2-1 殺生
——人類はまだ知らない。真に牙を剥いた自然の姿を。(バースデイの手記より)
翌日、教室にて。
暗雲が立ち込め、激しい雨が窓ガラスを叩きつける。不安を助長するような天気の中、どこか浮かない雰囲気の授業間の休憩をチャイムが遮った。
畜生、野球ができないじゃないか。
右左義の口から曇ったため息が出る。
休憩を経て、次の科目に移り変わるタイミング。教室の扉が開き、右左義の学級の教壇に立ったのは自身がよく知る人物だった。その姿を見るなり、驚きのあまり右左義は声を上げた。
「帆蔵さん!?」
「昨日ぶりだな、右左義」
授業を始めるぞー、と帆蔵は手慣れたように手を叩きながら生徒を座らせる。現職の教師と変わらない手際の良さに、クラスメイトたちは操られるように静かに自らの席についた。
遅れて教室に到着した御堂が黒板に『特別講師』の文字を添えて帆蔵のフルネームと本職の肩書をさらさらと書いた。株式会社サークルライフの名前を見て、教室に動揺が走る。業界最大手の名前は、一瞬にして研究者を志す一同の心を鷲掴みにした。
「初めまして。生命倫理学の特別講師を務める、株式会社サークルライフ飼育係長の帆蔵進一だ。よろしく頼む」
帆蔵はうやうやしく腰を折った。余所行きのジャケットを羽織った姿は思いのほか凛々しく、特に女子の受けがいい。短髪も丁寧にワックスで整えられている。細いフレームの眼鏡はいかにも知的な研究者という様相だ。自らの上司の見せる普段とのギャップに、右左義も息を飲んだ。
だが、問題はそこではない。
なぜ、帆蔵さんがここに? しかも、なぜ生命倫理学?
右左義の疑問が明かされることはなく、授業は進められていく。
「じゃあ、ひとりアシスタントを募集する。誰かやってみたい人はいるか?」
はい! と教室の真ん中から元気よく手が上がる。
「わたし、
明るい髪色のはつらつとした女生徒は、誰に頼まれたわけでもないのに自己紹介をこなした。全体的にふわっとした印象の少女。クラスの元気印にして、フレンドリーなアイドル的存在。日々信者を増やし続けていると噂の彼女の目には、心なしかハートマークが浮かんでいる。
いつも酒に浸って荒らして帰るダメ上司に黄色い声が上がるのを、右左義は複雑な心境で遠巻きに見ていた。
「うん、じゃあ君でいいや。前に出てきてくれ」
帆蔵は生徒の名前等には微塵も興味を示さず、手招きをする。それに導かれるように、水尾は教壇の隣に立った。
「ここに、二種類の動物がいる。俺たちが普段使っている研究材料をくすねてきたものだ。弊社の他の人間にはヒミツな。俺の首が飛んじまうから」
小さく笑いが起こる。帆蔵は生徒の関心を完全に掴みきっていた。時折右左義とも目が合うが、普段とは全く違う目の色をしている。そこに宿る光の正体を、右左義は知らない。
帆蔵が二個のケージを取り出す。それぞれ手のひらサイズのマウスが一匹ずつ入っている。二匹の決定的な違いは、体表を見れば明らかだった。
「君たちが動物をまるまる使って実験するのは二年生になってかららしいな。ましてや、この高校のカリキュラムじゃアマルガムなんて使わないだろ。今日は特別だ」
帆蔵が喋っている最中も、二匹のネズミはちゅうちゅうと鳴いている。はやく外に出たくてしょうがない、といった感じだ。
「白くて毛並みがいいのは通常のマウス。もう一匹の体毛が流動的で鈍く光っているのがアマルガムのマウスだ。逃げないように注意して、どっちか一匹と戯れながら観察してみてくれ」
いいんですか!? と水尾は目を輝かせた。選ぶまでもなく通常のマウスのケージをあけ、小さな囚われの身体を解放してやる。マウスはちょろちょろと手のひらの上を動き回り、落ちそうになるたびに水尾はもう片方の手で支えてやる。
「きゃはっ、くすぐったい!」
「楽しむのもいいが、観察も忘れるな」
「はーい」
咎められても水尾は嬉しそうだ。クラスの男子の表情も、気のせいか解れてきている。『おいネズミそこ代われ』というささやかな怨念を肌に感じ、右左義は人間の業の深さと学友たちの行く末を憂いだ。
右を見れば、花凛はつまらなそうに頬杖をついて教壇を眺めている。もとから釣り上がったような瞳をしているが、いつもに増して視線が冷ややかだ。
「ねえ佐倉君。男子ってみんなああいうのが好きなの?」
首の角度を変えずに尋ねる。顔を見ないのは、花凛が不機嫌な時の癖だ。こっちも無視を決め込みたい気持ちを抑えて答える。
