、無言でいるのも何なので、適当な話でも振ってみる。
「二年生だよね?」
この高校では、学年によって上履きのゴムの色が異なっている。椅子に腰掛けた彼女は、俺と同じく赤いそれを履いていた。
「え、そうだけど」
「なんで今入ろうと思ったの?」
夏野サンは文芸部に入ってくるような容姿をしていない。正直なところ不似合いだ。それでいて二年生の秋にわざわざ途中入部してきたのには、何か特別な事情でもあるのだろうか。
「小説を書きたかったから、です」
「……ウチの部、読むの専門なんだよね。さっきの顧問から聞かなかった?」
お手本のような、しかしこの場においては誤りである回答に、俺は辟易してしまう。そもそも夏野サンが小説を書いている姿など、俺には想像することさえできない。
「そういう感じっていうのは聞いたんだけど、別に書いてもいいって言われたんで」
余計なことを。俺は今のこの部を気に入っているのだが、顧問の黒岩は現状を良く思っていないのだろう。夏野サンという反乱分子を入れることで、部に改革を起こそうという魂胆なのかもしれない。
いや、ことここに至っては、反乱分子はむしろ俺の方だ。部長がいれば話は別だったかもしれないが、俺一人でこの流れに太刀打ちできるはずがない。正式な部員じゃないし、そうなるつもりも一切ないから。
「まぁ、顧問が言うならいいんじゃない。暇だし、原稿を読むぐらいはするよ」
「え、ありがとう。えっと……ミズ、ナさん。で合ってる?」
夏野サンはビッチみたいな容姿をしながら、何故だか懇切丁寧に接してくる。気持ちが悪い。そういうプレイみたいで。
「合ってるけど、別に水名でいいよ。ていうか敬語使わなくていいでしょ、タメだし」
偏差値は夏野サンの方が下だろうけど。
「えっと、じゃあ、水名くんで。私は
そう言うと、彼女は右手を差し出してきた。何の気兼ねもなくそういう行動に出られるのは、苦手だ。
「よろしくされても……」
「なんで。同じ部になるならよろしくでしょ」
「いや、俺は正式な部員じゃないんで」
「別に形とか関係なくない?」
そういうの、君が一番嫌いなものでしょう? そんな風に、言われている気がした。彼女の瞳の奥には、哀れみのような感情が滲んでいた。
「だったら、握手だって関係ないな」
俺がそう突き放すと、夏野サンは意外そうな顔をしてから、その目を細める。
「屁理屈」
「正当な理論だから。それと俺、スキンシップとか苦手なんだよ」
「握手ってスキンシップに入るの?」
「知らないけど。一応、予防線張っておこうと思ってさ」
「ふうん」
こちらの意図を理解しているのか、いないのか。夏野サンの軽薄な相槌からそれを読み取ることは、俺には到底不可能だった。
彼女は思い出したように、床に置いていたスクールバッグから紙束を取り出す。A4のコピー用紙をたんにホチキス止めしたもののように思えたが、重力によって翻ったそれには、活字がぎっしりと並んでいた。
「なにそれ」
「書いたやつ、持ってきたの」
まさか入部前から書いていたのか。夏野サンのあまりの行動力に、俺は苦笑するしかない。本を読むかどうかも怪しい見た目なのに、まさか書いてきているとは思わなかった。
「読んでくれるんでしょ?」
蠱惑的な笑みだった。自分の見せ方をよく分かった上での動作だ。彼女は結局のところ「そういう人間」なのだろう。努めて冷静に、俺は彼女の原稿を受け取る。
厚さは三ミリ弱といったところだろうか。実際に触ってみれば、思ったよりも重みが感じ取れた。一枚に二ページずつ印刷されている。ページ数は紙面に記載されていないが、五十ページは優に超えているだろう。
「なんだ、家帰ったら読ませてもらうよ」
「え、ここで読まないの?」
「さっきまで『方法序説』読んでてさ。……知ってる?」
「あー、聞いたことはある」
嘘だな、と思った。『方法序説』は有名な著作ではあるが、哲学書であり、一般人には敬遠されがちな代物だ。ウチの高校に倫理の授業はないし、その取っつきにくいタイトルからして、女子高生の記憶に残るものではない。「我思う、故に我あり」というフレーズぐらいなら、或いは聞いたことがあるかもしれないけれど。
「まあとにかく難しい本でさ。それ読んでたせいで、今だけ活字アレルギーなんだよ。もうこれ以上文章読みたくないの」
アレルギーって、と彼女は笑う。
「それに、職員会議が終わったら顧問戻って来るだろうから、その前にお暇したいんだよね。入部届出したくないし」
「どんだけ出したくないの……。ていうか今逃げたって、先生はまた明日来るんじゃない?」
確かにその通りだろう。しかし、明日明後日と部室に来るのを我慢すれば、向こうは辞めたと思い込むのではないだろうか。もう十月になるというのに俺から入部届を回収できていない彼女なのだ。余程のことがない限り、A4用紙一枚の行方に執着することはないだろう。それだけの気力が彼女に備わっていたのなら、俺はとうにこの部室からいなくなっている。
「俺、明日は授業終わったら帰るから。明後日は……第三土曜だから休みか。まぁしばらくは部活来ないよ。ああ、原稿は読み終わったら部室に置いとくから。そのとき夏野サンはいないだろうけど」
俺がそう捲し立てると、夏野サンは目を見開いて、口をもごもごさせていた。そんな表情はしなくていいから、早く「こいつはクズだ」と認識して欲しかった。
「……私は、明日も来るよ」
その言葉は一体、どんな意図をはらんでいるのか。そんなこと、俺に理解できるはずがなかった。彼女から逃げるようにして、原稿をスクールバッグに詰め込む。
正直、気分は最悪だった。
この部屋にいてこんな気分になるのは初めてだ。金輪際、ここに来ないで欲しかった。彼女といると自分の醜さが暴かれるようで、不快極まりない。
立ち上がり、「お先」とだけ言ってドアへと向かう。それに答える声はない。ドアを閉める直前、彼女の様子をちらと見た。
夏野は自らの左腕を掴んでいて、右手の指は、濃紺のブレザーに食い込んでいた。
◆
翌日。七限後のSHRが終わると、俺はすぐに自席を立った。
二年生の教室は、本校舎の三階と四階に配置されている。この高校は学力によってクラスが分類されており、特進クラスである俺の教室は四階となっている。比較的学力の低い選抜クラスの教室は揃って三階だ。上下が分かりやすくて結構である。
本校舎の四階から部室のある特別棟へと移動する場合、二階の空中廊下を渡るのが最短距離となる。寄り道をする理由はない。階段を下りて、空中廊下へ向かうために、二階の職員室前を横切る。
その途中、どこからかユーフォニアムの音が聞こえた。上手いか下手かは分からないが、心臓の下部を揺らしてくるような音だった。
空中廊下は蛍光灯に照らされていて、外は既に暗くなっている。脚が冷たい。だから少しでも和らげるために、早歩きをするのは当然のことだろう。突き当たりを左折し、廊下を奥まで歩いていく。最奥にある部屋からは、明かりが漏れているようだった。脚を動かすにつれ、それは段々と近づいて、段々と露わになってゆく。
引手に指を掛け、スライドさせる。果たして、彼女はそこにいた。
「おお、来てたの」
自分でも白々しいと思った。それを聞いた彼女は、意外そうな反応を寄越してくる。
「そっちこそ、今日は来ないって……」
「そのつもりだったんだけど、夏野サンの原稿がアレだったからさ」
