●シーン5● 止められない憧れ

「どういうことですか?」


 キリンの純朴な問いに、オオカミはふふっ、と軽やかに笑う。


「ほら、まさしく今が推理のしどころじゃないのかな?」


 オオカミに促されて、キリンは視線を落とした。食堂にはまるまる一分間の静寂が訪れる。


 キリンにとって、推理は楽しく、喜びにあふれたものだ。


 そのあいだだけは、自分があの「ギロギロ」になれた気がするから。

 真実を暴き、悪を挫く、正義の名探偵になれた気がするから。


 でも、この「推理」はこれっぽっちも楽しくない。


 むしろ、とても苦しい。こんな推理したくない。推理が進むにつれて、まるで海に潜るみたいに、どんどん息ができなくなっていく。胸の奥がえぐられるような痛みがある。


 どうしてこんな気持ちになるのだろう?


 そう、それは――わかっているから。

 わかっていた。私はわかっていた上で、目をそらしていたんだ。


 こんなに簡単な推理はない。推理するまでもない。

 だって、答えは――真実は、自分の中にあるんだから。


 彼女は声を絞り出す。


「私が、探偵としてまだまだということでしょうか?」


 オオカミは何も言わず、じっとキリンを見つめている。


「この絵――先生がいちばん最初に描いた『ギロギロ』。これが私。つまり私は、まだなにも知らない、未熟な探偵ということ。そうなんですね」


 一対のオッドアイは、なにも言わない。

 でも、なにも言わないことが答えになっていた。


 ひときわ大きく、ずきりと胸が痛む。

 涙が一筋、頬を伝った。


「キリン」


 オオカミはキリンのそばに寄り添い、ぽんと頭を撫でる。


「いいかい? 私はきみのことを、ただただ未熟と言いたかったわけじゃない。どうか、聞いてほしい……」


 キリンは目をごしごしとこすって、ゆっくりと顔を上げた。


 ――数日前のこと。タイリクオオカミはアリツカゲラにとある相談を持ちかけていた。


 自分の描いた漫画がきっかけで名探偵に憧れたあの子を、本当の意味で名探偵にしてあげたい。


 そのために、なにかできることはないだろうか?


 そして導き出した結論は、しっかりとあの子に伝えること。


 もしかしたらあの子は、ひどく傷つくかもしれない。前に進むことができずに、うなだれてしまうかもしれない。


 でももしそうなってしまったら、私がフォローすればいいじゃないか。

 せっかく一緒のなわばりに住んでいるのだから――


「オオカミ先生」と、キリンが言う。


 そのとき、オオカミはハッとする。


 この子はすっかり落ち込んでしまっていると、私は思っていた。


 現実を突きつけられて、感情的になってしまうかもしれない。口を聞いてくれなくなってしまうかもしれない――そう思っていた。


 キリンの目は、しっかりと火を灯している。しっかりと瞠いて、私を見ている。


「先生は、どうやって上達したんですか?!」


 思いもよらない質問。

 思いもよらない、眩しい輝きを持った声。


 少し戸惑いながらも、オオカミはゆっくりと答えた。


「そうだね――とにかく、たくさん描いたよ。そしてよく観察した。私がいつもふざけて『いい顔』をいただいていると思ったかい? フレンズたちの細かな表情を知ることは、絵の上達には欠かせないんだよ」


 なるほど、とキリンは納得したようにうなずく。

 その白い頬は涙の跡で濡れていたが、もう泣いてはいなかった。


「先生! 私、どうしたら名探偵になれると思いますか?! 知りたいんです! 方法を! どうか教えてください!」


「おいおい、私は作家だよ。方法なんて――」


「じゃあヒントだけでも! どんな小さなことでもいいです! オオカミ先生ならきっといろいろ知って――」


 その藁にもすがるような聞き方に、オオカミは思わず吹き出してしまった。


「ど、どうして笑うんです?」


「ごめんごめん。べつに馬鹿にしているわけじゃない。ただ、安心したんだよ」


「安心?」


「ああ。もしかしたら、現実を突きつけられてきみが諦めてしまうんじゃないかとも思ったんだ――でも、まったくの杞憂だったみたいだね」


 キリンは椅子から立ち上がって、両手をぎゅっと握る。


「当たり前です! た、確かにショックでしたし、なんていうかこう――胸が苦しくなりました。でも、私の『ギロギロ』への憧れは誰にも止められません! たとえオオカミ先生であっても!」


 オオカミは大きくうなずいて笑った。


「うん。それでこそアミメキリンだ」


 キリンは「えへへ……」照れくさそうに笑うと、さっきまでオオカミが見ていた半月に目を向ける。


「それに、オオカミ先生は私のためにこの絵を見せてくれたんだって、ちゃんとわかってますから。私のために、正面から指摘してくれているんだって、わかってますから。だから……私も逃げずに受け止められたんですよ。たぶん」


 オオカミもまた、キリンと同じ窓から月を見上げた。何度見ても、きれいなレモン色の半月だ。


「そうだな――名探偵になる方法はわからないけど、一緒に考えることはできる。それにちょっとした知識くらいなら、『ギロギロ』を描くときに調べたからね」


「ほ、本当ですか?! ぜひ!」


 それからオオカミは今までに描いた「ギロギロ」の原稿や、参考資料として図書館から借りている数冊の本を自分の部屋から持ってきた。

 資料を取りに行くあいだ、ばったりアリツカゲラに会わなくてよかったと、オオカミは思った。


 こんなふうにだらしなくにやけた顔は、誰にも見られたくないものだ。


「キリンのためだ。今日はとことん付き合うよ。名探偵になるためになにが必要か。そしてどうすればよいか。答えを出そうじゃないか」


「はい先生! よろしくお願いします!」

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