問答
木々の茂る道を抜けると、太平洋を一望できる崖が視界に広がった。遮るもののない海原は、前に訪れた時よりも澄んでいる。観光名所という割には、こんな世の中のお蔭で、客が少ないからだろうか。波と木々の葉擦れの音の重なりも、陽光の混じった潮の香りも、どこか嬉しそうだ。その反面、転落防止用の柵や、南京錠の幾つも付いたハート形のモニュメントは、寂しそうに佇んでいる。
柵に身体を預け、寒い季節の残る風を受けながら水平線の向こう側を眺めてみた。海と空との境界線は、近いようで遥かに遠い。昔の人は、あの線を越えた先に何があると考えていたのだろう。想像してみると、学校で習う知識は探求心を削ぎ落すためのナイフに思えてきた。
高くなる一方で狭苦しい街の毎日が透明になっていく。親しくもない友人と付き合いで遊びに行くことや、テスト前に勉強することが悪い夢のようで、ここにある風景こそ、僕のいるべき現実だと錯覚してしまう。このまま、忘れてしまいたい過去も消えてくれればいいのに。
僕はいつから人と接することに厳しさを覚えたのか。友達が楽しく話している中に、僕の心はない。仕様もない会話のために集まるみんなと、そこに混ざる自身の姿を、いつも俯瞰している。笑うべきところで笑えていて、相槌もちゃんと打てているか。まるで、別人を採点する試験官になったかのような離別感がある。
だから、僕という認識はあったとしても、自分というものはどこにもない。他人と生活をする僕は、感性の鎖に縛られた囚人と同じだ。あるべき姿を求めるだけで、僕から零れ落ちた欲望はない。
時折、独りで旅行をして自分を探してみる。でも、行きたいと思って旅行をしているのかと聞かれれば違う。和歌山へ訪れたのも、雀の涙ほどのバイト代と貯金の範囲で足の届く場所で、できるだけ自分の住む街から離れた地域をネットで調べたからだ。ばったり出先で出会う心配はないし、考え事の妨げにもならない。
こうして、誰とも無関係の状態になってようやく、ペン売り場の試し書き用の紙を、真っ新にしたかのような白紙と向き合える。逆に言えば、そうでもしないと僕は何もない自分と向き合えない、鈍い人間だと呆れてしまう。未だに、僕は紙に自分を描けていない。何を好きで、何をしたいのか。いつまでも空欄の欲望に対して問いかけても、ちゃんとした解答を出せていない。
風に流される海鳥に意識を戻されると、波に反射した太陽の光が目に飛び込んできた。輝きを持たない海は、どんな色や形をしているのだろう。ふと、そんなことを考えてみる。この世に光がなければ、みんな色など持てない。あの白い海鳥も、錆色の滲む鉄柵も、生い茂る葉の緑も。だけど、暗晦に姿が隠れていても、自分の色を知っているはずだ。少なくとも、探すことなんてない。
ならば、僕はどうだろう。本当にこのまま、家族とも友人とも関係が絶たれてしまい、一人で生きていくことになったら。僕はきっと、自分の色を知らないままだ。誰かのもつ自己の輝きを受けなければ、僕の存在はない。白すらも持たない透明。それが今の僕の正体なのだろう。
いっそ、死んでしまった方がいいのではないか。蒼い海から目を離し、眼下の崖を覗く。観光客が減ったとは言えども、マナーの悪い人間の捨てたゴミが、岩の隙間に突き刺さっていた。中には、チェック柄のシャツなんかもある。
恋人の聖地らしいが、同時にここは、自殺の名所でもあるとネットに書かれていた。昔、ここで飛び降りた恋人たちがいたからだとか。証拠に、ここへ来るまでの林道には、相談所の電話番号と、簡素な言葉で命の尊さを記した看板が幾つかあった。
未来を失くしたから、命を絶ったのだろうか。当事者でもない僕に、本当の気持ちは分からない。だけど、ここで時間を断った人々に自分の姿を重ねてみると、死はあまりにも完璧でシンプルな、万能の解答に見えてしまう。
一際目立つ岩に突き刺さった僕の身体を想像する。意識もなくなった、とことんまで意味を還元した物体。僕の白紙に、紅い染みが浮かんだ。そっとここで死んでしまえば。妖麗な姿をした概念に、僕は誘惑されている。
「死にたいなんて考えるのは、よした方がいい」
唐突に、後ろから声を掛けられた。驚いて振り返ると、そこには僕よりも背の高い男が立っていた。髪は長く後ろで結っており、皮膚の色は浅黒い。そんな肌とは対照的な白のシャツは、輝いているかのように映えている。下はカーキのカーゴパンツを履いていることもあり、体型は全体的に大きく見えるが、線は細そうだ。