「えー、そんなにやばかったかなぁ」
「いや、やばいから」
俺が白々しいなら、彼女は空々しかった。まるで鏡のように反応してきて、俺も鏡のように台詞を返して。踏み込まない、嘘めいたやり取りを続けてゆく。
会話に区切りがついたところで、俺はスクールバッグから原稿を取り出し、付箋が貼られたページを彼女に見せた。
「まず、一文はもっと短くした方がいいよ。人間の脳ってそんなにいっぺんに情報を処理できないから」
「えー、そこは趣味の問題じゃない?」
「それもあるけど、夏野サンは無理に情報量詰め込もうとしすぎなの。ほら、こことか」
違う、そんなことは問題じゃない。
「まぁ言われてみれば、確かに」
「ここは読点で区切るだけで綺麗になるし。というか、表現自体は結構いいよね」
そんな言葉で、彼女の何を変えられるのだろう。
「ほんと? え、どこら辺がいいとかある?」
「主人公の心情描写とか。友人と仲良さげに話す女の子に嫉妬したり、そんな自分を嫌悪したり。そういうの、よく落とし込めてるよ。あと、抽象的なのに透明感があっていいし……」
それは本当だ。本当だからこそ、眼に付着したままの違和感が離れてくれない。
原稿の余白で、何かが動いている。寄生虫の死骸のようにも見えるそれは、俺の視界を漂って、どうにも世界から消えてくれない。邪魔だ、そう思った。幼少期からずっとついて回っている症状。諦めることはできても、決して慣れることはない。こいつのせいで、いつも世界が濁って見える。こいつのせいで、大事な何かが見えずにいる。こいつのせいで――
「そりゃそうだよ。盗作だもん」
そうだ。見えていた。たとえ何かに邪魔されようと、その過ちは見えていた。
だからこれは、自分自身の間違いなのだろう。俺は誤魔化して、一番の問題に触れなかった。言うべきことを言わずに、ただ、歪んだままの自分を守っていた。
「水名くんさ、ホントはどうしてここに来たの? 入部届でも出すつもり?」
正式な入部。なるほど、それは都合のいい嘘だ。けれど、彼女が用意してくれたその選択肢さえも、俺は選び採ることができない。そんな嘘を口にするぐらいだったら、真実を吐いた方がマシだった。性悪な側面を見せるのは構わないが、心根まで染まることはできない。どうしても、ここは折れるしかなかった。
「最初に言ったとおりだよ、おまえの原稿が酷かったから来た。盗作だっていうのは読んで分かったよ。それに、」
言え。
「まるで、遺書だったから」
言えた、その言葉は出た。彼女の口でなく、俺の口から。そのことに安堵しつつ、しかし、酷く苦い感情に襲われる。彼女の原稿から読み取れた違和感は、いざ言葉にしてみれば、妙な現実味を帯びていた。全身がチクチクする。気持ち悪い。夏野の表情を直視できない。化粧で糊塗されたその顔は、今目にすれば、綻びだらけなのだろう。
「ふぅん、そこまで分かってたんだ」
分かってたのに何故最初に言わなかったのか。そんな意図が、言外に含まれているようだった。俺の言葉をあっさり認めた彼女の声は、震え一つないのに不自然極まりない。
「こんなの、読めば誰でも遺書だって分かるでしょ」
彼女の原稿は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を元にしたものだった。
昨日、帰宅後に彼女の原稿を読んだときは驚いた。俺は小学生の頃に『銀河鉄道の夜』を読んだことがあって、その物語の大枠は今でも覚えていた。そのおかげで、この原稿がそれを元にしていることに気づくのは容易だった。捨てられず家に残っていた文庫本と照らし合わせてみれば、ストーリーは省略され、文面も現代風に直されているようだったが、特徴的な心情描写はほとんど変えられずに残っていた。大きな差異を挙げるとすれば、物語の結末で、カムパネルラが自殺することだろう。
「そうかな? それは水名くんがたまたま『銀河鉄道の夜』を知ってたからでしょ」
眼が濁る。
「仮に、俺がこれを遺書だと思ったのが、元ネタを知っていたからだとして、そう取れるような内容にしたのはおまえだろ。……何のつもり?」
「何のつもりだと思う?」
俺は、彼女の態度に苛立ちを隠せない。自殺幇助をさせる気なのか? それとも止めて欲しいのか? この女は、俺にそんなことをさせるために、この文芸部に入ったのか?
「知らないよ。知らないけど、迷惑だから。誰にもこれを言わないと思って読ませたんだろうけど、生憎俺は何もしない。おまえの道具にはならない」
そう吐き棄てれば、彼女は不思議そうな顔をしてから、口元を綻ばせた。
「先生に言わないでくれるんだ」
「面倒事に巻き込まれたくないんだよ。それが嫌でこの部室にいるんだ。何がしたいのか分からないけど、おまえの自殺願望に俺を巻き込まないでくれ」
俺がこんな空間に身を置いている理由の一つは、遊びに誘われたくないからだ。根暗っぽい部活に入って哀しい人間を気取っていれば、ある程度の体裁を保てるし、面倒な人間関係に囚われずに済む。形だけの関係に囚われずに済む。
「……出ていけとは、言わないんだね」
「俺にそう言えるだけの権利はないからな。この部室はもう、おまえのものだろ」
だから勝手にやっててくれ。そう言い放つと、俺は急にいたたまれなくなって、原稿を夏野に突き返し、そのまま流れで部屋を出た。俺は何のために今日ここに来たのか。そんなのもう、どうでもよかった。
足早に歩を進めると、部室に向かう途中だったのだろう、黒岩と廊下で鉢合わせになった。入部届のことを問われたが、俺は「家に忘れちゃって」と出まかせを言い、そそくさと立ち去った。「週明け持ってくるように」という言葉には、返事をしなかった。
冷え切った廊下を歩く。心臓が嫌に冷たいのは、冬が近づいているせいだろう。
◆
帰宅し、制服のままベッドに身体を投げ出した俺は、今日のやり取りを思い返す。やはり、彼女は俺に対して遺書を送ったのだ。他ならぬ本人が、そのことを認めた。
どんな意図だったのかは分からない。けれど彼女は、自らの死の匂いを嗅がせたのだ。おそらくは、俺にだけ。そのことが途轍もなく不快で、しかし同時に、恍惚だった。
最初に夏野を目にしたとき、俺は彼女を知能が欠けたギャルだと思った。休み時間は教室の真ん中で騒ぎ、放課後には援助交際で小遣いを稼いでいる類の。別に進学校だからといって、そういうことはないわけじゃない。援助交際のみならず、学校の近所で生徒同士の青姦があったとか、誰かがホストに狂っているとか、そういう噂は稀に耳にするのだ。だから俺は最初、彼女もそうだと決めつけていた。でも夏野は、そんな白痴じゃない。
そういう環境で育ったのかもしれない。そういう環境に染まったのかもしれない。しかし昨日原稿を読んで、今日彼女と相対して、分かった。本質的に、彼女は真面目だ。話の通じる人間だし、もしかしたら、話の分かる人間かもしれない。そんな彼女が、俺に救いを求めてきたのだ。
本当は今日、相談に乗るつもりだった。けれど、そんな救済の仕方は、傲慢で偽物だ。それに、彼女があまりにも飄々とした態度を取るものだから、救う気なんて失せてしまった。ああしていられるのなら、そう簡単に飛び降りはしないだろう。
――いや、ああしていられる人間だからこそ、簡単に飛び降りたりもするのだろうか?
