第85話 夜明けのむこうへ

「――そうか、それだ」


 ファルシードが、淡白な表情のまま指を鳴らす。アンダが彼に、すがめた目を向けた。


「こいつの言うことを信じすぎない方がいいぞ。雑に生きてる人間だから」

「重要な手がかりであることには違いない。聖教以前に伝わっていた話、ってところが特に」


 文書管理室の青年の言葉に、人々は顔を見合わせる。


「その話をたどって調べていけば、月輪の石のことがわかるかもしれない、ってことか」

「うん。少なくとも、月輪の石が割れる現象は、何度も起きていることなんだ。その原因、そして今までどうやって『替え』の石を調達していたか――この二つが解明できれば、本部の態度も変わるかもしれない」


「あんたの探してきたこれじゃ、だめなのか」


 アンダはぶすっとした様子で、散らかしたままの紙を指さす。今、ちょうど、ファルシードはそれを束ねなおしているところだ。彼は手を止めぬまま、かぶりを振る。


「言っただろう。『会議』で証拠として採用されなかったって。この資料は価値あるものだけど、それだけでは弱いんだ。聖教本部の人間なら、いくらでも解釈を変えることができるのだしね。文書管理室でさえ、例外じゃない」

「ファルみたいな人の方が、珍しいんだよなあ」


 イゼットが笑って言うのに、アンダが湿っぽいまなざしを向ける。小屋の中に流れる奇妙な空気を意にも介さず、ファルシードが言葉を続けた。


「一番いいのは、御使いご本人に出てきてもらうことなんだけどね」

「聖教徒が聖教に喧嘩売ろうってか? 思い切ったことするねえ」

「聖教を否定するつもりはありませんよ。月輪の石とイゼットの件に関しては、正しい対応をしてもらいたいだけです。昔は聖教の中でそれができていたのだから、おかしなことではないでしょう」

「物は言いようだな」


 デミルが傷を歪めて笑う。紙束をまとめなおして、床で端をそろえている青年の表情はほとんど動かない。少なくとも、気を悪くした様子はなかった。


「そういえば、イゼットはこれからどうするつもりなの?」


 小屋の壁にもたれているイゼットを見やり、ファルシードは小首をかしげる。イゼットは、少し悩むふりをして、曖昧に笑った。


「とりあえず、ルーの修行は見届けるつもり。その後どうするかは、まだ決めてない。けど、そうだな、さっきの話を調べて回ろうか」

「家には顔出さなくていいのかい」


 デミルが、大剣を研ぎながら口を挟む。必要ない、という意味でかぶりを振ったイゼットは、己の両手を広げて、じっと見つめた。


「……顔を出すべき相手が、もういませんから」


 空気がひび割れた。イゼットが顔を上げると、少し顔をひきつらせたファルシードと目が合った。その表情を見て確信を得た彼は、笑顔を作って手を振る。


「ファルが持ってきた情報のふたつめは――母上のことだろ」

「知ってたんだ」

「拘留場に行く前に、シャーヤール兄上にお会いしてな。そのときに聞いた」


 剣の音に負けないよう、意識して声を張る。本当のことを言うと、ファルシードはさらに目を開いてから、眉間にしわを寄せた。


「それは……最悪だな」

「だろ?」


 うなるように呟く友人の声は、今まで聞いたことがないほどに低く濁っていた。これほど彼の内心があらわになることはめったにない。両目をしばたたかせたイゼットは、次の時に噴き出した。母のことで沈んでいた心が、ふわりと軽くなった気がする。


 お互いの世界でわかりあう二人を、残る三人は怪訝そうに見ていた。そのうち、ルーが口を開く。


「えっと、なんの話ですか?」


 その声が震えていることに、きっとルー本人は気づいていない。イゼットとファルシードは、顔を見合わせる。音のない問答が行われて――ルーに目を向けたのは、イゼットだった。


