第2話 抱かれて息のつまりし


   雪というのは、雪の滅多に降らない土地に住む者にとっては、一種の秘めやかな香りを伴って、押し寄せてくるものです。

 

 外の景色が一変します。

 何もかもが白一色に変じるのです。

 

 しかも、外に出るにいささかの勇気がいります。

 滅多に雪の降らない地域では、雪への備えがないからです。

 靴という靴はこれでもかというくらいに滑ります。

 雪の降る世界を歩き回るにも、頭や肩に積もる雪を防ぐ手立てがありません。

 

 だから、ガラス窓のくもりを指のひらでそっとなぞって外の世界に見入るのです。

 そして、秘めやかな香りがじわっと、心に押し寄せてくるのです。

 

 そんな日、気にかかっていたこと、そして、それが今も続いているひとつの句が思い出されるのです。

 

  下京や 雪つむ上の 夜の雨

 

 『去来抄』の記載によれば、当初は「此句初め冠なし」の句であったとあります。

 つまり、最初の五句がなかったのだというのです。

 

 作者は、凡兆。

 芭蕉の弟子ではありますが、芭蕉よりも幾分年長であった方です。

 それを、芭蕉が、「下京や」を提案すると、凡兆は「あ」と言って黙ってしまったというのです。

 

 これが気になっているところなのです。

 

 「あ」には、凡兆のいかなる心理が働いていたのかということです。

 さすが、師のおっしゃることは違うと納得したのか、それとも、そうはおっしゃるけれど、ちょっと違うんだよなって思ったのか。

 

 さらに、芭蕉はたたみ重ねるように言葉を発します。

 「これ以上の句があれば、我は俳諧を辞める」と。

 

 なぜ、そうまで芭蕉は凡兆に強硬に出ていたのかって、これもまた気になることなのです。

 

 下京は、京都駅前から二条通りまで一帯の地名です。

 中京・上京が貴族の住まいが多くあったのに対して、下京は職人や町衆が多く暮らす一帯でした。

 だから、庶民の家々の屋根に雪が積もり、それが次第に雨に変わるという情景に、少なからず庶民的な風情が漂うことは、現代の我々にもよくわかります。

 

 では、なぜ凡兆は「あ」って言ったのでしょうか。

 そして、芭蕉は自分の発句をこれでもかと強く推したのでしょうか。

 

 私、そこに、人間の根底にある「心」を見て取っているのです。

 

 芭蕉は、弟子の作句の素晴らしさに嫉妬している。だから、下京などという地名を発句に推挙し、これ以上はないと言い放つのです。

 誰も師の言葉に異を唱えるなどできはしません。

 

 凡兆は、「あ」と言って黙ることで、一種の抵抗を試みるのです。

 

 「あ」には、師に対するおもねりが見て取れます。

 そこには気が付きませんでした、さすがに、芭蕉先生ですという作られた動作です。

 

 そして、沈黙は、そうは言っても、あまりに凡庸すぎるぞっていう彼の思いが沈黙となって現れるのです。

 

 それを去来は、冷徹な目で見逃さなかったというわけです。

 凡兆は、晩年、芭蕉の元を離れて、それがためかどうかはわかりませんが、随分と苦労したようです。

 華々しく各地を巡り、芭蕉師ともて囃されたのとは異なり、凡兆はひっそりと、それも日々の生活にも苦労しながら、作句をしたと言います。

 

 私、そんな凡兆のような人に、いつも同調するのです。

 

 男がその心にライバル心とか闘争心とか、見栄を張り合うのに比べて、女性の句歌には秘めやかさがほのかに、いや、これもでかというくらいに漂っています。

 

 外の寒さで曇り切ったガラス窓に、そっと指を当てて、なぞります。

 「雪はげし 抱かれし 息のつまりしこと」


 橋本多佳子の句です。

 

 俳諧人も歌詠みも、日本の女性作家はどうしてこうも情熱的なのかと、「柔肌の熱き血潮に触れもせで」と詠んだり、「夜しんしんと女の幸の在りどころ」なんて、歌うのですから。

 

 晶子も、林ふじをも大胆で、率直です。

 

 はて、橋本多佳子は、息のつまるまで、誰に、何に、抱かれたのかって、そとの光景を、窓の向こうに、私は見つめるのです。

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