「ハッ、ハァ……ッ」
部屋のゴミ箱には、腐り果てた何億もの死骸が埋もれている。見上げた白い天井には、寄生虫の死骸が浮いていた。日常はこんなにも、死の匂いで溢れているのだ。けれどその中で、俺だけはこんなにも生きている。
一線を画して、死を味わえる存在として。
こんな俺を彼女が見たら、そのときはどんな顔をするのだろうか。あの余裕ぶった表情が崩れて、白い虚飾が剥がれ落ちる瞬間を、いつか目にしてみたい。
明々後日は部室に行ってやろう、そう思った。彼女がまだ生きていたら、普通に話をするのも悪くない。有り体に言って、俺は夏野波奈のことが気になっていた。
◆
週明けの月曜は、人々の怨嗟の標的だ。
一週間の始まり。ここから五日間、仕事や学業に勤しまなければ、憩いの休日は訪れない。そのシステムのせいで、月の名を冠した曜日は、多くの人々に嫌悪される。
しかし俺は、この曜日を別段毛嫌いしてはいない。曜日で言うなら、次の日である火曜の方が余程嫌いだ。月曜の疲れを引き摺りながらまだ週の前半という状況の方が、理論的に考えて格段につらいはずである。これは価値観などではなく、人間の心理を分析すれば当然の帰結なのだ。それに気づかず月曜ばかりを忌み嫌う奴らは、みんな愚かで鈍感だ。
だが、そんな月曜でも、昼休みの教室はグループで賑わっている。
廊下側に固まった女子達は、地味な顔立ちで根が暗い。あのグループの内の一人は、俺に好意を寄せている。授業中にわざわざこちらを向いてくることが何度もあったし、たまに大した理由もなく話し掛けてくるので、ほとんど間違いないと言っていいだろう。何ならあのグループは、全員で噂話をしながら俺の方をちらちらと見てくることもある。そういうとき俺が好きだろう本人は、恥ずかしいのかよく俯いている。向こうは気づいていないだろうが、俺はそういった雰囲気に敏感なのだ。もしあいつが告白してきたら何と言って断ろうか。
そんな地味系女子グループは割とどうでもよくて、本当に面倒なのは、窓側前列の男子たちだ。彼らも大して明るいわけではないが、俺と地位が似ているせいか、友達面ですり寄ってくることが多い。俺はそんなグループに属さないのに。
このクラスのカーストにおいて、彼らは第三位だ。一位は教室の真ん中に位置する男女混合グループ、二位は窓側後方の、文字通り声がデカいだけの男子勢。三位は同列で、明暗どちらともつかない男女別々のグループだろう。その下に、例のどうでもいい喪女集団と、コミュニケーション能力に障害を抱えた男子共が這いずり回っている。
俺は地味でもなければコミュ障でもない。ただ、群れを成すのが嫌いなだけだ。顔だっていい方だろう。人当たりよく愛嬌を振りまいていれば、苦労せずカースト上位に入れる程度ではある。なのにそれをしないのは、たんに人間関係が面倒だからだ。別に、群れる人間は弱いなどといった高尚な思想を抱えているわけではない。
とにかく俺は、俺を友達だと思い込んでいる奴らから逃げねばならない。俺とて外聞を気にしないわけではないのだ。そういったものを気にせず関係性を断っていいのは、話の通じない人外を相手にしたときぐらいだろう。だから彼らとは、適切な距離感を保っておきたい。休んだ日の翌日にノートを見せてもらう程度の、Give & TakeでWin-winな距離感を。共に飯を食うのは遠慮したい。面倒だから。
人目につかぬよう注意しつつ、この面倒な空間から這い出る。一階の自販機で菓子パンを買い、それを部室で食べるのが、昼休みの俺のルーティンだ。
廊下を潜り抜ける。喧噪よりも深いところに、低音楽器の音色が鳴り響いている。我が校の吹奏楽部はそこそこの強豪で、昼休みも潰して練習に勤しんでいるらしい。三限の休み時間に早弁をしてまで、ご苦労なことだ。
階段に至り、そこを下りてゆく。踊り場でターンを決めて歩を進めれば、対面から見知った女子生徒が上がってきた。夏野だ。
彼女は俯いていて、こちらに気づいた様子も見せず、気がつく由もないままに、足早に階段を上ってくる。すれ違う瞬間に横目で視線を巡らせれば、後ろ手に弁当箱を持っているのが見えた。
食堂は一階だ。四階から上に、飲食スペースはほとんどない。四階は特進クラスの教室があるだけ。さらにその上は屋上となっているが、生徒には解放されていない。夏野に特進クラスの友人がいるとは思えないし、教室で昼食を取ることもないはずだ。一体上に、何の用事があるのだろう。
脳に疑問が残留したが、しかし思考は放棄した。推察によって幾つかの結論を出すことは可能かもしれないが、その内のどれが真実かを定かにすることは、困難であるように思われた。そもそも俺としては、彼女が肉体的に生きているという、それを確認できただけで充分だ。
◆
特進クラスの俺は、月曜も八限までのハードコースとなっている。けれど別に、そんなのは平常運転だ。八限どころか、一限の前にゼロ限まで設けられている。勉強は苦ではないのだが、毎日のように朝から晩まで座りっぱなしとなると、流石に疲れが回ってくる。
この学校の長の脳は、お金で埋まっているのだろう。そういう奴らは利潤を第一に考えるが故に、数値ばかりで物事を測る。だから教育方針も、単純に勉強時間を増やせばいいというところに落ち着くのだ。生徒を長時間机に向かわせているのは事実なので、馬鹿な保護者の目にはよく映るという利点もあるのかもしれない。学習効率はむしろ悪いのに。
量を是として質を考慮しない社会に飼い慣らされ、生徒の心的負担など気にも留めないのが、私立高校の上層部だ。或いは、気に留めたフリぐらいはするのだろうが……。
そんなことを思考している内に、帰りの会もといSHRは終わった。俺は机上のペンケースと目薬をスクールバッグに仕舞い、教室を後にする。
選抜クラスは七限終わりが多い。月曜もそうだったはずなので、夏野は既に部室にいるだろう。容姿だけを見れば彼女は不真面目に思えるが、俺には彼女がちゃんと部活に来ているという、確信に近い何かがあった。
空中廊下を渡る。日の沈みは早く、ガラス張りの窓の向こうはとっくに黒に染まっている。中庭に目を遣りつつ廊下を曲がれば、文芸部の部室が見えてきた。俺にとってはもはや馴染んだ道のりだ。案の定と言うべきか、部室の灯りは点いていた。
「うっす」
ドアを開けると、そこには端然とした少女がいた。何か小説を読んでいたようだ。前髪は整えられ、セミロングの髪は、相変わらず明るい雰囲気を醸し出している。その性格は、別に明るくなんてないのに。
「あ、お疲れ」
へら、と笑って返す彼女。近づいてあの眼の内側を探ったら、そこには何が潜んでいるのだろう。
「……なんか、前は悪かったな。急に帰っちゃって」
そう言いながら、長テーブルに入れられた、彼女の横の椅子を引く。柔軟剤だろうか。ラベンダーの柔らかな香りが、鼻腔を通り抜けた。
「え、あー。……あれは私が悪かったよ、変なの書いちゃってさ。気にしないで」
そう言って、彼女は目を逸らす。しかし俺はまだ、彼女を捉えて離さない。
踏み込む必要はない。踏み込んだって、そう簡単に核心を突けるわけじゃない。
「別にいいんじゃない。また書いてきたら読むよ」
「え、ほんと?」
「小説書きたいからここに入ったんでしょ。外部だろうが内部だろうが、読んでくれる人はいた方がいいんじゃない」
「……確かに。ありがとね」
その表情筋の動きは、感謝の言葉と裏腹に、どこか空虚で薄っぺらい。夏野本人が小説を読んでいること自体、俺には不可解に思えるのだ。彼女の周囲は尚更本なんて読まないのだろう。しかし、彼女がそうまでして俺を必要とする理由は、俺に原稿を読んでもらうこととは別にあるように思われた。
「夏野はさ、普段本とか読むの」
「まぁ、読むよ。月に二冊くらいだけど」
「へぇ、意外。高校生にしては普通に読む方じゃない? それ」
「そうかなぁ、これくらい読む人はザラにいそうだけど」
「そもそも本なんてからっきしの人もいるでしょ。まぁ俺は、週に一冊は読むけど」
なんでもない風にそう言うと、夏野は感心したように「へぇ」と息を漏らす。
現代人が読まなさすぎるだけで、事実このぐらい何ということはないだろう。大体読書とて、たんに量を積めばいいわけではないのだ。数を重ねることも重要ではあるが、それだけで満足してしまえば、小説は消費娯楽になり下がる。外枠や形式を記憶したところで、心の動きを感じ取らねば、本質的には意味がない。大事なのは、如何に物語を味わえるかだ。
「そんなに本好きなのに、なんで正式にここ入らないの?」
疑問が投げられる。夏野の艶めいた唇は、少し歪んでいるように見えて、こちらを揶揄しているようだった。
「ああ、入るよ」
「え?」
ガラリ、とドアが開く。靴音で薄々気づいてはいたが、いいタイミングで来てくれたなと思う。もしかしたら彼女は、空気の読める顧問なのかもしれない。
「お疲れ様。ちゃんと活動してる?」
本を読むだけの部活において、「ちゃんと活動してる」の基準は一体どこにあるのだろう。やはり活字に目を通すか否かなのだろうか。
「まぁ、ぼちぼち」