「別に、そんなことは思っていません。ただ、下を覗いていただけです」
不審な人間に警戒をしつつも、頭で想像していたことを言い当てられたせいか、動揺している。
それじゃあ、と挨拶をして男の横を通り過ぎると、待ってくれ、と呼び止めてきた。無視して行けばいいものを、また男に向き直る。
「何ですか?」
僕が聞くと、男は戸惑いのある笑みを浮かべた。
「少し、話していかないか? 別に、説教を垂れるためじゃない」
迷いつつも何も言わず、僕は海を正面に据えるベンチに腰を掛けた。溜まった熱が身体へ伝わってくる。男も座ると、今にも壊れそうな脆いベンチは、ぎぃと音を上げた。
「どうしてここへ来たんだい?」
先に言葉を口にしたのは男からだった。僕は質問の意味を咀嚼せず、旅行ですと答えた。男が返事をしない代わりに、風の強くなった海が、大きくうねる。
「……あなたはどうしてここへ?」
無言のままの男に問うてみた。浅黒い肌は出来物もなく綺麗で、煌めく海原の眩しさに照っている。
「自分を探しに、かな」
そう言った彼の表情は昔を懐かしむ老人みたいで、どこか寂然としている。
「流行っているだろう? 自分探しの旅って」
口角を上げながらフランクに話す男に、僕も思わず笑みを浮かべながらええ、と答えた。
「僕もしているんですよ、自分探しの旅。今日もその一環です」
言ってから、自嘲している気分になった。
自分がないなんてあり得ない。じゃあ、今の君は誰なんですか。
いつか言われたことをフラッシュバックしてしまう。時々、旅先で出会う人に、本当の理由を話すことはそれ以来なくなった。でも、同じ目的を持っているなら、気兼ねする必要もないだろう。
会話は途切れ、また静かになる。その沈黙を埋めるように鳥が鳴いた。遠慮のない素振りの割に口数は少なく、どこか煮え切らない印象だ。
「見つかりましたか?」
耳を撫でる風の音に耐えられず、僕は男に聞いた。
「いいや、ここにもなかったよ」
でも、と口にして彼は僕と目を合わせる。彫りの深い目元から真っ直ぐと伸びる視線に、僕の身体は固まった。燦々と降り注いでいた陽は雲に隠れ、僕たちの顔は翳りに入る。
「俺はそれでいいと思ってるよ」
「どうしてですか?」
僕にその答えは理解できなかった。自分を探し続けるという選択。それは解の分からない数学の問題を、眺め続けるようなものだ。ただの逃避と、何も変わらない。
「答えを書かないことが正解かもしれないだろう?」
「さすがに詭弁です」
そうかもな。男は自分を軽蔑するかのように笑いながら言った。また海の方へと男は顔を戻す。雲間から顔を出した太陽の眩しさに、彼は目を細めた。その横顔はどこか懐古的で、よく知っているような気がした。
「正しい答えは神様にしか分からないさ。そのくせ、答え合わせはいつだって死者にだけ行われる。ならば、生きているうちはどんな答えを持っていても構わないはずだ」
「僕には……その考えはわかりません」
飛んだ主張だと、僕は内心で愚弄していた。だけど、僕の奥底は軽蔑とは裏腹に、言葉の真意を汲み取ろうとする意思がある。
「いつか君にもわかる日がくる。それまで問い続ければいい」
さあ、もう時間だ。そう言って彼は立ち上がる。
「君はこれからどこへ行くんだ?」
「白良浜の方まで行きます」
「そうか、ではお別れだ。もしまた出会うことがあれば、その時の君の答えを聞かせてくれ」
男は一方的に言い残して、僕がここへ来た時の林道へと歩いて行く。後ろで結った髪が馬の尻尾のように揺れていた。小さくなっていく背中はたくましく、大きなものを背負っているようだ。
「結局、説教じみたことだったじゃないか」
荒ぶりだした白浜の海に向かって、独り言ちてみた。彼には僕が目に入った時からこうして別れる瞬間まで、本気で死のうとしている人間に見えていたのだろう。遠回しとは言えど、自殺を止められたようなものだ。
だが、僕の空白にあった赤い染みはすっかりなくなっていた。いや、鼻白んだという方が正しいかもしれない。なんだかんだ文句を付けつつも、男の言い分に妙な納得を覚えている。
もうちょっとだけ、生きてみよう。
あの胡散臭い男の主張が合っているのか確かめるだけだ。
そう思いながら僕は立ち上がり、恋人の聖地を後にした。
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