第三幕 暁光は希望の道を指し示す

第一章 雲と雷の修行場

第86話 暴風と雷の賛歌

 この人になら、ひざまずき、こうべを垂れてもよいと思った。

 この子になら、己の生を捧げてやれると思った。


 手を伸ばし、追い続けたしるべが突然消えたとき、生きる意味すら失いかけた。

 けれどすぐ、すべてが消えたわけではないと気づいた。


『あの子は、きっとどこかで生きている』


――いや、気づかされたのだ。


『だから、どうかまた、支えてあげて』


 彼女が遺した、願いが刻まれた言葉によって。



     ※



 突風、一陣。体の芯まで突き刺さるほどの冷気をまとった風が、強く吹き付けた。風になぶられ、草葉が騒いで土埃が舞う。押し寄せた風塵から顔をかばったイゼットは、その拍子に少し体勢を崩し、慌てて右手を伸ばした。かたい木の幹を支えにして、なんとか転倒は免れる。同じ頃、風も静かにやんだ。ぶきみに静まった斜面で、イゼットは大きく息を吐く。寒さにひきつれた顔を上げれば、視界一面に鉛色の重い雲が映りこんだ。


「イゼット」


 近くにいるはずの少女の声が、にび色の空気にさえぎられ、かすかに聞こえる。イゼットが正面に視線をやると、短い黒髪を四方八方に乱したままのルーが、片手で木の枝をにぎり、片手を振っていた。


「大丈夫ですかー?」

「大丈夫。ありがとう。ルーも気をつけて」

「がってんです」


 こんなときでも元気のいい少女にほほ笑み返し、イゼットは改めて重心を戻した。風がないことを確かめ、両手で槍を握る。


「さて、と」


 心の中で助走をつけて、不安定な斜面を大股で上った。横には雌馬、その背には荷物。そして支えは槍一本だ。間もなくルーに追いついたイゼットは、また空を見上げてため息をついた。


「雨が降りそうだな」

「雨なんて久しぶりですねー」


 牡馬を伴って呟いたルーの声に応えるように、どろどろと遠雷がとどろいた。


 ここは『雲と雷の修行場』――イェルセリアとヒルカニアを繋ぐ、険しい山の中だ。修行場の目印となるクルク文字は、山に入ってすぐに確認できた。


 地形が険しく、天候が変わりやすく、崖崩れや落石も頻繁にあると聞く。それゆえに、国境を越える旅人や隊商カールヴァーンに出遭うこともなく、イゼットたちは山を進んでいた。


 山に入ったのは昼前。その頃には真っ青な空に白い太陽が燦々と輝いていたのだが、ほんの数刻で鮮やかな色彩は雲の上に隠れてしまった。


「それにしても……目的の詩文は、いったいどこにあるんだろう」


 ヘラールの様子と自分の足元を気にかけながら、イゼットはなにげなく呟く。跳ぶように前を行くルーが、神妙な顔つきでうなった。


「この修行場に関しては、大人たちもあまり情報を教えてくれませんでした。今のところ、仕掛けとかもなさそうですし……とりあえずはまわりに注意しながら、進んでいくしかないと思います」

「そうか。……そういえば、いつものがないね。確かに」


 言われて、道程を振り返り、イゼットはふと気づく。今まで多くの修行場に見られた奇妙な仕掛けがない。となると『風と拒絶の修行場』のように、踏破そのものが修行となる場所だろうか。


 立ち止まって考えていても、答えは現れない。とかく、二人は前へ進むことにした。


 少し行くと、道幅が急に狭くなった。背の低い木々のむこうに、茶色い道と山並みが見える。晴れた日にはさぞ美しく見えるのだろうが、今は曇天どんてんの下で厳かに沈黙しているようだった。


 前から、わっ、と悲鳴じみた声がする。全身をこわばらせたルーが、踏み出しかけた左足をそろりと上げていた。注意深く半歩後退したとき、左足のあった場所がえぐれて、大きな石が下の方へ転げ落ちる。それを見て沈黙するイゼットを、ルーが恐る恐る振り返った。


「このあたり、崩れやすいみたいです」

「地盤が緩いみたいだね。気をつけて行こう」

「頑張りましょう」


 やや青ざめているルーにしっかりと声をかけながら、イゼットも心臓が縮むような思いをしていた。


 また、風が強くなってきている。しかも、湿り気を含んでいた。恐ろしい予感が脳裏をよぎる。予感が現実になるより先に、イゼットは慎重に細い道へ踏み出した。土の質感が重く、それでいて心細い。石突いしづきで軽く地面を叩いたとき、突風が髪を乱してゆく。風を感じるたびに大きくなる鼓動と痛みを、遠い世界のことのように感じた。