俺は曖昧に答えるが、黒岩は実際の活動など興味なさげだった。自分が統括できてさえいれば、部活の意義などどうでもいいのだろう。
「ちゃんとやりなさいね。それで水名くん、入部届は?」
「持ってきましたよ」
俺が即答すれば、黒岩は虚を突かれたような表情をした。一応はそれを受け取るためという体でここに来ているのだろうに、そういう顔をするのはどうなのだろう。仕事が増えて嫌なのは分からないでもないが。
クリアファイルから入部届を取り出し、形だけの顧問に手渡す。印鑑によって押された朱い「水名」の字には、毎度のことだが違和感を覚える。
「あら、やっと入部する気になったの?」
「まぁー、俺もホント、前々から悪いとは思ってたんで。いい機会かなと思いまして」
「私は何回も紙を渡していたんですけどねぇ」
「いや、なんかいつも間が悪くて。あと紙を失くしたときとか、どうにも言い出しにくくて」
実際は、失くしたのではなく捨てたのだが。
「今まで出さなかったのはホント、申しわけないです」
「……出してくれただけ有り難いけれど、提出物は今後しっかりと期限を守るように。常識でしょう? 大学では通用しないからね」
「……はい」
事務はともかく、部活やサークルに関して言うのなら、大学のその辺りの規則は高校よりも余程緩いのではないか。そんな疑念は浮かんだが、一応黒岩の言葉を受け入れておく。聞き分けはいいと思わせておいた方が、後々面倒がない。
「夏野さんは部に馴染めた?」
急に顧問らしいことを言い始めた黒岩に、押し黙っていた夏野は顔を上げて答える。
「あー。馴染めたって言ってもたった二人ですけど。水名くんとは上手くやってますよ」
「上手くやってる、って、その言い方だと俺が問題児みたいなんだけど」
思わず口を挟む。俺も正式に部に入った以上、後からこの部屋に来た分際で、上に立たれるのは癪に障った。
「だって、今まで入部届出してなかったんでしょ?」
夏野の意地悪な笑みに、俺の嗜虐心が搔き立てられる。胸の奥でふつふつと湧き出るものを必死に抑えながら、冷静さを意識して対応する。
「おまえと関わる上でそれは関係ないだろ。大体、いつも普通に話してるし」
「あれで普通なの? こわー」
俺が当たり障りなく言ってやっているのに、夏野は敬意を示さないどころか、こちらを煽り立ててくる。胸と背の裏側で、感情がぐつぐつと音を立てている。相手が対等な関係を望まないのなら、どうにかして屈服させたい。支配したい。俺が。
そう思うと、胸の中で何か焦げたような感覚がした。何もかも嫌に思えたのに、それとは逆に、夏野が笑ってくれるならいいような、そんな気もした。俺は、自分がよく分からなかった。
「その様子なら大丈夫そうね」
投げ掛けられた言葉は的外れに思えたが、顧問がそう思うなら、現状に問題はないのだろう。夏野もどこか気分がよさげで、事実、世界は平和なようだった。
「じゃあ、私は職員室に戻ります。二人共、下校時刻までには帰りなさいね」
俺と夏野が気の抜けた返事をすれば、黒岩は満足げに部室から出ていった。所詮は形だけの顧問だな、と改めて思う。
「水名くんはさー、」
顧問の足音が聞こえなくなると、夏野はわざわざ俺の名を呼んできた。ちらと彼女の顔に目を向ければ、いとも容易く目が合った。
「なんで、部活に入ったの?」
それを確認してどうするつもりなのだろうか。そんな疑問も浮かんだが、別にどうされても構わないと思った。夏野になら、どうされても。
「それって、部室に来るようになったきっかけ? それとも今更届を出したこと?」
「……んと、どっちも」
強欲だな、と思った。最初に意図していたのは後者だけだろうに、俺に前者の可能性を提示され、そちらにも食いついたのだろう。けれど、それを指摘する気は起きなかった。
「まぁ元々本が好きだっていうのもあるけど。放課後部室に来てるのは、面倒な人間関係に悩まされたくないからかな。クラスのやつらと関わっていたくないんだよ」
「え、なんで? 友達は? いないの?」
「いないんじゃなくて作らないの。……別に誰とも喋らないとかじゃないし、それなりの付き合いはあるよ。けど、それ以上はない。仲間内でキャラを作ったり、興味のない話題で表面上だけ盛り上がったりさ、そういう、上辺だけの関わりが嫌いなんだ」
夏野なら、理解できるのではないだろうか。哀しい人間だとか、天邪鬼だとか、そんな言葉で割り切って欲しくない。解剖して、すべてを見て、ちゃんと俺を認めて欲しい。
けれど、そんな言外の感情が届くなど、あり得なかった。
「へぇ、強いんだね」
彼女のその言葉の意図を、俺は推し量ることができない。けれどそれと同じで、俺が考えていることも、彼女に伝わってはいないのだ。彼女ならすべてを分かってくれるだなんて、無邪気にもそう信じていた奴を、今すぐにでも殺したかった。
「それで、今になって入ったのはなんで?」
催促してくる彼女。ここで答えないわけにはいかないのだろう。もうどうにでもなれという風に、俺は、夏野のことなど気にも留めずに話す。
「おまえにここを渡すわけにはいかなかったから。遺書を持ち込んでくるようなやつに部室の鍵を握らせたら、面倒事になるのは目に見えてるでしょ」
彼女は俺の言葉に、自嘲するように口元を歪めた。
言うべきでないことは分かっていた。けれど、どうしても言わずにはいられなかった。そんな自分が情けなくて、しかし同時に仕方ないとも思った。「仕方ない」で済ませる自分が情けなかったし、それさえも仕方なく思えて、もう、この感情には行き場がなかった。
そんな俺を置いて、彼女は疑問を口にする。
「聞かないの?」
「何を」
「なんで、あんなのを書いたか」
聞きたくないと言えば嘘になる。しかし俺が本当に聞きたいのは、それとは少しズレた問いだ。俺にとって重要なのは、どうしてあれを書いたのかではない。どうして俺に、読ませたのかだ。
もう許してくれ。素直に自分が聞きたいことを聞けば、救われる世界であってくれ。
「それよりも……。俺に、読ませたのは、なんで」
夏野の双眸を直視する。彼女はへらりと自嘲し、俺の視線から、逃れるように呟いた。
「別に、誰でもよかったんだ」
◆
夏野波奈は高校デビューして以来、ギャルと呼ばれる類のグループに属して生きてきた。しかし頭一つ抜けて勉強できるが故か、彼女は常にグループから浮いていた。彼女は、勉強自体は得意だが、人に教えるのは不得意だった。そのため、まるでグループに実利を与えなかった。なまじルックスがいいだけに、垢抜けないギャルからは嫉妬を買うことも多かったという。それらが原因となり、彼女は水面下で疎まれていた。
その嫌悪を肌で感じ取りながらも、直接的な悪意を向けられない限り、彼女は我慢した。集団の中での居場所を守ることが、彼女にとって、生きるための最善だった。強者に寄り添って生きることでしか、夏野は脆い心を保てなかったのだ。直接の攻撃さえ避けることができれば、彼女は呼吸をすることができた。
その安寧が破られたのは三週間前。生徒指導部による、身だしなみ検査のときだった。
『アタシらは引っ掛かったのに、波奈だけギリギリセーフ?』『マニキュアまでしてるのに怒られないとか。頭いいからって贔屓でしょ』『ヌードカラーだから先生の目につかないの卑怯』『そりゃ、あの性格じゃあ前の彼氏にも捨てられるわ』『勃たせてやれないだけなのに、処女面してんのマジでウザい』
そんな罵詈雑言を浴びせられ、夏野はグループから追放された。この歳になれば、表立って人をハブることはほとんどなくなるはずなのだが、グループの彼女らは、それだけの成熟もしていなかった。
それ以降、夏野は地味な女子と話すことが多くなったという。外聞を気にすれば、クラスではそういう対象と言葉を交わすしかなかったそうだ。地味なグループには真面目な子が多く、表面上は夏野を尊重してくれた。しかしとてもじゃないが、そこで良好な関係を築けたとは言えなかった。絶望的に趣味嗜好が合わなかったのだ。さして興味のないマイナーなロックバンドの話を聞いたって、彼女は何も面白いと思えなかった。彼女は自分から話題を振るタイプではなかったので、そのグループにいても、ストレスだけが蓄積していった。
……夏野は開けっ広げにそんなことを話してきたが、それをぶつけられているはずの俺は、ただ自責の念でいっぱいだった。過剰な自意識に包まれていた自分ばかりを責めて、彼女の話は蚊帳の外だった。どれだけ衝撃的な内容を聞こうとも、どれだけ酷い語彙を耳にしようとも。俺にとっては、自分の方がずっと大きな問題だった。自分を責めずにはいられなかった。それこそが、自分の殻に閉じ篭る、自己中心的な行為なのに。
『別に、誰でもよかったんだ』……その言葉は、凝り固まっていた俺の自尊心を確かに壊した。どうして、よりにもよって〝ここ〟なのだろう。自分が生きづらくなったから、居場所が欲しくて、無関係な文芸部に遺書を寄越したという。事情はあれど、彼女は、最低の人間だ。『誰でもいいから、私の命に応えて欲しかった』自分の命を道具にして、人間関係を作り上げて。『それで、あのときは救われたの』けれど、きっとそんなのはお互い様だ。俺が彼女に抱いている感情も、純粋なものでは到底ない。傍から見れば、俺たちは同じようなものなのだろう。『だから、もし次があったときは』だったら、お互いが利用し合えばいい。既に予防線は張っているのだ。それに抵触しない限り、『そのときは、』お互いが生きるために、依存し合うのは罪じゃない。
