1-4 黒白
シェルターの中では、依然として郷土史の授業が行われていた。
「今日はせっかくこんな機会だから、バースアイランド誕生の話について抜き打ち形式で復習しましょうかね」
そんなことをすれば自分の株がますます下がるとも考えずに、老教師は教科書を手に構える。抗議の声は上がらず、数人の生徒が郷土史の先生を睨み、ほか大勢があきらめたような表情で頭の中の記憶を整理する。
「それじゃ、出席番号十七番の生徒、誰ですか?」
「十七番は佐倉君で、現在不在です」
「そうか。それなら君でいいや、次の問題に答えてください」
親切心で答えた花凛を待っていたのは、想定外の流れ弾だった。やる気があるのかないのか分からない教師を恨むべきか、大事な時に不在な右左義を恨むべきか。ともかく、次に似たような機会があったら絶対に発言しないようにしよう。
花凛の小さな後悔などつゆ知らず、問題は出される。
「この島の建設費用は、どこから調達したのか分かりますか?」
「はい、自分の研究成果を特許という形でバースデイは国内の企業に高額で売り、そこで得た巨万の富でこの島を造ったんですよね」
「正解です。座ってください」
これまでの授業で耳にタコが出来るほど聞かされた話だ。この程度の問題で済んだことに安堵しつつ、花凛は地べたに腰を下ろした。
小笠原諸島に位置するこの人工島が造られた当初の目的は、日本の排他的経済水域を守るためだった。そこに目を付けたアマルガムの開発者バースデイは、自分が特許を売った企業をこの島に誘致し、現在のビル群のように複数の企業の研究施設を乱立させたのだ。
生命倫理的問題や安全への配慮から当時は本土でのアマルガムの研究が禁止されていたが、バースアイランドの設立により島内のみでの研究の許可が下りた。
チップを用いた代謝・神経調節の技術やファミリアの開発も本土では危険視されあまり好まれなかったが、その実践的な試験運用の場としてもバースアイランドは都合がよかった。島の治安維持に新技術を利用することで、アマルガムとそちらの両方の実験を行うことができる。文科省がアマルガム研究の認可に踏み切ったのは、この案あってのことだった。
その後も幾つか簡単な質問を生徒に課したのちに授業はお開きとなり、ひとまず花凛たちのクラスは安寧を取り戻した。だが、まだシェルターからの脱出許可は出ていない。地上にはまだ安寧は訪れていない。
早く、とは願わないから、せめて無事に帰ってきて。
地上で交戦中の姫人の身を案じる花凛の気は休まらないままだった。
が、その時。
————聞こえるか?
耳の奥に鳴り響く聴き慣れない声。見渡しても、その主はいないようだった。
「誰ッ!?」
「富良野さん、どうかなさいました?」
「……いえ、大丈夫です」
今のは、何だったの……?
珍妙な現象を前に、花凛の不安は募る一方であった。
死線に触れた感覚が、まだ姫人に残っている。
コンドルすら自らの回避に精一杯だった。だから、俺もコンドルももう一頭の存在に気付かなかった。背後に立ち込めた死の香りが逃げ足を捉え、絶体絶命の状況を作り出した。何度も覚悟した死が、何度も潜り抜けた死線が、再び深淵からこちらを覗いていた。
だが、姫人は今生きている。悪友の支えがあったからだが、四肢も頭もコンドルも動く。万全に戦える。
さらには戦う理由もある。町を、住民や職員を、何より背中を任せている白衣のアイツを一刻も早く暴走アマルガムの被害から救わねばならない。
今一度、目の前の鎮圧対象に向き合う。疲労の色は薄れるどころか暴走は加速。厄介な二本のゾウの鼻は未だ健在。三対の足でアスファルト舗装の地面を豪速で蹴りながらこちらへと迫る。
「迎え撃つ!」
姫人はもう一度駆け出した。限界まで負荷をかけたアキレス腱は麻痺寸前、代謝を加速させるため拍動は正常な範囲を超え、体中の血管がうなり骨が軋む。はち切れんばかりに張り詰めた神経から電撃のような激痛が走る。
