第76話 崩壊

 審議の結果が出たのは、『会議』三日後の夜。正確には日付が変わる少し前のことだった。イゼットたちがそこに託した一縷いちるの希望は、あっけなく消え去ったようだ。――審議の結果を端的に言えば、「従士を聖都より追放すべし」というものだった。破門を免れたのは、六年の事件の中で賊の狙いに気づいて聖女を守った功績が、認められたがゆえのこと。もっともそれは、当人たちにとって慰めにもならぬことである。


 審議から四日後。イゼットはまだ聖教本部にいた。本来ならすでに荷物をまとめて出ていっていなければならない頃だが、当の会議関係者から待ったがかかった。今回の件について、イェルセリアの法とも照らし合わせなくてはならないため、本国と話をつけるまでイゼットは拘留されることになったのである。


――


 知らせを持ってきた初老の男と向き合いながら、イゼットは心の奥で冷たく呟く。盗人扱いが確定していることになにも思っていないつもりだったが、その現実を眼前に突き付けられると胸が強く痛んだ。


「――そういうわけですので、しばしお待ちいただきたい」


 初老の男は、表面上は恭しく言う。イゼットも、動揺を顔に出さなかった。


「わかりました。……今からですか?」

「はい。案内の騎士が到着しますゆえ」


 そう言い、男が軽く振り向いたところで、居室の扉が叩かれた。一応、誰何すると、「案内の騎士」だという答えが返ってくる。ひと呼吸置いて、イゼットは再び扉を見た。


「どうぞ入ってください」


 絞り出した声は、ひどく乾いていた。



 今日は本部が慌ただしい。居室から出てすぐ、イゼットは気がついた。祭司たちだけでなく、事務方の人々まで小走りで廊下を行き来している。それでいていつも以上に音が抑えられている。妙な雰囲気だ。


 一人の祭司が背後を振り返り、まだ祭司見習いらしい少年に小声で指示を飛ばした。少年も小声で応じると、踵を返して駆けてゆく。


 なにかに似ている、とイゼットは思った。古い記憶の断片が、ふわりと浮かんでは消える。それは少しずつ形を持っていった。


 再び三人ほどの祭司が廊下で交差したとき、はっきりと思い出す。春分ノウルーズの前の聖院に似ているのだ。聖女猊下や各所の有力者たちが聖院に集う春分ノウルーズ。その半月前から、聖院はひどく慌ただしくなり、張り詰めた空気に包まれたものだ。


 かつての聖院を想起させる光景と足音と、空気。それはつまり、聖教本部に誰か偉い人間が来ているということだ。具体的に何があるのか、案内の騎士に訊いてみたい気持ちが沸き起こる。しかし、イゼットは口をつぐんだままでいる。訊いたところで教えてもらえるかわからない。それに、これから拘留される自分は来客と関わることもないだろう、とも思っていた。おさえこまれた喧騒をよそに歩くイゼットは、喉元まで出かかったため息をこらえた。


 しばらく歩くと、いっそう騒がしくなった。イゼットは眉を寄せる。聖教本部の構造はよく知らないので、拘留場がどこにあるかもわからない。ただ、ふつうは人目につくような場所にはないだろう。

 そこまで考えたとき、いっそう激しい声と足音が耳に入る。


「お待ちくだされ。まだ取次が済んでおりませんで……」

「取り次ぐ気もないのによくおっしゃる。大した用事でもないから、直接会いにいった方が早かろう」


 淡々と吐き捨てる人と、それを止めようとする人。そのやり取りは途切れないどころか、少しずつイゼットたちの方へ近づいてきた。


「シャーヤール殿、お待ちなされ」


 焦る男の声が、廊下に反響する。それを耳にとめ、イゼットは無意識のうちに足を止めた。少し遅れて無許可で立ち止まってしまったことに気づいたが、案内役の騎士に咎められることはなかった。騎士の方もぎょっとして凍り付いているからだった。


「……まさか、そんなわけ」


 声のした方を恐る恐る振り返る。イゼットは、右手で左手をにぎりこんだ。両方とも小刻みに震えて、じっとり汗をかいている。


 シャーヤール。それは、イゼットの一番目の兄の名前だった。しかし、それじたいはヒルカニア貴族によくある名だ。同名の別人だろうと思った。

 しかし現実は想像よりも奇妙で、残酷なものだ。


「待て。どうやら俺の目的は果たされるらしい」


 顔じゅうに汗をかいているのは、聖教本部の案内役の男性だった。ずっと走ってきたのか息を切らしている彼を、尊大な若者が手で制している。長い黒髪をうなじのあたりで一つにまとめ、威圧的な態度を隠そうともせぬ彼は、父親の面影を色濃く継いでいた。厳しく、そして特定の相手にはひどく冷たいアフワーズの領主。それに似た鋭い目が、イゼットをとらえた。


