第32話 荒野の残影

 町の名はヤームルダマージュというらしい。カヤハンが、町に気づくなり教えてくれた。門前に近づくと、営みの音が聞こえてくるようになる。穏やかな時間の流れる町には、傾斜した屋根を持ち、格子状の窓のあいた家いえが立ち並んでいる。淡い色の町並みは、イゼットの目には風変わりに映った。


「ヤームルダマージュって、なんか、呪文みたいな名前ですね」

「ペルグの町には、そういうところが多いよ」


 ごまかしのないルーのつぶやきに、カヤハンが苦笑する。それでも気を悪くした様子のない彼は、町の目抜き通りを少し進むと右へ曲がり、路地を指さした。


「あの奥にあるのが俺の家。このへんは西洋風の建物が多くて、俺の家もそうなんだ。作法とかつくりとか、色々違うけど……まあ勘弁してくれ」

「え、というか、家に入れていただいていいんですか?」

「どーぞどーぞ。ちょっと散らかってるけどね」


 カヤハンは変わらず、のんびりとした笑声を立てる。悠々とした足取りで路地を進む彼に、民家の前で布をはたいていた壮年の男が気づいて声をかけてきた。


「おや、学者先生。珍しくお客さんか?」

「先生はよしてくれって言ってるじゃないですか。……まあ、お客さんはそうですけどね。ちょっと助けてもらったんで、お宿くらいは提供できればと」

「ははあ。さては、また『あの場所』に行ってたな」

「ばれましたか」


 カヤハンは、帽子のつばを下げる。表情を隠しているつもりなのか、ただの癖かはわからない。ただ、それを見て、壮年の男は豪快に笑った。


「懲りないねえ。研究熱心なのは結構だが、無茶は死なない程度にしてくれよ」

「ご忠告どうも」


 男が民家に引っ込むと、カヤハンは長方形の板戸を示して「ここ」という。二人が礼を言うと、彼は帽子をとって振った。気にするなということだろう。


「あ、馬をつなぐところは家の横にあるんだ。案内しよう」


 思い出したように言う研究者についていく。ルーは、外観からして見慣れない家に興味津々のようだ。イゼットは反対に、カヤハンを見つめる。よくわからない人だが、少なくとも町の人との関係は良好そうだ。それはよいのだが、気になるのは、町の人も彼の行き先を承知していたことである。


「あの、ひとつお聞きしても?」

「いいよ。なんだい」

「ひょっとして、何回もあそこに行ってるんですか」

「またまた、ばれちゃったか」


 カヤハンは、あっさりと認めた。イゼットに背を向けているので表情は見えないが、おそらく笑っている。苦言を呈しそうになったイゼットはしかし、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。自分に、彼の行いをとやかく言う資格はなかろう。


「研究者なんてやってるとね。ああいう場所は気になってしょうがないんだ。だけど、いい加減なにも出てこないから、次からは見方を変えてみようと思ってる」

「……それがいいと思います。あの雲は、精霊が原因でできたものではないです」


 若者は言い切った。カヤハンが、思わずというふうに足を止める。振り向いた顔は驚きに彩られている。今までより幼く見えた。イゼットは、咳払いして言葉を続ける。


「少しでも精霊が関わっているのなら、その気配が強くなるはず。だけど、あの場所には精霊がまったくいなかった……いえ、彼らも近づこうとしていませんでした」

「――驚いたな。君、巫覡シャマンだったのか」

「本職ではないですが、似たようなものです」


『本職』を上回る力を持っておきながら――という気持ちはある。しかし、巫覡シャマンの務めを果たしていない以上、イゼットにはそう答えることしかできなかった。カヤハンはたいして気にした様子もなく、前を向きなおす。


「精霊すら避けて通る荒野か。いよいよきな臭いね。……ああ、ここだよ」


 カヤハンは、家の壁――に取り付けられている木の板とひもを指さした。簡素な設備だが、おとなしい馬をつないでおくぶんには問題ないだろう。二頭をそこへやって、水と食料を与えた後、三人は来た道を戻る。家の正面に回ってカヤハンが板戸を開くと、むせかえりそうな芳香が漂ってきた。イゼットはひるんだが、すぐに匂いの正体に気づく。紙、それも古紙だ。


「さ、上がって」


 戸口をくぐった先には、部屋でなく細長い廊下があった。くすんで、ところどころにシミのできた床板が、道を作って沈黙している。二人の旅人は一瞬だけひるんだが、カヤハンがなんということもなく歩き出すと、後に続いた。しかしイゼットは、壁にあいた横穴よろしく点在する小部屋に目をやってぎょっとする。薄暗く、中がよく見えない部屋には大量の書物が積まれているらしかった。部屋からはみ出しかかった書物が、かすかな光を浴びて、姿と強烈な香りとを漂わせている。古書のにおいの正体は、これだ。