かまうものか。全てはあの異形の怪物を仕留めるため。
アマルガムに従来の麻酔銃は効かない。脳内から溢れ出すストレス因子が麻酔の効力を阻害するためだ。
そのため、アマルガムを鎮圧する方法は二つに一つ。その一つが極度の衝撃を与えることでアマルガムを失神させ、ストレス因子の分泌を強制的にストップさせること。姫人の狙いはそこにあった。
互いに高速での接近、その最中、姫人の双眸が捉えたのはアマルガムの体表で煌めく水銀。反射した光が曇り空よりも明るく輝きを放つ。体温計の中に見る水銀よりも流動的で、色や光の濃淡が顕著だ。綺麗だな、と感心さえするほどに。
これが、命の輝き。
怪物なれど、人工生命体なれど、アマルガムは生きている。散り果てる最後の一瞬まで生物らしく短い命を輝かせ、自らの暴走や敵に抗い続ける。潮流を超えた瀑布。怒涛の渦の中心にて、荒れ狂うは生存本能。
ならば、その輝きを超えるまで。
アマルガムと姫人が追突する寸前、ぴゅるるるとコンドルが嘶いた。間髪入れず、姫人は小型拳銃の引き金を引く。両者の急激な接近で生まれた相対速度とコンドルが読んだ風が銃弾に更なる威力を与え、最高速に達した時、既に銃弾は巨象の体を貫いていた。姫人は跳躍し、倒れ込む巨体との衝突を避けた。
曇天に断末魔が響く。地に崩れ落ちてなお立ち上がろうとするアマルガムをコンドルが押さえつける。やがて抵抗に力が入らなくなる。激痛に軋む体に鞭を打って立ち上がった姫人が最後の銃弾を撃ち込むと、巨象ジョンは息絶えた。水銀代謝系を潰す酵素を調合させた銃弾が、その亡骸をゆっくり溶かしてゆく。
「お疲れさま」
相棒として共にボロボロになったコンドルにかけた言葉であり、潰えた命の瀑布たるアマルガムにかけた言葉でもある。コンドルは応えたのかそうでないのか、首を左右に揺らしている。未だ高鳴る拍動を抑えながら、姫人はアスファルトにどかっと膝をついた。
もう一体の暴走個体が気になるが、満身創痍の姫人にはどうしようもない。路地の奥に消えていった右左義の身を案じるのみである。
「信じているぞ」
相棒、とは言わない。相棒は一羽で十分だから。
生きとし生けるものが好きだ。そう思うようになったのは、いつからだろう。
右左義の脳裏に浮かぶのは、昨日の勤務中の一幕。ともに戯れたアマルガムたちは御堂の云う通り家族同然だ。本当の家族のように彼らを愛し、彼らもまた右左義を信頼していた。
その信頼関係は、非常時でも切れることはない。右左義はそう信じている。
「アレックス!」
もう一度、家族の名を呼ぶ。
肥大成長して足と鼻が増えた奇怪な巨象は自ら抱えるストレスにもがき苦しみながらも、その双眸が見つめるのは自らの飼育員。翻る白衣。初めて出会ったときに着ていたものと変わらない純白さが、目に眩しい。
アレックスが駆け出す。血走った目は右左義を捉え、地鳴りのような唸りを上げて、引き潰さんばかりの勢いを纏っている。
「僕は逃げない」
右左義は己の決意を確かめた。
分解屋ではない右左義は、筋力等の個体ステータスで見れば平凡で貧弱だ。格別人間離れした身体能力や兵器を備えているわけではない。暴走アマルガムとの接触は半ば死と同義である。
だが、逃げるつもりは毛頭ない。当然、死を覚悟したわけでもない。
たとえ精神が崩壊していても、異形の怪物に成り果てていようとも、アレックスを信じる。
「だって僕たち『家族』だろ?」
右左義は両手を横に広げ、大の字に立ちふさがった。通すまいという意思の表れではない。必ずや受け止めて、思いを届ける。その決意が、右左義をそうさせるのだ。
右左義の目と鼻の先でアレックスは立ち止まった。減速のために勢い余って数メートルほど前進するが、右左義はゆっくり後退し完全に水銀の巨体が停止したのを確認してその鼻先を撫でた。その目に宿っていた狂気はすでに失われ、歓喜と憐憫の輝きに満ちている。
思いは、種の垣根を越えて届いた。
「いい子だ」
