1-3 水銀
——アマルガム。
もとは水銀を含んだ合金の総称だが、ここバースアイランドでは水銀を触媒として作られた完全人工生命体を呼ぶ際に用いられている用語だ。
正体不明の科学者バースデイによってネズミ型の原初のアマルガムが作られてから八年、アマルガムの複合研究施設である人工島バースアイランド完成から六年、バース高校設立から三年が経過した今。
——アマルガム研究による死者は、三名に上る。
高校入学からもうじき三ヶ月。花凛にとっては、警報も日常の一部となっていた。避難経路は目を瞑ってでも辿れるようになった。
学校の地下にあるシェルターは節電のために薄暗い。おまけに空調もないため蒸し暑い。先程まで気持ちよさそうに授業中のシエスタに勤しんでいたクラスメイトも、寝るに寝れない苦しさで顔を歪めていた。
「はい、名前呼びますから聞こえるよう返事してくださいね——おや御堂先生、どうなさいました?」
郷土史の先生によるゆったりした点呼が行われる中、担任の御堂がシェルターに駆け込んできた。額に浮かぶ大量の汗が、彼の狼狽した様子を物語っている。
「なぁ、佐倉見てないか?」
「まだ点呼の途中ですが、そんな名前は聞きませんでしたねぇ」
「そうですか……なんてこった、俺が目を離した矢先にアイツは……」
「待ってください」
教師二人の会話を遮ったのは花凛だった。クラスメイトの視線がちらほらと集まる。
「先程、佐倉君から着信がありました」
花凛が見せた携帯の画面には、2分前の時刻と『ごめん、僕は皆んなと違うシェルターにいる。花凛は無事かい?』という文面。どうやら右左義は別のところで無事に生きているようだ。
よかった、と御堂は胸をなでおろす。ただでさえ親元を離れた離島で生徒たちの命を預かる身、責任問題と隣り合わせで生きている。一つ間違えれば生徒の命どころか、自分の人生まで危険にさらすことになる。
……何回目になるかな、このやりとり。
花凛は心の中で毒づいた。右左義の身を案じているのは何も御堂のみではない。
ここ最近は毎回そうだ。警報が鳴るといつもこの文面が右左義から送られてくる。無論、隣に右左義の姿はない。
おや? と郷土史の先生が首を傾げた。
「御堂先生、
「ああ、彼なら心配無用ですよ。生きて帰ってくることを祈りましょう」
生徒の安否を確認しない担任の様子に郷土史の先生はますます困惑するが、一分とかからずに事情を理解したようだった。
「そうですね、地上の事態は全て彼に任せましょう。さて、私たちも授業の続きと致しましょうか。仲間が地上で頑張っているのだから、私たちも頑張らなくてはなりませんね。まずは抜き打ちのテストです」
えー、とブーイングの嵐が沸き起こる。花凛は先刻真面目に授業を聞かなかった自分に小さく舌打ちをして、静かに復習を始めた。
暴走個体。
完全人工生命体であるアマルガムには、致命的な欠陥があった。脳内の過度のストレス因子が蓄積することよって暴走を始めるのだ。研究の一環でのレントゲン検査やマシンによる運動状態の計測などの最中にそれは起こり、エネルギー暴発させて研究員の手に負えなくなる。
アマルガム研究は、常に暴走との戦いであった。
六月の湿った風が縦横無尽に吹き付ける。野球していた時の快晴はどこへやら、空を覆い尽くす雲海。ここはバース高校屋上。曇天を背後に、姫人の双眸は荒れ狂う異形の生物を見ていた。
三対の足で巨体を支え、銀色に鈍く光る巨獣がビル街を闊歩している。もともと現存生物の形をしていたものが、エネルギー暴発により見たこともない姿に変わったものだ。
この怪物に、姫人はひとり立ち向かう。だから、可能な限り多くの情報が欲しい。
「二体か。十分以上はかかりそうだな」
「なるほど。今回は割と大型だね。陸上哺乳類がベースっぽいけど、どの動物の派生系なのかは分かんないや」
