1-6 静戦


 空腹を満たした右左義は、自らの家へと戻った。

 バースアイランドには格安の家賃を誇る学生寮が存在する。姫人や花凛はその住人なのだが、右左義はバイト先のオフィス内に角部屋を無料で貸してもらっている。飼育員のバイトの出勤時間が早朝と夕方であるため近い方がいい、というのが表向きの理由だが、もう一つ、右左義がそこに暮らす理由があった。

「さて、今日も始めますか」

 白衣のポケットから蓋のついた試験管を取り出す。マジックで『Alex』と走り書きされているその試験管の中身は、鈍い光沢を放っていた。

 宿直室を改造した小さな部屋の机に向かい、右左義は生前のアレックスとジョンの姿を脳裏に浮かべる。数日間を共に過ごした二頭はもうこの世にいない。巨体を誇った彼らの残滓は、わずか数十センチの試験管に閉じ込められている。

 始めよう、最後の供養を。

 試験管の中身は、死ぬ間際に回収したアレックスの皮膚の一部だった。流動的なうねりはすでに消え、水銀本来の暗い光が小さく動いている。

 右左義はペン立てからもう一本試験管を取り出すと、その中身の液体をアレックスの皮膚にそっと垂らす。たちまち沸々と数粒の泡を発し、試験管が熱くなる。軍手越しに伝わる高熱が引き始めると、化学反応も次第に収まっていった。試験管の中には、黒いススのようなものが残っている。

「今回もダメだったか、残念」

 右左義が俯きながら呟く。小さな部屋の中で誰も知りえないバースアイランドの最新研究が、何度目か分からない幕引きを迎えていた。



 バイト先はおろか、高校にすら知られていない右左義の研究テーマは『水銀触媒の完全除去と皮膚の完全再生』。暴走に関与するとされているアマルガムの水銀触媒のみを除去し、という前代未聞の研究である。



 危険なアマルガム鎮圧への参戦も、家賃すら節約する暮らしも、全てはこの研究のためだった。人間も実験動物も苦しむことのない世界を作るため、不条理な倫理のもと機械部品のように生命体の生産と破壊を繰り返すこの島に警鐘を鳴らす。それが、右左義自身が己に課した使命。

 愛するだけでなく、救う。そうでもしない限り、この島のやり方は変わらない。

「よっ、今日もお疲れさん。差し入れ買ってきたから開けてくれ」

「こんばんは、帆蔵さん。毎度毎度ありがとうございます」

 右左義が戸を開けると、コンビニのビニールを持った男がウインクを返す。

 帆蔵進一ほぐら・しんいち。右左義の勤め先である株式会社サークルライフの正社員であり、飼育員のリーダーを務めている。右左義の活躍を高く買っており、無条件で宿直室や研究設備を貸しているのもこの男だ。

 明らかに飼育員ができる権限の範疇を越えているため、右左義も最初は不信感を抱いていたが、その飄々とした性格や仕事ぶりから近頃は信頼を寄せている。

「遅くまで実験ご苦労さん。ちょっとゆっくりしたら帰るから、一本だけ飲んでもいいか?」

「大丈夫ですよ、僕に飲ませたりしなきゃ、いくらでも」

「バーカ。ンなことしねえよ。バレたら俺の首が飛んじまう」

 帆蔵はずけずけと部屋の中に入ると、布団のついていないこたつにどかりと座って缶ビールのタブを開ける。炭酸が抜ける子気味良い音がしたかと思えば、黄金の液体は既に帆蔵の喉の中だった。

「ぷはー。お前、もっと肩の力抜けよ。学校でもそんな鷹みてえな目してんのか?」

「いや、そんなことはないですけど……」

 どうやら無意識に鋭い目つきをしていたようだ。いくら明るく振舞っていても、やはり何人かには感づかれてしまう。学校でアホに興じる時とアマルガムについて考えている時で目つきが違う、と最近姫人にまで指摘された。良くも悪くもわかりやすいところが右左義のウィークポイントだ。

「で、どうなんだ? 学校の課題とやらの進捗は」

「ぼちぼちです。まあ課題といっても、学校で習った実験を一通り再現してるだけですけどね。どうも要領が悪いみたいで、そうでもしないと覚えられないんです」

 無論、右左義は帆蔵に研究内容を伝えていない。学校の課題の一環だと偽って実験の道具をまるまる一式借りているという事実が、ちくりと心を痛めた。

「ふーん。学生様も大変だなぁ」

 帆蔵は二本目の缶ビールに手をかけた。一本だけという約束は彼の中でなかったことになっているようだ。仕方なく右左義も差し入れでもらった缶のサイダーを開け、のどを潤す。ラーメンの脂でギトギトだった口の中に、一筋の清涼感が駆け抜ける。

