第145話 意志の集結

 イゼットたちのために血路を開いたメフルザードは、天上人アセマーニーたちの来襲を遠くから目撃していた。ちょうど、引きつけ役も終わりかと判断して、いったん身を隠そうとしていたところである。邪魔をしてきた一人を剣の柄で黙らせたとき、空を覆う光に気づいた。イゼットとルーが走っていった方向に、スコールのように降り注ぐ白光。非現実的ながら凄惨な光景に、メフルザードは唖然とした。


 忘我の時間は長くない。すぐに己を取り戻した男は、黒衣の輪をすり抜けるようにして包囲網を脱した。その直後に立ち止まり、振り向くと同時に血まみれの剣を受け止める。男の逃走に気づいた一人が、しつこく追ってきたようだ。剣を弾き、相手の腹に膝蹴りを叩き込んで、メフルザードは体を翻す。荒野を走り抜けながら、彼は思わず舌打ちをこぼした。


「何が天上の人だ。悪魔よりもよっぽど質が悪いじゃねえか!」


 走りながら方向転換したメフルザードは、大きな岩の陰に駆け込む。不審な音を聞いたのは、そのときだった。虫の羽音のような、それにしては大きく硬質な音。問答無用で鼓膜を刺激してくるそれに、男は思わず顔をしかめる。


 だが――不快感はすぐ、より大きな驚きに塗りつぶされた。


 不審な音が聞こえなくなった直後、荒野の中に突然人影が現れたのだ。しかも、一人や二人、五人や十人どころの騒ぎではない。何事か、と目をこらしたメフルザードは、息をのんだ。彼らの服装と、掲げる旗を見て正体を察する。


 力強い雄叫びが、大気を震わせた。突然現れた「騎士」たちが、自分たちを奮い立たせるかのような叫び声。そのただ中で立ち尽くしていたメフルザードは、我に返ると頭をかいた。


 雄叫びの余韻が消える前に、メフルザードは人の群れに背を向ける。――うっかり見つかって面倒事になる前に、弟子たちの無事を確認しにいこう、と心の中で呟いて。



     ※



 イゼットはのろのろと顔を上げる。子どもの後ろ姿が目に入った。白い髪と肌を持ち、白い長衣をまとった子ども。彼もまた、人の形をした人外だ。


 天上人の『反逆者』たちに無音で向き合っていた子どもは、ふいにイゼットを振り返る。こちらに向ける無機質なまなざしは、だが心なしか温かいような気がした。


「フーリ、さん」


 イゼットは、あえぐように名を呼ぶ。すると彼はわずかに頭を傾けて、目を三度ほど瞬いた。


「シャハーブの元に移動したら、聖教本部の中だった。そこで少し人間たちともめていたから、時間がかかってしまった。申し訳ない」

「あ、い、いえ」

「異常はない?」

「多分……」


 自分の胸元を見下ろして、イゼットは弱々しい声で答える。語尾がしぼんでしまうのは、自分の身に何が起きたのか、自分でも理解しきれていないせいだった。だがフーリは彼の困惑など歯牙にもかけず、「ならよかった」と前を向きなおす。


「さて。天の庭に叛いた者たちよ」


 語る声が、一気に冷えた。何に例えればよいかもわからない平坦な音は、まさしく天上人アセマーニーのまとう冷たさだ。


「そろそろ、君たちには処分を下さねばならないね」

「――我々は、天の庭から離れた。よってその意志に従う義務はない」


 相対する一人が、言葉を返す。少しだけ、揺らぎが感じられた。それを感情といってよいのか、イゼットにはわからない。思わずフーリを見たが、彼は『反逆者』たちの言葉を淡々と切り捨ててしまった。


「君たちの主張は関係ない。我々〈使者ソルーシュ〉は、反逆者への対処を天の庭より一任されている」


 白と白が、にらみあう。


 静けさがあたりを包む。異様な空気の中、イゼットは立ち尽くしているほかなかった。――少しして、誰かに肩を叩かれ、イゼットは飛び上がる。弾かれたように振り返ったその瞬間、陽の色の瞳は秀麗な男の顔を映し出した。