姫人の左隣から聴こえるはずのない声がする。姫人に負けず劣らずの視力を持ったそいつの声には聞き覚えがある。一般人は皆んな地下シェルターに避難しているというのに、ヤツはなぜかここにいる。
「お前、また付いてきたのか」
「今回も頼りにしてるぜ、相棒」
つい先刻、グラウンドで対峙していた右左義が屋上の手すりにもたれかかって姫人と同じ方角を向いている。白衣の裾にビル風が当たり、重力に逆らってバタバタと激しく翻る。見た目だけでも騒がしい。無視することを姫人の本能が既に決めていた。
「相棒はたった一羽で十分だ」
そう言うや否や、姫人は指笛を鳴らした。金切り声のような音は方々に響き渡り、防犯ブザーに勝るとも劣らない音の波が曇天を震わせた。
刹那。
雲海を裂き、屋上に影を落としたのは鈍色の巨鳥。荒鷲のごとき雄々しさを宿すその鳥は、翼を広げれば三メートル以上にもなる機械仕掛けのコンドルであった。
姫人は屋上の鉄柵を越えて跳躍。それをコンドルの足が姫人を受け止め、暴走するアマルガムの元へと旋回して向かった。姫人の『相棒』の姿を右左義は幾度となく見てきたが、その度に声も出なくなるほど圧倒される。
暴走を繰り返すアマルガムに対し、人類が編み出した抑止力。
バースアイランドの中でも就くことが最も困難な職種『
水銀の放つ鈍い光を遮る黒鉄の翼。標的のうち一頭と姫人の視線が、初めて交わった。
何度も鎮圧を繰り返した姫人でも、この瞬間は毎回緊張が走る。戦闘は常に死の危険と隣り合わせであり、アマルガムが鎮まるまで一瞬たりとも油断ならない。
生き残るか、潰されるか。
今、目の前にあるのは弱肉強食を潜り抜けて生き抜く自然界そのものだ。
普通の人間には滅多に訪れることのない『命を懸けたやり取り』は、他生物間には当たり前のように存在する。ジャングルにも、サバンナにも、海底にさえも。常に自分や仲間の死を警戒し続けなければいけない野生動物のような真似は、姫人には到底無理だ。だからこそ、命を懸けなければいけない瞬間は全身全霊で挑む。それが姫人の一動物としてのポリシーだった。
俺が倒れれば、この地区に生きる人間の命や人類の科学の発展さえもおざなりに成りかねない。重圧が背中にのしかかる。
「上等だ」
緊張やプレッシャーはいつしか武者震いへと変わっていた。細い背中ですべてを背負った黒い学生服姿の男は、最大限に自らを鼓舞する。
「新生物たるお前らに、人間の生存本能ってヤツを見せてくれる」
姫人はコンドルの足から離れ、地上へと降下する。鈍色の獣が目前に迫る。衝突寸前、ジャケットの胸ポケットから小型の拳銃を取り出し、視線を交わしたその眼に向けて二、三発砲撃を繰り返した。
「らァ——ッ!」
痛みに耐えかねたか、暴走アマルガムは雄叫びを上げて暴れ狂う。振り上げられた一対の前足が姫人のいた場所を踏み潰す。間一髪で逃れた姫人の拳銃が、次は心臓を狙う。
エネルギーの暴走により、アマルガムは2トントラックをも超える大きさに肥大化している。この急速な巨大化も、水銀触媒とストレス因子が関係しているらしい。
そんな水銀の巨獣と渡り合うため、『分解屋』たちには対策が施されている。
姫人の制服には水銀をはじくコーディングが為されており、猛毒の水銀による人体への影響を最小限にできる。
また、分解屋の脳内には微小のチップが埋め込まれており、神経系・代謝系の制御を助け、常人以上の身体能力を実現させることができる。遥か上空からの落下の衝撃に耐えることができたのも、アマルガムの攻撃から高速で逃れることができたのも、脳内チップの為せる業である。
さらにチップの役割はそれだけではない。
「コンドル!」
姫人の叫びに反応して、黒鉄の巨鳥による追撃が行われる。両翼に付随する一対のブレードがアマルガムの背後に迫る。
危険を伴う分解屋の戦闘補助を行うのは、人間ではなく機械である。