「母上が、亡くなられたそうだ」

「えっ」


 ルーは声を上げたきり、固まってしまった。言葉を探すように唇が動いているが、実際にそれが形になることはない。


 金属の音が、止まった。戦争屋の男が、剣を研ぐ手を止めて顔を上げていた。


「そりゃ本当か。まだ体を悪くするような年じゃないだろう」

「ええ。しかし、最終的には季節の病が悪化して、亡くなられたそうです。どうも、それ以前から体調を崩されていたみたいですね。あくまで噂話の又聞きですが――」


 そこまでは流ちょうに話していたファルシードが、ふいに言葉を止めた。口そのものが、凍りついたかのような反応を、残る人々はいぶかった。明らかに躊躇した彼はしかし、続きをしぼり出す。


「聖院の襲撃事件の報がアフワーズに流れた後から、病気がちになったとか」


 誰かが息をのんだ。全員の視線がイゼットに集まった。むろん、そこに他意はなく、無意識のことであったはずだ。しかし、イゼットは、視線を意識せずにはいられなかった。心が軋むのを無視できなかった。


「イゼット」


 いつもどおりの、友人の声が響く。

 彼の目は、まっすぐにイゼットを見ていた。


「あえて言うよ。君のせいじゃない」

「ああ。わかってる」


 一度、断言してから、イゼットは己の影を見た。こぼれ落ちてきた前髪を、左の指で乱暴につかむ。


「わかってる、つもりなんだけどな」


 かすれた音はそれでいてなお強く、聞いた者の心をひっかく針となる。

 針先はむろん、音を発した者にも向いた。



 火は消した。だから、外へ出た。


 凍てつく空気は、ゆえに澄み切っている。天に雲はひとつもなく、散らばる星とちょっぴりふくらんだ月がよく見えた。


 イゼットは空を見ている。小屋のかたわら、槍を左のわきに抱えて。いつかにも、こんな時間があった気がする。不確かな思い出は、水中に沸き立つ泡のごとく、浮かんで弾けた。


 我知らず、腹をさする。そことも違う、もっと深いところにモノがわだかまっているのを感じた。太陽のようなぬくもりと、雪のような冷たさを併せ持つそれは、まるでこちらの心をあざ笑うかのように揺れている。


「眠った方がいいと思うけど」


 淡白な声が、ふいに響いた。それまで静まり返っていた地上を、足音が揺らす。イゼットはゆっくりと振り返り、肩をすくめた。


「そっちこそ――二人して出てきて、どうしたんだ」


 悪意はなく。ただ、からかうように言うと、小屋から顔を出したファルシードが、真顔で小首をかしげた。その陰には、クルク族の少女がいる。


「ルーがそわそわしてたから」

「すみません」


 うなだれている彼女の耳は、ほんのり赤いが、夜の中にいる人々はその変化に気づかない。ファルシードはルーの手を引いて歩いてくると、そのまま当たり前のようにイゼットの隣に座った。


「おまえこそ、戻らなくていいのか?」

「戻ろうと思っていたところだ。けど、伝え忘れたことがあったのを思い出した。伝言だ」

「伝言?」


 イゼットが首をかしげると、ファルシードは、す、と指を二本立てた。そのうちの一本、中指を折り曲げる。


「まず、ハヤルから。『こっちはこっちでできる限るのことをする。だからおまえ一人で無茶をするな、抱え込むな。おまえが元気でいてくれたら、それでいい。猊下のことは任せておけ』。それと『ルーに謝っとけよ、馬鹿野郎』だってさ」

「――『ちゃんと正直に話して怒られました』って伝えておいて」


 思いがけない言葉に胸を突かれる。それを押し隠して、イゼットは両手を挙げた。それを見、ファルシードは淡白な視線をルーに向けた。彼女は「おあいこ、ですから」と元気に言う。彼女の言動に苦笑してから、青年は「わかった」とうなずいた。


 そして、人差し指を折る。


「もうひとつ。猊下から」


 しん、と。天地が穏やかに冷える。イゼットは静かにその先を待った。


「『私は大丈夫。だからあなたは生き延びて。あなたが少しでも多く笑っていられることを願います。どうか、気に病まないで。何があっても、何を言われようとも、私の従士はあなただけ。そのことに、変わりはありませんから』」