「ああ、そこは資料室。うかつに入らないようにね。足の踏み場がないから」

「は、はあ」


 イゼットはなにも言っていない。しかし、気持ちは顔に出ていたらしい。昨日の夕飯の話でもするような調子で注意され、何とも言えない気分になった。

 通された先の部屋にもところどころに紙の山ができていた。しかし、資料室の惨状を思えばかなり整えられている方だろう。二人は、勧められるままに椅子に座った。


「わー……」


 ルーが妙な声を上げている。なにかと思えば、彼女は椅子の背もたれを触ってみたり、座面を手で押したりしていた。椅子を見るのは初めてではないはずだが、座ったことはなかったのだろう。


「すごいですね。人が座っても、この板、落ちないんですね」

「そういうふうに作られてるからね……」


 イゼットにはそうとしか答えられない。なおも椅子に興味津々なクルク族の少女を見、カヤハンが頬を緩めた。


「いいねえ、少年。好奇心旺盛な子は嫌いじゃない」


 イゼットとルーは、顔を見合わせる。一拍おいて、ルーが手を叩いた。


「あ、マグナエ着けるの忘れてました」


 白い指が、短い黒髪をつまむ。今度はカヤハンが、その様子を見て目を瞬いた。


「え? 女の子だったの? それは申し訳ない」

「気にしなくていいですよ。よくあることです」


 このやり取りも久々に見た気がする。イゼットは、のんびりとした二人をながめて、ほほ笑んだ。カヤハンは、にこにこしながら近くの部屋に入っていく。扉のない入口の先から、水気と茶葉の香りがまざった風が流れてきた。ほどなくして、小さく弾ける音がする。火の鳴き声を聞きながら、イゼットは家の天井をあおいだ。部屋には窓がない。

 椅子を調べつくしたらしいルーが、やにわに姿勢を正した。


「イゼット、どうかしました? 君にしては顔が怖いですよ」

「……うーん、どういう意味だろう、それ」


 イゼットは視線を戻して頬をかく。おどけていた彼はしかし、黒茶の瞳が真剣なまなざしを向けてきているのに気づき、表情を引き締めた。


「この町、妙な感じがするんだ。あの荒野の空気をすごく薄めたような……そんな気配が漂ってる」

「え? それって」


 身を乗り出そうとした少女をイゼットは手で制した。


「気のせいかもしれない。そう思うくらいに薄い。たぶん、人体に害はないよ。ただ、これがだんだん濃くなるようなら……わからない」


 二人は沈黙する。家具が時折、ぱきり、と音を立てるだけの静けさが広がった。静寂を破ったのは、湯気と水の音。その終わりに、独特の芳香と一緒にカヤハンが戻ってきた。


「お待たせ。二人とも、深刻な顔してどうしたの?」


 盆を手にした研究者は平和そのものの表情で首をかしげる。イゼットは、言葉を詰まらせた後、なんとか「いえ、なんでも」と苦しい否定を吐き出した。カヤハンはふしぎそうにしつつ、三人の前にあるテーブルに茶器を置いた。湯気が甘い香りを運んでくる。好奇心にきらめいたルーの顔を見てとったのか、カヤハンは嬉しそうに片目をつぶった。


林檎茶エルマーチャイだよ。初めてかな」

「はい! 頂いてもいいですか」

「どうぞー」


 ルーはすばやく茶器を手に取る。イゼットも、いくらか丁寧に倣った。ぬくもりは静かに満ちて、陰鬱な空気を払拭していく。


「カヤハンさんは研究を始めて長いんですか?」

「いやあ。俺なんて、業界ではまだひよっこだよ。本格的に始めたのは、イゼットぐらいの年の頃かな」

「また、なんで精霊なんて分野を?」


 問うたのは、イゼットだ。昔も今も、精霊の権威は巫覡シャマンたちだといわれる。そんな中で精霊を感じることもできない一般人が「研究」をするとなれば、風当たりも強かろう。声に出されない疑問を感じ取ったのか、カヤハンは参ったとでも言いたげに、ふにゃりと口の端を曲げた。


「そうだねえ。研究なんていうと、いい顔されないことも多い。でも、研究を始めたときは深く考えてなかったんだ。自然とそっちに行ってた、というか」


 カヤハンは、一度茶器を置く。


「ヤームルダマージュはね、昔からふしぎな噂が絶えないんだ。精霊関係も、そうでないものも。そういう噂の謎を解き明かしたい、って思ったのが研究を始めたきっかけ」

「なるほどです」

「今も、夜になると変な声が聞こえるって言われてるしね」


 言葉はあまりに自然だった。だから、イゼットもルーも理解するのが遅れた。少し時間が経ってから、唐突にその意味をのみこんだ二人は、表情を凍り付かせる。


「……え?」

「危険なものではないと思うよ。なにか被害が出たとは聞かないし。あ、でも、日没前からは出歩かない方が無難だね」


 憂いは、気のせいでは済まなさそうである。

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