メルト
あなたが最後の言葉を思い出させると、どうしても身体のピントが合わなくなる。五感が捉えている現実から、少しだけずれてしまうのだ。大好きな甘いクッキーの味に塩気が混じっていたり、友達との会話で私だけが別の言語を使っているのではないかと疑わしくなったり、昨日のことをもっと昔に体験しているような気がしたり。
ふとした瞬間にあなたは海馬から私の世界に入りこんで、今ある時間を歪めてくる。身体から水分を奪う日差しのある日々も、その熱で劣化した身体を削り取る風の吹く日々も、青と淡紅の色に染まる日々も、昨日の月光がいつまでも残り続ける凛々とした真っ白の季節に変えてしまう。
そう、今だって。
虫籠のような箱の中で、クラスメイト達と過ごす休み時間の方が、プロジェクターで投影された映像だったみたいになるくらい、あなたは現実感のある幻だ。
何カ月も同じ時間を過ごした友達よりも、あなたとはもっと深い関係がある気がする。身内でしか通じない冗談を言い合えるほどの仲が、とても薄っぺらな関係性に成り下がるのだ。たった一日、それも、あの圧し潰されそうな鼠色の天蓋の下で言葉をいくつか交わしただけで、直ぐにお別れをしてしまったのに。あなたは誰よりも私のことを理解していて、私はあなたのことを自分以上に知っているような気がする。口が割けても他人には告白することのできない秘密、手首に刻み込んだ苦悩の毎日、今では宙へ浮かぶほど軽い灰になった神経細胞の繋がりが閃かす景色。言葉を吐く時の息遣いまで、一片のずれもなくなり、この一秒前まであなたとして過ごしてきたみたいに、分かってしまう。
でも、私はあなたの容姿を思い出せない。鎖で繋がっているようなあなたの、顔も、声も、髪形も、身長も、何一つとして。瞼の裏で人の形を模して確かに私の感覚を犯しているくせに、残っているのは、黒いアスファルトの土に時期の外れた彼岸花を咲かせたことと、鈍く弾けたサヨナラの音だけだ。そして、人間が記憶できる容量の限界を越えてしまうのではないかというくらい、何度も最後の言葉と一瞬を繰り返す。
果たしてこれは、罪悪感からくるものなのだろうか。目の前にいる人間に手を差し伸べず、ただ終わりを傍観していたという罪の念が、微塵でも私の心にあるから。あなたのことを忘れられず、真実から目を背けるためにしている妄想の産物。
あの日、私は何の気もなしにマンションの屋上へ行った。嫌なことがあったわけでも、いいことがあったわけでもない。単純に暇を持て余していたからだ。いや、暇だったからというのも後付けだ。たった一つ言えることは、それが人生における唯一の間違いだったということだけ。指先で結ばれていたはずの関係をあなたが解いて、存在を私に焼き付けた日。運命と言い換えれば多少はロマンチックになるかもしれない。
「ねえ、聞いてる?」
私を思考の霧の中から少女たちが引っ張り出す。輪郭もあやふやになっていたのに、その子たちによってこの世に張り付けられた。どうして私を呼んだのだろう。そのままにしてくれていれば、あなたがいるはずの霧の向こうへ迷うことができたのに。内側の血液が徐々に沸騰してきた。心とは沸点の低い液体だ。ほんの僅かだけでも温度が上がれば、簡単に煮立ってしまう。
「もちろん、聞いてるよ」
両頬の筋肉を使って錘のついた口角を吊り上げ、みんなから評判の笑顔を作る。その表情には正しい感情が入っていないことも知らずに、少女たちも同じような顔をした。彼女たちは穢れを知らず、純粋だ。きっと大きなお菓子箱の中には、サイズに見合っただけの量のお菓子が入っていると信じているのだろう。
馬鹿だな、と思った。
誰が、と記憶が聞いてくる。勿論、私は分からないと答えた。本当は分かっているくせに、答えをはぐらかす。正しい解答を導いてしまえば、あなたは私の涙と一緒に、排水溝へと流れていきそうだから。それとも、大きな雲の一部に吸い込まれて、雨としてこの瞳の奥にまで戻ってきてくれるだろうか。どちらにしても、すっぽりと抜けてしまう空白の時間ができてしまうことを考えるだけで、苦痛でしかない。