「よろしくね、水名くん」
◆
今日も空は青い。ここのところはずっとだ。ずっと、この青空は変わらない。けれど、この時間の部室に落ちる人影は、一つから二つに増えていた。
「嘘、お昼それだけなの?」
「そうだけど。別に死にはしないから平気」
「いや、今すぐには死なないかもだけど、それは寿命縮むよ……」
自販機で買った、紙パックの野菜ジュースと袋入りの菓子パン二つ。腹は膨れるし、どう考えても事足りる。寿命が縮むというのは大袈裟だ。若干自販機に頼りすぎな節はあるが。
「俺はいつもこうだから。学校での飯なんてほとんど作業なんだし、必要以上にカロリーを摂取しようと思わないだけ」
「うわ……。けどせめてさ、玉子焼きくらいは食べない? あげるよ?」
「ソレ、甘いやつだろ」
「え、当たり前じゃん」
論外だった。糖分は菓子パンで充分に摂取できているのに、こいつはさらに寄こしてくるつもりらしい。糖は頭を働かせるのに有効だが、過剰に摂取すれば、むしろ睡魔をおびき寄せる。そういった知識を持ち合わせていない彼女は、普段から人に善意の押し売りをしているのだろう。
「いらないよ。もっと塩とかもみ込んでくれ」
「何それ、最後に私を食べる気なの?」
「いや、俺は適当に言っただけなんだけど。……おまえ宮沢賢治好きすぎじゃない?」
「そんなでもないよ、有名なのしか知らないし」
夏野の台詞は、『注文の多い料理店』を元にしたものだ。いきなり「私を食べる」などと口にしたものだから、俺は一瞬焦ってしまった。作品を知っていたことに感謝して欲しい。
何とも言えなくなって思わず俯くと、手にしたジュースのストローが、先端をこちらに向けていた。心臓をざらついた玉で撫でられて、濁った血が眉間まで押し寄せてくるような、とにかく不愉快な感覚に苛まれる。
逃げるようにして窓の外に目を遣れば、そちらには寄生虫の死骸が浮いていた。邪魔だ。視界を動き回るそれらは、あの快く晴れた空は偽物だと、俺に暗示してくるようだった。
「どうしたの?」
「いや、何……? 持病の発作みたい、な」
変な表情をしてしまっていただろうか。夏野は無駄に目を見開き、こちらを気に掛けてくる。その神妙な面持ちに、俺は返す言葉を痞えさせてしまう。持病という表現は少し大袈裟かもしれないが、別に不足があるわけではなかった。俺にとっては、慢性的な病状と同じくらいに深刻なのだから。
「え、病気?」
こう返されることが見え透いていたから、できるなら、そういう表現は避けた方が良かっただけで。
「まあね。ストローとか尖ってるものが目先に来ると、ウッ、てなるの。先端恐怖症ってやつ」
「へぇ……。窓の外見て気持ち悪そうにしてたけど」
「ああ、それはまた別で、飛蚊症だよ」
「ヒブンショー?」
どうやら夏野はご存知ないようだった。この症状は、患っていない人に対して説明するのが難しい。正直面倒なのだが、乗り掛かった船でもある。
「何、こう……白いものとか明るいものが背景だと、ぐにょぐにょしたよく分からないのが目に映っちゃう症状。眼の硝子体ってとこに皺が寄るのが原因らしいんだけど、俺はそれが酷くてさ」
「あー、それもしかして、虫みたいのが見えるやつ? 目を逸らしてもついてくる、さ」
「それだよ。知ってるの」
「私もそれ、たまにあるから」
彼女はそう言うと、細めた目を、窓の向こうの青空に遣った。夏野もそうなのかと、俺は曖昧に思考する。
ならば、今の彼女の視界にも、あの死骸は蔓延っているのだろうか。俺と同じように、自分の歪んだ認識を、濁った瞳に映る空を、彼女は偽物と思うのだろうか。
聞きたかったが、あまりに出し抜けに思えて、憚られた。
けれどもしそうだったのなら。何か深いところで、共感できるような気がした。
「これがいっぱい見えちゃうの、大変だね」
きっと、気がしただけだ。
◆
彼女と過ごす時間は、ぬるま湯みたいな温かさに包まれていた。変に期待も意識もしなければ、不快感は襲ってこなかった。思うままに雑談をして、お互いの日々を共有して、惜しむことなく暇を潰した。受動的に日々を繋いでいった。
沈黙さえも苦には思わなかった。この部屋から抜け出す理由など、存在しなかった。
これから冬になるにつれて、さらに抜け出しにくくなるのだろうか。ならいっそ、このままずっと、気がつくことなく春を迎えたい。痛みなど、感じることなく。
――冬は既に来ているのかもしれない。そんな憶測は、音も立てずに溶けていった。
◆
その日、俺が部室に来ると、彼女はいなかった。
特進クラスは一日中ずっと模試で、七限終わりだった。それも通常より少し早めに終わったので、夏野はまだSHRが終わっていないだけかと思われた。彼女は平常授業で七限終わりのはずだ。今日は昼食も試験会場の大教室で取ったため、彼女と顔を合わせていない。普段、彼女が授業後どのくらいして部室に来るのかは、俺の知るところではなかった。
テーブルに入れられた椅子を引き、そこに座り、家から持ってきた『銀河鉄道の夜』を開く。けれど注意が散漫し、その内容は、まるで頭に入ってこない。なんとなくページを捲っていると、どうしてかある一文が目についた。
『けれどもほんとうのさいわいは一体なんだろう。』
本当の幸い。そんなの俺には分かりようがない。けれど、敢えて現実に当て嵌めて考えるなら、俺と彼女の関係は、それに該当し得るだろうか。
本を閉じて、隣の椅子に目を遣る。テーブルに入れられたままの、ありきたりな、どこにでもある教室の椅子。よく見るとその座面には、ホチチス止めの原稿があった。
表紙の体裁が異なっていることから、彼女が前回見せてきた遺書とは別物だと分かる。しかし手に取って二、三ページ斜め読みしてみれば、その内容はほとんど変わっていないようだった。何のために置いたのだろう。当の彼女はまだ来ない。
手元の文庫本と比較しつつ、その原稿を読み進める。前の第一稿でもそうだったが、夏野の原稿は『銀河鉄道の夜』の中盤に当たる部分が省略されているため、途中で一気に原作の後半まで飛ぶ。
『また僕たち二人きりになったね、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもう本当にみんなの幸せのためなら、僕のからだなんか百回灼いたってかまわない』
『うん。僕だってそうだよ』
『だけど、本当の幸せって一体何だろう』
『それはさ、きっと苦しみがないっていうことだよ』
そう言って、後にカムパネルラは自殺する。原作が改変され、ただ苦しみのない状態を是とされることで、カムパネルラは自殺する。彼女が最初に見せてきた原稿も、これと同じ結末だった。そもそも俺は、この描写から、あの原稿を遺書だと判断したのだ。
けれどあのときとは違って、この原稿には、ある台詞が見当たらない。それは『銀河鉄道の夜』の中で、俺が最も好きな台詞だ。その存在を確認するために、開いた文庫本の右側のページを捲ってゆく。
『なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。』
文体は変えられていたものの、この場面は前の原稿にちゃんと入っていた。しかしながら、今回の原稿にはそれが見当たらない。
賢治の小説の、その次の鍵括弧。そこには青年の台詞が
『ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。』
それが答えになるのなら。もう、迷いなんていらなかった。
◆
朱い空気を、金管楽器が揺らしている。ゆったりとしたその音色は、世界を溶かしたみたいだった。
部室を出て、空中廊下を渡り終えると、本校舎の職員室前に出る。そこから程近い階段を上れば、選抜クラスの教室がある、三階に至った。二年の教室を廊下から一室一室覗いていくものの、残って談笑する生徒の中に、夏野の影は見当たらない。
一通り教室を見てから階段へと戻った俺は、昇降口を確認しようかと暫く逡巡する。上履きの踵には名前が書かれているはずなので、選抜クラスの下駄箱を見れば、学校にいるかどうかを確認できるはずだ。
しかし、俺は逆方向へと向かった。階段を上る。一段抜かしで、息を切らしながら。自分の教室がある四階さえも通りすぎて、さらに上へ。この階段に終わりがあるのなら、そこに彼女はいるのだと。根拠のない、確信めいた予感に縋って。
「フゥー、フゥー、」
果たして、彼女はそこにいた。
壊された南京錠。開け放たれたドア。ブレザーを脱ぎ捨てた彼女は、白い腕から朱く血を流し、屋上に膝を突いている。
漏れ出る彼女の細い息。片手にはカッターナイフ。画像を見たことはあったが、いざ現実で目にすれば、その光景は惨憺たるものだった。こちらを背にした彼女の朱と、夕陽の色が同化して、まるで時間が止まったようだ。夏野は俺の存在に気づく素振りも見せず、自らの手首を再度切ろうとする。