「さあ、人によるんじゃない? というより、僕は生きとし生けるものに愛を注ぐから、聞く相手を間違ってるぜ?」
「ふーん、生きとし生けるもの、ねぇ。じゃあ私のことも好き?」
「……」
「あら。どうやら私は佐倉君の中では生物ですらないらしいわ。きっと佐倉君は無生物の作ったラーメンなんて食べたくないでしょうから、回数券は没収ということで……」
「好きです! 強引なところも含めて全部好きなのでそれだけは勘弁してくださいお願いします」
「よろしい……恥ずかしいから、あまり大声で好き好き連呼しないでちょうだい」
……理不尽が過ぎる。
花凛は何事もなかったかのように再び授業に注視している。心なしか、頬の血色が良くなり、口角がやや上がっている。僕をからかってそんなに楽しいか? と誰にも聞こえないように右左義は不平を述べた。
あと、流れに任せてとんでもないことを口走った気がするけど、きっと気のせいだ。
依然水尾はマウスとじゃれている。そこから帆蔵はマウスを取り上げると、手際よく二匹を身動きの取れないよう狭いケージに放り込んだ。
「ご苦労さん。遊んだ感想を述べてくれ」
「はい、楽しかったです! とくに目がクリクリで、二匹とも可愛いですね!」
「そうか、何よりだ」
キラキラと目を輝かせる水尾と、目の色を微塵も変えない帆蔵。
今のは何の時間だったんだ?
右左義が疑問を浮かべてまもなく。そのタネは明かされる。
「ここからが特別授業の始まりだ。君にはこのどちらかのマウスを殺してもらう」
「えっ、いま何と仰いまして……?」
「大丈夫、ここに致死量の麻酔があるから、それを打ち込めばいいだけの話だ。頸椎をキュッと締めるのは難しいからな」
ほら、やってみろ。
帆蔵の催促するままに水尾は注射器を持たされた。その顔はたちまち蒼白に満ち、唇はワナワナと震えている。
ケージからは、マウスの可愛らしい双眸が水尾を見つめていた。どちらのマウスも、同じような瞳の色を浮かべている。その目が湛える純粋な光を見るに耐えなくて、水尾は目を逸らした。
「帆蔵先生、なんで……なんで殺さなくちゃダメなんですか?」
「さあな、自分で考えろ」
最後の頼みの綱だった帆蔵は、手のひらを返したように冷たく見放した。水尾の苦悶に歪んだ表情は、ついに決壊した。
さっきまで戯れていた相手。一度愛情を注いだ相手を殺せと言うのは、側からみれば相当な理不尽かもしれない。
だが、右左義はようやく納得した。この授業に、なぜ帆蔵さんが呼ばれたのか。そして、帆蔵さんが何を伝えにきたのか。
——間違いない。これは特別授業という名を語った、僕に向けた直接指導だ。
「早くしろ!」
泣きじゃくる水尾に情を注ぐことなく、帆蔵は声を荒げた。覚悟を決めるまでの時間が長くなればなるほど、辛さが増していくことを水尾も気づき始めている。
「っ、ごめんなさいっ!」
涙を溜めた目を無理矢理こじ開け、マウスを見つめる。本能的に死を覚悟した一匹のマウスは、ゲージの中でじっと動かない。
注射針が貫いたのは、アマルガムのマウスだった。
体表の水銀の流動が止まる。独特の輝きは失われ、水銀特有の光沢が鈍い光を反射する。赤い目からは次第に色が失われてゆく。
一つの命が潰える。
この世に命を持って生まれた万物が抗えない、死の定め。今、マウスは自然の理のままにその瞬間を迎えた。
眠りにつく、という表現がある。それは、この場に訪れた死をあまりにも美化しすぎていた。石化とか、機能停止とか、無力感とか。そんな言葉がマウスの亡骸から浮かんできた。
マウスが完全に息絶えるのを見届けて、水尾はまたもや大粒の涙を溢す。ごめんなさい、ごめんなさいと、膝をついて連呼するその背中を、帆蔵がさすっていた。
「お疲れさん、よく頑張った。ここから本題なんだが、もう授業にならんから今日は終いにする。復習要項はネットにアップしておくからよく見直すように。そして、最後にこれだけは心に刻んで帰ってくれ」
静まり返る教室に、帆蔵は力の限り訴える。その目は、真剣さと迷いが入り混じっているように右左義は感じた。
「覚えておけ。これがバースだ」
良くも悪くもな、と念を押したのち、帆蔵は教室を見渡した。
——佐倉、あとで職員室に来い。
そんな不穏なメッセージが右左義への視線に込められていたことを、本人は疲労感たっぷりに感じ取っていた。
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