第3話 微笑んだお月さん
それは寒い朝のことでした。
いつものように起きて、いつものようにコーヒーを淹れて、そして、いつものように朝刊を開きました。
当たり障りのない記事ばかりに少々うんざりし、朝刊を読むのをやめました。
後ろの窓を振り返りますと、まだ外は真っ暗です。
それもそのはず、まだ夜が明けていないのです。
いつだったか、バイクの音がしたので、階下にある門の前に降りて、新聞配達の青年がバイクを転がしてくるのを待っていました。
ご苦労さん。
おはようようございます。
いつもありがとう。
こちらこそ。
そんなたわいもない会話に気持ちをほっこりさせた時がありました。
ある日は、バイクの音が聞こえて、門のところで待っていたら、こんなに暗いのに、ヘッドランプをつけてジョギングしている中年男性に会いました。
ヘッドランプでよく見えなかったせいもありますが、ついぞ見かけたことのない顔です。
アパート住まいの人かしらって思いつつ、言葉をかけました。
おはようようございます。
あっ、おはようようございます。
たったそれだけの会話で、中年男性は走りを止めることもせず、先へ先へと行ってしまいました。
こんな日もありました。
新聞受けにあった新聞を受け取り、階段を登って玄関に向かっていた時でした。
誰かが私を見ているって、そんな気配を感じたのです。
自然、階下にいる私は前方の中空に目が行きます。
レンガの壁の向こうに、大きなお月さんがかかっていました。
まん丸の、光り輝くお月さんです。
そういえば、夜明けはまだだけど、今朝は随分と明るいと思っていた矢先だったのです。
君か、世界をこんなに明るく照らしていたのはって、私、心の中で呼びかけたのです。
すると、お月さん、私の心に囁いてきたのです。
おはよう。今日も一杯のコーヒーを手にして、新聞を読むのかい。
そうだよ、今日も一日のコーヒーを淹れて、新聞を読むよ。
よくもまぁ、飽きずに、新聞を読むね。
だって、面白いですから。世の中のことがいろいろと書いてあって。
そうかい、当たり障りのない記事ばかりではないのかね。
おやっ、お月さん、私の心を読んでいるって、私、ちょっと困惑してしまったのです。
そうだ、お月さんって、私、また心の中で、話題を変えようと言葉を発しました。
昔の話なんですけど、唐の都長安で、一人の男に出会ったでしょう。
お月さん、無言です。考えているようです。
ですから、酒好きの、相伴するものがいないからって、あなたを誘ったサマルカンド人ですよ。
彼、洒落たことを言いましたね。
あなたと自分と、自分の影と仲間が三人になったって。
おうおう、思い出した。
勝手なことを言いよる奴だった。
自分が歌えば、私が歩き回るって、舞えば、影が揺らめくって、私も影も無情のやからだってほざいていた。
無情っていうのは、感情がない、生きていない、そんなものを言うときに使う言葉だ。
失敬にも、そんな風に私のことを歌ったんだ。
でも、可愛いところがあるのだ。
奴は、皇帝のそばに仕えることにうんざりしていた。だから、おべんちゃらと無意味な微笑みがまかり通る宴席をそっと抜け出して来たんだ。
そして、私を中空に認め、私と影と三人で飲んだんだ。
悲しい哉、奴はその後宮廷を去った。
それからだよ、私と奴が心を通わしあったのは。
人間ばかりではなく、月にも、感情があるってわかったようなのだ。
「長安一片の月 万戸きぬたを打つ音」
私は、中空に掛かるそれではなく、長安の街を覆う月明かりになったのだ。
私は、書斎に戻り、大窓のブラインドをたくし上げて、一杯のコーヒーをあのお月さんにかざして、乾杯の素振りを見せたのです。
そして、あのサマルカンド人の一句でもって問いかけたのです。
「月に乗じて 宵 夢に託す」って。
自分の思いを月に乗せて、至るところに届けておくれよって。
私の心の中に、月からの返答はありませんでした。
「青楼寂寂として空しく明月」と、私は愕然として囁いたのでした。
そして、天空に輝きを放つお月さんを眺望したのです。
そして、かすかに、お月さんが微笑んだって、私、思うことにしたのです。
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