アレックスの上げた低い唸りは苦痛からではなく、安堵から来るものであると右左義は瞬時に悟った。耐水銀手袋越しにその体温が伝わる。人間も動物も肌に触れると安心するのだ、というのは飼育員になってから気づいたことだ。
暴走したアマルガムを鎮める方法。残りの一つが、ストレスそのものを取り除くことでストレス因子の分泌を抑えることだった。右左義が分解屋と並び立ってアマルガムと対峙することを可能にした最大の武器こそ、日頃から動物へ注ぎ続けている飼育対象への慈愛である。
大人しくなったアレックスの体は膨張を止め、いつしか普通のアフリカゾウと変わらない形状と大きさに戻っていた。体表の水銀の輝きに荒々しさは欠片も見えない。
「さあ、帰ろう」
右左義はアレックスを優しく促す。帰巣本能が働いたのか、アレックスは自分が飼育されていた研究棟へと足を向け、ゆっくりと歩き出した。その右側では右左義が手を添えて誘導する。
刹那。アレックスの体表から水銀やタンパク質が溶け出した。アレックスが異変に気付いたのは、足の半分が自らの体液に埋もれた時であった。
だが時すでに遅し、アレックスの構成成分は数分もしないうちにアスファルトの溝を中心として大きな溜池を作った。
右左義は無言でその場に立ち尽くす。右手に握られているのは、麻酔を含んだ水銀分解酵素が詰められた注射針。それがアレックスの分厚い皮膚を貫いた感触が、まだ右手に残っている。
暴走を振り払ったアレックスには帰る場所がない。二次災害の防止のために、一度暴走したアマルガムの殺処分が義務付けられているからだ。分解屋にとっては鎮圧と駆除が同義であるが、ただ一人の例外である右左義はそうではない。法令に従わず『勝手に』アマルガムを鎮めている右左義は、あたかも分解屋の功績に見せかけるために最終的にアマルガムをなるべく苦しまない形で殺処分している。そうするしかないのだ。
――たとえそれが大切な『家族』であろうとも。
「アマルガムの鎮圧完了、避難を解除せよ。繰り返す――」
「おい、右左義、大丈夫か?」
暗雲は晴れ、初夏の日差しが再び降り注ぐ。町中に響く指示の放送に、重い身体を引きずりながら歩み寄る姫人の声が重なる。
だが右左義は慟哭を噛み締め、喋ることができないまま俯いていた。
私の目の前を、誰かが横切る。焦点の合わない目が、それが右左義であると辛うじて確認できた。
「おーい花凛、起きてるかー? まったく退屈だよな、太陽の光届かない中での郷土史の授業なんてのは、さ」
いつもどおりケラケラ笑う右左義の顔の輪郭が、ハッキリと浮かんだ。ぼんやりとしていた頭が重い腰を上げたように動き出し、意識も視界も鮮明になる。
「もう放課後だから、皆んな帰ったよ。僕たちもそろそろ行こうか」
「……うん」
差し伸べられた細い左手を取って、花凛は立ち上がった。
地上の安全が確保された際、決まって右左義はこうして迎えにきてくれる。普段なら見飽きたアホ面も、この時ばかりは頼もしく思える。
そう思ってしまう自分が、少し憎い。
地上でアマルガムを鎮圧させているのは他ならぬ姫人であり、右左義はどこかをほっつき歩いて心配を煽っているだけなのだ。なのに、いざ再開できた時、なぜこんなにも安心するのだろう。
悔しいついでに、今回ばかりはしっかり言って聞かせることにした。
「佐倉君。先生方も心配なさってたから、今後は絶対に団体行動を乱さないこと。いいわね?」
「花凛だって、毎回魂が抜けたようにへたり込んでるだろ? これ以上、迎えに行く手間かけさせないでくれよな」
「……ええ。善処するわ」
頷いたが、心のどこかでは分かっている。この約束は、果たされることはない。
————さよなら、優しき人の子たちよ。
耳の奥に聞こえた、この声の正体が分からない限り。あれは一体……?
互いにむず痒いものを胸の奥に抱えながら、二人は光の指す方へ歩いていった。
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