 木々がざあざあと騒ぎ、枝がきしむ。冷たい雫が頭のてっぺんを叩いた。


 ルーが足を止めたのは、最後に会話をしてから一刻経った頃。鋭く息を吸って吐く音が、静寂を揺らす。少女のまとう空気が、鋭いものになった。


「今……人の声がしました」

「え? 人?」

「間違いないです。驚いたような、というか、悲鳴?」


 ちらりと見えるルーの瞳は狩人のそれだ。地上最強とさえいわれる狩猟民族、クルク族。その常人離れした五感を備える彼女の言うことなのだから、それは間違いないのだろう。


 大きな岩を軽々飛び越えたルーが、しかつめらしく腕を組んだ。少し遅れて岩の頂点までのぼったイゼットは、珍しく彼女の姿を見下ろす格好になった。


「でも、こんな危ない場所にいったい何をしに来ているんでしょうか」

「いや……俺たちもひとのこと言えないからね?」


 苦笑しながら岩を飛び降りる。ルーは人のことが気になるのか、かげをさしてきょろきょろしていたが、ヘラールが後に追いついてくると、気を取り直したように進みはじめた。


 その後は、またしばらく無言で進んだ。イゼットは、長い枝やかたい岩に何度か体や手をこすったが、思っていたほどの痛みは感じない。擦り傷を見つけて触った手は、どちらも真夜中の風のごとく冷たかった。


 感覚が麻痺した両手を一度こすり合わせてから、再び馬の手綱を握る。ひづめの音は、風と雷にかき消されてわからない。自然界の騒がしさに反して、人々のまわりはひたすら静かであった。


 うすら寒い均衡は、空が真っ白く光った瞬間に破られた。雷光を映して、黒に限りなく近い茶色の瞳が動く。


 轟音が天地を揺さぶった。とっさに耳をふさいでうずくまった二人は、すぐに馬たちをなだめにかかる。鋭くいなないていた彼らはしかし、幸いにもすぐに落ち着いてくれた。しかし、毎度こうなるとは限らない。イゼットは、胸の奥に不安がむくむくと湧きだすのを感じた。


「あ……あれ、人じゃないでしょうか」


 ささやいて、ルーが立ち上がる。雷鳴の余韻が残る中、イゼットは慌てて彼女の視線の先を見やった。


 遠くの岩陰に、人らしき影が見えた。よろけているのか、左右に大きく揺れている。見たところ男のようだが、薄暗い中でそれ以上のことはわからない。声をかけにいくべきか――二人が視線を交わしあった瞬間、人影が視界から消えた。


 岩の転がるような低い音が聞こえてくる。イゼットとルーは、そこで考えることをやめて、同時に駆け出した。ルーが一足先に前に出る。


 また遠くで雷鳴が響いた。視界が少し開ける。山道の一部が、崩れているのがわかった。斜めに切られたチーズのような崖。一人の青年がぎりぎりのところでその淵にしがみついていた。ルーがまっさきにそちらへ手を伸ばす。イゼットは踏みとどまったが、その場でやりぶすまを外して、槍を逆さにした。研いだばかりの穂先を、緩い地面に深く突き立てる。荷物から手早く紐を取り出して、いつかのようにそれを柄に巻き付けた。もう一方の端で、軽く胴体を縛る。そうしている間にも、ルーが青年に声をかけていた。


「大丈夫ですから、捕まってください!」


 青年は、少女相手にためらっているようだった。しかし、いよいよ雨風が強くなってくると、左手を伸ばす。ルーはすぐに腕ごとつかんだが、北から吹いてきた風に背を押され、大きく前に傾く。


「ルー!」


 叫ぶと同時。無我夢中で腕を伸ばしたイゼットは、ルーの胴体を捕まえた。紐がぴんと張り、槍が緊張したのを感じる。雷鳴を聞きながら大きく息を吸い込んだイゼットは、広げた両足に力を込めて、ルーともう一人を引っ張った。


 間もなく、ふっと重みが失せた。直後、イゼットはルーを受け止めてしりもちをつく。馬たちが落ち着かなさそうに耳を揺らすのを、目の端にとらえた。


「た、助かりました」


 吐息のような声をこぼして、ルーが体を起こす。その背を見ながら、イゼットもゆっくりと立ち上がった。へばりついてしまった土を落とそうと、衣服を手で払ったが、土は落ちるどころか、さらに手と服を汚した。しかたがないので土を落とすことはあきらめて、顔を上げる。早くも頭を切り替えたらしいルーが、青年へ駆けよっていた。


「ご無事ですか?」

「ああ。ありがとう、助かったよ」


 乾いた笑声をのぞかせながらも、青年が答える。その声は明るく、敵意や警戒心は感じられない。


 しかし、イゼットはなぜか、その青年に近づくのをためらった。自分でもそれをふしぎに思いながら、彼は相棒に声をかける。


「ルー。雨が強くなってきそうだから、移動しよう」

「あ、そうですね。洞窟とかあるといいんですけど」


 振り返ったルーは、イゼットの内心など知るはずもない。無邪気に空を見上げ、それから青年へ目を戻して、笑ったようだった。


「よかったらあなたも一緒に来ませんか? ここにいても危険ですし」

「い、いいのか? 悪いな……でも、ありがとう。そうさせてもらうよ」


 青年の声色は、やはり明るいままである。

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