現存する生物をモチーフに作られた戦闘機械『ファミリア』を戦線投入し、己の背中をあずけることで、分解屋たちはアマルガム鎮圧の際の死亡事故を最小限に防いでいる。ファミリアの制御も、脳内のチップを介して行われている。
「っ!」
突如、銀色に輝くアマルガムの体から太い二メートル大のアームのようなものが伸び、姫人とコンドルを薙ぎ払った。姫人は神経を研ぎ澄ませてそれを避けたものの、アームの先端はコンドルに迫る。
「危ない!」
ピュルル、と風を裂く鳴き声が響く。
姫人が駆け出すよりも早く、コンドルは難を逃れていた。
南米アンデスに生息する最大級の猛禽類、コンドル。その巨体で宙を舞うために、彼らは『風を読む』ことに特化している。山脈に吹き荒れる突風や海風に自らの体を乗せ、滑空することで羽ばたくためのエネルギーの消費を抑えている。
分解屋たちのファミリアは機械でありながら、回路の一部に生物的機能を組み込んでいるという。姫人の相棒は生命を持たないが、現存するコンドルが持つ類稀な神経系を携えており、バースアイランドに吹くビル風を掴むことができる。それにより得た飛行能力が、コンドル自身の身を助けたのだ。
ひとたびでも触れたら一網打尽となる一撃を逃れた姫人が懸念するのは、やはりアームの存在。
「何だあれは?」
今や異形の怪物であるアマルガムも、もとは現存生物をベースに作られている。その正体が分かれば、倒すのももっと容易になるはずだ。
しなるように動くそれは硬質な骨が入っているようには思えない。ただ、あそこまで器用な動きのためには相当な量の筋肉が必要になってくる。果たして、その膨大な量の筋肉をアーム状に内在させる生物がいるだろうか?
そこまで考えて、姫人はひとつの結論にたどり着いた。
と同時に、背後に何者かの冷たい気配を感じた。振り返れば、今まで相手取っていた方ではないもう一体のアマルガムが迫ってきている。ダメージは追っていないようで、姫人を見つけるや否や三対の足で歩み寄ってくる。こちらも二本のアームが生えており、今まで以上の激戦を強いられるだろう。コンドルがいたとしても、一気に二頭を相手にするのは難しい。
何か策を講じなければ、と姫人は焦る。このまま挟み撃ちにされては消耗戦になり、コンドルとともに潰える。それだけは避けたい。
何か、手はないのか――?
「アレックス!」
一方的に不利な戦況の中、姫人の耳に響いたのは友の声。
幻聴かとも思ったが、その声を聴いた途端背後に迫っていたアマルガムの動きが一瞬止まる。
「アレックスじゃないか!」
確かに右左義の声だ。先ほど高校の屋上に置いてきた白衣のクラスメイトが、戦渦のビル街にて叫んでいる。
アレックスは確か、アイツが手塩にかけて育てていたアフリカゾウ型のアマルガムの名前。もう一匹は、ジョンだったか。
アレックス、と呼ばれたアマルガムが右左義に向けてゆっくり歩み始めた。
伸びたアーム。あれはきっとゾウの鼻の成れの果てだろう。それならば、しなるような動きも数多の筋肉もうなずける。
ついてくるな、と言ったはずなのだが、どうして右左義はここにいる?
何はともあれ、姫人はピンチを脱することができた。一頭は飼育員たるアイツに任せて、俺はもう一匹、ジョンに集中しよう。右左義を含め、一般人を巻き込みたくはなかったがこうなっては仕方あるまい。自己責任で命を懸けて加勢するならば、俺も文句は言えない。
第一に、経験則からしてアイツが割り込んできた時は、大抵なんとかなってしまう。まあ、来てくれることを期待したりは微塵もしていないのだが。
目が合った一瞬で、互いの意思を確認する。右左義は、笑っていた。
——僕より先にやられるなよ、親友!
「背中は預ける。頼んだぞ、右左義」
「よっしゃ、任された!」
分解屋と飼育員。
方や命を屠る職、方や命を育む職。ともに仕事することはまずありえない二人による『共闘』が、始まった。
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