 ファルシードは低く、ささやくように言った。その声は、彼ら三人の中にしか響かない。


 ルーが息を詰める横で、イゼットは瞑目する。


 これはこれでいい、と思う一方で、アイセルを置いて逃げてきてしまったことに、苦みを感じてもいた。割り切れるものではなかった。


 彼女は自分の従士がどう思っているのか、わかっていたのだろう。思い切って逃げ出した先で、それでも葛藤していることを。許しを得たからと言って、それですべてが消えるわけではない。だが、それも全部承知の上で、あえて伝言をファルシードに託した。


 主人の姿を思い浮かべる。


 かつてより背が伸びて、大人びた顔つきになった少女。

 けれど気が弱いところは、だからこそ背伸びしがちなところは変わらない。


「お許しください。私は一度、従士であることを捨てます。しかし、この先もずっとあなたの従士であることは変わりません」


 ここにいない、彼女に向けて、ささやく。

 直接届くことはない。それでも。


「あなたは決して孤独ではない。どうかそのことを、忘れないでください」


 目を開く。静かなままの青年に、ほころんだ顔を向ける。


「そう、伝えておいてほしい」

「――わかった」


 ファルシードはただ、受け入れた。それがたまらなく、ありがたかった。


 深く、深く息を吐く。それからイゼットは、友人と相棒を見た。陽の色の瞳に、感傷の影はすでにない。従士であり、一人の若者である彼が、ただ在った。


「それからファル。さっき俺たちに話したこと……あれは猊下にもお伝えしたのか」

「いや。これからだ。まずは、君たちに知らせるのが最優先だと判断した」

「そっか。なら、それと一緒に俺がこれから話すことも、伝言として持っていってくれないか」


 ファルシードは少しふしぎそうにしたが、うなずいて、前のめりになった。

 イゼットは口を開く。それこそ、二人にしか届かぬように言葉をつむぐ。


「月輪の石は、おそらくファルの言ったとおり、『浄化』に関係がある。けど、石はおそらく本体じゃない。あくまで、その力を収めるための器の一つ」


 禁忌に触れている。そう感じていた。

 自分は今、暴いてはならぬものを暴いているのだ、と。


「そしてもう一つの器が――人だ」


 軽く、拳をにぎって、自分の胸に置く。


「本体は、人の中に入っているんだ。歴代の聖女たちは、おそらくそれを受け継いできた」

「ちょっと待って……」


 ファルシードの顔が、青白い。夜だからそう見えているというわけでも、ないのだろう。


「どうして君が、そんなことを知ってるの」

「『それ』が俺の中にあるから。そして『それ』が知らせたから」


 白い空と草原。光を放つもの。みずからを亡霊と名乗った、王家の色を持つ青年。夢のようであった出来事の色彩は、イゼットの中でもだいぶんせている。だというのに、なぜか、それがあったという事実だけはくっきりと覚えているのだ。頭の中に直接、情報を叩きこまれたみたいに。


「とにかく、本来なら猊下が持っているはずの力が俺の中にあること。それと六年前の事件が大きく関係しているかもしれないこと。これは、伝えてほしい」


 イゼットが念押しして言うと、ファルシードは青ざめたままで「了解」と応じた。そこでようやく、場の空気がゆるむ。それは、今まで黙って聞いていたルーが、うあぁ、とうめいて頭を抱えたからかもしれない。


「なんだかややこしいことになってきましたね……もうボク、頭が爆発しそうですよ」


 うなるように呟き、マグナエのない頭をかく姿は正直そのものだ。だからイゼットも、思わず笑って、ぼろを出した。


「俺もだよ。知らされた、とは言っても、俺自身まだ把握しきれてないんだ。うまく説明できないけど……俺が知らされたことは、まだぼんやりしていて、感覚的なものなんだよ。だから、ルーの修行が済んだら、裏付けを取るためにも月輪の石のことを調べてみる。聖教がどうとか、猊下がどうとかという以前に、俺自身のためでもある」


 本来は、人が扱えるような力ではないのだろう。その思考は、数日前のアイセルの呟きと結びついた。人の身に余る強大なもの。それはもしかすると、聖教だけでなく彼の『体質』にも関わっているかもしれないのだ。すべては推測に過ぎない。忘れられた伝説の影に眠る真実は、いまだ輪郭すら持たぬ。イゼットは、これからそれを探るのだ。彼が、彼であり続けるために。


