1-1 群青


 てのひらに灯る小さな光、それを我らは命と呼んだ。

                   ——バースデイの手記より一部抜粋——




 誕生の島、バースアイランド。

 小笠原諸島の西端に位置する初夏の人工島で、今まさしく球界の伝説が誕生しようとしていた。

「次の一球で決めるぞ」

 方や、尾上姫人おがみひめと

 ダークスーツを真似たようなタイトな学生服が抜群に似合う長身痩躯。だが、その肉体は引き締まった筋肉に満ちている。

 スタイリッシュにマウンドを踏みしめる彼の浮かべるきりっとした瞳は、キャッチャーミットに収まるであろう白球の軌道を見据えている。

 彼の得意球種は、人工芝のグラウンドに吹き付けるビル風を利用した豪快な急角度を描くカーブ。その長い指から放たれる一投は、バッテリーを組む相方ですら予測不可能な軌道を生み出す。

「っしゃ来やがれ! オセアニアまでカッ飛ばしてやるぜ!」

 方や、佐倉右左義さくら・うさぎ

 やや足腰が震えているものの、ビル風に白衣の裾をなびかせ凛としてバッターボックスに立っている。高揚感に満ちた双眸とひょろけた右肩から放たれるバットの一振りは、白球を捉えて離さない。

 中肉中背の体躯、甘い踏み込みの彼がなぜスラッガーと呼ばれるまでの打率を叩き出せるのか、グラウンドに立つ全員が疑問に思うところである。

 奇異の目を向ける観衆も、右左義のオセアニア云々うんぬんも全て無視して、姫人はボールを握る手に力を込める。

 勝負は打つか否か、勝つか負けるか。巌流島すら怖気付くような決闘の火蓋が今、切って落とされる!

 それにしても。

「姫人、六月下旬にもなって制服の上着って暑くないか?」

「白衣を羽織った奴には言われたくない」

 守備陣営や試合の見物人の誰もが思うところであった疑問は、晴れることなく試合が始まる、そんなはずだった。

「オラァ! さっさと教室戻れバカども!」

 姫人が振りかぶり、右左義がバットを構えた矢先、グラウンドの名勝負を遮ったのは怒号。その主は監督でもコーチでもなく、右左義らのクラスの担任、御堂みどう

 古いマンガのヤンキー教師に憧れて自らも教師になったため、気性は呆れるほどにパワフルで古風。専門は生物、主食はサラダチキン、座右の銘は花より筋肉。御年二十九、蛇足だが独身である。

 ため息交じりに御堂は続ける。

「ったく、うちのクラスだけだぞ、実験の待機時間に野球に明け暮れてるのは。しかも今回の待機時間はたった五分、酵素反応が終わるまでだ。ほかの連中はとっくに記録終えて昼飯にとっかかってるぞ」

 ハッとして時計を見れば、昼休みの終了もあと五分というところに迫っている。

 ——まずい。

 いそいそと校舎に駆け込む右左義たちの背中に、御堂はさらに釘を刺す。

「野球するのはいいが、くれぐれも校舎の窓だけは割るなよ! とくに実験棟。お前らが一生かかっても弁償できないぞ、いいな?」

 はい! と反射的に叫び、右左義たちは教室に向かってひた走る。生徒たちが階段の上に消えてから、御堂はひとりごちた。

「なんで入試成績トップのクラスが、こんな奴らばっかりなんだか」

 高校設立当初から三年間教鞭をとり続けた御堂だが、ここまで騒がしいクラスを担当するのは初めてである。右左義たち一年生の中では自分のクラスが飛びぬけて活発であり、他の教室の物静かさに逆に違和感を覚えるほどだ。

 始業の鐘が鳴る。御堂はグラウンドから教室を見上げた。あいつらは無事に間に合っただろうか。

 バース高校に通う彼らが目指すのは、甲子園の決勝でもなければ大リーグの大舞台でもない。無論、彼らの名勝負が行われたとしても球界の歴史に残ることなどない。

 バース高校。正式名称を、国立バース第一高等学校。それは、世界有数の完全人工生命体実験区画であるバースアイランドに創設された、一流の科学者を養成する高校なのだ。



 もう一度断っておくが、この物語は野球の話でも不良学級の物語でもない。

 これは、ひとりの男が夢を叶えたあとの世界の物語、である。



 授業中 となりを見れば 呆れ顔

 ここまで風流もひねりもない川柳は類を見ないだろうと思いつつ、作者である右左義は満足そうに頭の中で何度も繰り返す。風流はなくても語感は良い。この句を詠むだけで呆れ顔がありありと思い浮かべられる、と自分の句を前向きに評する。