脳裏に浮かぶ、制止の言葉。
『痛くないの?』
『やめろよ』
『つらいことでもあった?』
『自傷行為なんて幼稚だ』
『それでお前は救われるの?』
その全部が正しくて、けれどすべてが偽物だった。
そんなありきたりで彼女を汚すべきじゃない。けれどこんな愚行は早く止めなきゃいけない。どうしようもなかった。ジレンマに囚われた、この感情に行き場はない。
教師を呼ぶか? それこそダメだ。偽りの権威を信じるほど馬鹿ではないし、そもそも誰かを頼るべきじゃない。そんなのは逃げに過ぎない。今、彼女を止めるべきは、俺だ。
「クゥ、……ッ!」
ナイフの銀が、彼女の荒んだ肌色に差し込まれる。痛覚に耐え兼ねたのか、彼女は握っていたそれを地面に落とした。白魚のような指の輪郭を血液が辿っていった。
カンッ、という音。如何な言語も必要ない。俺は駆け寄り、地面に落下した刃物を拾い上げる。手にしたそれをどうするか戸惑うが、ズボンのポケットに仕舞い込んで、ことなきを得た。
「みず、な、」
化粧で薄く整えられた顔。しかし近くで見ると、肌が荒れていることに気づかされた。吹きつける風が冷たい。脱ぎ捨てられたブレザーをできるだけ優しく被せてから、夏野の腕にハンカチを当てる。肩を震わせた彼女に対して、俺にはそのくらいしか為す術がない。
「痛い、なぁ……」
「当たり前だろ。手首切ったんだから」
やっと声を出せた。我ながら思いの外はっきりと発音できたように思えたが、しゃがみ込んだ夏野は、こちらに目線を合わせてはこない。
「死にたい、なぁ……」
その声は、今にも消え入りそうで、悲痛だった。いつからここにいたのだろう。真冬の空の下、ブレザーを脱ぎ捨て、肩を震わせて、乾燥した腕を切りつけて。馬鹿馬鹿しい。
彼女はハンカチを自分で押さえ始めたが、その呼吸は未だ荒いままだ。俺は、「思い切り息を吐け」とだけ言い、夏野の肩を両手で抑える。
「もう大丈夫」
そう言いつつも、夏野はしゃがみ込んだままで、立ち上がる様子を見せずにいる。おそるおそるといった様子で、彼女は自分からハンカチを離した。真新しい傷口の周囲には、幾つもの傷跡が残っていた。
「一応聞くけど、なんでこんなことしたの」
「はは。なんでかなー」
中空に目を遣り、そう口にする彼女。だが、この状況でしらを切るにはだいぶ無理がある。泳いだその眼を直視して、俺は後に続く言葉を待つ。
「……ていうかさ、水名くんはなんでここに来たの」
少しの沈黙の後、彼女は据わった目で、俺にそう問うてきた。あくまで俺の質問には答えないつもりのようだ。けれど、何も言ってこないよりは余程マシだろう。だから俺は、彼女の問いに答えてやる。
「助けに来たんだよ、おまえを」
こんな臭い台詞を口にする日が来るなんて、今まで思ってもみなかった。しかし、今はこう言うしかないのだ。
望みもしなかった展開。それが不本意なゆえか、自分の口角が歪むのを知覚する。夏野は俺と同じように口元を歪ませて、自虐的に吐き棄てた。
「面倒なんじゃないの。私なんて」
「おまえ、言っただろ。命に応えれば救われるって。だから、よろしく、って。……面倒だろうとなんだろうと、俺はその言葉に従ってるだけだ」
何かに受動的に従うのは楽だから、そうした。だから言えた。だから成し得た。その契約が、彼女を助ける動機になった。これで、ちゃんと筋は通っているはずだ。
「嘘。――君はいつもそうやって、自分に嘘をつくよね」
背筋にゾワッとした感覚が走る。別に自己欺瞞なんてどうでもいい。ただ、見通したようにそれを言い切った彼女が、何より恐ろしく感じられた。
「ねぇ、なんで?」
彼女は言葉を続ける。お互いの距離は、三十センチを切っている。
「なんで、突き放したり優しくしたりするの?」
潤み、充血した目。そこに浮かんだ水分は、まるで血溜まりのようだった。
「ねぇ、ほとんど全部が、水名なんだよ? ……この傷は握手を拒否されたときのやつ。これは、私の原稿を読まずに帰っちゃったときの。こっちは、その次の日に切ったやつ。どっちも水名が帰った後に部室で切ったんだ。気づかなかったでしょ、後始末はちゃんとしたから。あと、これは遺書に気づかれちゃったときのやつでさ。こっちのは、全部水名に話しちゃったときのかな。あれは恥ずかしかったなぁ。他人の台詞とはいえ、下品な言葉使うのは気が引けた。でもしょうがないよね、全部を言わなきゃ伝わらないもん。ちなみに、この浅いのは玉子焼きを拒まれたときのやつね」
愕然とした。本気で言っているのだろうか? 彼女の瞳はぐらぐらと揺れていて、焦点を失った様子でいる。その内側に、助けを乞うような、しかしすべてを呑み込むような、深すぎる闇を灯しながら。
体の中で、快と不快が波立っている。脈拍と同時に、自意識が肥大化してゆく。もしこのままはち切れたなら、彼女と一つになれるだろうか。馬鹿みたいな思考に、理性が支配されかける。
「ねぇ、水名。痛いんだよ。私、たぶん普通じゃないんだ。だからみんなとも上手くやれないし、だから、こんなところで血を流してる」
近い。こんな状況なのに、俺は彼女の熱に気を取られてしまう。漂うラベンダーの香りに、仄かに混じる血の匂い。脳の処理が追いつかない。身動き一つ取れやしない。
「なんとか言ってよ。水名」
血液の付着した左手で、夏野は俺に触れようとする。
動くしかない。言葉で止めるか? 後退るか? どちらの道にも光は見えない。
だから、その腕を、掴んでやった。
「痛い……」
「そんなの、俺だって痛いんだよ」
苦虫を噛み潰したような表情。彼女のその目は潤んだままで、どうしてそんなことを言うんだろうと、俺に訴えてくるようだった。
「おまえこそ、どうして、俺なんだ。どうして。文芸部以外にもあっただろ。俺以外にも、他にもいただろ」
本当に、どうしてこんなことしか言えないのだろう。救いの言葉なら、他にいくらでもあるはずなのに。胸が痛む。冷たさで死にそうだ。
「好き、だからだよ」
夏野は俺の言葉に戸惑いながら、曖昧に笑って、そんな台詞を口にした。その好きは、俺に対しての「好き」なのか、書くことに対しての「好き」なのか。
「……本当は、な」
どっちだって構わなかった。彼女の言葉は温かくて、嘘偽りがなかったから。その感情は何よりも、本物めいて聞こえたから。
「本当は、最初からおまえを助けたかった」
夏野の頬を、涙が伝う。
泣かせてしまったな、と、僅かばかりの後悔が来た。それを力強く噛みしめながら、静かに脈打つ感情で、続く言葉を声にする。
「おまえが普通じゃないことなんて、最初から分かってた。でもさ。俺だって、普通じゃないから」
俯いた彼女の双眸は、髪に隠れて目に見えない。固く結ばれた口元は、目に映る以上の意味を、俺に与えてくれなかった。
「鍵壊してまで屋上に来て、腕を切って、血を流して。わけ分かんないよ。分かんないけど。……けど俺は。そんな夏野を、美しいと、思うんだ」
それはきっと、俺の世界の内でのみ、意味を成す言葉なのだろう。今この場において、夏野は俺の一部に過ぎない。歪んだ個人の価値観に埋もれ、歪んだ個人の感覚によって、この世界の夏野波奈は正当化されている。そこに彼女の意思はない。そこに彼女の自由はない。俺は夏野を知れはしないし、俺は夏野になれはしない。心境を類推によって把握したとて、そんなのは俺の中の虚像に過ぎないのだから。だからこれは、俺に依拠して完結した、偽りの世界。そこに陳述された言葉は、俺が所有した、俺という世界に拘泥した、あまりに利己的な感情だ。
「こんな俺なんかがさ。……夏野を救いたいと思うのは、傲慢だろ」
自分の声が震えているのが分かる。その震えは右手にも波及して、掴んでいた夏野の腕を離してしまう。俺には、彼女を繋ぎ止めるだけの資格がない。
「傲慢だと思うのは、水名がこんな気持ちになったことないからだよ」
それなのに。彼女はきっと、未だに俺を求めている。
「違う、違うんだよ。俺がどうしようもなく落ち込んで、鬱になったって、それは夏野とは違うんだ。どうしたって、俺と夏野の感情は違ってる。別物なんだ。人間同士が分かり合うなんて、できっこないんだよ」
当たり前の話だ。「俺の人生」の中に、「夏野の人生」は収まり切らない。俺に、夏野波奈のすべてを知覚することはできないのだ。彼女が経験してきたことの全部は、俺には経験できないし、経験しようがないから。たとえ似たような体験をしたって、それは同じものではない。隣で同じ景色を見たとしても、微妙な視点の差異があるし、それを見て思うことは、全く別々かもしれない。だから、俺が彼女を助けても、根本的な救いにはならない。
「なのにさ。理由もなく、おまえを救いたいって思うんだ。俺は自分の世界から抜け出せないのに」
空を見上げる。雲一つない、冬の空。東の方で鳥が一羽、行く当てもなく飛んでいる。
どうしてこんなにもかなしいのだろう。胸の奥が冷たい。どこまでも続いてゆくような透明の藍に、心が浸り切っている。これもおぼしめしだと言うのか? 俺も夏野も、いつかは報われるのか? 本当の幸いなんて、果たしてこの世にあり得るのか?
