第四幕 天と地のはざま
第108話 アフワーズにて
一日馬を走らせただけで、景色が一変する。
海の
「さてさて、やっとアフワーズが見えてくるかな」
一人馬を駆る青年は、遠くに視線を投げかけた。やけに大きい独り言は、しかし誰にも拾われない。
またひとつ、小集団が横を通り過ぎていく。少し顔をこわばらせた若者が、三人。目的はなんであれ、彼らもアフワーズへ向かうことは確かだろう。南部州一の都市にして、領主ラフシャーンのおひざ元。なるほど、一日前とは違う世界だ――少なくとも、人間社会においては。
「漁村あがりの若人にとっては、緊張するものなのかね」
呟きを口の中だけで転がして、青年は馬の腹を蹴る。彼も見た目だけなら、先ほどの若者たちとさして変わりなかった。
それから一刻ほど馬を走らせて、やっとアフワーズの門をとらえた。青年は軽く口笛を吹き、速度を落とす。門前には真昼の暑い時分から、
大人数であるにも関わらず、街に入るまでさして時間を要さなかった。検問は予想以上に緩い。戦争をしておらず、治安もさほど悪くないからだろう。しかし戦乱の時代を知る青年としては、眉をひそめてしまうところであった。
「まあ、入れてくれたのだからそれでよいか」
通りをながめ、見渡す。人でごった返した道には、海産物の店はもちろん、酒場、貝などで作られた装飾品の店、宿屋、八百屋などさまざまな店が軒を連ねていた。そこかしこから飛んでくる音にまぎれて、値切り交渉であろうか、言い合う声がしきりに聞こえてくる。その様子にひかれてか、横道から全身日焼けした子どもがひょっこり顔をのぞかせた。
刻々と移ろう街を青年はそぞろ歩く。状況的に気ままな観光とはいかないが、少し見てまわるくらいならいいだろう。それに、情報はどこに転がっているかわからない。
朝、
かたまりに見えたのは、人の集団だった。実際の人数は判然としないが、少なくとも五人はいる。彼らはぼそぼそと、雨上がりの泥濘のような声で何事かを話していた。何を言っているのかは聞き取れないが、ヒルカニア語のようである。
青年は一度身を
「ふうん……。あれかな、どうも」
本人にしか意味の取れぬ独白が、焼けた地面を一瞬なでる。それはけれど、彼が黒服の集団の敵であることの証明だった。
街の中央の方へ出て、青年は軽く眉を寄せた。何やら通りが騒がしい。人々の様子も、どこか浮ついているように見える。何事かあるのだろうか。事の仔細を確かめるために、青年はさりげなく通りの端に寄った。果物を売っている露店がそばにあったので、大ぶりのオレンジを品定めするふりをして、店主の男に話しかける。
「ひとつ訊きたいんだが、ご主人。今日はなにか催し物でもあるのかね」
「んん?」
店主は怪訝そうにしていたが、通りに視線を投げかけるなり、目が覚めたような表情になった。
「ああ、これから領主様が街を視察なさるのさ」
「ほう。領主……確かラフシャーン様といったかな。噂じゃそこそこ評判がいいと聞くが、実際はどうなんだい」
「領主様のおかげでのびのび暮らせているのは確かさ。お国とも今のところはうまくいっているみたいだしね」
青年は小さくうなずく。露店の主人がそこで、少しばかり声を落とした。
「ただ、まあ、寡黙な
豊かな顎髭を震わせて、露店の主人は言葉を止めた。その態度に事態を察して、青年は振り返る。通りが一気に騒がしくなったと思ったら、奥側から馬の一団がやってきた。領主とその護衛、というところだろう。
通りに集っていた人々が、整然と左右に避けた。彼らは好奇心旺盛に領主の一団を見上げたり、逆にひざまずいたりと、各々違う反応を見せている。青年は集団の二列目あたりにしれっとまぎれこんだ。
人の柵の隙間から、通り過ぎる馬の列を観察する。中央あたりに、ひときわ豪華な外衣をまとった男がいた。おそらく、あれが領主ラフシャーンだろう。かたい黒髪は、短く切られている。顎は少しかくばっていて、鼻は高い。鍛えられた体と鋭い双眸も相まって、歴戦の騎士のような雰囲気をかもし出していた。
領主は、時折人々の列に視線を投げかけながら進んでいく。一瞬、人垣の中の青年と視線がかち合うが、すぐに目をそらされた。青年は、ひそかに顔をしかめつつ、口もとだけは吊り上げる。
たくましく、それなりに見目の整った男が颯爽と馬を操る姿は、見ごたえ抜群だ。しかし、青年はどうも、この領主のことが好きになれそうになかった。傲然とした態度や目つきが気に入らない。もともと、貴族の典型のような人があまり好きではないのだった。
領主の一団が去っていく。ある者は日常に戻り、ある者は彼らの影を追いかけた。青年はそのどちらの流れにも逆らって、来た道を戻りはじめる。騎影に向かって鼻を鳴らした。
「一人で嫌うのは自由さ。俺一人が嫌ったところで、領主どのの政務には豆一粒ほどの影響もなかろうし」
青年は心の中で呟く。そうすると少し、足取りが軽くなった。領主の姿にざわめく人々を横目に見たとき、しかし青年は目をみはる。露店の主人の言葉と、彼が追いかけている旅人の姿が、ふいに重なった。
「聖院に出た三男坊、とか言ってたな。ということは、あいつ、領主どのの息子か。いやはや、どんな奇跡が起きたのやら」
かぶりを振る。そして青年は、歌を口ずさみながら、通りの端を進んでいった。領主たちと再び出くわさないように、気をつけながら。
半刻ほどして、街の端に足を踏み入れる。市場や中央と打って変わって、ひとけがない。あたりは静まり返り、かすかな波のささやきと、角笛の音色だけが聞こえてくる。
青年は、ぬくもりを感じて荷物の中から小さな石を取り出した。石は、光を四方八方に放っている。さながら小さな太陽だ。
声はない。しかし青年は、石を掲げ持って、それに話しかけた。
「予想外の収穫があったぞ。色々とな。そろそろ元の道に戻ろうと思うが……ラフシャーンどのの三男坊は、今どこにいる?」
ややあって、石から声が響いた。
『……観測した。マーレラーフにいる』
「おや、懐かしい名前だな」
非現実的な現象にも、青年はまったく動じない。
「飛ばせるか?」
『可能だ。少し待って』
問いに、かたい声が応じる。
そして、少し後――その場から青年の姿がかき消えた。
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