第77話 夜の前、ぶつかる思い

 太陽が西の彼方へ没し、夜がひたひたと迫ってくる。石と土で造られた家いえが、そして聖なる大礼拝堂が残光に照らされ、暗く赤く輝いた。対照的に、人々は一日の営みを終える支度をはじめる。聖都シャラクは、昼間のぶきみな静寂とは異なる、真の静けさを取り戻しつつあった。


 夜の闇を受け入れようとする街の中で、なおも明かりをともす場所がある。旅人向けの宿屋だ。シャラクには二軒か三軒しかない宿屋のうちの一軒。奇妙に浮き立つ赤い衣の上から粗末な外套を羽織った少女が、看板代わりの明かりの下に立っていた。そして対面にも人がいる。年若い、赤毛の青年。


 少女、つまりルーは、赤毛の青年ハヤルをじっと見返した。黒に限りなく近い茶色の瞳。ふだんは好奇心とおさえきれぬ喜怒哀楽に輝いているそれが、今は何物も映していない。


「それって、つまりどういうことですか?」


 細く開かれた唇の隙間から、震え、棘を含んだ声がこぼれ出る。ハヤルはそれを見て太い眉をぐっと寄せたが、そこで押し黙ることはなく淡々と答えを寄越した。


「『猊下を守った功績があるから、破門にはしない。ただし二度と聖都には立ち入るな。さらに言えばイェルセリア本国の法で裁かれるかもしれないから牢屋で待っとけ』ってことさ」


 こちらも棘のある言葉を一息で言い切って、静かに腕を組む。ハヤルはつかのま瞑目したが、すぐに目を開け、少女を無言で見下ろしてきた。


 ルーは黙ったままだ。なにも言うことができなかった。相槌も、了解の一言すらも、返せない。左手に痛みが走る。気づかぬうちに強く握りこんでいて、手のひらに爪が食い込んだらしかった。


 ヒルカニアの小さな町からここへ来るまで、共に旅をして、大切なことを教えてくれた少年。彼へ下った無情な。『国』も『法』も『政治』も『組織』もよく知らぬ彼女にしてみれば、それはあまりにも粗雑で残酷なものだった。覆しようのない証拠や事実が揃っているのなら、まだ受け入れることはできただろう。だが実際は、曖昧なことを曖昧なままにして、偉い人の都合一つで判断されたようにしか思えない。



『俺はきっと罰を受けるから』


 彼の言葉を思い出す。


『そうなったら、俺は、君に、会えなくなるから』


 全部、わかっていたのだろう。こうなることを覚悟のうえで、だからこそあの場所で苦しみながら、ルーにすべてを打ち明けたのだ。


 だが、だからといって納得できるはずがあろうか。


「……行かなきゃ」


 誓ったのだ。

 なにかあったら力ずくででもなんとかすると。


「ボクが、行かなきゃ」


 何があっても、イゼットの味方でいると。



 宵の通りは静かだった。二人のことを見ている者は誰もおらず、二人もまた無言であった。心の中で炎をおこしている少女とは対照的に、青年は渋面のまま黙りこんでいる。なにかに耐えるような彼の表情に、ルーは気づいていなかった。ただ己に背を押され、遠くに見える聖教本部の方へ足を踏み出す。


「どこに行く気だ?」


 その背中に声がかかった。今までに聞いたことのない平板な声であった。

 ルーは眉を寄せて振り返る。そこで初めて、ハヤルの表情に気がついた。


「どこって……」

「本部か」

「そうですよ」

「それだけはやめとけ」


 息をのむ。体ごと、振り返る。


 ルーは疑問をぶつけなかった。その必要はなかった。

 クルク族の血が、戦士の勘が、先ほどからやかましく警告を発している。


 だが、ハヤルは動かない。ルーに冷たいまなざしを向けたまま、口を開いた。


「もう夜だ。いい加減、イゼットは拘留場にいる頃だろう。部外者のルーが会いにいくのは無理だ」

「ここまで一緒に来た人でも、ですか?」

「……言いたかねーけど、クルク族だからな。会わせちゃくれないだろう」

「それは訊いてみないとわからないですよね」


 やり取りを重ねる。これまでのように。いつかの、黄昏時のように。だが、二人の間に流れる空気は、あのときとは全く異質であった。


「で、行って、だめって言われたらどうする気だ? 大人しく引き下がって戻ってくるか。戻ってこれるか?」


 ルーは答えない。相手の言わんとしていることはわかっていた。


「力ずくで押し通ろうとか、考えてないか」


 ハヤルも、わかっているのだ。

 ルーがなおも黙ったままでいると、彼はかぶりを振った。


「そのつもりなら、やめておけ。出禁にされるどころか、犯罪者の仲間入りだ。そうなりゃ、イェルセリアから出るまで追っかけられるぞ。下手すりゃイゼットの立場もますます悪くなる」


 ルーはやはり口を閉ざしたままでいる。


 わずかな明かりが揺らめいて、二人の影を歪めた。肌を裂くような冷気が都を満たす。そのはずだが、ルーはまったく寒さを感じていなかった。それどころではない。自分は今、天敵を前にした獣と同じ状態だと気づいていた。戦士の勘は、民族の血は、なにも間違ってはいないのだ。


