糸冬

 簡素なベッドの上で、君は病室の白く光る電灯を眺めながら、聞き取りにくい声で何かを囁いている。声は無理矢理に絞り出したみたいで、最後を犇々と実感させる糸のようなか細さだった。僕たちを包む暗い沈黙のベールは、ハッキリとした質量をもっていて、君は圧迫されて息が苦しそうだ。それを解消するためにつけていたはずのテレビの向こう側では、仕様もない笑い話をしながら、下卑た芸人の顔を垂らし続けているだけで、何の役にも立っていない。エンターテイメントは人を救うためにあるなんて、大義名分を掲げていた芸人もこの狭い箱の中にいるが、ならばここにいる一人の少女を、今すぐにでも救ってみせろと言いたい。


「ねえ……もうすぐ終わっちゃうね」


 君は必死に僕へと、まるで明日の予定を聞くように言葉を伝えようとする。テレビの連中はそんな彼女のことを嗤う。手を叩いて、顔に深い皴を寄せ、汚れた便座と同じ色の歯を見せながら哄笑をする。殺意とも捉えられる、行き場のない感情は簡単に溢れて、ついにテレビの電源を切った。もう二度と顔も見たくない。

 でも、テレビを切ると、今度は沈黙よりも重い静寂が部屋の中に溢れた。世界から僕たち以外の全ての人間が消えたみたいで、外で吹いている冷たい風の音だけがその場で吹いているように流れてくる。もしもこのまま黙って耳を澄ましていれば、雪の落ちる音まで聞こえてきそうだ。


 虚ろな表情をする君の手を取ってみる。乾燥していて、肉はなくなり、皮は細い骨に張り着いているみたいだ。彼女にゆっくりと近づいている死の気配を、触れることによってさらに深く感じた。僕はどんな言葉を君にかけたとしても、傷つけてしまうに違いない。


「私がいなくなっても、元気でいてね」


 そんな言葉は、今の君には言わないでほしい。いなくなってしまうのなら、僕は君を見つけるまで探さないといけないじゃないか。いっそのこと、残酷な事実を飾り気もない言葉で伝えてほしい。そうすれば、こうしていつまでも縋りつくことなく、君をきっぱりと諦めることができるから。たった一言だけ納得の言葉を掛けるだけでいいから。

 だけど、君にその気持ちを告げることはできなかった。君に気を遣ったからでは決してない。ただ単に、現実からできるだけ遠くへと逃げたいという僕自身のエゴのせいだ。いつまで経っても君に向けての言葉を上手く考えられなくて、どうやって取り繕うかを必死に考えていた。生命が生まれるまでは気が遠くなるほど長いのに、死はその何十分の一くらいの早さで生命を奪ってしまう。身体のほとんどが壊されて、雪のように真っ白な包帯を全身に巻かれてしまった君を見て、この器の脆弱さを呪った。


 どこに行ってしまうのか。分かりきった答えの周りを犬のように回って、分からない振りをする。誰かにたった一つの答えを突き付けられなければ、僕は真に分かることはできない。君への執着を終わらせられなくなる。

 握っている手に力を込めても、君は握り返してくれない。今の僕は、君に突き刺さっている沢山の管と同じで、死んで逝く君にとっては無意味な存在でしかない。いや、この管たちは少しでも君がここに居られるように延命できるけど、僕はこうして手を握っているだけだ。言葉を掛けることもできず、君を救う力も持っていない。だから、ここにある全ての物体の中で、本当に無意味な存在は僕だけだ。


 何もできず、君が終わっていくのをこうして淡々と感じていくだけ。そんなこと、誰にだってできる。

 時間が過ぎ去っていく度に、君は無口になっていく。生きていることを示すのは、必死に酸素を吸い込もうとする荒く長い呼吸と、虚ろに開いた目だけだ。もう伝えることは、君には残っていないのだろう。僕は君から思い出話を聞くことはなかった。いつも君が見ていたのは未来だった。まるで君は死ぬことなんて考えておらず、向こう側に逝ってしまうとしても、そこで生きていけるという根拠のない自信を携えているみたいだ。君にとっては、死はありふれた別れの一環にすぎないのだろう。それが自分の身に降りかかっていたとしても。


 日付を跨ごうとするとき、ポケットに入れていた携帯が振動した。その振動を手に取ると、これから先の人生に、二度と消すことのできない痕を残すような予感があった。

 最低な決断とはわかっていた。これほどまでに自分の使命感の浅はかさを呪ったことはない。僕は彼女の手をそっと離し、携帯を取り出すとぐっと握ったまま病室の外へと出た。

 電話の相手は会社の後輩からだった。仕事に関して聞きたいことがあるという趣旨の内容だが、今の僕の頭では、ほとんど何を言っているのか理解できなかった。僕はできるだけ平静を装って、そしてできるだけ早く、質問に答えた。


 電話はものの五分で終わった。

 だけど、その五分の中で彼女も終わった。


 部屋の中から棒線をそのまま起こした音が聞こえてきて、それだけが世界を構成してしまった。後輩の電話越しに呼びかける声も、駆けつけるナースたちの足音も、自分の息遣いさえも、小さなその音に掻き消されていき、自分と外界との境界線は曖昧になっていく。身体が勝手に現実から逃避していく感覚。


 中身のなくなった彼女の顔だけはそこに残っていて、中身がなくなる直前の彼女の顔を誰も見ていなかった。君は誰にも見送られることなく、どこかに行ってしまったのだ。


 空っぽの君の方へと歩いていく。足から脚へ、そして胴体へと伝わる床の固さだけで、衝撃には弱い陶器人形のように罅割れて壊れそうだった。

 こんな終わり方は嫌だと、終わってから願う。眼中には君だけが映っている。もう何も言わなくなった君が、さっきと変わらない様子で。

「なあ、どこに行っちまうんだよ」

 絞り出した声は糸のように細く、冬の寒さで凍えているときみたいに震えている。

 この声はもう誰にも聞こえず、終わっていく。

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