抱かれて息のつまりし

中川 弘

第1話 青い空に負けそうだ


 

 いつも不思議に思っていることがあります。

 江戸の時代、人々はどうやって暖を取っていたのかって。

 

 例えば、大石内蔵助。

 討ち入り前に、主君浅野内匠頭の奥方瑤泉院のところに伺います。

 今の広尾、その地下鉄の駅からすぐのところに、有栖川宮公園があります。その近くにある南部坂と呼ばれている場所に瑶泉院の屋敷がありました。

 

 その日は雪が降っていました。

 大石内蔵助は、瑶泉院に暇乞いの挨拶をしに来たと告げます。

 殊勲の仇討はしないと言うのです。

 もちろん、瑶泉院に仕える女中に、吉良の手先がいることに気が付いての方便ではありましたが、それは伝わりません。

 大石にとっては、それでいいのです。

 しかし、瑶泉院の反感を買ってしまいます。

 

 蔵之介は、屋敷から出てきて、高下駄をつっかけて、雪の降る中、番傘をさして去っていきます。

 

 芝居や映画などで、その立ち姿を見ていますと、幾らかは厚着をしているようですが、果たして、そんなんで雪の寒さを防げたのかと不安に思うのです。

 

 安政七年三月三日も朝から牡丹雪が舞っていました。

 雛祭りの日です。

 在府の大名たちは、この日、祝賀のために登城をします。ですから、江戸の市民たちは、『武鑑』なる冊子を手にして、登城する大名たちの行列を眺めるのを楽しみにするのです。

 

 彦根藩邸の門が開きました。

 桜田門をくぐるまで、半キロほどの、そんな距離に彦根藩邸はありました。

 この頃、雪は小雨交じりの雪になっていました。

 彦根藩の供回りの侍たちは、厚手の油紙で出来た合羽を着て、刀の柄は濡れてはならぬと雨よけで覆われていました。

 五百メートルほどの距離を仰々しく行くさなか、あの「桜田門外の変」が起こるのです。

 

 そんな折、『武鑑』を片手に、大名行列を見ていた人々は、雪降る中で、どのような姿をしていたのか、どうやって寒さから身を守っていたのかと気になるのです。

 ももひきだけではあの着物姿ではきっと寒かったに違いないって。

 

 明治になっても、東京の冬は、雪がたくさん降りました。

 記録によれば、明治九年一月には、氷点下九・二度を記録したようです。これは、東京の史上最低気温になっています。

 

 そういえば、子供の頃、東京には、雪は随分と降っていたことを思い出します。

 

 あの時の家の暖房ってなんだったろうと、記憶の糸を手繰り寄せます。

 そうだ、コタツがあった。

 電気コタツです。あの赤くなる赤外線のやつです。

 反射鏡のついた石油ストーブはあったかしら、いや、それはもう少し時代がいってからだ、あの頃あったストーブは、天板で煮炊きができる丸いストーブだったと、記憶がつながります。

 

 親が、コタツのスイッチを入れて、ストーブを焚いてくれて、部屋を閉め切って暖めてくれて、そこで着替えをしたことも思い出されました。

 

 この日、つくばにも雪が降ると言う予報が出ていました。

 なんでも、冬将軍がやってくると言うのです。それも強烈な将軍だと言いますから、私、朝からそわそわしていたのです。

 雪が降れば、コアラの国の、雪を知らない幼な子のGOKUにラインをして、見せてやろうと、そう思って、今か今かと待っていたのです。

 しかし、次第に、晴れ間が出てくるではないですか。

 バルコニーに出て、空模様を伺いますと、すっかり青空、典型的な冬の澄んだ空が広がっています。

 

 正確さを誇る日本の気象予報も、この度は外れたようだと、がっかりしたのです。

 

 こんなに天気がいいなら、家にいる必要はない。

 出かけよう。


 私はおろしたてのシューズの紐をきつめに締めて、外へ出ました。陽光が降り注ぎ、目的地に着く頃には、着ていた上着を脱ぐ始末です。

 セーター一枚で、コートを小脇に抱え、私は書店に入ったのです。

 

 買うほどの本も見つからず、あまりの天気の良さに、遠回りをして帰ろうと私は街の道を足早に進みました。

 商店街を抜けて、芝ばたけの道を進み、うっそうとした林の小道を恐る恐る通り、外国人の働き手が白菜を収穫する畔の道を、人懐っこく笑みを浮かべてあいさつをしてくる彼らに笑みを返しながら、私は、歩いたのです。

 

 一陣の風が、私の頬をさっと切っていきました。

 おやっと、空を見上げますと、筑波山の山の上に大きな黒い雲が出ていました。

 その雲は、やがて東の空を覆うほどに広がっていきます。

 こりゃ、早くに戻らないと、ひと雨来そうだと、一気に冷たくなった外気から身を守るために、私は手にしていたコートを羽織ったのです。

 

 顔の前を、小さな雪が舞ってきました。

 私は空を見上げました。

 北から東にかけて空を覆った雪雲からこの小雪が舞っているのです。

 南から西にかけては青空です。

 

 この冬将軍、青い空に負けそうだなって、私思いました。

 

 時代とともに、冬将軍もその力を失いつつあるんだなぁと、一抹の寂しさを懐に抱きつつ、私は、百八十度見渡せる田畑の畔の道の上で、舞い散る小雪を浴びていたのです。

 

 それにしても、昔の人は、どうやって、寒さに対応していたのだろうか。

 まさか、体が寒さに適応し、薄着でも一向に構わなかったのかしらって、そんなことを思いながら、家路を急いだのでした。

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