バースデイ叙事詩

杏也じょばんに

序章


 ⅹ大学工学部生命工学科の一研究室は、浮ついた空気で満ちていた。

 普段は動植物や精密機器を用いる故に緊張感に耐えない静寂な部屋であるため、現在の空気感に室内の誰もが慣れない状態だった。各々別々の机で作業をしている学生研究員各位が総出で大机に集まり、一台のノートパソコンの画面を食い入るように見つめている。

 一人、配属されて間もない学生がコップに飲み物を注ぐ。

「あっ」

 小さな悲鳴。

 自らの手元が震えているせいか、ペットボトルから飲み物が机の上にこぼれてしまう。その学生が慌てたように濡れた机を拭う。

「気をつけろよな」

 横目に見ていたひとつ先輩の研究員も、どこかおぼつかない様子で忠告する。そのやりとりに周囲からのリアクションはなく、二人はそれ以降押し黙った。

 ガラリ、と研究室の引き戸が音を立てて開き、室内の数人がびくっと肩を震わせる。

「みんな、揃ってるな」

 浮ついた空気を物ともせず、その部屋の主は右手を振って会釈した。

 歳は四、五十。顎髭に白髪が混じり始めた容貌。白衣のネームプレートには、この研究室の名前と『教授』の称号。袖口から覗く銀色の腕時計がぎらぎらと鈍く光る。

 その男は口元に微笑を浮かべながら大机に寄ってきた。

 室内に漂う異様な雰囲気に耐えかねたのか、全員の飲み物を注ぎ終えた若い学生が口を開いた。

「教授、ほ、本当に僕らの研究が世界に認められるんですか?」

「おい!」

 先輩研究員が小声でたしなめるも、『教授』と呼ばれた男の表情は入ってきた時と変わらない。それどころか、いくらか余裕が増しているようにも思える。

「君たちが今日まで何をしてきたのか忘れたのか? 『生物的代謝機能を搭載した電子回路の作成』。世界が震撼するようなこの研究が評価されないはずがない。大丈夫、勝つのは俺たちだ」

「そ、そうっすよね! なんせここは世界のトップラボっすからね!」

 半ば教授の貫禄に押されるような形で、学生は納得したようだ。

 生物学界のノーベル賞こと、DNAプライズ。主催は日本の文部科学省で、文科省が閲覧できる世界中の生物学的研究の論文から今年一番の優秀な研究が選ばれる、というものだ。その発表が、あと三分後に行われる。研究室の各々がかじりついているのは、発表のネット中継だった。

「さて、今回の発表に際してお越しくださいました生物学の権威・四谷よつや先生に今のお気持ちを——」

 発表を目前に、中継画面のリポーターやコメンテーターも緊張気味だ。

 DNAプライズの特徴は、今年科学雑誌に掲載された論文だけでなく、現在雑誌に掲載するかどうか審査中の論文さえも受賞の対象となることだ。この研究室で生まれた『生物的代謝が云々』の論文は、DNAプライズの審査が開始される直前に提出されたため、未だ雑誌には掲載されていない。この研究の全容を、世界中の多くの人々はまだ知らない。それを加味して、現在発表された数々の研究と比べれば——

「大丈夫、俺たちのやってきたことは、今年のどんな研究より度肝を抜ける。だから、信じて待つんだ」

 世界の最新研究を全て熟知し、自分の研究を完成させた教授の一言は、その部屋にいる全員の心に響いた。自分の作り上げた技術に研究者として誇りを持つことは当然のことだが、今はその当たり前が何よりも頼もしかった。

