第107話 再出発と、蠢動と

 その二日後――儀式から三日後――イゼットとルーは集落をつことにした。その間に二人は集落の内外を走り回り、水や食べ物をかき集める。特に、集落の近くに枯れない川があったのは助かった。ルーの兄弟たちが手伝ってくれたのもあって、準備は滞りなく進んだ。


 そして、出発の日がやってくる。


 イゼットとルーが出発するとき、集落の人たちは総出で見送りに来てくれた。熱い人たちが多いからだろうか、みんな数日いただけのイゼットにも握手をしてくれたり抱擁ほうようをしたりして別れを惜しんでくれる。


 ルーの家族たちも終始笑顔だった。晴れ晴れとした笑みを見せるジャワーフとターシャ、いつもどおりじゃれあうラジュとアディ、うろうろするナーレを見守るシュナ。彼らを見ているだけで、二人とも少しだけ緊張がほぐれた。


「元気で戻ってきなよ。ちゃんとご飯を食べて、睡眠をとるんだよ」

「うん」


 母の言葉に娘は気負いなくうなずく。その横で、イゼットはジャワーフに肩を叩かれた。


婿むこりはいつでも歓迎だぞ!」

「待ってるからな!」

「その話、まだ続いていたんですか……」


 ジャワーフとラジュの言葉に、イゼットはたじろいだ。まわりからどっと笑いが起きる。雄馬に飛び乗ったルーが、若者に声をかけた。


「誘拐される前に行きましょうか、イゼット」

「そうだね。うん、本当に……」


 苦笑したイゼットは、先ほどから鼻を向けてきている雌馬を軽くなだめてから、その背に乗った。


 明るい声が真っ青な空に溶ける中、二人はそれぞれ馬に合図を送る。走り出すその寸前、振り返ったイゼットは、大きく手を振るシュナと礼を取るヤグンの姿を見つけた。届くかどうかはわからない、それでも彼は笑顔を見せて、大きく手を振った。


 集落の影が見えなくなるくらいまで、一気に馬を走らせる。野にそびえる岩が増えてきたところで、少しずつ速度を落とした。


「さて……これからどうしようか」

「大昔の伝説って、どうやって調べたらいいんですかね?」


 膨らんだ腰の袋に軽く触れながら、ルーが首をかしげる。イゼットも、あごに手を添えてしばし考えこむ。


「そうだな。今はそこまで一般的な話でもないし……図書館を巡るくらいしかないか」

「図書館ですか。ボクは図書館って行ったことないですけど……そもそも、入れるんですか?」

「入れるところを探すしかないな」


 途方もない話だが、まずはとっかかりが必要だ。図書館巡りは天上人アセマーニー伝説探しの第一歩としては最適だろう。イゼットとルーは顔を見合わせ、うなずきあった。


「じゃあ、イゼット。図書館がありそうな町まで案内お願いします」

「わかった。でも、まずはここを抜けなきゃね」


 鳥獣の声がこだまするを、一組の人馬が駆けていく。



     ※



「猊下」


 固く閉ざされた扉。その前に立って、ハヤルは中にいるであろう人物を呼んだ。柄にもなく声がかたくなってしまうのは、しかたのないことだろう。言い聞かせながら、短く沈黙する。


 応答はない。だが、それは当然のことだ。ハヤルは直立不動のまま、続けた。


「ハヤルでございます。入ってもよろしいですか」


 少し砕けた語調を意識して、呼ぶ。すると、くぐもった声が答えた。


「大丈夫ですよ。どうぞ、入ってください」


 語調はやわらかく、穏やかだ。極端に気負った様子は、今のところ見受けられない。そのことに安堵して、ハヤルは大きな扉を開いた。礼を取ったその直後、彼は軽く目をみはる。


 ふだんは寂しげな印象すら与える部屋が、今日に限って妙に雑然としていた。その原因は、書物だ。広げられた丸絨毯の上に、読めるのかどうかも怪しい巻物からじられた本までもが小さな山をいくつも作り上げている。その中心にいる人物は、ハヤルの姿を認めると、顔のこわばりを一気に緩めた。驚愕から覚めたハヤルは、慌てて膝をつく。


「お疲れ様です、ハヤル隊長」

「ありがとうございます。ところで、猊下、これは……?」


 ひざまずいたまま問うと、彼女――アイセルは目を細めた。


「書庫からいくつかお借りしたんです。私自身でも、『月輪の石』のことをもう少し調べてみようと思って。がイゼットの中にあるという話も気になりますしね。ハヤル、そんなところにいないで、ぜひこちらにいらっしゃってください」


 言われるがまま立ち上がったハヤルは、アイセルの言葉に何を返すこともできず、軽く肩をすくめた。改めて聖女の方に歩み寄ってみると、書物の内訳がよくわかる。いずれも聖教関連の書物だが、多くは祭司見習いや新入りの巫覡シャマンたちが読むものだ。年少者向けの童話のような本まである。