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、」
心に重なってくる、ひんやりと透き通る声音。夏野が口にしたその台詞を、俺は確かに覚えていた。
「これ、好きなんだ。サウザンクロス駅で、ジョバンニが青年たちと別れた後の台詞」
「俺もだよ。でも、その結末は、」
「うん。ジョバンニが夢から覚めたら、カムパネルラは、友達を助けるために自分の身体を投げ打ってたんだよね」
そう。友人のザネリが川に落ちたとき、それを助けるために、カムパネルラは自らの命を犠牲にした。ザネリは散々、ジョバンニをからかっていた奴なのに。
「それが幸せだと、言わんばかりに、な」
カムパネルラの自己犠牲は、一つの命を確かに救った。しかし。それは本当に、誰かの幸せになったのだろうか。
「誰かのために死んだって、それが誰かの苦しみになるなら、そんなの無意味だよ」
「そう、だな」
「だから一人で死ぬ結末にしたの。苦しみのない状態こそが、きっと本当の幸福だから」
そういえばあの原稿は、そういう終わり方だった。カムパネルラは自殺して、ジョバンニがその死を知らないままに、あの物語は幕を閉じる。
「……だから水名もさ、抜け出さなくていいんだよ。それが、幸せなんでしょう?」
ああ。すべての苦しみはおぼしめしだとか、そんなのは答えにならなかった。どうしたって痛いんだ。そんな言葉でつらさを薄めたって、彼女は生きていられない。
だからあの台詞を消したんだろう? 夏野。
「水名は勘が良すぎるよ。私が死にたがってるとか、そんなの、気づかなくて良かった」
おまえはどうしたいんだ。一人で死ぬのが本当の幸せとか言って、そのくせ俺と関わって。そんなの矛盾してるじゃないか。
「ねぇ、意味なんてないんだよ。この空みたいに、なんにも、ないんだ」
空を見上げる。暗さを増した、冬の空。鳥は星にでもなったのか、どの方角にも見当たらない。この大気を抜け出せば、そこはがらんどうなのだろう。――けれど。
「……いや、見えるだろ。雲一つないからこそ、何かしらが」
涙に濡れた夏野の顔は、もはや着飾られたそれではない。しかし同情も哀れみも、この空間には必要なかった。人生には意味がない。一人の世界にいればいい。彼女がそう断じたとしても。――俺は決して、そうは思わない。これが俺だけの世界だというのなら、壁を壊してでも伝えてやる。必ずおまえに届けてやる。
「今だって見えるんだよ。病気だからさ」
そう。確かにそこには浮いているのだ。あまりに邪魔な、透明の線。意識するほど見えてしまう、眼の病気が。
「そんなの、偽物だよ。本当の空はなんにもない」
「夏野には見えないの?」
「見えない、見えないよ」
「じゃあ聞くけど、今の空は何色なんだ」
彼女は答えない。答えれば、そこに色があるのを認めることになるから。
素直な夏野なら、空色と答えて誤魔化したりはしないだろう。だってこれは、一般に言われる空色なんかじゃない。夕焼けの朱と、心を溶かしたような、藍なのだから。
「水名。水名は、眼に囚われすぎなんだよ」
その言葉と同時に、彼女は立ち上がったかと思われたが、体勢を変えただけのようだった。彼女は向き合うようにして、俺の肩を掴んでくる。
「それが邪魔なら、私が取ってあげるから。だから、そんな偽物に囚われないでよ」
グイ、と身を寄せられる。どこか悲しげな彼女の目が、俺を捉えて離さない。
「水名、近くで見たら、いい顔してる」
首の後ろで、彼女の腕が絡んでいる。上気した頬。羽織っていただけのブレザーは、もうとっくに落ちていた。ブラウスの輪郭は、自分にはない丸みを帯びていて、こちらの身体を硬直させる。冷たい外気の中で、彼女の熱だけが生きている。
馬鹿にできない。呑まれる。今この場において、俺は彼女の対象に過ぎない。この世界はもう、彼女の所有物だった。
思わず視線を上へと戻せば、尖った舌が、俺の方へと向かってきていた。赤い舌の先端が、こちらの瞳を捉えている。眼球の細胞が、彼女の呼吸を知覚する。押し寄せる不快感から半ば反射的に瞼を閉じるが、そんな抵抗に意味はない。あの舌はきっと、瞼さえ捲って入り込んでくる。今に器官同士が接触する。もはや、ここには逃げ場がない。
けれど、俺は場違いにも、彼女の呼吸を感じて思った。
――ああ、なんて、かなしいのだろう。
予防線を破るのはいい。肉体の接触を悪だと言うつもりはない。ただ、夏野がこんなことをしているのが、本当にとてつもなくかなしかった。何故だか俺には、彼女が衝動に身を委ねているのは、不本意であるように思えたのだ。それは錯覚かもしれない。それは勘違いかもしれない。しかし、もしそうだとすれば。彼女のそれは間違いなく、本当の幸いを目指す行為ではなかった。
引き剥がす。夏野の身体を。俺の中の雑念を。拒絶と取られても構わない。ここで彼女を受け入れてしまえば、きっと、取り返しがつかないほどに傷つけるから。
上半身を仰け反らせ、腕に全力を注ぎ込む。彼女の肩を強引に押し出し、呑み込まれそうだった自我を、自分の心を取り戻した。
「……おまえ、とんでもないビッチだな」
彼女は抵抗をしなかった。俺が意図せず吐き出した言葉は最低のものだったが、真っ先に頭に浮かんだのがそれだった。だが、もうそんなのは、仕方がないと割り切るしかない。眼球を舐められるところだったのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
夏野は目を伏せ、自嘲げに呟く。
「……これをビッチって言葉で済ませちゃうのも、相当すごいよ」
言い終えた後の微妙な笑顔には、何かを諦めたような感情が強く出ていた。俺はそれを見て、終わったんだ、と思った。具体的に何が終わったのかは分からない。実際には何も始まってすらいなかったのかもしれない。けれど明確に、俺は泥のような陶酔に負けなかった。
だけど、だからって、俺はちっともすごくなんてない。許されざるべきは、夏野ではなく俺の方だ。俺の浅慮な発言が、夏野の心を傷つけていた。
自覚の有無に関わらず、それは簡単に許されるべきことではないのだ。もし彼女が望むなら、俺たちの関係は、一切断たねばならないほどに。
しかし俺には、彼女が腕を切ったそもそもの原因は、俺とは無関係のように思えていた。おそらくは彼女も、俺が消えることを望んではいないのだと。
虫のいい、おためごかしの考えだろうか。たとえそうだとしても、今は隣にいるべきだと思った。俺が今、彼女に対してできるのは、きっとそれだけだから。
長い沈黙の後、夏野は口を開く。
「今日さ、」
俺は軽く頷いて、続く彼女の言葉を待った。
「グループで一番仲よかった子にね、『偽善者』って言われちゃったんだ」
ああ、やはりな。そう思った。彼女にとって、それは何よりつらかったのだろう。そう思った。それを聞けばこの胸は、確かに冷たく痛むのだ。もし、その痛みを口にしたら、彼女に共感の意を示せたかもしれない。けれど俺には、どうしたってその痛みを感じ切ることができなかった。どうしたって、浅い共感しかできなかった。だから俺は、痛みを共有し切れない。俺は彼女のことも、彼女の周囲のことも、詳しく知ってはいないから。