「なら、僕たちは僕たちで調べてみる。猊下もそうおっしゃるはずだ。ロクサーナ聖教の聖女としても、彼女自身としても、見過ごせることではないから」

「ありがとう。けど、危ない橋を渡るのは、ほどほどにしてくれよ。ファルたちがいなくなったら、意味ないんだから」

「どの口が言うんだか」


 ファルシードの手が伸びて、またイゼットの額を小突く。光がまた、瞬いた。だが今度は、ふらつかなかった。笑ったように、目を細めた。



 それからすぐ、ファルシードは聖都の方へと戻っていった。無事にたどり着ければいい。そう願う。彼のことに関して、イゼットたちは願うことしかできない。それ以上に、やるべきこともある。


 空が明るくなりはじめた頃、イゼットたちは小屋を出た。馬を走らせ、聖都が見えなくなったところで、デミルたちとは別れた。次会うときは――ルーの修行が済んだときだろう。


 二頭の馬が、急峻きゅうしゅんな地を駆ける。その背には、若者一人と少女一人。彼らの歩みを追うようにして。あるいは逆に、彼らを導くようにして。空は移ろい、世界は光に満たされる。


 一条の光が差した。それは瞬く間に、二筋、三筋となって、やがては大地を包みこむ。


 ヘラールの手綱を取り、馬上で体を保ちながらも、イゼットは顔を上げた。紺碧の空に、黄金色の紗幕ヴェールが広がる。


 夜明けだ。


 大きく息を吸う。馬の腹を叩く。そしてそのまま、走る。


「ルシャーティ!」


 前を向いたまま、イゼットは相棒の名前を呼ぶ。


「はい!」


 元気のいい声は、右斜め後ろから返ってきた。

 色の変わる空と山影。それから顔をそらさずに、若者は笑う。


「もうしばらく、よろしくね」


 そのとき、彼女がどのような表情をしていたか、イゼットは知らない。それでも。


「はい! こちらこそ、よろしくお願いします、イゼット!」


 返った声は、何よりも鮮やかでまぶしい、喜びに彩られていた。


 朝を迎えた世界を彼らは進む。

 目指すは、北東。『雲と雷の修行場』があるという、国境の山だ。



     ※



 移り変わる空の下。少し高いところから、シャラクの方を向いている影があった。一頭の馬。それに騎乗する人、一人。その後ろには、旅の荷物だろうか、袋がくくりつけられている。その大きさは、彼の顔ひとつと半分ほど。


 聖なる都を睥睨する彼は、まだ若いように見えた。鼻は高く、目は細く。暗い色の瞳は、人によっては神秘的と感じるであろう悪戯っぽい光が宿っている。町娘が熱を上げそうな整った相貌を持つ彼は、乾いた風に黒髪を遊ばせたまま、じっと聖都の方を見ていた。


 その沈黙を硬質な音が破る。


『……聞こえているかな』


 感情を伴わない奇妙な声が、反響して響く。まわりに、彼以外の人はいない。それでも彼は、うっすらと笑んで声にこたえた。


「聞こえてるぜ。シャラクの外にいる」

『そう。ちょうどよかった』

「その口ぶりだと、お仕事の時間ってやつか。それとも嬉しいお知らせかな?」

『両方』


 彼は、姿のない者と会話を続ける。美貌のわりにふてぶてしい様子を見せる彼は、短く歌を口ずさみ、それから相手をうながした。


「何を感じ取ったんだ」

『“月”が目覚めた。昨晩から気配を捕捉している』

「ほう? で、その宿主がここらへんにいるのか」

『そう。僕が誘導するから、気づかれないように追ってほしい』


 淡々と来る要求に、彼は再び口の端を曲げた。手綱を持ち直す。


「また、難しいことをおっしゃる。だが、まあ、やってみよう」


 言い終わるなり、道の方を向く。馬の腹を蹴って、駆け出した。

 東から陽光が照りつける。星彩せいさいの下の夜は、遥か遠くに去っていったのだ。ここからまた、生ける者の時間が始まろうとしていた。



(第三幕へつづく)

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