 パソコンの画面の中で、審査員長が小さな紙を開く。おそらく、そこに書かれているのが今年の受賞研究だ。

 ゴクリ、と誰かが唾を飲んだ。そんな極小の音さえこの部屋に反響するほど、研究室は空気が張り詰めていた。

「今年のDNAプライズは——」

 審査員長が口を開いた。

 隣に座る先輩の心臓の高鳴りや熱気が覆いかぶさるように伝わる。だがそれ以上に自分の握る拳にも力が入っていることに、新米研究員は気づかないでいる。

 ここにいる誰もが、自分たちの研究タイトルがそのあとに続くのだと確信していた。

 緊張を極めた空気をゆっくりほどくように、審査員長は次の言葉を紡いだ。



「『』です」



 時が、止まった。

 鼓動や呼吸、思考さえも発表の瞬間にすべて置いてきたように、研究室内が完全停止する。浮ついたムードが突如として虚無へと変わった。コップの中の飲み物だけが、ゆらゆらと小さく揺れている。音も、空気の流れさえもない、まるで底の見えない、暗黒の宇宙のように。

 そう、宇宙。

 研究室にいる面々が目の当たりにした前代未聞の研究のタイトルは、一瞬にして総員を未知なる宇宙へ連れ去ったかのような衝撃と不気味なまでの神秘性を秘めていた。

 完全人工生命体。

 命の宿っていないただの『物質』に命を与える。過去にそれが行われた例は、わずか一回、太古の地球で最初の生命が誕生した瞬間のみ。

 ということは、今回の研究を成功させた何某は、一度だけ起きた地球レベルの奇跡を人為的に起こすことができたというのか?



 ——ありえない——。



 研究員全員の頭にその五文字が浮かんだ。と同時に、室内は動きを取り戻す。

「調べろ!」

 教授の怒号が飛ぶまでもなく、各位がネットで文献を探す。

「関連記事でも類似研究でもなんでもいい! 最低でも、その論文の主を探し当てろ!」

 けたたましく叫びだすキータッチ音。うなりを上げる幾台のパソコン。室内全体がひとつの蒸気機関のごとくフル回転で駆動している。

 ほどなく、件の論文の在り処が分かった。

「教授! まったく同じタイトルの論文が見つかりました!」

「でかした! 著者はどこのどいつだ?」

「著者は無国籍、無所属の科学者です! 論文上の名前は『バースデイ』となっています」

「そんなふざけた奴がいるものか! ええい、その論文が掲載されているのはどこのサイトなんだ⁉」

「は、はい、日本の文部科学省の、これは……国家機密、です」

「! こっか、きみつ……」

 血圧が急に上下したせいか、教授はめまいを覚えて膝をついた。大丈夫ですか、と数人の研究員が駆け寄る。

 国家機密。その響きは、絶望感を伴っていた。

 世界有数の研究を行なっているこのチームでさえ手の届かない場所にある輝き。喉から手が出るほどに全貌を掴みたい、否、掴まなければいけないという使命感に突き動かされる。

 しかし、国家機密の四文字の前では全てが無謀にして無力。自分たちの研究が選ばれなかったことよりも、まばゆい受賞研究の正体を手を伸ばそうとも掴めないことへの歯痒さが幾分も勝る。

 きっと、同じ風景が世界中の至る研究機関で広がっているのだろう。そして誰もが、恐ろしくも魅力的なその研究タイトルに焦がれていることだろう。

 もし本当に完全人工生命体というものを人類が作れたのならば、僕らがすべきことは何だろうか。

 そのばかげた技術が当たり前になっていくのを、指をくわえて見ているしかないのか? 国家機密に触れることすら許されない僕たちは、素知らぬ顔をして暮らしていればいいのか?

 ——否。

「もう一度、考えよう」

 若き研究員は歩み出す。

 狂った研究の行く末にあるのは、目覚ましい科学の発展か、それとも終焉か、はたまた、単なるホラ話なのか。せめてそれだけは自分の目で確かめよう。一人の未熟な研究者として、また、一人の人間、一つの生命として、命の在り方に結論を出そう。

 混乱を極めた研究室で、一番若い彼だけが前を向いていた。



 かくして、人類の科学は新たな時代を迎えた。


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