笑顔の嘘が心の中で墨汁のように広がっていった。ほら、やっぱり心は液体だ。易々と他の液体と混ざって、染め上がってしまう。
永遠に、あなたは私のものであってほしい。解凍されることなく、凍りついていて曖昧なままこの中でずっといてもらいたい。
どうしてそこまで欲するのだろうか。美しくもない世界へ誘いだすだけなのに、なぜあなたがいなくなることを想像するとこうも不安になるのか。
もしかすると、これは愛というモノなのかもしれない。理性という幻想で包まれた本能。本当は動物にもある、汚穢に等しい正体のはずなのに、誰もが綺麗だともて囃す。そんなものを、私はあなたに向けてしまっていると認識するだけで、全身の血管という血管を引きずり出して、血を真新にしたくなる。
窓から差し込んだ陽光が、狙い撃つみたいに私の眼を焼く。暗闇を照らす光。全てを隠す光。あなたを簿化す光。
あなたが網膜の裏で、ほとんど抜かれたジェンガが風に吹かれたかのように揺らぐ。誰かの指が当たっただけで音を立てて壊れそうだ。
永遠という言葉があればいいのに。そうすれば、つまらないことで笑い合うこの風景がなくなっても、私にはあなたを忘れる日は訪れないだろうし、時間の奥底に潜む死も怖くなくなる。
休憩を告げるチャイムが教室に響いた。やっと、固く縫い合わせたような人間関係の拘束から解放される。『またね、またね』という言葉が、本当は『さよなら』だったらどれほどいいのだろう。早くこの忌まわしい毎日が終わればいいのに。
授業が始まってしばらくして、私は先生の声を耳で拾いながら、ぬるま湯みたいに柔らかな肌触りの空気へと沈んでいった。
自分と外界の境界がどこにあるのか分からない深海のような場所へ、私は放り出されている。目を開けているのか閉じているのか、息をしているのかしていないのか、何かを聞いているのか聞いていないのか、声を出しているのか出していないのか、身体が融けてしまったみたいだ。唯一分かることは冷たく、嫌に孤独感があるということだけ。人間の息や生命の感触が私以外にはいない、寂然とした盲目の次元だ。
そんな中に白い点が一つ、世界に生まれた。点、と表現するよりかは穴の方が正しいかもしれない。それは小さいくせに針みたいに鋭利な光で、刹那のうちに大きくなって暗闇を落としていく。先にあったのはさっきまでとは反対に、境が明確で温度のある空間だった。
だからこそ、私はこちらを見ている二人を目の当たりにして、酷く動揺していた。
一人は私だ。鏡に映った顔を毎朝、毎晩のように見ているからこそ、見紛うことなどない。笑われないようにしっかり手入れをしている長い髪も、周りからちょっとでも上の位置にいようとするために薄くのせた化粧も、私だけが気付いている他人を見る時の冷めた目も、全部が自分のものだ。
そして、もう一人はあなただった。いるはずのない、あなた。頭も心臓もこの世から失くしてしまい、どうすることもできなくなった、あなた。最後の言葉を口にして、マンションの屋上から飛び降りた、あなた。
言葉を失っていた。喉の奥から必死に声に意味を乗せているつもりだけど、エンジンが空回りしているように空気を含んだ喘ぎだけが出ていく。どうしてあなたと私が並んでいるのだろう。いや、本当にそこにいるのはあなたで、その横にいるのは私なのだろうか。もしも二つが真実だとするのなら、ここで目の前を感じている私は一体、何だというのだ。疑問符ばかりが頭上に並んでいく。その重さで頭蓋が割れて、脳に張り巡らされた回路が焼き切れてしまいそうだ。
「誰よ」
混乱していた頭から、やっと言葉が吐き出される。自分の意思ではなく、ひとりでに動いた。何の力を入れることもなく、歩く時や呼吸をする時に筋肉や内臓の動きを意識しないみたいに。だけど、その言葉を発したのがどちらの私かは判然としない。あなたは落ちていく前の時と同じ、子どものようにきらきらした喜色の差す顔を浮かべているだけだ。
「解いて」
何を?