……それでも、だからこそ俺は知りたいのだ。疑うことをせず、信じることで。彼女の言葉を、彼女の表情を、彼女と共鳴できる可能性を信じることで、俺は知りたい。
――その先にある、本当の幸いを。
「あの子だけは味方してくれるんじゃないかって、期待もしてたの。彼女だけは何も言ってこなかったから。なんだろう……。馬鹿みたいだけど、それこそ、ジョバンニとカムパネルラみたいに、さ」
「ああ……」
「でも、不思議と後悔はないの。化粧してたのを生徒指導部に自首すればよかったとか、もっと誠実になればよかったとか、そういう気持ちは全然。リスカだって、別にもうしょうがないよねって感じ」
正直未だに、彼女の行為に何の意味があるのかは分からない。精神が安定するとか、苦しみが薄まるとか、そんなの、俄かには信じ難かった。だからこういう奴に対して、第三者が『二度とこんなことをするな』と言うのは、きっと何より簡単なのだ。
けれど。
「まあ、馬鹿だとは思うけどさ。それで苦しみを薄められるなら、ほどほどにやればいいんじゃない。……俺には見えないところでな」
けれど俺は、そんなに簡単な男ではない。言葉で人を束縛して、それで安心できるほど、俺は素直でも愚直でもないのだ。大体、そのぐらいは許してやらなきゃ、夏野は夏野でいられないだろう。
「……私だからいいけどさ。そういう言い方、他の女の子にはやめた方がいいよ」
彼女のその言葉に、俺は思わず苦笑してしまう。
「夏野ならいいんだ」
「まぁ、ね。水名はそういう人だって、もう大体は分かってきたし」
彼女は微笑んで、それに、と口にする。
「それが水名の本心なら、私はきっと、耐えられるから」
その言葉は、俺に力強さを感じさせた。そんな表情もできるんだな、と思う。俺に打ち明けることで、彼女は何かを決意したのかもしれない。
その笑みを眺めていると、俺はようやく気づかされた。
きっと俺は、今まで彼女を疑っていたのだ。だから俺は自分を騙して、自分の感情に嘘をついて、彼女に自分を見せずにいた。夏野は自分とは違う、異なる世界の人間だと。そう盲信して、どこかで距離を取っていた。きっとそれこそが、一番彼女を傷つけたのだ。
そう思い至ると、熱くて重みのある罪悪感が襲ってきた。それはしかし、本当の自由のようでもあった。
すべてが繋がったような感覚がした。もしかしたら、俺の天邪鬼な性格とか、どうしようもない自己欺瞞を、彼女は、ずっと指摘してくれていたのかもしれない。
それは考えすぎだろうか。けれども確かに、彼女は言ってくれたのだ。
本心だったら耐えられると。疑ってばかりいた、俺に対して。
「……それ、約束してもらっても、いい?」
俺がそう口にすると、彼女は変な笑い方をした。
「水名が約束って、面白い」
「なんで、別に面白くはないだろ」
そう否定したが、彼女は頬を緩めたままに、綺麗な右手を差し出してくる。わざわざ握手をするつもりなのだろうか。別に、そこまでは求めていないのだが。
「私、夏野波奈っていうの。よろしく」
「いや、知ってるけど」
「知ってるけどじゃなくて!」
なんだと言うのだろう。今更自己紹介なんて、面白くもないし馬鹿らしいだけだ。
「私、水名に自己紹介してもらってないし。……下の名前も、知らないし」
……まぁ、約束をするなら、確かに名前は大事なのかもしれない。言われてみれば、片方だけ知っているのも不公平に思えた。どうせだし、名前ぐらいは教えてやっても構わない。
「……えっと、
手を差し出せば、彼女は満足げに笑顔を溢し、それを握り返した。その仕草を、俺は不覚にも可愛いと思ってしまう。
彼女は握った手をなかなか離してくれなかった。億劫に感じながらも、折角だから、ここで言うべきことを言っておこうと思った。
「俺、気が利かないところあるからさ、これからも傷つけることがあるかもしれない」
「うん」
「けど別に、夏野が嫌いとかそういうのじゃないから。傷ついたなら、言って欲しい」
「うん」
「……なんだ。その、今まではごめんな」
気恥ずかしくて俯いてしまう。俺が謝るのは意外だったのか、俺の手を握る彼女の力が、静かにすっと弱まった。だけど別に、今更こちらから離すつもりもない。
「けど、きっとさ。これまでのこと、何も間違いじゃなかったと思う。おまえの痛みも、俺の苦しみも、全部間違いなんかじゃない。……そう、思えるように、なりたいんだ」
「うん、そうだね」
自ら口にしたその言葉は、きっと何より確からしかった。どう足掻いたって、つらいときはつらいのだ。それでもきっと、何も間違いじゃないと思える日は来る。俺はその予感を、確かに信じている。
「だから、あれだ。……俺たち、本当の幸いを探しに行こう」
それを口に出すと、俺は顔が赤くなるのを自覚した。どうしてこんなことを言ってしまったのだろう。なんか、とんでもなく恥ずかしかった。
けれどその言葉だって、きっと何も間違いではないのだ。それはもう、違う物語のものではない。今の俺たちには、何より相応しい言葉なのだから。
「……うん、探しに行こ」
夏野の手が離れる。しかし、すぐに小指を取られて、強引に指切りをさせられた。わざわざしてきた握手といい、もしかしたら彼女には、結構子供っぽいところがあるのかもしれない。
子供っぽい、で思い出す。あまりに突拍子がなくて、引っ掛かっていたことを。
「あー、けどさ、言っとくけど玉子焼きは塩一択だから」
「……え? なんで今そんな話するの」
「別に、これは本心だからだよ。頼むから、玉子焼きでリスカはやめてくれ」
彼女はきょとんとしていたが、俺の声を聞いて、飛び跳ねるように言葉を返した。
「……いや、もうしないから! ていうか、あのとき断ったのって塩派だからなの⁉」
そんなことも分からないまま、ただ拒まれただけで腕を切ったのか。何というか、こいつは本当にヤバい女なのかもしれない。先が思いやられるし、明るい未来が全然見えない。
でもまぁ、別にそれでもよかった。
たとえ今が泥だらけでも、これから泥濘を潜るとしても、俺たちが生きている限り、そこを抜け出せる日はきっと来るから。雨に洗われて、風に晒されて、それでも負けずに立っていれば、きっと。
立ち上がって遠くを見れば、ずっと向こうに綺麗な雲が浮いていた。陽はほとんど沈んでいて、冬の空は、いっそう深みを増している。
これから歩いて行くのは暗い夜道なのかもしれない。とある作家の故郷のように、極めて灯りの少ない場所で、俺たちは迷い続けるのかも。
でも別に、暗くたって構わない。この先で、夜を渡ることになろうとも。
本当の幸いを探しに行く。そう誓ったこの場所は、どんな青春よりも深くてかなしい。
なればこそ。その夕暮れはきっと、朝焼けに等しかった。
◇
ジョバンニが云いました。「僕もうあんな大きな
(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』)
拘泥世界内感情 雲崎四花 @4stead
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