「イゼットか。久しいな」

「――シャーヤール兄上」


 最悪だ。


 イゼットは、そう言いそうになって、こらえた。

 悪態をつきたくなるくらいには状況が悪いのだ。出くわした相手も、時機も。


 それでもなんとか呼吸を整えて礼を取ることができたのは、諸々の経験のおかげだろうか。


「……お久しぶりです、兄上。なにゆえ、聖教本部に?」

「ヒルカニア本国の視察団に選ばれたのでな。聖教には興味もないが、よい機会だろうと思って来たのだ」


 兄弟のやりとりに、感情らしきものは一切ない。彼らの会話は文書を読み上げるのと同じ、言葉の交換であった。


「元気そうで何よりだ。と言いたいところではあるが……聖院の件、会議の件、だいたい聞いた」


 そうのたまう兄の顔にも、声にも、言葉ほどに優しい色はない。イゼットはなんとなく、父に見下ろされていたときのことを思い出していた。この長兄に対していい印象はほとんどない。殴られることも蹴られることもしょっちゅうであった。母のもとに少年の召使が来て、彼が実質イゼットのそば付きになってからは近寄ってこなくなったが、突き刺すような視線は家を出るその日までついて回った。


 色あせた思い出を頭に浮かべつつも、イゼットは平静を装い、こうべを垂れる。


「左様でしたか。お耳汚しでございました」

「まったくだ。まあ、あの女の子どもらしいといえば、そうだな」


 拳を握りそうになる。その代わりに、一瞬だけ息を詰めた。態度や声色は昔ほど激しくなくなったが、父のめかけやその周りの人間を蔑んでいるのは変わらないようだ。


 そう、変わっていない。だから動じることはないはずだった。今ここで取り乱すわけにはいかない。ここでは、イゼットはまだ聖女の従士なのだ。


 何よりも己に言い聞かせて、イゼットはシャーヤールと向き合う。二人の間には戦場もかくやという緊張感が漂っていた。先ほどまで彼を止めようとしていた男性も、イゼットを案内していた騎士も、手や口をだすわけにいかず凍りついている。


「そう威嚇するな」


 シャーヤールが笑声をこぼした。乾いた笑いにこめられた感情がなんなのかわからず、イゼットは目をしばたたく。かつてのように軽蔑されているような気も、ただ単におかしさから笑われているだけのような気もした。


 弟の戸惑いを意に介した様子もなく、シャーヤールは言葉を続ける。


「今日の俺は、おまえに知らせを持ってきただけだ」

「……知らせ?」

「そうだ。家と縁を切ったおまえに言う必要もなかろうと思っていたが、今回めでたく追い出されると聞いたのでな。面倒になる前に教えておく」


 イゼットは相槌を打つこともできず、まっすぐなままの兄の口元を見つめる。

 ひどく、嫌な予感がした。


「セリンが死んだ」


 短い「知らせ」はその重みにそぐわず淡々としていた。ゆえにイゼットは、何を言われたのか、肝心な部分をつかみ損ねた。


「――は?」


 素っ頓狂な声が漏れる。必死に保ってきた仮面にひびが入っても、それを繕う余裕はない。シャーヤールはシャーヤールで、それを慮る気配も見せずに、ただ繰り返した。


「おまえの母親が死んだと言ったんだ。二年ほど前、季節の病でな」


 同じ言葉は、今度はイゼットの中にじっとりと染み込んできた。かといって、はあそうですかとうなずけるはずもない。呆然と聞いているしかなかった。シャーヤールはそんな若者に無感情な一瞥をくれた後、顔をそむける。


「知らせはそれだけだ」


 言い捨てて、彼は踵を返す。彼を止めようとした男性のところまで戻ると、早口で何事かをささやいた。男性の方は首を振ったりうなずいたりと忙しそうだが、シャーヤールはそれを気にせず顔だけで振り向いた。雷光を宿した瞳がイゼットとかたわらの騎士の姿を映す。


「しかし、今ばかりはあの女が哀れだな。自分の息子が罪人になるとは、思っていなかっただろう」


 シャーヤールの声は、まったく哀れと思っていない調子であった。彼は今度こそ背を向けて、男とともにどこかへ歩いていく。


 イゼットはそれをただ見送っていた。正常な時であれば皮肉のひとつでも返せただろうが、今は反論するどころではない。頭の中が、からっぽだった。自分の目は冷静に世界を見つめているのに、そこに思考と心がともなわない。


 少し後、我に返った騎士にうながされて再び歩きはじめたが、体の感覚がない。ただ、兄の淡白な報告が繰り返し耳の奥で鳴り響く。


 どんなふうに歩いたのか、それからのことはよく覚えていない。夢を見ているかのように、すべてが曖昧で、靄がかかっていた。重い扉が閉まる音でつかのま自分を取り戻して、あたりを見回す。そこはもう、拘留場という名の牢屋の一室だった。


 足から力が抜ける。ざらざらとした敷布に座り込んだと認識しないまま、その場にうずくまった。


 かなり時が経ってから、いつぞやの虫だらけの寝床よりはましだな、などと考えて。一瞬後、心が閉じた。

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