「……もし」


 だが、目の前にいるのは人間だ。自分と同じ。だからルーは、ぎりぎりまで対話を選ぶ。


「もし、『やめない』と言ったらどうしますか」


 ハヤルは頬をひきつらせ、唇を引き結んだ。聞きたくないことを聞いたと彼の全身が語っている。それでも、一瞬後には動揺を奥深くへしまい込み、彼は静かに身構える。


「ルーがその気なら、俺はそれを止めなきゃいけない。神聖騎士団の者として」


 彼の右手が剣に触れる。少女はため息をのみこみ、足を広げた。


 対話の限界。それなら、彼女は彼女のやり方でいくしかない。


「ルー」

「なんですか?」

「イゼットは、君が犯罪者になることを望んじゃいない」

「……ボクは、イゼットが罪を着せられることを望んでいません」


 ハヤルが息をのんだ。同時、ルーは地を蹴った。相手が抜剣するより早く距離を詰める。意表を突かれたハヤルは固まっていたが、それは一瞬にも満たない間のことであった。突進したルーに道を譲るかのごとく避ける。かと思えば、身をひるがえして足払いをかけた。ルーはすんでのところでそれを避け、跳び、獣のように腰を落として片手をついた。ざらりとした道の感触が手のひらに伝わる。それに伴うわずかな痛み。どちらもルーにとっては慣れた感覚だった。


 お互いに、にらみ合う。ハヤルの方から距離を詰めてこられれば、ルーの方は距離を取る。彼が剣を抜かないのは、彼女が手足を出さないからだ。ルーがねめつければ、青年は辛そうに顔を歪めた。それでもルーは、引き下がることを選ばない。


「ボクはっ! イゼットにお礼もお別れも言わずに、ここを出るなんてできません! なにもわからないまま、後悔したまま、全部忘れたみたいに過ごすなんて……絶対に! 嫌です!!」


 激情のままに、腹の底から叫んだ。次の瞬間、ルーは、足元に落ちていたものを二つ、拾って投げつける。歪んで尖った石の破片。おそらくは、がれた石畳の一部だ。突然の「暴力」にハヤルがぎょっと目をいた。彼は危なげなく破片を避けたが、ややひるんでいた。そのひるんでいる隙に、ルーは体を反転させて走る。闇の中、アグニヤの衣の裾が爆ぜる炎のごとく翻った。


「ルー! やめろ!」


 背後から焦りの叫びが聞こえたが、ルーは無視して走った。


 やめろと言われても、やめることが思いつかない。

 これからどうするつもりなのか――ルー自身にもわかっていないのだ。



     ※



 遠ざかる後ろ姿を、ハヤルは肩で息をしながら見送った。追いかける気にはなれなかった。かたわらに落ちた石畳の残骸を見下ろすと、乾いた笑いが漏れる。持った本人の手まで傷つけそうな物を、あんなふうに利用してこられるとは思わなかった。自分の幼い頃の振る舞いを少し思い起こして、また笑いそうになる。


「……笑ってる場合じゃねえな」


 思いなおして、天をあおいだ。


『ハヤル。ひとつ、頼みがある』


 ふいに、友人の声が鳴り響く。

『会議』が行われると知って、かっかとしていた彼に、イゼットは苦笑まじりに言ってきたのだ。


『もし会議の結果が良くなくて、それを知ったルーが無茶をしそうになったら、止めてほしいんだ』

『無茶? って、例えば、どんな』

『例えば……聖教本部に殴り込み! とか』

『いやいや、いくらなんでも、そんなことしねえだろ』


 蒼い顔のままおどけたイゼットに、ハヤルもおどけて返したものだ。しかし、いや、と首を振った後のイゼットの表情は真剣そのものだった。


『ルーならやりかねない。彼女はそういう人で……俺はそういうところに救われてきた。けど、だからこそ、止めてほしい』


 彼女を犯罪者にしたくない。そう、イゼットは泣くように呟いた。そのときハヤルはなんと答えてよいかわからなかった。初めて会ったあの町で、ルーと話をしたときのことを覚えていたからだ。


 自分じゃどうにもできないことがあったらよろしく頼む、と彼はルーに言った。しかし今度は、それを阻止してくれと友人に頼まれている。どうすればいいかなど、わかるはずもない。ただ、葛藤しながらも自分に無茶な頼みをしてきた友人の顔を見て、それを無下にはできなかった。だから、請け負った。


『クルク族相手だからな。止めきれるって保証はないぜ?』


 そんな、おどけた文句つきで。


「悪ぃな、イゼット。マジで止めきれなかったわ」


 天を見たまま、ハヤルは呟く。色のない吐息が訪れたばかりの夜の空を昇って溶けた。視界の隅で一番星が瞬くのを見つけ、彼は顔を戻す。


「――しゃーねえ、戻るか」


 のならせめて、見届けなければなるまい。

 ハヤルは、剣の鞘を軽く叩いてから歩き出した。向かう先はもちろん、聖教本部だ。

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