「君を」
誰?
「全部を」
あなたは?
「いいよ」
二人がそこにいるからマシだが、寂寞とした雰囲気の名残はあった。あなたも私もいるのに、拭いきれない孤独感。誰も生きていないようだ。
「あなたは、誰なのよ」
あなたは、誰なのよ。
私は多分、私とは違うのだろう。そして、あの私も私ではない。倒れかけの独楽の軸みたいに振れていた意識が、再び真っ直ぐに戻っていく。何億光年も先にある星と地球との距離くらい、あなたと私は離れているのに、そこにいる二人は抱きしめることだって簡単にできる距離にいた。光と影のように融け合うことを知らず、解け合うこともできないはずなのに。
私は、精神も肉体も交われないことなど知っているのに、私はあのクラスメイトたちのように愚かなほど至純な気持ちで、あなた達へと近づく。外と表面は際立っているけど、初めて歩いた赤ん坊のように足元は覚束ない。想いが白い湯気を立てはじめる。世界を包む光が未来を照らしていた。
吐息さえも届く位置に立つと、視界の隅であなたの息遣いを捉えながら、私と私はお互いに見澄ます。私の瞳はよく見れば、仄かに茶色がかった飴を嵌めたみたいだ。
ゆっくりと手を伸ばし、目の前の少女の胸に手を当てる。ポンプの動く感触が手の平を通して伝わってきた。
生きている。
ああ、そうか。彼女は限りなく私とは正反対だけど、全く同じ存在なのだ。そしてこの場所は、無限に等しいほど遠く、誰にも見えない所。触れたことで全てを理解した。
ここは私の中心を作り出している原点だ。彼女と私の、杯程度しかない胸の谷間に落ちた先にある宇宙。もっと仄暗い色の糸で感情の星々が複雑に繋がれていると思っていたけれど、私にはあなたという衛星以外に何もなかったのだ。
本当は目の前の少女みたいに、あなたの傍にいたい。自由に踊る蝶のように周囲なんて気にすることもなく、記憶から創造された想像と妄想のあなたに寄り添いながら生きることこそ本心だ。だけど私は、今までと同じ生き方をするべきではないと理解した。彼女たちは私の抱いている理想だから。そして、幻の先にあるのは終わりへと続く現実だけだ。
「溶けて」
「だめよ」
「どうして?」
「分かっているでしょう?」
「嫌、私は生きたい」
溶け合えないと分かっているからこそ、眩しくて視力を失いそうだ。どうか、どうかその輝きであなたのいる未来を照らさないで。そんな残酷なことをされれば、この純粋無垢な少女の時間を止める瞬間に、悲しみを刺さなければならなくなるから。
私はあなたなしで生きていることこそが普通なのだ。あなたがいたことなんて知らなくてもいい。もう世界からは消えてしまっているのだから。こんな何もない場所で縛っていてはいけないのだ。
「嫌よ。私はこの人といたい」
「それが罪だとしても?」
「それが罪だとしても」
「なら、罪にはいつか罰を下さなければならない」
「溶ければいいのよ、君も。そうすればそんなものは必要なくなるわ」
自分と同じ姿をした少女が私の身体を優しく抱きしめる。弱々しい膂力だけど、抵抗はできなかった。肉の薄い骨ばった身体から体温が無遠慮に流れてくる。人はどうしてこんなにも暖かいのだろう。
「やめて」
脳が溶けていき、目から液体が零れた。不思議と、隣で私たちの行く末を見守っているあなたの輪郭は一層、引き立っていく。
「いいじゃない」
「やめてって!」
絡みついていた腕を解いて突き飛ばすと、彼女は尻餅をついた。鈍い音が響く。口を開くことなくこちらをジッと見つめる目には、憎しみと困惑、そして一抹の悲哀があった。身体の奥にまで浸透していた温度は外へと逃げていく。温もりの消えた身体は、自分でも信じ難いほど冷たい。
「……やっぱり、私はあなたを受け入れられない」
「どうしてよ」
「それは……」
「どうしてよ!」