「これなら、反対勢力の人たちにも怪しまれないでしょう」


 アイセルは片目を閉じた。ハヤルは少し頬をひきつらせてうなずく。それからすぐに表情を持ち直した彼は、絨毯の端に腰を下ろした。目から下を出し、後は布で覆い隠した少女と向き合う。彼女は口の端を少し持ち上げる。優雅に見える所作に、少しだけ幼さが混じったのは、続く言葉が悪だくみする子どものようだったからか。


「今日の報告はそのことに関してですか?」

「はい」


 ハヤルは少し、こうべを垂れる。


「巡回中におもしろい話を聞きまして。ぜひとも猊下のお耳に入れたいと存じます。よろしいでしょうか」

「ぜひ聴かせてください」


 アイセルは穏やかにほほ笑む。その笑顔と裏腹に、言葉には迷いがなかった。聖女のお許しを得て、ハヤルは口を開く。高ぶる気持ちを苦労して抑えなければならなかった。


 ハヤルが今日、シャラクの巡回中に出会ったのは、変り者の修行者だ。その者は純然たる修行者でありながら、様々な学問をたしなんでいた。ハヤルに話しかけてきたのも、初めて訪れる聖都について――ほかの修行者とは違う観点から――色々と知りたかったかららしい。切れ味のいい物言いに興味を引かれて職務に支障のない程度に相手をしたのだが、そのときにいくつか奇妙な話を聞いたのだった。そのいくつかをアイセルに提示した彼は、そっと顔を上げる。アイセルがいつの間にか巻物を胸元に抱いていた。その指先に、わずかに力がこもっている。指先が語る感情がなんであるか、ハヤルには察しがついたが、あえて指摘はしなかった。


 心の表層をあぶるような沈黙の底で、アイセルが唇を震わせながら開く。


「その情報……イゼットとルーに届けることはできませんか」

「うーん、今は難しいですかね」


 思っていたとおりの言葉に、ハヤルは頭をかく。だが「今からでないと遅すぎるかもしれません」と聖女は前のめりになった。とはいえ、騎士の青年も簡単にはうなずけない。


「あの騒ぎから、まだあまり時間が経っていません。ユヌス祭司長の目も、まだぎらぎらと光ってます。この状況で、俺たちの中の誰かが目立つ行動をとるのは危険ですよ。猊下にとっても、俺たちにとっても――あの二人にとっても」


 最後の一言が決め手となったのだろう。アイセルは、はっと息をのんだ。みるみるうちに、肩を落として引き下がる。


「そう、ですよね。無理を言ってすみません」


 軽く首を振ったハヤルは、内心で、参ったな、と呟く。本来、こういうときに働くのは従士だ。だが今は、その従士が聖都追放の罰を食らって俗世に身を隠している。本人に落ち度がないのだから、文句も言えなかった。


 ハヤルは少し考えた後、聖女の前にその従士の名前を出す。


「イゼットのこと、やはり気になっておいでですか」

「はい。聖女としても、無視できる話ではありませんし」


 そこで初めて、アイセルの表情がこわばった。そうですね、などと返しながらも、ハヤルの意識は近い過去をなぞっている。



 イゼットとルーが聖都を脱したあの日――その、明け方。衝撃的な話を持ち帰ってきたのはファルシードだった。イゼットたちに情報を届けた代わりに、イゼット自身から聞かされたのだという。「月輪の石は器の一つにすぎず、本体はにある可能性がある」そして「今、本体があるのはイゼットの中だ」というのだ。


 それを後で聞いたとき、ハヤルは冗談でなくひっくり返りそうなくらい驚いた。


「おいおい、そりゃさすがにないだろ。だって、月輪の石は聖女猊下が受け継ぐもんだ。現に、アイセル猊下がとっくに継承してる」

「その継承に立ち会っているイゼットが、言ったんだよ。『石』の本体が自分の中にある、と」


 旧知の青年に言い返されて、ハヤルは言葉に詰まった。そのとき、ファルシードは、驚くでもなくただ深刻そうな顔をしてなにかを考えこんでいた。


「僕も月輪の石の由来を知るまでは、ハヤルとおおむね同じ考えだった。だけど、今は必ずしもそうではないと思う」



――彼の言葉と表情を思い出すと、今でもときどきぞっとする。ハヤルは迫りくる記憶を振り切ってアイセルの方を見たが、どうも逃げ切ることはできなさそうだった。


「ファルシードの報告を聞いて、自分でも色々と調べているうちに、思うようになったのです。月輪の石が聖教のものでないとするならば、聖女がそれを受け継がなければならないという規則もない。なぜならそれは、聖教の人々が勝手に決めた規則に過ぎないからです。少なくとも、この仮定のもとでは」


 巻物を見つめる聖女が語ることは、あの日、ファルシードが口にした続きの言葉と、ほとんど同じものだった。そして、彼がさらに語った「その先」に、アイセルもたどり着いているのだろう。


『石を聖女が継ぐ必要はない。極端な話、女性でなくてもいいのかもしれない。そう仮定すると、真に石の力を受け継いでいるのは――』


 白く、はかない指先が、巻物の表面を撫でる。


「だとすれば……ロクサーナ聖教とはいったい、なんなのでしょうね」


 聖女の問いに、赤毛の騎士は答えることができなかった。

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