「近々、お前の学校行くから。よろしくな」

「えっ、それってどういう――」

「じゃあな」

 二本目の缶も爆速で空けた帆蔵はすくっと立ち上がり、右左義の部屋の戸を大きく開け放ったまま出ていった。その後姿を呆然と見送る右左義の部屋に残されたのは、二本のアルコールの缶。去り際の言葉の意味も分からないまま、右左義は酒臭さの残る缶を見つめる。

「これ、どうやって捨てるんだよ」

 何の罪もないこたつの上のアルミ缶を、右左義は蹴飛ばしたい衝動に駆られた。





 同刻。

 株式会社サークルライフ所有実験棟の避難通路を、足音も立てずに駆け抜ける影が二つ。黒のライダースジャケットをはじめ、全身を黒装束で固めた一人の女性らしき人影と、人の形を成さない無機質な

 周囲を警戒しながら、彼女らは奥へと進んでいく。

「さっすが島内最大規模の研究所。あちこちに防犯用の罠が張り巡らされてるねェ」

「ご安心くださイ、御屋形様オヤカタサマ。赤外線センサーの稼働パターン解析完了。二酸化炭素感知装置、電源遮断。もちろン警報器も作動しないようニしまシタ」

「よくやったワ、アラクネー。いい子いい子」

「エへへ、御屋形様、バンザイ」

 暗闇の中、互いに聞こえる程度の微かな声だけが発せられる。数多の警備を潜り抜け、彼女――紫蘭しらんは最深部を目指す。

 全ては、昼間に見たあの少年の正体を知りたいがために。

 北地区エリア五で行われたアマルガム討伐の様子を紫蘭は陰から伺っていた。アフリカゾウ型の一頭の討伐に当たっているのは、鋼鉄のコンドルを従えた学生服の少年。だが、もう一頭と対峙していた白衣の少年は、の紫蘭でも見覚えがなかった。

 最も驚いたのはその手並み。ファミリアを伴わず、戦闘をもすることなくアマルガムを静かにさせる人間がいるとは驚愕だった。居てもたってもいられず、その少年が入っていったこの実験棟兼オフィスに忍び込むことにしたのだ。

 狭い通路を進んでいくうちに、どこからか光が差した。ついに、目的の少年へと接触できるかもしれない。

 そう思っていた矢先。

「おぉ、誰かと思えばアラサーの『くノ一』じゃねぇか。どうしたんだ? こんな夜更けに」

 背筋が凍り付く。隠密行動に長けた紫蘭が完全に気配を消してなお、その男の目にかかれば丸裸も同然。鼓動高鳴る背中越しに、世界で一番屈強かつ卑劣な男の声を聴く。警戒心と緊張が、体中に駆け廻った。それでも平然を装って返答する。

「アラサーは余計さァ。ここで何してるんだい、アラフォーの『傭兵』サン?」

「それも余計だ。珍しいお客さんをお迎えに上がった、と言いてぇところだが、ここに現れた奴を殲滅しろってのがクライアント様の依頼なんだとさ。不運なことだぜ、くノ一さんよ」

 各国で傭兵として働いていた過去を持つの男――雪柳ゆきやなぎが残忍な笑みを浮かべる。依頼主から示された高報酬の命令以外は聞かない質であることは、今も昔も変わらないようだ。

 それでも、紫蘭は交渉に一縷の望みを託した。

「そう、残念だねェ。もしアタシを見逃してくれたら、この島が抱える秘密を教えてあげてもよかったのにサ」

「秘密、ね。貰えるもんは貰っときたいが、そんなチンケなもんで報酬と信用を捨てるつもりゃねえんだ。悪いな、どうも気が変わるこたぁねえみてぇだ」

「まったく、これだから損得勘定がヘタクソな男はダメだねェ。こうなりゃアタシも手段は選んでられないワ、何が何でも先へ行くよ! 『アラクネー』!」

「やっと俺たちの任務らしくなったじゃねぇか。一歩たりとも侵入を許すな、『抹香マッコウ』!」

 方や、真実を追い求める者。

 方や、実益を追い求める者。

 互いの相棒ファミリアの名が、高らかに叫ばれる。

 月明かりさえ届かぬ研究棟の奥底で、静かなる死闘が幕を開けた。



 バースアイランドが抱える、四人の『闇』。紫蘭、雪柳を始めとする彼らは分解管理局から離反した元分解屋であり、各々の行動原理に基づいて島の暗部を駆ける。管理局が最も目の敵にする存在、それが島で四人存在する『無法分解屋』である。

 くノ一、傭兵、死神、救世主メサイア

 分解管理局によって与えられた通称名を、彼らも気に入って自称しているという。



 爆発音と共に、閃光が駆け抜ける。

 紫蘭はその中に、剃髪の筋骨隆々な己の敵の姿を見た。目が合った刹那、遅れて爆風が背中を薙ぐ。負傷はしなかったが、焼けつくような痛みがまだ背中に残る。

 なんて威力。

 この爆発は、一体何?