彼女の感情が弾けた。子どものように少女は泣く。どうしてだろうか。彼女の気持ちを心臓に問うても返事はなくて、鼓動に冷たい情を乗せてを流していくだけだ。意識せずに記憶が再生され始める。回る記録が純白を汚していく。あなたが落ちた時のことが何度も、何度も、何度も繰り返された。赤い花が咲く。一つ。二つ。三つ。世界は花で満たされだす。
口の中に塩気のあるクッキーの味が広がり、頭は言語があやふやになり、網膜に浮かぶあなたが笑って、顔に鏡みたいに罅が入る。
「駄目なのよ」
呟いた声は、頭蓋が地面に叩きつけられる音と被った。愛と呼ばれるエゴの鎖が、罪という感情を縛り付けている。その姿があなたなのだ。
地面にへこたれながら座る私を、今度は私がそっと抱きしめた。体温を閉じ込めた液体が右肩に染みる。これはきっと、彼女の心だ。行き場を失くしてしまい、目から零れた彼女の想い。
「ごめんね。私は君のことを認めることはできない」
「だから……どうしてよ……」
歔欷の声に言葉を交えてくる。喘ぎが耳に届く度に、腕に力を強くこめた。
「君はあの人を追い求めて死ぬつもりだったでしょう?」
霧の中に沈んでいったあの時、包み隠さずに言えば死んでもいいと思っていた。それは私の中にいる彼女が、強く願っていたから。あなたを追い求めて、破滅の道へ自ら進むことに、何ら疑いをもたなかったのだ。この空間で二人して生きる少女を見て、犇々とそのことを感じた。
「だけど、それじゃ駄目なのよ」
あなたへの依存はもう終わりにしなければならない。あなたはもうこの世にいない人だけど、私はここに命を生きている。然るべき終わりが訪れるまで必ず生き抜くことが、あなたへの礼儀なのだ。
「……私はもういらないの?」
「ううん、そんなことはないよ」
首を振ってできるだけ優しい声を彼女の耳元に当てる。目が眩むような光が記憶を照らしていき、響いていた音もなくなった。
「君は私だから。一緒に生きていこう」
捨てることなく受け入れることこそが、あなたにとっても、彼女にとっても救いとなるのだ。
華奢な身体が私の中へと入ってくる。この宇宙の中心で身体が溶けていった。赤は次第に晴れてきて、強烈な光彩が全てを包む。
「ありがとう」
誰が言ったのか分からないけれど、その言葉は光の中に、確かな重みをもっていた。
目が覚めると窓から差し込む陽光がいきなり突き刺さってきて、思わず上体を勢いよく上げる。遅れて、長い髪が軌道を描きながら肩の向こうへと流れた。眠る前は授業が始まった直後だったことを思い出し、やってしまったと一瞬だけ肝が冷えたが、いつの間にか休み時間になっていた。
「おっ、やっと起きた」
前の机にいた友だちが笑いながら挨拶をしてくる。私は寝ぼけ眼で返事をした。
長くて濃い夢を見ていた気がする。記憶に残っているのは断片的なものしかないけど、どこか暖かくて、少し悲しい夢。目の周りが濡れているのは生理的なものなのか、それとも夢のせいなのかはどちらとも言えない。
少女たちの談笑に耳を傾けながら、窓の外にある午後の空に目を遣った。青の天蓋に薄っすらと黄色い太陽の色が被さっている。
胸の内側は、がらんどうとなっていた。今までスペースを埋めていた誰かが、急になくなってしまったみたい。
「平山さんさ」
窓越しに空を眺めていた私に、少女が声をかけてきた。
「何?」
「なんか、変わったよね」
傍から見てもそうなのだろうか。
いや、きっとそうだ。
私は変わった。
「ありがとう」
どこにも焦点を当てずにそう言うと、そのクラスメイトはきょとんとした表情をした。どういう反応を返すのがいいのか困っているが、私は気にしない。
胸に手をやってみたけれど、そこにはどくどくと脈打つ心臓しかなかった。
誰もいなくなっても、不安ではない。
だって心は液体だから。
自ら終わりを選んだあなたも、そのあなたと一緒になりたいと想っていた私も、この身体に血を運ぶポンプの中でちゃんと、溶けている。
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