 何も持たぬ旅人、と自称するその男は、思わず名前を呼びかけたイゼットを手で制する。悪戯っぽく笑い、唇に人差し指を添えてから、前へ踏み出した。


「お取込み中失礼いたします、天上人アセマーニーの方々」


 芝居がかった言動で彼、シャハーブは沈黙を打ち破る。透明な視線が自分に集中したその一瞬、彼は目もとに稚気をのぞかせた。


「フーリ。かつて『夜の杖』が出現した場所を覚えているか」

「記憶しているよ。そこに君たちを飛ばせばいいんだね」

「そうだ。頼む」


 言うだけ言って、青年はイゼットを手招いた。彼がシャハーブに駆け寄ったところで、フーリは無言で手を挙げた。最近何度か感じている、強烈な眩暈が襲ってくると同時に、世界が歪む。そして――反転した。



 次に気がついたとき、イゼットはやはり荒野にいた。だが、先ほどまでいた場所とは明らかに違う。白い人たちがいないのはもちろんのこと、先の光球で削れた跡が地面にない。


 イゼットのかたわらにいるのは、シャハーブだけだ。だが、彼がそう認識した瞬間、音を立てて大きな影が降ってくる。


「ふぎゃっ」

「……ルー!?」


 形容しがたい悲鳴とともに荒野へ叩きつけられた少女。それを見るなり、イゼットは自分の不調を無視して彼女に駆け寄った。ルーは、うめきながら起き上がり、頭をさすっている。


「うう……一体何事ですか。いきなり目の前がぐにゃぐにゃしましたよ……」

「多分、フーリさんがルーをここに飛ばしたんだと思うよ」


 イゼットがかたわらにしゃがみこむと、ルーは顔を上げる。大きな目が何度か開閉された後、彼女はイゼットの方に身を乗り出した。


「イゼット! 無事ですか!」

「あ、うん。なんとか」

「よかった……」


 肩の力を抜いて安堵の微笑を浮かべたルーは、それからなぜかイゼットに抱きついてくる。イゼットは首をかしげつつも、とりあえず黒い頭をなでてみることにした。


「実際、かなり危なかったんだけど。フーリさんたちが助けてくれた」

「お二人とも、戻ってきたんですね」

「うん」


 ちょうど、そんなやり取りをしていたとき。覚えのある足音を聞いて、イゼットは顔を上げる。ルーも彼から離れて振り返った。


 二人の視線の先には案の定、シャハーブがいる。彼はルーに気づくと、笑顔で手を挙げた。


「やあ、ルーもついでに飛ばされたのか」

「です! よくわからないんですけど、岩につまずいて転んだ瞬間に、目の前がぐにゃっとして、気づいたらここにいました」


 元気よく答えたルーは、それから「シャハーブさん、お久しぶりです」と礼を取る。律儀な少女の挨拶を受け取ったシャハーブは、それから、顎に指を引っかけた。


「フーリにしてはやり方が雑だな。荒れてるのか」


 イゼットは思わず、「フーリさんって、荒れるとかあるんですか」と訊いてしまった。それに対する答えは「さあ?」の一言だけである。釈然としない部分はあるが、すぐにそれどころではなくなった。


「メフルザードさんは、無事ですかね……」


 ルーがそう呟いたからである。顔を引きつらせるイゼットのかたわらで、シャハーブが怪訝そうに目を細めた。


「誰だ、そいつは」

「えっと、俺の師匠のような人です。俺とルーのために、大地の火アータシェ・ザマーンの人たちを引きつけてくださってて」

「ああ、そういうことか。それなら心配はいらないだろう」


 シャハーブは、納得した様子でうなずいた。あまりにもあっさりしたその言葉を聞いて、イゼットとルーは顔を見合わせる。二人の困惑を察したらしい旅人は、わざとらしく、人差し指で空中をくるりとなぞった。


「――神聖騎士団が動き出したからな。狂信者どもは彼らに任せておけばいい」


 その一言が合図であったかのように。遠くから、雄叫びがこだまする。間違いなく騎士たちのものだ。イゼットたちの反応を封じたその音は、さながら開戦を告げる銅鑼がねのようであった。

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