 驚いている時間はない。次の一撃に備えて紫蘭は回避姿勢をとった。

「アラクネー、アンタ生きてる?」

「ご安心くださイ、御屋形様。このとおリ、ピンピンして――っと! 危ネーところでシタ!」

 二度目の爆撃。

 立ち昇る炎の中に、紫蘭は今度こそ爆撃を放った者の正体を捉えた。剛健な男の背後、非常通路に収まるギリギリの幅で巨大な鋼鉄のくじらが浮かんでいた。

 史上最大の哺乳類、クジラ。その中でも、暗く冷たい水底に生きる最も獰猛な品種『マッコウクジラ』。それが雪柳のファミリアであった。現実のクジラとの相違点は、鋼鉄から成ること、水中でなく空中を泳いでいること、そして腹部に重戦車のような主砲が搭載されていることくらいだ。

 悠々と泳ぎながら迫る黒色の海獣を前に、紫蘭は舌打ちをひとつついた。よけてばかりではキリがない。

「一旦距離を取るよ!」

「ハイ、御屋形様!」

 自らの相棒を隣に従えて、紫蘭は退路をひた走る。幸い、敏捷さにはこちらに分があるようだ。

「どこへ逃げようったって無駄だぜ。追え、抹香!」

 低いうなり声を皮切りに、クジラは前進を開始した――矢先。

 クジラを捉えたのは、無数の。動けば動くほど白い網はクジラの身体に絡みつく。あまつさえ主砲すら役割を失いつつあった。

「あン? 何が起こってんだ?」

 雪柳が顔を歪めた。それを見届けてから、紫蘭は自らの相棒の前足に自らの拳を突き合わせ、作戦の成功を祝する。

 アラクネー。それは、蜘蛛に転生したというギリシャ神話の女神。紫蘭のファミリアは、網を張り、糸を飛ばし、毒を吐き、慧眼で、俊敏で、擬態する――全現存種の蜘蛛の長所を持ち合わせた、究極のハイブリッドである。

 爆撃の中、アラクネーは敵に悟られないように罠を練り続けた。無策で勝てる相手ではないことは重々承知、ならばその上を行くだけ。

 罠の次に待ち構えるのは、毒。身動きの取れないクジラを、網伝いに毒が蝕んでいく。苦悶を嘆くクジラの声が非常通路に痛切に響く。

「あと数十分で、アイツは完全に動かなくなる。でも、アタシたちに時間はない。このまま突っ切るワ。付いてきてアラクネー!」

「御意デス、御屋形様!」

「……いつも言ってるけど、くノ一に『御屋形様』って呼び方はどうなんだい? 慣れるまでむず痒かったサ」

「いいジャないデスカ。アラクネーにとって御屋形様は御屋形様デス」

 苦笑するくらいの余裕が、紫蘭にもアラクネーにも出てきた。

 だからこそ、油断していたのだ。

 起こりうる最悪の可能性を、無意識に否定していた。

「抹香、最後の大仕事だ」

 咆哮。

 途端、全てが砕け散った。

 火力では随一の性能を誇る抹香。空中浮遊のための『反重力』、索敵の『超音波エコーロケーション』以外の全てを火力につぎ込んだその巨大な火薬庫の破壊力は計り知れない。

 それほどの火力を搭載しながら自らが無傷であるのは、主砲と自らの身体との間が隔てられているためだ。体内で生成したエネルギー弾を主砲に装填したのち、両者の間は分厚い鉄製のシャッターで完全に隔離される。連射に時間がかかるのも、このためだ。

 ならば、主砲でなく体内でエネルギーを暴発させればどうなるのか。

 主砲が使えない今、抹香の取った行動はただ一つ。

 自爆、である。

「――ッ!」

「御屋形様ー!」

 爆風を直撃で受けた紫蘭の身は、吹き飛んだ窓越しに空中へ。後を追うように、アラクネーが続く。落下する際に、半壊した実験棟の姿が視界の端に映った。

 ――そうまでして守りたかった秘密って、何なのよ?

 あの少年が絡んでいるのか、それとも。

 何食わぬ顔で着地した紫蘭は、もう一度実験棟を睨んだ。

「オ、御屋形様……」

 間抜けな声が聴こえたと思ったら、相棒が地面にひっくり返っていた。

 鋼鉄の裏腹部を丸出しにしてじたばたともがく滑稽な姿が見るに堪えなくて、ため息交じりに助け起こす。張り詰めていた頬が次第に緩んできた。

「バカだけど、やっぱりアンタって憎めないんだワ。今日は撤退するけど、もう少しだけ付き合ってちょうだい、アタシの可愛い相棒さん」

「御意デス。御屋形様モ、モウ若くナイんだカラ、今日ハお休みになってクダさいネ!」

「……誰がアラサーのオバさんだって?」

「ソ、ソコマデは言ってないジャないデスカー!」



 

 

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