 だが、その顔は想像上ではなく、すぐ目の前にある。教室内の右隣の机の上に乗っかっているマンガさながらの呆れ顔は、ともすれば嘆息の幻聴が聞こえてくるほどだ。

 昼休みが終わり、授業の只中。科目は郷土史。

 右左義を除いた男子連中は昼飯を二分で平らげて間一髪間に合ったのだが、普段購買でパンを買っている右左義のみが昼食にありつけず、空腹のまま授業を受けている。何か言いたそうな呆れ顔に向けて右左義は尋ねる。

「何が言いたい?」

「自業自得ね」

 図らずも、下の句が出来上がってしまった。

 時計を見る。授業開始から五分と経っていない。

 これしきの退屈しのぎでは、郷土史の授業は乗り越えられそうもない。自然とため息が出る。ため息をつけば幸せが逃げるとも聞くけれど、この逃げられない退屈から幸せだけでも逃げてくれたほうが、いくらかマシだろう。そもそも、郷土史の授業に幸せなど存在しない。

 つまらない、の一言に全てが集約されるほど、この授業は退屈だった。

 教壇に立つのは還暦過ぎた好々爺。虚空に語り掛けながら時折糸くずのような文字を黒板にちょろちょろ書き付ける授業スタイル。生徒が寝ようが内職しようがお構いなし、今だって午後の陽気の中で舟をこいでいる生徒がいるにもかかわらず、郷土史の教師は顔色一つ変えずに虚空を眺めながら抑揚のない口調で授業をする。

 呪詛や念仏にも似たその文言をはなから右左義は耳に入れる気がない。どうやら、隣席の学友も同意見だったらしい。

「朝から何も食べてないの?」

「いや、朝に卵かけご飯とみそ汁はちゃんと食ったんだけど、それでも午前中めいっぱい運動すりゃ空腹でぶっ倒れそうにもなるさ」

「運動って言ったって、どうせいつもの野球の真似事でしょ」

 普段はぱっちりした強気な目が、次第にゴミを見るような視線を宿す。

 富良野花凛ふらのかりん。右左義の隣席になって以来、よく話すようになった級友だ。入試成績は右左義に次いで二位という才女なのだが、本人は身なりを遊ばせて聡明な印象をもみ消そうと頑張っている。

 ダークブラウンに染められた長髪は、夏場の湿気のせいか内巻き気味に波打っている。衣替えを終え、白い半袖にセミフレアスカートという大人びた夏服をややラフに着こなす。出で立ちのみならず性格もフランクで、大雑把でズバッとした物言いのため、気を遣わずに話せるのが彼女の取り柄だと右左義は勝手に思っている。

 花凛は物音を立てないようにカバンからパンを取り出すと、右左義の席に軽く投げて寄越した。

「はい、今回だけ特別価格でのご提供で、百五十円。こっそり食べるの見つかっても私のせいにしないでね」

「これ購買で百二十円で売ってるやつだよね?」

「知ってるかしら。需要が上がれば市場価格は高騰するのよ?」

 ぐうの音も出ない。あとで払う、ありがとうと小声で告げて右左義はパンを頬張った。授業前の男子連中にも引けを取らないスピードで腹を満たした後も、右左義は授業を聞く気になれなかった。花凛の方はというと、授業に食らいつこうとするにも、こちらもいまいち集中しきれないような状態だった。

「畜生、何でこんなつまらないんだ?」

「普通の日本史の授業は、建国から現在までの二千年間余りを取り上げるわ。一方で、これは完全人工生命体の論文が発表されて以降、たった八年間を引き延ばして話してるからじゃないかしら?」

「なるほど、単純に授業一回一回の内容が薄いのか」

 本日何度目かわからないため息をつき、右左義は自らの机に頬を当てて突っ伏した。昔ながらの木製の机が冷たくて気持ち良い。

 右左義の席は窓から遠く、先ほどまで駆けずり回っていた人工芝のグラウンドを見ることはできない。そのかわり、教室の扉が近く、夏場は廊下から吹き付ける冷涼な隙間風を堪能できる。反面、今後迎えるだろう極寒の冬がひどく憂鬱だ。

 ふと、視界の隅に扉が細く開かれるのが見えた。目を凝らすと筋肉ダルマ、もとい、担任教師・御堂が手招きをしている。獲物を探す獣のような視線は、不幸にも右左義に向けられていた。

「来い」

 手招きの力が強くなる。風を切る音が聞こえてきそうだ。

 このまま郷土史の授業をを聴くのも苦、筋肉猛獣の説教も苦。行くも地獄、帰るも地獄。後者の方が退屈しないだろう、と考えた右左義はしぶしぶ授業を抜け出した。

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